18 二人のプロミス
こんな突飛な夢を見たことある人はいるのでしょうか。
見渡す限りの白い世界。気付けばわたしは、虚無で満たされたこの空間で一人佇んでいた。
「ここは……」
ぐるりと首を回しても、視界は微塵も変わらない。前後も左右も、上下の感覚さえ狂ってしまいそうなくらい、白に支配されていた。
……そうか、これは夢だ。
直感的に、わたしはそう悟った。
次の瞬間、背後からなにやら声が聞こえた。子供の笑い声のような、楽しげな声が。
振り返れば、遠くにそれまで無かったはずのものが広がっていた。小さめのお花畑に、少女が二人。
ゆっくり、彼女らに近づいていく。
『ハルちゃん、できたよ! ほら』
『わぁぁ、かわいい、ありがとぉ!』
それは、まだ幼かった頃のわたしとハルちゃん。二人は花を摘んでは結い合わせ、冠を作っていた。
『わたしもできたよ! はい、リンちゃん!』
『あはは、これでおそろいだね!』
そうして、二人は笑いあっていた。純粋で無垢な笑顔を浮かべていた。
「……ハルちゃん」
呟くと、ふぅっと風に吹かれる煙のように、目の前の光景は白に紛れていった。しかし、また背後から声がする。振り返れば、今度は川辺の景色が切り取られていた。
『それそれ~!』
『キャッ、もぉ、やめてよ~』
浅い川に入って、二人で水遊びをしていた。お互い、服が濡れることも気にせず。
『わぁ!?』
『危ない!』
そのとき、ハルちゃんが足を滑らせた。抵抗も空しく後ろ向きに倒れる彼女を、間一髪でわたしが受け止めた。
『だ、だいじょうぶ?』
『うん、ありがと、リンちゃん。……ほんとに、わたしリンちゃんがいなきゃダメだね』
ハルちゃんは笑った。わたしも、つられて笑っていた。
そして、この光景もまた、すぅっと白の中へ消えてゆく。
「これは……昔の思い出……」
わたしとハルちゃんの、小さい頃の記憶。それが、この夢の中で再生されているのか。でも、どうして?
「リンちゃん」
それを考える暇もなく、また背後から声が聞こえる。いや、今回は声を’掛けられた’だ。その声は、はっきりと今のわたしに向けられていた。
振り向く。すると、そこに白い景色はない。広がるのは、家の近所の小高い丘の上。一本の立派な木がそびえ、町中を見渡せる場所。わたしは、現実と見紛うほど精巧に作られた夢の中にいた。
「リンちゃん」
驚き、周囲をキョロキョロするわたしに、ハルちゃんはもう一度声を掛ける。声のする方へ目を向ければ、まだ小さかった頃のハルちゃんが大きな木の前でこちらを向いて立っていた。その声と目には、さっきまでの楽しげな感情は込もっていない。それとは対極の感情を、わたしは感じた。
「……どうして」
ハルちゃんは、まるでわたしを睨んでいるようだった。その声も、暗く、沈んでいる。
「どうして、ウソついたの?」
辺りが徐々に暗くなる。偽の太陽が傾き、大きな木の陰がハルちゃんを覆う。
「ずっと、ずっと、待ってたのに」
その瞬間、ハルちゃんがわたしから急速に遠ざかる。まるで、わたしたちの間の空間が引き伸ばされているかのように。ハルちゃんはわたしをじっと睨みながら、同じ言葉を繰り返す。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき」
待って。そう言おうとしたけれど、何故か声が出なかった。遠ざかるハルちゃんへ近づこうと足を必死に動かしても、一ミリも彼女との距離を縮めることは出来なかった。
待って、ハルちゃん! 嘘なんて、そんな!
歪んでいく空間。周囲はますます闇に侵食される。初めの白など、初めから無かったかのように。
ハルちゃん! お願い、待って! 話を聞いて!
やがてハルちゃんの姿は、彼方の一点へと収束し、見えなくなる。歪みが増していくこの空間に、わたしは一人、取り残される。しかし、耳元では同じ言葉が反響し続けている。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき」
わ、わたしは……!
やがて、世界は闇の中に閉じていく。わたしも、その中の一つ。意識が入り乱れ、世界に混じっていく。
侵食される脳内に、いつまでも、彼女の言葉が響いていた。
***
「――ッ!?」
ふと目を覚ましたわたしは、ガバッと掛け布団を押し退けて体を起こす。そしてぐるりと辺りを見渡せば、そこはいつも通りの寝室。わたしはほっと胸を撫で下ろす。
なぜだか最近、よく夢を見る。その内容も、大体毎回同じだ。昔のハルちゃんとの思い出が再生されたかと思えば、決まって最後はあの丘の上。そこでハルちゃんはわたしを置いて消えてゆき、わたしもまた、黒の中に溶けていく。そんな、訳の分からない夢。
まあ、夢の意味について考えても仕方ない。夢なんてだいたい意味なんて無いのだから。そう割り切り、朝の支度をしよう、と布団から立ち上がろうとしたとき、ふと違和感を覚えた。何だろうと隣を見ると、そこには綺麗に畳まれた布団一式があった。ハルちゃんの布団だ。
まさかと思い時計を見るが、時間はわたしがいつも起きるくらいの時間だった。いつもはわたしが先に起きて朝ごはんやらもろもろを準備してからじゃないと起きてこないハルちゃんが、どうして?
布団から飛び起き、朝の冷気に体を震わせながら居間への扉を開ける。すると、そこにはハルちゃんの姿があった。しかも、テーブルの上には既に朝食まで用意されている。おかしい。昨晩には作り置きも何も用意してなかったのに。
「あ、リンちゃん、おはよう」
「お、おはよう……」
「ご飯の準備、もう出来てるよ。そんなとこで立ってないで、一緒に食べよ?」
目の前の光景に愕然とするわたしは、まだ夢の中にいるような感覚を覚えながら席に着く。目の前には、ご飯と味噌汁、目玉焼きとウィンナー数本が並んでいた。
「頑張って料理してみたんだ~。まあ、これを料理とは言えないかもだけど」
「そ、そうなんだ……」
「じゃあ、食べよ~、いただきます」
「いただきます……」
そして、状況が全く飲み込めないまま、箸を伸ばす。ハルちゃんの謙遜する通り、味噌汁は即席だし、ウィンナーも目玉焼きも塩と胡椒を振って焼いただけの、簡単な朝食だった。しかし、たったこれだけでも、ハルちゃんが早起きして料理をしたという事実が、わたしは信じられなかった。だって、昨日までは全部わたしの仕事だったから。
「……ねぇ、ハルちゃん?」
固くなった目玉焼きの黄身を崩しながら、彼女に声を掛ける。
「ん? なあに?」
「……どうして、急にこんなことを始めたの?」
そう問いかけ、ちらりと彼女の顔を見れば、ハルちゃんは困ったような表情で目を逸らした。
「だって、いつもリンちゃんにばっか負担を掛けてたから。わたしももう大人なんだから、こういうのは自分で出来ないとなって思ったの」
「……そっか」
そんな必要はない。負担だと思ったことなんて一度もない。だってこれは、わたしが好きでやってたことなんだから。
そう言いかけた言葉をぐっと飲み込む。だって、その言葉を言う権利は今のわたしには無いのだから。
これは、わたしが望んだことの延長。起こるべくして起こった現実。わたしがハルちゃんから離れようとした結果、ハルちゃんもまた、わたしから離れていく。
……分かっていたはずなのに、悲しみが込み上げる。ハルちゃんの中のわたしの存在が薄まっていくような気がして。ハルちゃんが、わたしを必要としなくなる気がして。
「それにしても、ここ最近で一気に冷え込んだよね。もう十二月だもんね」
「うん、そうだね」
食事が喉を通らない。別にハルちゃんの料理が不味いわけじゃない。その理由は、もっと別の所にある。
思えば、わたしと岸本くんが付き合い始めてからもうすぐ三ヶ月が経つ。その間、多くの時間を彼と過ごしてきた。さすがに学校内では表に出さなかったけど、放課後は途中まで一緒に帰ったりしたし、たまにどこかに寄ったりもした。休日も、岸本くんが時間があるときはおしゃれなカフェに行ったり、一緒にショッピングとか、お出かけしたりもした。きっとそれが「普通」のカップルのすることなんだと思う。
そしてこれも、きっと同じ。「普通」のカップルであるのなら。
「ちょっと気が早いかもしれないけどさ、今月の24日って、空いてるかな?」
放課後、外の冷たい風から逃れるように入った喫茶店。その一画で向かい合って座るわたしと岸本くん。
彼はわたしの顔色を窺うようにしながらそう訊いてきた。
彼の言葉を聞いて初めて気付いた。そうだった。クリスマスは今月末だったな、と。
恋人たちはクリスマスの夜を一緒に過ごす、みたいな習慣があることはわたしだって知ってる。まあ、そういうことだろう。
「うん、空いてるよ。その日はどこ行こうか」
と返せば、彼はぱっと目を輝かせた。
「ほんとに!? あぁ、良かった。プランは俺に任せて。きっと、驚かせてみせるよ」
「えぇ~? 岸本くんに任せて大丈夫かなぁ」
「ちょ!? 信じてくれよ」
そして、わたしたちはクスクスと笑いあった。この三ヶ月の間に、わたしたちは冗談を言い合えるくらいの仲にはなっていた。
でも、果たしてそんなのは恋人同士と呼べるのだろうか。「普通」と呼べるのだろうか。だってわたしたち、キスはおろか手を繋いだことだって無いのだから。
だからこそ、クリスマスの日はきっと何かが起こる。わたしたちをカップルたらしめる何かが。岸本くんも相当張り切ってるみたいだし、わたしも、覚悟を決めないといけないな。
「お待たせいたしました。コーヒーとホットココアでございます」
二人の笑いが収まる頃、ウェイターの人がお盆の上に注文を載せてやってきた。そして、岸本くんの前にコーヒーを、わたしの前にホットココアを静かに置いて、
「では、ごゆっくり」
と一礼して去っていった。
わたしは湯気の立つココアのカップを両手で包みながら、岸本くんを見てニヤニヤする。
「……な、なんだよ」
わたしの視線に気付いた彼は戸惑ったような表情を浮かべる。
「ん~? 何って、別に無理してカッコつけなくてもいいのにって思っただけ」
そして、わたしは彼のコーヒーを指差す。すると、彼ははっとした顔になった。まるで、図星でも指されたような。
「べ、別にかっこつけてねぇし。コーヒーは普段から飲んでるから」
そう言って、まるで見せ付けるかのように、まだ熱いはずのコーヒーをぐいっと一口飲んだ。その後の表情は、熱さと苦味を必死に堪えようとする、まったく可笑しいものだった。
「はいはい、分かったから。まだ熱いのに飲まなくていいよ。……ちょっと席外すね」
「お、おう」
わたしはフォローを入れつつ、席を立ってトイレへ向かう。別に本当にトイレに行きたいんじゃない。これは、ちょっとした気遣いみたいなもの。だって、わたしは知ってるから。岸本くんは、本当はコーヒー苦手なことを。少なくとも、ブラックは。
以前、デート中に同じように喫茶店に寄り、岸本くんはコーヒーを頼んだ。注文が来たタイミングでトイレに行きたくなったわたしは席を立ち、トイレへ向かった。その時、ふと振り返ると、砂糖やらミルクやらをしこたま入れているのを見てしまったのだ。だからこそ、さっきまでの彼の言葉が強がりだと分かる。
まあ、だからと言ってどうすることもしない。相手に良く見られたいと思うのは当然だし、コーヒーに砂糖とか入れるなんてかわいいものだ。それに、わたしもコーヒー飲めないし。
だから、今回は振り返らない。彼氏にかっこつけさせてあげるのも、彼女の役目の一つだと思うから。
「じゃあ、クリスマスイブ、楽しみにしてるから」
「あぁ、期待しててくて。きっと忘れられない一日にするよ。約束だ」
そう言葉を交わし、その日は岸本くんとは別れた。
冬は、日が沈むのが早い。夏ならまだ校庭で野球部員たちが声を張り上げている時間なのに、今は真っ暗。遠くの街灯の明かりと欠けた月が、少し眩しい。
ここは、あの大きな木の立つ丘の上。ここからは、桜だけではなく、町の夜景をも一望できる。家々から漏れた光が散らばり、地上に星空を成す。
「約束、か……」
独り言を零しながら、柵に体重を預ける。ため息をつく度、白い息が宵闇へ吸い込まれていく。
「忘れるわけないじゃない……大事な約束だもん」
約束。ずっと昔に、ハルちゃんと交わした。
忘れるわけない。忘れたことなんてない。だって、わたしは今でも貴女のことが大好きだから。
柵を離れ、木の下でしゃがむ。木の幹には、細い傷がまだ残っていた。
ほら、まだ微かに残ってる。あの日、二人で交わした約束の印が。もう十年も前のことなのに、わたしも、この木も、覚えてるよ。
「ねぇ、もし、わたしにもっと勇気があれば、結果は違ってたのかな……」
誰にともなく言葉を零し、昔の約束を、この細い傷痕を、指先でそっと撫でた。




