02 お花見チョコバナナ
細かいことを気にしてはいけない(戒め)
春香ちゃんと初めて会ったのは、わたしがまだ幼稚園に通っていた頃のことだった。
『一昨日こちらに引っ越してきた栢野です』
その日、若い夫婦がわたしの家に挨拶に来ていた。玄関の前、両親の隣で二人の挨拶を聞いていたわたしは、二人ともとても爽やかで良い人そうだなと思った。
『ほら、春香もご挨拶なさい』
一通りの言葉を言い終えると、女の人が自分の背中を振り返りながらそう言った。よく見れば、女の人の腰の辺りから、ひょっこりと顔を覗かせている一人の女の子がいた。
その子はしばらく動かなかったけれど、とうとう女の人の陰からわたしたちの前に出た。でも、やっぱり恥ずかしいのか、その子はずっと俯いたままだった。
女の子の背はその時のわたしより少し高いくらい。綺麗な亜麻色の髪と、左右に結ったふわふわしたツインテールが印象的だった。
『……か、かやのはるか、です。よろしく、おねがいします……』
そう言うと、ぺこりとお辞儀をし、そしてすぐさま女の人の陰に隠れてしまった。その様子を見て女の人は『すみません、人見知りな娘で』と言って笑っていた。その言葉に、わたしの両親も笑っていた。
わたしはその時、とても嬉しかった。同い年の子が近所に引っ越してきた。これから一緒に遊べる、と。当時のわたしはまだまだ小さかったから、本当は春香ちゃんは五つも年上だということも知らずに、勝手に同い年だと思い込んで喜んでいた。
その次の日から、わたしは暇さえあれば春香ちゃんを遊びに誘った。幸い春香ちゃんの家はうちのお向かいだったから、子供の足でも遊びに行くのは簡単だった。
初めは、春香ちゃんは中々わたしに心を開いてくれなかった。遊びに誘っても俯いてモジモジするばかりで、話は一向に進まない。それを見かねた春香ちゃんのお母さんが『行っておいで』と言い、その言葉に背中を押されるようにして春香ちゃんはようやく頷く。それが常だった。
そうして一緒に遊ぶ中で、春香ちゃんはドジで不器用で天然な子だということを知った。走っては転んで膝を擦りむくし、人形遊びをすれば人形の服を破くし、ちょうちょうを見かけては、それを追いかけるのに夢中になってよく池にはまっていた。
そんな目に遭うたびに春香ちゃんはしくしくと泣いた。そしてわたしに『ごめんね、ごめんね』と謝った。『ドジでごめんね、迷惑かけてごめんね』と謝った。そうして彼女が涙を流す度、わたしの心にも悲しみが募っていくようだった。だからわたしは、なんとか春香ちゃんを笑顔にしたいと思った。
転んで膝を擦りむけば、いたいのいたいの飛んでけのおまじないをかけた。人形の服を破いてしまったら、自分の人形の服も破いて『戦うお姫様遊び』をした。池にはまってしまったら、自分も池に飛び込んで一緒に泳いだ。すると春香ちゃんは最後には笑ってこう言ってくれた。『ありがとう』って。
その笑顔を見たとき、わたしは心がほっこりするのを感じた。もし妹がいたら、きっとこんな感じなんだろうなと思った。
目の離せなくて手のかかる、けれども大切な妹。その当時のわたしは、そんな妹を持った姉のような気持ちだった。
そして、その気持ちはきっと、今でも何ら変わりはしない。
***
「ハルちゃん起きて!」
掛け布団の上からハルちゃんの体をゆらゆらと揺する。けれど、ハルちゃんはうんうん唸るだけでまったく起きようとしない。
「ううん……ねむい……」
「眠いって……」
ちらりと壁に掛けてある時計を見上げる。針が指し示すのは午前の十時。もう出発予定の時間だ。
「ほらハルちゃん、もう十時になったよ! お花見に行くよ!」
そう、今日はハルちゃんと一緒にお花見に行く日。本当は数日前のハルちゃんの休みの日に行こうって話だったんだけど、今と全く同じ状況になって結局お花見に行かなかった。
もうお花見シーズンも中盤。今日を逃せばもう桜を一緒に見ることはできないだろう。だから、何としてでもこの子を布団から引っ張り出さないと。
「もういい加減に起きなさい! 十時になっても寝てるだなんて、いくらなんでも寝すぎだよ!」
揺すっても効果がないことを知ったわたしは、掛け布団を強引にハルちゃんから引き剥がそうとする。しかし、ハルちゃんは蓑虫のように丸まってそれを阻止しようとする。
「いやだねむいいきたくない~」
ハルちゃんは必死の抵抗を見せる。わたしも次第に疲れてきて、力がだんだん入らなくなってきた。このままじゃこの前と同じ轍を踏むことになる。
「こうなったら、最終手段だ」
押してだめなら引いてみろ。引いてだめなら……
「くすぐってやる!」
わたしは掛け布団の隙間から腕を差込み、手当たり次第にハルちゃんの体をまさぐった。
「あひゃぁ!? や、やめ、あは、あははッ!!」
ハルちゃんは堪らず掛け布団を放り出し、わたしのくすぐりから逃れようとする。しかし、わたしは逃がさない。わたしは彼女の上に馬乗りになり、更なる追い討ちをかけた。首筋に脇腹、そして腿の付け根。子供のころから付き合いのあるわたしには、ハルちゃんの弱いところはすべてお見通しなのだ。
「ほら! ハルちゃん、どう!? お花見に行く気になった!?」
「は、はひぃ! いきま、あはは、いきますぅ!」
「前もって約束してたのに人を待たせて、ちゃんと反省してる!?」
「あは、あはははッ! してますしてます! だからやめてぇ! あはははッ!」
「ならばよし」
わたしはせわしなく動かしていた指を止め、ハルちゃんの上から退いた。ハルちゃんは寝転がったままはぁはぁと肩で息をし、庇うように自分の体を抱いていた。そっと顔を覗くと、顔が赤く染まり、目には少し涙が溜まっていた。
少しだけ、心臓がビクリと跳ねた。
「も、もう……はぁ……リンちゃんヒドイよ~」
息を喘がせながら何とかしゃべるハルちゃん。そんな彼女をなんとなく直視できないわたしは、そっぽを向きながら事前に見繕っていた着替えの服を放って渡した。
「ほら、早く着替えて準備して。さっさとお花見に行くよ」
それだけ言い残し、わたしは早足になって寝室を後にした。
天気は快晴。澄み渡る空は何処までも青く、所々に浮かぶ白い雲は、ふわふわとのんびり風に流されてゆく。
空高くから降り注ぐ日の光を一身に浴び、わたしは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。訳も無く、ぽかぽかとした気持ちが胸の中に広がった。
あぁ、今日はいいお花見日和だ。そんなことを思いながら、わたしはハルちゃんの手を引き、近所の川沿いを歩いていく。
この町の中心を横切るこの川を挟むように、立派な桜並木が植えられている。この時期の、この町一番の名所だ。
今日も今日とて、多くの人々がここに集まっている。広場のベンチに座り桜を眺める人。桜には目もくれず、屋台の商品に目移りしている人。昼間からお酒を飲み、楽しそうに騒いでいる人。彼らを目の前にして、わたしはぐっとハルちゃんと繋ぐ手に力を込めた。
「予想はしてたけど……すごい人だね。はぐれないようにしなきゃ」
「う~ん、こんなに人が多いと、もう屋台も売り切れちゃってるかなぁ」
わたしの心配をよそに、ハルちゃんは自分のお腹に手を当てながら食べ物の心配をしている。どうやら、ハルちゃんは『花より団子』な人らしい。
わたしはガクっと肩を落とした。わたしはハルちゃんとの風流なお花見を期待していたのに。まあでも、ハルちゃんは今日朝ごはんを食べずに来てるし、それもしょうがないのかな?
気を取り直し、彼女の手を引く。
「まあとにかく行ってみよう。それに、屋台だってそうそう売り切れにはならないよ」
「うん、そうだね」
わたしたちは気持ちを新たに、人ごみの中へと進んでいった。
両脇に屋台の連なる道を、左右に首を振りながら進んでいく。たい焼きにイカ焼き、タコ焼き、そしてお好み焼き。いろんな屋台が立ち並び、威勢の言い声といい匂いで客を呼び込んでいる。所々にあるちょっとした広場では、多くの人がそれらをおいしそうに頬張っている。そんな光景を眺めて、わたしも思わず喉が鳴る。
い、いけない。お金には限りがあるんだ。本当に食べたい物をしっかり見極めないと。そう自分に言い聞かせていると、後ろでハルちゃんがわたしの手を引きながら言った。
「あぁ! リンちゃん見て! チョコバナナだよ!」
ハルちゃんの指差す方を見れば、大きな『チョコバナナ』の文字と、色とりどりのチョコのデコレーションがされたバナナたち。どれもきれいで、どれも美味しそうだった。
「ねぇねぇ、一本ずつ買っていかない?」
チョコバナナか。確か、ハルちゃんの好物の一つだったはず。昔よく一緒に夏祭りとかに行ったけど、ハルちゃんは毎回チョコバナナを楽しみにしていた。
少し昔の光景を思い出しつつ、わたしは頷いた。
「そうだね、買っていこう」
初っ端にデザート。そんな日もたまにはいいだろう。
人の波を掻き分け掻き分け、なんとか目当ての屋台の前に到着する。店主は意外にもと言うか……とてもガタイのいいおじさんで、頭にはねじったタオルを巻いていた。
「いらっしゃい!」
体格通りのいい声が周囲に響いた。
目の前にカラフルなバナナたちが並ぶ。どれにしようかとハルちゃんに訊くとと「白いのがいい!」と答えた。同じのではつまらないので、わたしはピンク色のやつを選ぶことにした。
「えっと、これとこれを下さい」
「あいよ!」
白とピンクのバナナを指差すと、聞いていてとても気持ちのいい返事が返ってきた。
チョコバナナを受け取って代金を支払うと、わたしたちはその屋台を後にした。
「どこか落ち着けるとこ無いかな~」
せっかくのお花見だ。花も見ずに食べ歩くのはもったいない。わたしたちはどこか人の少ない場所を探す。けれど、どの道も人の通りが激しく、広場のベンチはすべて埋まっていた。
どうしようかと思案していると、袖をちょうちょいと引っ張られた。振り返ると、ハルちゃんが少し遠くを指差しながらこう言った。
「ちょっと遠くになっちゃうけど、あそこなんか良いんじゃない?」
ハルちゃんが指差す先は、桜並木から少し離れた小高い丘の上。確かにあそこなら人も少なそうだし、本命の桜もよく見える。
「じゃあ、そこに行こうか」
わたしが頷くと、ハルちゃんはにっこり笑って歩き出した。
ハルちゃんの後ろについて歩いていく。人ごみを抜け、民家を数軒通り過ぎ、少しの坂を上る。すると、やがて一本の木が見えてきた。何の木かは知らないけど、小高い丘の天辺に立つ立派な木だ。
「はぁ……」
お互いに息をつき、適当なベンチを選んで座った。周りを見渡せば、幸運にも他の人は居なかった。まさに貸しきり状態だった。
呼吸を整えたところで、視線を下へと向ける。見えるのは太い川の流れと、それに沿うように動く人の列。そして、彼らを覆う無数の桜たち。
いい眺めから見える桜。今まさに眼下に広がる景色は素晴らしいものに違いない。けれど、わたしはその光景にあまり感動を覚えなかった。
わたしの隣で、チョコバナナを齧りながらハルちゃんが言った。
「……けっこう散っちゃったね」
そう、数日前の雨風のせいか、桜はその花の半分を既に散らしていた。今見える景色も絵になるものかもしれない。でも、満開のときのここからの眺めは、きっと今とは比較にならないほどに壮観だ。そう思うと、わたしの口から自然とため息が出た。
「もう……誰かさんが約束破らなければ、桜が満開の時に見に来れたのに……」
なんとなく、恨み言っぽく言ってやる。すると、ハルちゃんはそれに答えるように言った。
「でも、とってもきれいだね。……リンちゃんと一緒に見てるからかな?」
わたしははっとして振り向くと、わたしの顔を下から覗き込む、若干上目遣いの彼女と目が合った。堪らずわたしは目を逸らして言った。
「た、確かに、そうかも……」
あぁ、ずるいよ。ここでそのセリフはずるいよ。そんなこと言われたら否定なんてできるはずがないじゃない。それになんだろう。心なしか段々と眼下の景色がさっきより綺麗に見えてきた気がする。
恥ずかしさを誤魔化すために一口、二口とバナナを齧った。懐かしい甘さと風味が口の中いっぱいに広がった。
しばらくの間、お互いに何も言わず景色を眺めていた。草木の擦れる音だけが耳に届いた。
「……ねぇ、リンちゃん」
ハルちゃんがわたしの名前を呼ぶ。
「……なぁに?」
「この場所でのこと、覚えてる?」
この場所。一本の立派な木の立つ、小さな丘。
脳裏に浮かび上がる、昔の光景。
「覚えてるよ。小さい頃、よく二人でここに来たよね。シャボン玉を飛ばしたり、夕日を見たり」
「……そうだね」
確か小さい頃にも、こうして二人で一緒に桜を見たっけ。あの時は、わたしがハルちゃんの手を引いてたなぁ。あぁ、懐かしい。
懐かしさに浸っていると、再びハルちゃんが口を開く。
「リンちゃん」
「ん?」
わたしが振り向いたその瞬間、ハルちゃんがわたしのチョコバナナをもつ手を掴み、自分の口元へと運んでいく。そして、
「はむっ」
「ああ!」
わたしのチョコバナナに食らいついた。
「ちょっと、勝手に食べないでよ」
慌てて手を引くも既に手遅れ。串に刺さっていた残りのバナナはきれいにすっぽ抜け、わたしの手にはただの串だけが残った。ハルちゃんはというと、悪びれる様子もなく幸せそうに口をもぐもぐと動かしている。
「もぐもぐ、うん、おいしい! ……ふふ、そんなに怒らないで。はい、わたしの分もひと口あげる」
そう言って、ハルちゃんは自分のチョコバナナを差し出してくる。そこでわたしははっとした。
これは所謂『間接キス』ではないか!? いや、それだけではない。チョコバナナはハルちゃんが手に持っていて、それを食べさせてくれるわけだから、これは所謂『はい、あ~ん』も合わせているのか!?
ごくり……。
食べたい……。でも、意識した途端に食べづらい。何とも踏ん切りのつかないわたしを見て、ハルちゃんが目を細めてくすりと笑った。
「どうしたの? いらないの?」
「い、いります!」
反射的に答えたわたしは、遂に覚悟を決める。この絶好の機会を逃す訳にはいかない!
ハルちゃんが少しずつ、わたしの口元へとチョコバナナを寄せてくる。
「はい、あ~ん」
「あ、あ~ん」
まるで親鳥からエサを貰うヒナのように、わたしはその瞬間を待った。そして、
「あむっ」
白くコーティングされたバナナを一口齧った。
何度も何度も、その甘さを噛み締める。自分のものと味は大差ないはずなのに、ハルちゃんに食べさせてもらったこれは、何よりも甘く感じた。
「おいしぃ?」
ハルちゃんが首を傾げて尋ねる。わたしは声を出すことができず、うんうんと頷くことしかできなかった。
お互いにチョコバナナを食べ終えたわたしたちは、しばらくした後もまだ丘の上でのんびりくつろいでいた。
そよぐ風が心地良い。時刻がもうすぐお昼になるからか、だんだんお腹が空いてくる。でも、この穏かな陽気の中では、何か食べに行こうという気力も削がれ、ただただこうしていたいという気分になる。その気持ちはまるで、空の漂うあの雲のよう。
「……リンちゃん」
隣で同じように空を見上げていたハルちゃんが独り言のように呟く。
「また来年も、一緒に来ようね……?」
来年も、ハルちゃんと……。
「うん、きっと来ようね。一緒に」
わたしも独り言のようにポツリと呟いた。
わたしたちの間を、やわらかな風が吹き抜けていく。その流れに乗ってきた一枚の花びらが、わたしたちの頭上をひらりひらりと舞っていた。




