15 はるかなメモリー
最近の幼女は力持ちだなぁ(白目)
「ほら、ハルちゃん! こっちこっち!」
「ま、まってよぉ! リンちゃ~ん!」
あれは、まだわたしたちがほんの子供だった頃のこと。わたしは、前を元気に駆けるリンちゃんの背中を、必死になって追いかけていた。
「リンちゃん、足はやいよ~! まって~!」
運動が苦手だったわたしは、年下のリンちゃんにも全く付いていくことができなかった。でも、置いて行かれるのはいやだったから、一生懸命に足を動かした。息も絶え絶えになり、一歩足を出す度に汗が散る。視線の先はずっと、リンちゃんの遠のく背中だけだった。
住宅街から少し外れた上り坂。まばらに立つ民家の間を、一心不乱に駆け上がる。リンちゃんに追いつけるように。離れないように。
やがて、リンちゃんは白い光の中へ消えていく。わたしは眩しさに両目を閉じ、その光に右手を伸ばす。
「ほら、もう少し!」
その言葉とともに、わたしは右手を引かれ、白い光の中へ引き込まれた。
「はぁ、はぁ……つ、着いたの?」
両手をひざにつき、肩を上下させる。わたしの言葉に対するリンちゃんの返事は無い。わたしは、呼吸が乱れたまま、ちらりと視線を前へと向けた。
「……わぁ……」
眼下に広がるのは、一面の桜の海だった。
ここは、小高い丘の上。町の景色が一望できる場所。
青い空は真っ白な綿雲をいくつか浮かべ、町は光に満ち、その合間を流れる川を挟んで桜並木が立つ。
「はぁ……きれい……」
いつしか疲れも忘れ、丘の縁の柵に寄りかかる。優しい風が耳元を掠め、わたしたちの元へ花びらを運んだ。
「すごいでしょ? この景色」
「うん、とってもきれい……」
リンちゃんの顔も見ずに答えた。それほど、わたしはこの景色に心を奪われていた。この、光に満ちたこの町の景色に。
まるで、ここだけ時間の流れがゆっくりであるような感覚を覚えた。それはまるで、桜の花びらがゆったりと落ちていくように。
わたしたちは、しばらくお互いに言葉を交わすことなく、この景色をただ眺めていた。一時間にも、二時間にも感じられるような、長くて短い時間を。
「……ねぇ、ハルちゃん?」
不意に、隣に立つリンちゃんが口を開いた。彼女へ視線を向ける。リンちゃんは、景色のずっと遠くを見つめていた。
「ここが、わたしのとっておきの場所。気に入った?」
その問いかけに、わたしも遠くへ視線を戻して答える。
「うん、とっても」
「えへへ、よかった」
隣で、リンちゃんが笑った。つられるように、わたしも笑った。
とっても穏かで、楽しい時間。ただ景色を見ているだけだったけど、この時間がずっと続いてもいいと思えるほど、ここからの景色は特別だった。
ううん、景色だけじゃない。今から思えば、それはきっと、リンちゃんが隣にいたからかもしれない。
ふっと、小さく風が吹いた。それに流されるように、リンちゃんは柵から離れていく。その様子を、何となく目で追えば、リンちゃんと目が合った。
「わたしね、しょうらいの夢ができたの」
真っ直ぐ、やわらかな視線をわたしに向ける。お互いの髪が、小さく風に揺れている。
「夢? それって、どんな?」
そう訊けば、リンちゃんは満面の笑みでこう答えた。
「えへへ、それはね、ハルちゃんとケッコンすること!」
「け、結婚!?」
あまりに予想外な答えに、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。わたしは何とか声の調子を落ち着かせて、
「ど、どうして、わたしと結婚したいの?」
と訊けば、リンちゃんはまた笑顔のまま言葉を返す。
「ケッコンって、お父さんとお母さんみたいに、大好き同士でするんだよね? わたし、ハルちゃんのことだ~い好きだから、ハルちゃんとケッコンするの! そうすれば、わたしたちずっと一緒にいられるでしょ?」
大好き同士。リンちゃんと、ずっと一緒。
「それにね? ハルちゃんはわたしがいないとダメダメだもん。わたしのお母さんもいつも言ってるの。『お父さんはほんとうにわたしがいないとダメなんだから』って。だから、わたしね、ハルちゃんのお嫁さんになってあげる!」
リンちゃんが、わたしのお嫁さんに。
わたしは、確かにダメダメなところばかりだけど、それでもリンちゃんよりお姉さんだ。だから、リンちゃんより沢山のことを知ってる。もちろん、女の子同士では結婚できないことも。けれど、このときわたしは、それもいいかなって、思ってしまった。
だって、わたしもリンちゃんのことが、大好きだったから。
「ねぇ、ハルちゃんはどう? わたしとケッコンしてくれる?」
だから、わたしの返事は一つに決まっていた。
「うん! もちろんだよ! リンちゃんと結婚だなんて、嬉しい!」
「本当!? やったぁ!」
リンちゃんは声を上げて喜び、わたしの手を取った。
「じゃあ、ちゃんとせーやくしょを書かないと!」
「せいやくしょ?」
訊きかえすと、リンちゃんは笑顔のまま続ける。
「うんとね、ケッコンする人はね、ケッコンしますよ~っていう約束をせーやくしょに書かないといけないみたいなの。そうするとね、二人はケッコンできるの!」
せいやくしょ。もしかして、婚姻届のことかな。そんなことも知ってるなんて、リンちゃんは意外におませさんなのかもしれない。
心の中で小さく笑っていると、リンちゃんがはっとした声を上げた。
「あ、でも、紙も鉛筆も持ってない……どうしよう。ハルちゃんとケッコンできない!」
それに気付いたリンちゃんの顔から笑顔がふっと消え、悲しみに染まっていく。
どうしよう、なんとかしてリンちゃんを元気付けてあげないと。そこで、ぐるりと周りを見渡してみれば、この丘の真ん中に立つ立派で大きな木が目に入った。そこで、わたしは一つの案を思いついた。
「ねぇ、リンちゃん。あの木の幹に書いたらどう? あそこならきっと、大事な約束もずっと消えないよ」
「わぁ~、すごい! ハルちゃん頭いい!」
元気を取り戻したリンちゃんは、早速その木の元へ走っていく。その後にわたしが続く。
地面に落ちていた尖った石を拾い、リンちゃんが木の幹の前に立つ。しかし、一向に何も書こうとせず、ずっと小首を傾げている。
「どうしたの? リンちゃん」
疑問に思ってそう訊けば、リンちゃんが眉を寄せて振り返った。
「……なんて書けばいいかわかんない」
そして、リンちゃんはまたしょんぼりとしてしまう。
困った。いくら年上のわたしでも、婚姻届の書き方なんて知らない。どうしよう。どうすればまたリンちゃんを笑顔にできるかな。
そこで、わたしはふと学校での一コマを思い出した。お調子者の男子が、ある男子と女子の二人をからかって何かを黒板に書いていた。あれは確か……。
「そうだ! 相合傘だよ!」
「ん……あいあいがさ?」
「うん、好きな人同士の名前を、傘の下に書くの。こんな風に」
リンちゃんから石を受け取り、幹に傘とわたしたちの名前、それとハートを刻む。
「ほら! できた!」
「すごい! これでしょうらい、わたしたちケッコンできるね!」
「もちろんだよ! リンちゃん!」
リンちゃんが笑った。わたしも笑った。とっても幸せな、夢のような時間だった。
……そう、これは夢。叶わない現実。こんなものに縋ったってしょうがない。そんなことは言われなくたって分かってる。
けれど、そんな夢が叶うことを、心のどこかで、今でも思っている。もし、あなたとわたしの気持ちが一緒なら、って。
これは、わたしがこの町に引っ越してきてからの初めての春の出来事。とっても大切なわたしの思い出と、わたしのかけがえの無い、貴女への想い。
***
「はぁ……」
わたし、栢野春香は、会社帰りの電車の中、雑音に紛れてため息を一つ。
ちらりと周りを見渡せば、車内はぎゅうぎゅう詰め。所謂帰宅ラッシュ。偶然にも座席に座れたわたしは、とっても運が良かったことだろう。
けれど、気がつけばため息をついてばかり。座席に腰を落ち着けても、わたしの心はふわふわと落ち着かない。その原因は、わたし自身、既に分かっている。
最近、リンちゃんが冷たい。
つい先日までは普段通りのリンちゃんだったのに、最近になってやけにわたしを避けるようになった気がする。わたしの寝起きの髪を梳いてくれなくなったし、ソファに並んで座るときには少し間隔を空けるようになった。以前は一緒にお風呂に入ろうって言えば、あーだこーだと言いながらも最終的には一緒に入ってくれていた。それなのに、ここ数日はまるでこれまでが嘘であったかのように、リンちゃんは一緒にお風呂に入ってくれなくなった。
リンちゃんに避けられている。でも、どうしてだろう。最近は、そのことばかりを考えている。そして、その度に辿り着く結論は一つ。
もしかして、リンちゃんは忘れちゃったのかな……? わたしたちの、あの約束を。
思えばそうだ。あの約束はもう十年も前のこと。しかも、その時のリンちゃんはといえば、まだ小学校に上がったばかりだ。そんな昔のことを覚えていることのほうが珍しいだろう。だから、もし忘れていたとしても、きっと当然のことだ。
……そうだとしても、わたしは認めたくなかった。リンちゃんを信じたかった。だって、わたしはまだ待ってるから。
「リンちゃん……」
だから、わたしはまだ待ち続けるよ。これまでのわたしと、わたしの想いを肯定するためにも。
ガタンガタンと電車が揺れ、その度に隣の人と肩が触れる。
わたしはそっと目を閉じ、思いを巡らせる。
そうだ。今日はリンちゃん、行きつけの喫茶店でバイトがある日だった。帰りに寄っていこう。ふふ、リンちゃんのあの制服姿、楽しみだなぁ。
口元が思わずにやけそうになるのを必死に堪える。いけないいけない。ここは公の場なんだから。
車内アナウンスが聞こえる。車掌さんがもうすぐ到着する駅名を教えてくれる。
我慢がまん。もうちょっとだ。あと数駅を通り過ぎれば、そこにはリンちゃんが待ってる。
***
結論から言うと、行きつけの喫茶店でリンちゃんには会えなかった。つまり、リンちゃんは今日、ここのバイトには来ていなかった。
毎週通っていて、リンちゃんがいなかったことはこれまでに一度も無かった。わたしは少し心配になって、注文を届けに来た店長さんに思わず訊いてしまった。
「今日は、あのバイトの女の子はいないんですか?」って。
すると店長は、何かを思い出すように上に目線を移してこう答えた。
「あぁ、あの子ですか。えぇ、なんでも学校の行事の準備があるとのことで、これからしばらくはバイトに来られないと聞いておりますよ」
「そ、そうですか……」
その答えを聞いて、それまで少し焦っていた自分がバカバカしく思えた。確かに今は夏休みが明け、リンちゃんの学校でも新学期が始まっている。そして、二学期の初めには文化祭があるってことを、結構前に聞いた覚えがある。
なんだぁ、と安心する一方で、わたしはこのとき、とっても悲しい顔をしていたに違いない。だって、毎週この喫茶店でリンちゃんの制服姿を見るのを密かな楽しみにしていたから。
「ありがとうございます。教えていただいて」
声のトーンを落とし、注文したアイスティーに口をつける。すると、その隣で店長が言葉をこぼし始める。
「それにしても、あの子が居ないこの店は、随分と色あせて見えますな」
今、わたし以外に客は居ない。店長はお盆を脇に抱え、わたしに背を向ける。
「初老の男一人で開ける店が、こんなにも寂しいものとは。いやはや、数ヶ月前を思い出しますよ。ですが、個人の用事ともなれば、私が口を挟めるものではありません。私に出来ることは、あの子がこの店に戻ってきたときに、温かく迎え入れることだけです」
そして、店長はこちらを振り返り、優しい目をわたしに向ける。
「ですが、お客さん、貴女の場合はどうなのか、私にはわかりません。きっとそれは、すべて貴女次第ですよ」
そう言い残すと、店長は少し上機嫌な足取りでカウンター奥へ戻っていった。
「わたし次第、ねぇ」
店長の言葉を繰り返す。店長の、まるですべてを見透かしたかのような言葉。いや、もしかしたら、店長には実際に全て見えているのかもしれない。店長とこのメニューとの付き合いも結構長いから。そんなことを考えながら、アイスをスプーンで掬い、口に運ぶ。キンとした冷たさに続き、甘さが溶け出していく。
わたし次第、わたし次第、わたし次第。
どうするべきかを、しばし考える。と言っても、選択肢は二つしかない。リンちゃんを待つのか、それとも、わたしがリンちゃんを追いかけるのか。
後者を選べば、きっと後戻りは出来ない。そのとき、わたしはどれほど後悔するだろうか。
隣の大きな窓のずっと向こうで、真っ赤な夕日が沈んでいく。赤く染められた木の葉が揺れ、枝から離れて飛んでいく。
耳を澄ますと、ほら、聞こえてくる。秋の足音が。あの憎かった夏の暑さも、今では懐かしい思い出の一つだ。
店長の立ち居地はどうなっているのでしょうか
私にもわかりません




