01 春先ホラームービー
百合は世界を救う。
「ホラー映画を見よう!」
後ろから高らかにそう宣言する声が聞こえる。ずっと静かな室内にいたからか、澄んだその声はまるで部屋の中を反響するかのように耳に残った。
まったり携帯ゲームを楽しんでいたわたしは一旦その手を止め、ソファの背もたれに背中を預け、首を後ろに反ってみる。見れば、ハルちゃんが立ち上がり、天高くDVDのパッケージを掲げていた。パッケージのジャケットには、少しドロドロしたゾンビが映っていた。
わたしは、ほぅっと小さく息をついた。
「……急に何を言い出すかと思えば」
首を伸ばして窓の外へ目を向ける。お天道様は空高くで輝き、最近咲きはじめた桜並木を眩しく照らしている。きっと、気持ちの良い春風もそよいでいることだろう。
なんとも長閑な風景だこと。そんな中でホラー映画を見るだなんて……。
「夏でもなければ夜でもないのに、そんなの見るの?」
湧いた疑問を投げ掛けてみる。すると、答えはすぐに返ってきた。
「だって、夜なんかに見たら怖いじゃん!」
「……」
普通はその怖さを楽しむために見るものだと思うんだけどな、ホラー映画って。
若干呆れ気味のわたしは、ハルちゃんを無視して携帯ゲームに視線を戻す。
今このゲームはイベント期間中。ハルちゃんやホラー映画に現を抜かしている暇は無いのだ。
「むぅぅ~」
無視して携帯ゲームをポチポチしていると、後ろから不満そうな声が聞こえた。そして次の瞬間、わたしの視界がグラっと揺らいだ。ソファの背もたれ越しにハルちゃんがわたしの首元に抱きついてきたのだ。
「うぐッ」
「ねぇ~おねがいリンちゃ~ん! 一緒に見ようよ~! ホラー映画見ようよ~!」
そのまま彼女は、ぐわんぐわんとわたしを揺すり、駄々をこねだした。今のわたしは、子供に物をせがまれる親のような気持だ。まったく、これじゃあどっちが年上か分からない。でも……
「……」
後頭部に押し付けられる豊かでやわらかいおっぱいだけは、どちらが年上かを明確に主張していた。
「ねぇ~いいでしょぉ~?」
「……」
沈黙を続けるも、押し付けられるおっぱいと甘ったるい猫なで声がわたしの理性を揺さぶる。あぁ、なんて柔らかくて気持ち良いの。このまま後ろを振り返って、その深い谷間に顔を埋めたい。
……はッ! いけないいけない。り、理性を保たなければ!
「ゲームじゃなくて、一緒に映画みようよぉ~」
「……」
まるでわたしを誘惑するかのように、尚もおっぱいが押し付けられ続け、わたしの理性をゆさぶる。それに、なんだかハルちゃんの良い香りもしてきたぞ。くっ! ハルちゃんったら、絶対分かっててやってるでしょ!?
「もぉ~、どうしたら一緒に見てくれるの?」
「……」
だめよ、理性を失っちゃあ。頑張れ、わたし! わた……
「……お願いよ、鈴」
「だあああぁぁぁっ!」
突然の名前呼び捨てに、わたしの理性は極限まで磨耗されてしまう。耐え切れなくなったわたしは、すべてを振り払うように勢いよく立ち上がった。
あ、危ないところだった。危うくわたしは理性を無くしたケダモノになってしまうところだった。
ゼェゼェと肩で息をしながらもなんとか澄まし顔を取り戻し、ハルちゃんと向かい合う。
「まったく……そもそも、どうして急にホラー映画を見たいだなんて言い出したの? ハルちゃん、そういうの大嫌いじゃなかったの?」
そう、ハルちゃんは大の怖がりなのである。それはもう、テレビでホラーの特番が映ろうものなら両の目と耳を塞いで、わたしにチャンネルを早く変えろとせがむくらいなのだ。それなのに自分からホラー映画を見ようだなんて、一体どういった風の吹き回しなんだ? まさか、道端に落ちてた変な物でも拾って食べたんじゃ? いや、まさかね。
いろんな思考が飛び交う一方、わたしの疑問は、ハルちゃんのたった一言によって簡単に片付けられてしまう。
「大丈夫よ。だって今、お昼だし」
「は、はぁ……」
昼。昼にはおばけは出ない。だから怖くない。多分そういう思考回路なのだろう。なんて単純な。
先端恐怖症を持つ人が画面の中のナイフの先端をまじまじと見つめるように。高所恐怖症の人がガラス張りの塔に登るように。そして、牙を剥きうなりを上げる猛獣を檻の側で眺めるように。
安全だと分かっているからこそ、その恐怖を味わおうとする。だからハルちゃんは、夕方のホラー特番はダメでもお昼のホラー映画は大丈夫だと言い張るのだ。
ため息を一つつき、わたしは観念したように一度深く頷いた。
「分かった。一緒に見てあげる」
すると、ハルちゃんは顔をぱぁっと輝かせた。
「ほんとに! やったぁ! リンちゃんだぁ~いすきっ!」
そして、次の瞬間わたしに抱きついてきた。わたしはドギマギしながらなんとか抱きとめた。
手に伝わるやわらかい感触と扇情的な香り。またしてもわたしの理性が危機に瀕してしまう。
「ちょ、ちょっと! 急に抱きつかないでよ!」
なんとかハルちゃんを引き剥がし、涼しい顔を繕った。
「コホン、まぁとにかく、一緒に見てあげるけど、夜に『一人でトイレに行けな~い』なんてこと言わないでよ?」
昔のことを思い出す。まだ小学校低学年だったわたしは、よくハルちゃんの夜のトイレに付き合わされたものだ。
「もぉ~リンちゃんったら、わたしのことバカにして。わたしはリンちゃんよりもお姉さんなんだよ? そっちこそ『一人のお風呂は怖いから一緒にお風呂入って~』なんて言わないでよね?」
途端に大人ぶるハルちゃんは、ちょっと怒ったようにツンとそっぽを向いてしまう。まぁ、そこがまた可愛いんだけど。
そんな様子の彼女を見て、わたしは無意識に口の端が上がるのがわかった。確かにハルちゃんの言う通り、昔に比べてお互い成長したんだし、ハルちゃんも一人で夜にトイレに行けるようになったかもしれない。そんなことを思い、わたしは心の中がほっこりするのを感じた。
それはそれとして、ハルちゃんの言うお風呂の件、もし頼んだら本当に一緒にお風呂に入ってくれるのかな……?
二人でお風呂に入る絵を想像し、わたしは一人、息を呑んだ。
お昼の日差しの差し込む明るい室内。窓から外を覗けば、穏かな空模様。小鳥の歌さえ聞こえてきそうな長閑な陽気であるのに対し、テレビから聞こえてくるのは阿鼻叫喚の声。あぁ、なんとミスマッチな空間だろうか。
映画のストーリーは至ってシンプルだった。突如発生した謎のウイルスによって市民がゾンビ化。そのゾンビが人々に襲い掛かり、襲われた人もまたゾンビ化。こうしてそこらじゅうにゾンビが溢れかえり、世界は大パニック陥いる。そんな終焉間近な世界の中で、主人公は孤独に戦うのだ。
普通に見ればそれなりに面白い映画なのかもしれない。役者さんの演技は目を瞠るものがあるし、演出もド派手で迫力がある。しかし、今のわたしにはそれらを楽しむ余裕など微塵も無かった。なぜなら、わたしも映画の主人公同様、パニックの中で孤独に戦っていたのだから。
『オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ン!』
「ひぃっ……!」
ゾンビが唸り声を上げ人々に襲い掛かる度に、左に座るハルちゃんは小さく怯えた声を上げ、小動物のように身を竦ませる。
「……ッ!?」
そしてなんと! まるで縋るかのようにわたしの左腕に彼女の腕を絡めてきたのだ!
強く強くわたしの腕を抱くハルちゃん。そして、わたしの二の腕に押し付けられる二つの弾力。わたしは今、全神経をこの腕に集中させていた。
かぁぁわいいいぃぃぃ!!
心の中でわたしは叫んだ。もはやホラー映画がわたしの意識に入り込む余地などなかった。わたしの目には恐怖におののくハルちゃんの横顔しか見えず、わたしの耳には彼女の震える唇から時々漏れる怯えた声しか聞こえない。
ちらりちらりとハルちゃんの横顔を盗み見る。すっかり怯えて顔をこわばらせながらも、その目はしっかりとテレビの画面に向けられている。
そのまま視線を下へとスライドさせていく。セーターによって強調されたおっぱいに、美しいカーブを描く腰。そして、丈の短めのスカートから覗くさらさらとした太もも。
触りたい。その震える体を強く抱きしめたい。その欲求が、今のわたしの脳内を支配していた。
ごくり……。
今ならもしかして、太ももとかこっそり触っても気づかれないかな……? だってほら、ハルちゃん映画にすっかり夢中だし。だから、ちょっとくらいおっぱいとか揉んだってバレないよね? そうだよバレないよ!
謎の確信を得たわたしは、空いた右手をわきわきとさせながらハルちゃんの胸元へと忍ばせた。
「はぁ、はぁ……」
そして、わたしの色欲を纏った指先が彼女の豊かなおっぱいに触れようとしたその時、
「ひぅ……っ!」
彼女は両目をぐっと瞑り、一際大きく体を震わせた。これまで見てきたハルちゃんの中で、一番怖がっている様子に思えた。
「……」
わたしは彼女から手を引き、天井を仰ぎ見た。あぁ、わたしはなんてことをしようとしていたのだろう。こんないたいけで恐怖に身を震わす無力な彼女を、わたしは己の欲望の赴くままに蹂躙しようとしていたなんて。
わたしは只管に己を恥じた。ハルちゃんの可愛さは決して穢されてはいけない。彼女の可愛さは、ただただ愛でられる為に存在するのだ。そのことに気づけなかったわたしは、なんと愚かだったことか。
一つ、二つと深呼吸をした。わたしはこれから無心となろう。一切の煩悩を捨て、彼女を支える一本の柱となろう。彼女がいくら強く縋ろうとも、決して折れることのない柱に。
わたしはゆっくりと瞼を閉じ、心の中でお経を唱え始めた。
……そして、約一時間後
「あは~、面白かった!」
映画が、終わった。テレビ画面は今、黒い背景をバックに長い長いスタッフロールを映している。それには一切目もくれず、ハルちゃんは眩しい笑顔をこちらに向ける。
「この映画、そんなに怖くなかったね……って、リンちゃんどうしたの!? 顔色悪いよ!?」
わたしの顔を見るなりハルちゃんは声を上げた。確かに今、わたしはげっそりとした顔をしているに違いない。鏡を見なくとも分かる。でもこれは、わたしが己の中の獣に打ち勝った証。ハルちゃんの知らないところで、わたしは自分の欲望を見事退けることができたのだ。
映画が終了し、ハルちゃんがわたしの腕を離した今、ようやくわたしは落ち着きを取り戻すことができる。
「え~? もしかして、この映画がそんなに怖かったの?」
隣でハルちゃんが何か言っているが、今のわたしにそんなおちょくりは通用しない。長きに渡る修行を終えた僧侶のように、わたしの心は寛大なのだ。
「はぁ……」
ハルちゃんを無視したまま背もたれに倒れ掛かる。天井をぼーっと見上げながら、小さく息をついた。
すっかり夜は更け時刻は十一時を回っている。もうそろそろ眠る時間だ。
二人分の布団を敷きながら、ふと部屋の隅に目を向ければ、そこには一台のテレビと適当に置かれたDVDのパッケージ。そういえば今日ホラー映画を一緒に見たなぁということを思い出し、数時間前のことにも関わらずなんだか昔を懐かしむような心持ちになった。
「お布団敷いてくれたんだね。ありがとぉ~」
思い出に浸っていると寝室にハルちゃんが入って来た。風呂から出たばかりなようで、白い肌はしっとりとしており、肩まで伸びた亜麻色髪は艶やかに光を反射している。首筋に髪が若干張り付いているところなどを見ると、とても胸にグッとくるものがある。
そうしてぼんやり見惚れていると、ハルちゃんは突然崩れるようにして布団に横になった。わたしは一瞬で我に返り、彼女の肩を揺する。
「ちょ、ちょっと! 髪が乾ききらないまま寝ると寝癖がついちゃうよ!」
「むむぅ、だいじょうぶだよぉ……あしたもお休みだしぃ~」
そう言うなり、ハルちゃんはすぅすぅと寝息を立て始めた。まったく、人がせっかく心配してあげたのに気持ち良さそうに寝ちゃって。
でも、ハルちゃんの寝顔を見ていると、もうどうでもいいやという気持ちになる。
「はぁ、まあいいや。わたしも寝よ」
ハルちゃんの体に掛け布団を掛け、わたしも布団の上で横になる。可愛らしいハルちゃんの寝顔をしばらく眺めた後、リモコン式の照明を落とした。
『ねぇ、リンちゃん……』
「んぅ……」
誰かがわたしを呼んでる気がする。
『ねぇってば、リンちゃん起きて……』
「うぅん……な、なぁに……」
意識が働かないままぼんやりと思う。これは、ハルちゃんの声だ。そう認識すると、徐々に意識が開けていく。
『あ、あのね……? お願いがあるの……』
「……はぁぅ」
のっそりと体を起こし、大きく欠伸をする。半開きの目を隣へ向ければ、ハルちゃんが体をモジモジとさせながら、上目遣いでこちらを見つめていた。
「どうしたの……? もしかして、トイレまで付き添って欲しいとか……?」
まだぼやける頭のまま冗談を言うと、意外な返事が返ってきた。
「え、えっと……ぅん、そうなの」
「……」
首を回し、壁に掛けてある時計を見上げる。暗闇に慣れたわたしの目には、現時刻が丁度十二時を過ぎた頃のように見えた。
あぁきっと、寝る前にトイレに行き忘れたんだろう。そして夜中にトイレで目を覚ますも、昼間に見たホラー映画を思い出して一人で行けなかったんだ。まったく、結局昼間のは強がりだったってことか。
今更トイレの付き添いなんて思うことはない。ハルちゃんのトイレの付き添いなんて昔に何度もあった。それこそ数え切れないほど。だからわたしはほぼ無意識的に立ち上がり、ハルちゃんに手を差し伸べた。
「んじゃぁ、行こっか」
「う、うん……」
彼女の手を引き、道中の廊下の電気を順番に点けながら、目的地のトイレの前までやってきた。
「ほら、着いたよ」
「……」
しかし、ハルちゃんはモジモジとさせたままトイレに入ろうとしない。一体どうしたんだろう。そう疑問に思ったとき、彼女はゆっくりと言葉を選ぶようにして言った。
「あ、あのね……? その、できれば一人になりたくないって言うか……狭い個室に一人は、怖いって言うか……」
「ん……?」
わたしは首を傾げる。いまいち彼女の言わんとすることが掴めない。すると、こんなわたしの様子を見かねてか、ハルちゃんは吹っ切れたように言った。
「つ、つまり! 一緒にトイレに入って欲しいの!」
「――ッ!?」
その瞬間、わたしの脳を取り囲んでいた暗雲は消え失せた。澄み切ったわたしの脳が初めに見たものは、恥ずかしさのあまり頬を紅潮させ瞳に涙を溜めるハルちゃんの顔だった。
「わ、分かった……」
状況が飲み込めないまま反射的に頷くと、ハルちゃんは顔を俯かせながらトイレの中へわたしを誘った。ドアを閉じ、カギも掛ける。トイレの中で、わたしたちは向かい合う形となった。
ハルちゃんと一緒のトイレにいる。こんな狭い個室の中で、今かわハルちゃんがはわたしの前でおしっこをするんだ。そんな現状に混乱していると、ハルちゃんが俯いたままポツリと言った。
「こっち向いてたら、その……できないよ」
「あぁ! ご、ごめん……」
はっとしたわたしは慌てて後ろを向いた。意識しないように心の中でお経を唱える。しかし、昼には上手くいったこの方法も今はまるで無力だった。衣擦れの音一つひとつに心臓を跳ねさせ、そして聞こえる水音にわたしは鼻息が荒くなるのを抑えられなかった。ハルちゃんがすぐ後ろでおしっこをしているという事実だけで、わたしの心は天を突くほどに昂ぶっていた。
実際には数秒のはずなのに、わたしにはこの瞬間が永遠にも思えた。わたしの心臓が破裂する前に早く終わって欲しい。でも、こんな興奮はこれまでに味わったことが無い。この時間がずっと続けばいいのに。そんな、あべこべな感情がわたしの心の中を渦巻いた。
鼻血が出そうになるほどの興奮の最中、しかしやがて水音は止み、トイレの流される音が聞こえた。そして小さく「お、終わったよ」の声。わたしは声を返すことができず、代わりに頷いてトイレのドアを開けた。
トイレでの興奮は消えることは無かった。寝室に戻り布団を被った後も、心臓はバックバックと音を立てていた。こんなうるさい状態で一体誰が眠れよう!
全てはハルちゃんが悪いんだ! トイレに一緒に入ろうだなんて言うから! だから、ハルちゃんには責任を取ってもらわないと!
そして、この昂ぶりを鎮める方法はただ一つ!
「ハルちゃんッ!」
わたしは掛け布団を跳ね除け、ハルちゃんに今まさに襲い掛かろうとした。が、そのとき……
「すぅ……すぅ……」
わたしは見てしまった。安らかなハルちゃんの、天使のような寝顔を。あぁ、なんて可愛いらしい。
そしてわたしは悟った。この寝顔を決して犯してはならないということを。いやむしろ、この寝顔を守ってゆかねばならないということを。
「はぁ……その顔は反則だよ」
大きなため息をつき、わたしは再び布団を被る。
今日は大変な一日だった。わたしの心を揺さぶるだけ揺さぶって、結局何もさせてくれないんだから。もう、散々だよ。でも……
「ホラー映画って……いいな」
今日わたしは、少しだけホラー映画のことが好きになった。