赤いひび
"The Inhabitant of the Lake"より。
夕方、三時半ころになろうとき。私は、いつものように自らが勤務する病院へと向かった。むろん、夜勤業務のためである。
私はこの夜勤というのが苦手であった。夜は当直の医師もいるとはいえ、昼間よりも少ない人数で大勢の入居者を対応しなければならないから……というのがもっぱらな理由である。
「はあ……今日は何事も起きないといいんだけど」
これまた、いつものように溜め息を吐く。だが、病院において「何事も起こらない」というのは、無理難題といっても過言ではないのである。
病状の重い患者が急変する。
呼吸困難に陥った患者の喀痰吸引に追われる。
認知症を併発した患者が病室から抜け出そうとする。
足を骨折して、ろくに歩けないにも関わらず、一人でトイレへ行こうとベッドから無理に降りようとする患者もいる。
あちこちから同時にナースコールが鳴る。
おむつや尿漏れパッドを交換しようとして、患者が暴れる。ときには殴られる。
ときには急患の対応に駆り出され、休憩などなくノンストップで救急業務に取り掛かることだってある。
まったく、人の命に関わるとはかくも大変なものなのかと、毎日の事ながら感じずにいられない。
そんな夜勤業務は、何度も続けていれば慣れはすれど苦手意識は拭えない。
今日も今日とで、きっとなにかあるに違いない。私は両肩に言いようのない重さを感じながら、ロッカールームで指定されたユニフォームに着替えるのだった。
◆ ◇ ◆
「……じゃあ、申し送りはここまで。今日は●●さんと××さん、手術直後だから要経過観察ね。KTに異常があった場合、すぐ当直の佐藤先生に連絡を入れる事」
「はい」
「あと、例によって301号室のMさんは看取りの状況だから、あの方も急変があったらすぐ連絡を入れてちょうだい」
「分かりました」
日中、勤務していた職員からその日の申し送りを受ける。入院患者の状況確認と、注意しなければならない患者については個別にチェックをしなければならないからだ。
「Mさん、看取りの指示が入ってから、もう三年くらいになりますよね」
「ええ、そうね。まあ看取りって言っても、病状の変化によっては予想外に長く保っているケースもあるけれど……」
「本当、思ってたより長いですね。先生もびっくりしてましたよ、『あんな酷い状態から、よくもまあここまで生きられるものだ』って」
「やっぱり生きる気力もあるのよ。ほら、Mさんって旦那さんがお見舞いに来てくれるでしょ。一日でも長く一緒にいたいんでしょう」
「そういう気力の強さを、同室されてた他の患者さんも持ってくれてたら良かったんですけどね……」
「亡くなられた方々のことを、とやかく言っても仕方ないわ……っと、無駄話はこれでおしまい。あなたも早く業務に取り掛かってちょうだい」
「分かりました」
短い雑談のあと、私たちは自らの仕事へ取り掛かる。業務に必要な道具をテキパキと準備し、同じ夜勤の看護師と動きの打ち合わせを行う。
「さてっと。服薬のチェックも済ませとかないと」
何せ入院患者の数は多いのだ。手際よく済ませないと、いつまでたっても終わりはしない。
やがて定時のバイタルチェック、夕食に服薬と流れるように業務が続き、気づけば時刻は深夜十一時を回ろうとしていた。
私は、業務であちこちを駆け回った両脚をさすりながら、周りを見渡した。
病院のフロア内には静けさが満ちている。今ここで鳴る音といえば、入院患者のデータをパソコンに入力するキーボードの打鍵音と、ナースコールだけだった。
こうしてみると、とても自分以外に生きている人がいるなどとは思えないほどの不気味な静けさだった。自分たちは確かに生きている人たちを相手にケアを行っているにも関わらずそんな風に思えないのは、ある意味ではここがどういう場所なのかを、その側面を表してるように感じられてならなかった。
同僚は仮眠中のため、ここには私しかいない。彼女は測定したバイタルデータや患者の状況を記録し、一息つく。忙しい夜勤の、ほんのわずかなひとときだ。
ふと、私は手元の記録に目を落とす。
入院患者であるMさんについて記載されたものだ。三年前、老衰のため入院してからというもの、ほぼ寝たきりの状態のままずっと過ごしている。寝返りすら打てないためか褥瘡のような傷もいくつか発生しており、意識もなかなか判然としない日が多い。
「先生の見立てだと、まだ思考は問題ないらしいけれど……いかんせん意思疎通がね……」
Mさんは脳梗塞も発症しているため、重篤な言語障害を引き起こしているようだった。故に、普段の様子を窺っても言葉がはっきりとしている姿はまず見られない。食べ物の経口摂取もままならず、もっぱら経管栄養でもって何とか命をつないでいるといっても過言ではない。
九十代後半という高齢もあって、もはや生きているのが不思議なくらいだ。
「これで三年、だもんね。大変だなあ」
やや他人ごとっぽい言い方になってしまったが、それも致し方ないと思ってしまう。人の生き死にと関わり、何度も患者の死に目に遭ってきた私にとっては、Mさんであってもいち患者に過ぎない。余計な感情移入は、こちらの精神をすり減らすだけである。
誠実に、しかし入れ込むわけにはいかない。医療とはかくも複雑な仕事なのであった。
「旦那さん、明日も来るのかな」
ふと、この場にいない人間のことを思い出す。Mさんの旦那さんは、Mさんのことを溺愛しているらしく、Mさんが入院してからというもの毎日のようにお見舞いへ来ているのだった。昔は夫婦仲もよかったらしく、病室で出くわすと、そのころの思い出話を長々と聞かされたこともある。旦那さんの、あのニコニコとした表情は忘れようとしてもなかなか忘れられないものだった。
ともあれ。色々思う所もなくはないが、さりとて一人の患者の事ばかり考えているわけにもいかない。
そのあとも、ほかの入院患者たちの記録を一通りチェックしていると、あっという間に巡回の時間となった。
「そろそろ行かないと……」
私は、重い腰を上げてフロアの巡回へと向かう。
順番に入院患者の様子を確認し、バイタルサインをチェックし、必要なら体位交換などのケアも行う。もちろん、喀痰吸引などの医療的ケアも怠らない。
そうこうしているうちに、Mさんの病室へとたどり着いた。ここは個室となっており、Mさんだけが部屋で休んでいる。以前はほかの入院患者と相部屋だったが、体調の変化に伴い個室へと移ったのだった。
そういえばその際、旦那さんは個室への移動を強く反対していたような気がした。結局は旦那さんが折れる形で、個室への移動が決定したはずだった。
そっと病室へ入ると、Mさんは静かに眠っていた。それを起こさないように、静かにゆっくりと近づく。
あまりに呼吸が静かだったので、一瞬息をしていないのかと焦ったが、計器類をみると弱々しいながらの呼吸を続けているのが確認できた。
規定通りバイタルをチェックし、その他もろもろの必要なケアを行なう。
褥瘡は以前よりも悪化していた。えぐれた箇所を薬で埋め、シートで保護するものの、あまり状態は芳しいとは言えない。これでよく命が保つものだと、処置しながらでも思わずにはいられない有様だった。感染症でも起こしたら、ひとたまりもないだろう。
伸びきったゴムのような、生気のない肌を見やる。骨ばって水分も抜け、まるで干物にでもなってしまうのではと心配になってしまう。そっと肌に触れると、緑がかったような垢がこぼれた。普段入浴などできないからだろうが、黒を通り越して緑の垢など、Mさん以外の患者からは見られない色だった。
そのまま全身の清拭を行う。と、ふと胸の痣が目についた。
青黒い斑点がぽつぽつと浮かび上がっており、そこからさらに赤い筋が広がっていた。赤い筋はそれ自体がドクドクと脈打っているような、そんな錯覚さえこちらに持たせてしまうほどに鮮やかな色彩を放っていた。
それはまるで、体に赤いひびが入っているかのようだった。
青黒い斑点は、まるで紫斑か、もしくは死斑のような薄気味悪さを放っている。が、しかしMさんはこうして生きている。脈拍も、循環器系の働きも――年齢相応に衰えてはいるものの――機能していないことはない。
そもそも、これはMさんが入院してきた当初から見られていたものだ。旦那さんいわく、昔とある事故に遭った際の痕なのだとか。こうしてみていると、いったいどうやったらこんな痕が残るのか不思議でならないが、しかしこれとって異常をきたすような悪性のある痣でもなく。
「(なんなんだろう、これ)」
じっとひび割れのような痣を見ていると、何やらその赤い痣に吸い込まれてしまいそうな、言い知れない感覚に陥った。本能的に抗えない魅力と恐怖とがミックスされ、脳髄の奥へ突き刺さったかのような。
もし、あの痣が自分にもあったら、どんな気分になるのだろう。どうやったら、ああいう風になるんだろう。
そんな、ある種の羨望に近い何かが湧き上がってきたところで、私は慌てて頭を左右に振った。
「(こんなのが羨ましいなんて、どうかしてる)」
この痣を見て、こんな気分になったのは初めてのことだ。おかしな気持ちになってしまうのは、どうやら疲れているからかもしれない。
首を傾げながらも、私は処置を終えると病室を後にした。
◆ ◇ ◆
その後。 何とか急変患者が出ることもなく、平穏無事に一夜を明かすことができた。
私はほっと肩の荷が下りた気持ちで、眠気覚ましのブラックコーヒーを啜っていた。毎度毎度、夜勤のたびにこんな緊張感に苛まれていては、いつか心身のどちらかに不調をきたしてしまうかも知れない。そう思うと、仕事終わりで清々しい気持ちに浸りたいにもかかわらず、なんとも疲れた気分にならざるを得なかった。
朝の申し送りも終わり、ほかの業務も終え。あとはロッカーで着替えて帰るだけなのだが、その前にMさんの病室へ入る。普段はケアもないのに患者の傍へ向かうなどしないのだが、今日だけはあのアザがどうにも気になって仕方なかったのだ。
病室でMさんの顔をみると、相変わらず青白い不健康そうな肌をしている。経管栄養をしているものの、もはや内臓がそれを体に還元できないレベルまで衰えているのかも知れなかった。
その表情から、感情を読み取ることはできない。
ふと。病室のドアが開く。そちらへ顔を向けると、年老いた男性がひとりこちらへ向かってきた。
「ああ、Mさんの旦那さんですね」
「いつもお世話になっております。で、どうです家内の様子は」
「ええ……あまり容態が改善する様子はありません。褥瘡も徐々に悪化していますし、意識の方もはっきりしていません。呼吸と心臓の方は安定していますが……」
「そうですか……」
やせ細った老人へ、私は簡単な状況を報告する。旦那さんは顔を曇らせ、Mさんの顔をじっと見つめていた。こうしてお見舞いに来る旦那さんの様子を見ていると、本当にMさんを大事にしているのだな、と感じられた。
「すみませんが、家内と二人きりにさせてください」
「ええ、構いませんよ。どうぞごゆっくり――」
ここは夫婦水入らずにしてあげよう。そう思って私は病室を後にしようとする。
外に出て、病室の扉を閉めようとした。
その刹那。
「……やはり、このままではダメか」
「――え」
ふと、扉越しに聞こえた旦那さんの一言。
その声音に、私は背骨につららを突き立てられたような寒気に襲われた。
「本物を使わないと…………たった数年…………」
振り向くと、そこには自らの妻を前にして、何かしら言葉を並べる旦那さんの姿があった。声は小さく、途切れとぎれにしか聞こえない。
真剣な表情はそのまま、何も変わっていない。変わっていないが、しかし何かが違う。
とても言葉では言い表せない何か、としか形容できない。だが、あの姿をみて『Mさんを大事にしているのだな』と思った自分が信じられないほどに何かが決定的に変わっていた。
目だ。眼差しが違う。
あれは眼前の妻をみているようで、しかしその奥底には違う何かが映っている。
「他に…がいないと……が枯渇…………ーキ様から直接賜ったものでなければ…………ならば現地に……ぶつぶつ……」
数多くの見舞客をみてきた自分には分かる。
心配そうな、そういうフリをしている人たちと似ていて。まるで妻の事が心配である誰かの真似をしているかの如く、その瞳はMさんを見ていなかった。
あんな姿の旦那さんは、今まで見たことが無かった。いつもニコニコとしていた旦那さんからは全く想像もつかない、本当に同一人物なのか疑わしいほどに。
「(なに……あれ)」
「大丈夫……私がどうにかしてやる。おまえはずっと私と一緒に……ずっと、ずっと………………」
妻に言葉をかけているのか、それともただ独り呟いているのか。判然としないまま言葉を並べる老人からは、生まれてこのかた感じたことのない確かな狂気が滲み出ていた。
私はもうその場にいられなくて、逃げるようにその場を後にした。
家に戻っても、凍り付いた背中の寒気はしばらく取れることなく、私に恐ろしい記憶を浸み込ませようとするのだった。
◆ ◇ ◆
その後、Mさんは『自宅で看取りをしたい』という旦那さんの希望によって、私の勤める病院をあとにした。
それからの経過は、私には伝わっていない。
亡くなられたのかどうかすら、分からない。
願わくば、穏やかな最期を迎えて欲しい。
あの、鮮血のように真っ赤な痣を思い出すたびに、私はそう願わずに居られなかった。
※補足※
この短編はクトゥルフ神話における異形の神「グラーキ」及びその従者をモチーフに使用しておりますが、厳密にはクトゥルフ神話のそれとは異なります。
本来のグラーキの従者とは異なる形態、描写をしています。その旨、御了承いただければ幸いです。
今後の糧になりますので、ご感想、ご批評など頂けましたら幸いです。