ボタンがあったなら
さて、地球の話をしよう。
自分の目の前に『ボタン』があったなら。
そんな話。
——季節は春だった。
うららかな日が差す公園のベンチ。
座っている男の名前は、山田 一郎太。
「……ああ、どうすればいいんだ」
悲痛。
そんな顔でつぶやく山田。なぜか。
……リストラされたからだ。
「花子、二郎丸っ……」
愛する妻と子。
彼女たちにはその事を伝えられず、今日も仕事に行くフリをして、山田は公園で弁当を食べていた。
花子は、山田一郎太に似合わないほどによく出来た妻だった。「……あなたの優しいところが好きよ」心の底からそう言ってくれる女だった。
来年からは小学生になる二郎丸も、やんちゃでかわいい子どもだ。親戚から溺愛されている。
……しかし、山田はリストラ。
「どうすりゃいいのよっ……!! 」
妻がいつも弁当に入れてくれるタコさんウィンナー。山田はそれを見つめながら途方に暮れた。
そのままの姿勢で、一時間、二時間……、やがて夕方になった頃、山田は隣に座っている男に気がついた。
春の陽気には似合わない黒いコート。
顔を隠すようにサングラスとマスクをしている。
その男は、山田が自分の存在に気づくのを待っていたようだった。
「……?」
「どうも。山田一郎太さん」
「あんた、だれ? なんで俺を知っている?」
「あなたにプレゼントを持ってきました」
とつぜん、妙なことを言ってきた男に山田は警戒した。
「なんだよ、あんたは誰なんだよ。……変なもんでも売りつけるつもりか?」
「違いますよ。私への対価は必要ありません。無償の贈り物です」
すると、男は奇妙なものを懐から取り出した。
手のひらに収まるくらいの、四角形の台だ。
そして、その無骨な銀色の台の上には赤いボタンがついていた。
山田が言う。
「ボタン? ……なんだこれは」
「プレゼントです」
妙なことを言った男の顔を、山田は見ていた。
しばらくの時間が経ったあと、山田は笑った。
「なんだ。テレビの企画か? それなら他をあたってくれ」
「テレビ? ……ああ、人生を一時的に忘れるための映像が映る箱のことですか。ですが山田さん、違います。喜んでください。もっと意味があるものですよ」
男は真正面を向いたまま、ボソボソと喋った。
山田は、渡されたボタンを見ていた。
押し込めるようになっているのか、台からほんの少し浮いている。
「……プレゼントはありがたいが、別に、これをもらっても」
「山田さん、よく聞いてください。それを一回押すと、あなたは一万円を手に入れます」
「は?」
「しかし、その代わりにこの世界から何かが失われます。ルールはそれだけです」
山田が何かを言おうとする。
しかし、男は遮るように口を開いた。
「あ、」
「ああ。さっき『無償の贈り物』と言った事と矛盾するじゃないかという事ですね。それは、私からあなたへのという意味です」
「い、」
「いいですか? 私が与えるプレゼントに対して、私への対価は必要ありません。しかし、この世界からは何かが失われます。誰の手にも渡りません。失われるだけです」
「う、」
「うん。その通り。あなたには得しかありませんよ。理解しましたか?」
「え、」
「ええ。こんな幸運も世の中にはあるのです」
「お、」
「オーマイガッ。そう言って神に祈りますか?」
「……か、神よ。目の前に狂人が」
山田は、生まれて初めて神に祈った。
すると、男はベンチから立ち上がった。
「もう一度。……あなたは、そのボタンを押すと一万円を手に入れます。何回でも押して構いませんよ」
そう言って、男はベンチから立ち上がると、どこかへと消えてしまった。
残された山田は、ぽかんと口を開けていた。
渡された謎のボタン。
公園のベンチでそれを眺めていた山田は、腕時計の針がいい時間を指しているのに気がついた。
「帰るか……」
解雇されたことを妻に話せていない山田は、毎日これを——働いているフリを繰り返している。
公園から出て坂道を下ると、地元の商店街が見えた。
「焼き鳥かあ……。花子と二郎丸が好きなんだよなぁ」
山田の住む街には大型のデパートがなく、商店街が活気づいていた。夕食の食材を買いにきた者や、部活帰りの少年少女が通りをにぎやかしている。
魚屋や八百屋の威勢のいい呼び声。
たい焼き屋の前で列を作っている少女たち。
行きつけの焼き鳥屋の前では、お持ち帰り用の窓から焼き鳥が売られている。
山田は財布の中身を確かめた。
小銭しかなかった。
お持ち帰り用の窓から流れてくるタレ焼きの煙が、山田の目にしみた。
「花子、二郎丸……」
山田家では、焼き鳥のお土産が喜ばれる。
もう、ひと月は買っていない。
肩を落として歩く山田は、自分が持っている奇妙なボタンのことを思い出した。
「これを押すと、一万円……。そのかわりに、世界から何かが失われる……」
見ず知らずの人間にこんな冗談を仕掛けるとは、あのコートの男はどういう人間なのだろう。やはりテレビの撮影か、劇団員なのかもしれない。
今もどこかから山田のことを撮影しているのだ。
「くだらないが、わざとドッキリにかかれば出演料がもらえるかもな……」
そして、花子と二郎丸の顔を思い浮かべた山田は、ボタンを押した。
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ボタンがあったなら
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さて、金星の話をしよう。
夕方、西の空に見える『宵の明星』を見たことがあるだろうか?
地球からもっとも近い惑星であるこの星——金星は、地獄の惑星とも呼ばれている。
地表の温度は約450℃。
自転周期は243日。
1日で一回転する地球と違い、金星は243日かけて一回転するのである。
つまり、450℃の昼間が100日以上続き、氷点下まで気温が下がる夜が100日以上続く。
地獄の惑星、金星。
しかしこれ、金星側が地球人に仕掛けたうそであった。
それでは実際の金星を見てみよう。
平均気温は20℃。
金星の表面を埋め尽くすように林立するビル。
空中道路と呼ばれる道が、そのビルの間を縫うように伸びる。
都市部の駅前には超大型のホログラフィックが浮かび、企業のCMが流れている。
2017年に一番売れた俳優は、クォシス・ダィカルマ。
一番売れた本は、水星人との触れ合いを描いた『アクエリアスな恋人』。
一番流行ったギャグは、両手を上げて「ボンハーッ」と叫ぶこと。
そして、もっとも大衆から支持された番組が、『ボタンがあったなら ~シーズン8』であった。
ここにひとりの金星人がいる。
名前は、ピニャ・コラーダ。
金星に林立する超高層マンションに住む彼は、政府のとある仕事に関わっている。
そんな彼が、クローゼットの中にしまっておいた黒いコート、そして、マスクとサングラスを久しぶりに出した。
「この格好で行くか……? いや、やめておこう」
今日のプレゼンにはプラズマ生命体であるロォシマ氏がくる。ロォシマ氏は、銀河連邦でもかなりの重要人物だ。
資料の中の黒いコート姿はプレゼンで効果を発揮するインパクトがあるが、普段通りのスーツを取り出した。
「ふぅ、気合いを入れないとな」
今回のプレゼンは、ボーナスの査定に大きく影響するだろう。鏡の中に映ったピニャは、りりしい顔をしていた。
自室を出て玄関へと向かうと、リビングから娘の笑い声が聞こえた。自慢の娘であるピニャ・カプレラだ。
金星人は、地球人とほぼ外見が変わらない。
いちばん分かりやすい例えは、西洋の宗教画に描かれた天使だろう。なぜならば、その姿は地球の視察に来た金星人を目撃して描かれたからだ。
カプレラも、その天使的な姿を持っており、ピニャの自慢の娘だった。
「ピニャ・カプレラ。楽しそうだね」
「ああお父さん。……早く仕事行けば?」
ピニャは深呼吸した。
思春期に入った娘は、いつもこんな態度だった。
日曜日にまで働いている父親に向かって……、その言葉を押さえて、器の大きな父親を演じた。
「おやおやバッドガール、そんな事を言っていいのかな? ……今度のボーナスで、あれを買ってやろうかと思っていたんだが」
「え。まさか、新型ライトサーベル?」
「ああそうさ」
「お父さん、だいすきっ」
ソファで寝転がっていたカプレラは、飛び跳ねるとピニャに抱きつき、頬にキスをした。
ああ、育っているな……、そう思いながら、ピニャは娘を抱きしめた。
「あなた、そろそろ行かなくていいの?」
後ろから聞こえた声に振り返ると、妻がそこに立っていた。
「そうだな。早めに出ることにするよ」
「今日は大切な日なんでしょう? がんばってね。それと、私は水星旅行がいいわ。『アクエリアスな恋人』の土地に行きたいの」
「ははは、困ったマドマァゼルたちだ。期待しておきなさい」
美しい妻と娘に見送られ、玄関から出る。
ピニャの胸は、やる気に満ちていた。
マンションの屋上に来たピニャは、翼を広げ空に飛び出した。空中道路には目に見えない磁気線が引かれていて、エアカーはそこを走る。
生身のまま翼で飛んでいると、自分が危険領域に入ると警告音で知らせてくれる。
しばらく飛び続けていると、空中で一台の車が停まっていた。ブルーの二人用エアカーである。
ピニャはさっと周囲を確認してからその車に乗り込んだ。
「やあ、待たせたかい? ん、むっっ!?」
車内に入ったピニャは、とつぜん押し倒された。口の中に冷たい舌が入ってきて、ピニャの言葉を遮る。
「にゃ、にゃめ、にゃめるんにゃ、」
「黙って。ボス」
「ぶっ、ぷっ、……ぷはっっ!! やめろ、待ってくれ、今は朝だぞ!?」
「あと100日は夜にならないわ。もう待てないの」
「ゼムェラ、いいから落ち着くんだっ」
ピニャが必死で顔を離すと、水星人であるゼムェラの顔が目に入った。青い髪と青い肌をもつゼムェラは、頬を紅く染めていた。
「なにを考えてるんだ。こんな時間に、こんな場所でっ」
「あら。ボスが好きな昼休みのオフィスは、『こんな時間のこんな場所』じゃないとでも?」
「ぐっ……」
痛いところを突かれたピニャは黙る。
すると、ゼムェラの手がピニャの手を掴んだ。
「ボス、さみしかったの……」
「ゼムェラ、言っておくが、君は秘書であり、僕は君のボスだ。わかっているよな」
「もちろん。……昼間のオフィスであんな格好をさせられてる私を見たら、誰だってあなたが私の『ご主人さま』だってわかるわよ」
「ご、ご主人さまはやめなさいっ」
「わかったわ。……ご主人さま」
上目づかいでピニャの手を撫で続けるゼムェラを見て、ピニャはため息を飲み込んだ。
「……ここはもう家からは離れているが、万が一ということだってある。わかるだろ?」
「俺の家庭を壊すなって?」
「二人の関係のためだよ。わかってくれって……」
ゼムェラは、クールで知的な外見と、すらりとした身体をもっていた。そんなゼムェラが自分のオフィスに配属された時、ピニャはすぐに恋に落ちた。
妻とのあいだに愛はあるが、それとこれとは別だったのだ。
そしていざ親密になってみると、ゼムェラは外見とは全く違い、情熱的な女だった。
「……まさか、自分からあんな格好をしてくるとは」
「あら、どうしたの?」
「なんでもない。……ゼムェラ、今日は大切な日だ。君もわかっているよな?」
「ええ。地球の銀河連邦入りを認めさせる日よね。ボス」
「そうだ、その通りだよ。プレゼンまであと二時間もないんだ」
「二時間もあるのよ。ベイビー」
水星人特有の、触るとひんやりとしている肌。
ピニャはそれを触りながら、脳内で電卓を叩いた。
「……30分。オーケー?」
「終わったあとの、髪を撫でながら「愛してるよ子ネコちゃん」を含めて45分。もちろん始まりにも」
「愛してるよ子ネコちゃん」
ピニャはそう言って、ゼムェラの髪を撫でながらシートを倒した。
銀河連邦金星支部。
その前にブルーのエアカーが着いた時は、プレゼンの直前だった。疲れきった顔のピニャが車から降りる。
「結局90分も……」
「ご主人さま、あなたはワイルドだったわ」
「君には負ける。……そろそろ軽口をやめろ」
「ええ、ボス。準備運動は終わりよ」
最上階への直通エレベーターに乗ると、今回のプレゼンに集まった生命体たちと乗り合わせた。
その中の一人、土星人である昆虫型生命体が、ピニャに話しかけた。
「ヤア、ピニャ。コンカイハ、ドンナハナシヲ、キカセテクレルンダ?」
「地球人の善性についてさ。彼らは銀河連邦に入る資格がある」
「ソウネガッテイルヨ」
昆虫型生命体から差し出された手をピニャが見つめる。触ったら手にトゲが刺さりそうだったが、我慢して握手を交わした。
「ぜひ、応援をお願いします」
「モチロン。アーシアンガ、ホントウニ、ゼンリョウナラネ」
エレベーターが最上階に着くと、みなが一つの部屋に向かっていった。プレゼンルームだ。
緊張してピニャの体が硬くなっているのを見て、ゼムェラが優しく肩に手を置いた。
「ゼムェラ?」
「ボス。大丈夫。私がついているから」
「ゼムェラ……!!」
「今回の件が成功したら、私にもボーナスを。それと、二人きりの休暇も」
「……あ、ああ。お、オーケー……」
ここまできたら、やるしかない。
腹を決めたピニャは、その扉を開けて中に入った。
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「……えー、皆さま、私の為に時間を割いてくださり感謝します。今回は、」
《あなたの為ではない。銀河の未来の為だ。余計な話をせずに本題に移るように》
「は、はい。失礼しました。それでは、本題に入ります。……以前から議題にあがっている地球の銀河連邦入りについてです。お手元の資料をご確認ください。地球と、そこに住むアーシアンたちの基本情報がまとめてあります」
広いプレゼンルームのあちこちで資料をめくる音がする。そして、プレゼンを行うピニャの対面にある椅子——そこには、誰も座っていなかった。
しかし、誰の姿もないそこから声が響いた。
《私に資料は必要ない。情報はすでに我らの間では共有されている。なるべく早く議事を進めてほしい》
「は、はい。……みなさま、ロォシマ氏からの意見がありましたので、進めさせていただきます。ゼムェラくん、映像を」
「はい。かしこまりました」
ゼムェラが映像の準備を進める間、ピニャは汗を拭っていた。ロォシマ氏には何回か会ったことがあるが、やはり慣れない。
ピニャの対面にある椅子に座っているはずのロォシマ氏は、人の目には見えない。プラズマ生命体であるからだ。
時おり、椅子の上にちらちらと稲妻が走るように見えるのは、ロォシマ氏が動いているからだという。
肉の体を必要としないロォシマ氏は、ピニャたちよりも一段階上の存在だ。
ロォシマ氏たちには『個人』という概念すらなく、何億ものプラズマ生命体たちが、同じ意識や情報を共有しているのだという。
個にして全。全にして個である。
時と場合によっては、彼らは宇宙の歴史の中で、『神』と呼ばれた。
ピニャが緊張をほぐすために手元の水をあおると、火星人である軟体生命体のつぶやきが聞こえた。
「アーシアンは、いつまで経っても争いをやめないんだな。こんなヤツらが銀河連邦入りできるとは思えないが」
軟体生命体が、触手で資料をめくりながら鼻を鳴らした。
このタコ野郎が……、その言葉を抑えたピニャは、ゼムェラに目配せした。準備が整ったのだ。
「えー、みなさま。今回、私がプレゼンする内容は、『ボタンがあったなら』の地球版です。金星の人気番組ですが、あの番組はご存知でしょうか」
ピニャが火星の軟体生命体を見ると、そいつがにゅっと突き出た口から言葉を出した。
「まあ、いつも視聴してるわけではないが……見たことはあるよ」
「あれは、毎回違う生命体にボタンを渡して、その生命体がどんな反応をするのかを見て楽しむバラエティ番組です。……実験観察番組、と言ってもいいかもしれません」
例えばこんな感じである。
被験者の二人が目覚めると、見知らぬ部屋にいる。
外には出られない。
部屋の中央にはボタンが置かれ、横には張り紙がある。『ボタンを押せるのは一人だけ』。
これだけである。
ボタンを押したら外に出られるとも書いていないし、食料も水もある。なにをしてもいいし、何もしなくてもいい。
それでも、みなが『ボタン』を前にするとキテレツな行動をとるのだ。
ルールは毎回変わり、被験者が一人の時もあれば、百人集められる時もある。
張り紙がある場合もあれば無い場合もあるし、嘘が書いてあることもある。
ピニャの説明が終わると、ロォシマ氏の方から声が聞こえた。
《ピニャ・コラーダ。余計な説明は不要と言ったはずです。我が生命体の間では、シーズン2が最高だという認識です》
「あ。観てるんですね」
意外……。
プレゼンルームの面々がそんな顔をしたが、誰も口には出さなかった。
「そこから着想を得た私は、アーシアンにこれを仕掛けました。……みなさま、こちらの人物をご覧ください」
ピニャの背後の白い壁に、一人の男が映し出された。冴えない男である。
「被験者の名前は、ヤマダ イチロウタ。今から九ヶ月前にボタンを渡し、これからお見せするのはそれからのヤマダを追ったものです」
あの時は春だったが、今はもう冬だ。
九ヵ月かけた甲斐があり、ピニャはこれから見せる映像の内容に、絶対の自信をもっていた。
……必ず、地球を銀河連邦入りさせてみせる。
そして、ボーナスをたんまりもらい、妻と娘から尊敬され、露出が多いメイド服を自分から着るクールな愛人とホットな時間を過ごす。
ピニャが空想にふけっていると、軟体生命体の咳払いが聞こえた。ゆるんだ頬を引き締め、プレゼンを再開する。
「ヤマダは会社から解雇され、途方に暮れていました。そんな彼に与えたルールはこれです。『ボタンを押すと一万円。しかし、押すと世界からなにかが失われる』。……この、失われる『なにか』は教えていません」
「ナルホド。……オモシロイガ、コレニナンノイミガ?」
「それは見てからのお楽しみです」
「アーシアンガ、ゼンリョウナソンザイダト、ワカルノカ?」
「もちろん」
昆虫型生命体が、顎に手をやってから画面を注視した。みながそのようにするのを確認してからピニャは続けた。
「これは、私と彼のファーストコンタクトです。この時ボタンを渡された彼は、いかにもうさんくさそうにしていました。しかし、これからすぐあとに彼はボタンを押しました」
地球の商店街……その中にある焼き鳥屋が画面に映る。その前でボタン押した山田の頭の上に、どこからか一万円が飛んできた。
「これは、私の持つテレポート能力でやりました」
そこに、軟体生命体が口を挟んだ。
「この地球の紙幣はどうやって手に入れた?」
「アーシアンがもつ造幣技術なんて、ネットで調べればわかるレベルですよ。金星の小学生なら作るのに一時間もかかりません」
画面の中の山田は、一万円を見ると、ひどく驚いたあとにうろたえていた。
そして、焼き鳥屋で何も買わずに家に帰った。
「ピニャ。……なんで、彼はなにも買わずに帰った? この食べ物が欲しかったんじゃないのか?」
「よくぞ聞いてくれました!!」
タコ野郎、よくやった!! ピニャはそんな心をおくびにも出さず、こう続けた。
「善良な存在は、えてしてそういうものなのです。彼は怖くなったんですよ」
「怖くなった……? それが、善良となんの関係がある?」
「善良な者は、小心なのです。周りの目を気にして大胆な行動が取れません。……謎の人物から渡されたボタンを押したら、本当に一万円が現れた。ここでそれを使うことをためらうのが、アーシアンが善良である証のひとつです。悪人だったら一万円をどうしますか? ためらうはずがありません」
ほう……とつぶやく声が、プレゼンルームの中に幾つか聞こえた。しかし、またまだ数は少ない。
ピニャは誰かが喋り出す前に、話を先に進めた。
「さて、これから一週間、ヤマダはボタンを押しませんでした。いつもの公園に行き、ずっとボタンを眺めている姿がこちらです」
画面には、ベンチに座り、真剣な表情でボタンを見つめている山田が映っていた。
しかし、次の瞬間、山田はとつぜん動き出した。
いきなりボタンを連打しはじめたのだ。
軟体生命体が言う。
「お、おい。こいつどうしたんだ?」
「吹っ切れたんですよ。さんざん悩んで疲れたんでしょう。とつぜん極端な行動に出るのも善人の特徴です。悪人だったらもっと慎重にことを進めますよ」
上機嫌にピニャが喋っていると、とつぜん太ももをゼムェラにまさぐられた。小声でピニャが言う。
「……なにをしている?」
「極端な行動に出たの。善なる愛人だから」
「いけない子ネコだ……」
ゼムェラの胸の膨らみを見て、ピニャは笑う。しかし、自分がどこに居るのかを思い出した。
「こ、こほん。……画面の中のヤマダですが、彼はこの時30回ボタンを押しました」
「30マンエンカ……」
「さすがに実物の紙幣を使ったのは初めの一回だけです。金は銀行口座に送りました」
「ドウヤッテ?」
「アーシアンが使っている幼稚園レベルのセキュリティなんて意味がありません。トイレで用を足しながら数字を改ざんしましたよ」
「ホホウ」
画面の中の山田は、ボタンを押したあとに金が現れない事に気付き、落胆していた。
それからソワソワとしていたが、急に顔をあげてコンビニエンスストアに走った。
ATMを操作すると、歓喜に包まれた様子で両手をあげた。
火星の軟体生命体が言う。
「おい、こいつはなにをしている? 『ボンハーッ』か?」
「口座の残高が増えていることに気付いたんです。喜んで焼き鳥屋に向かっていきますね」
「自分の銀行口座がえたいの知れない攻撃を受けているのに? ……ボンハー。信じられん」
軟体生命体は呆れた顔で、触手を頭の上にあげた。
「この日、ネギマ五本、スナギモ五本、カワ五本、ツクネ五本、コブクロ五本を買った山田は、家族と楽しく過ごしました。発泡酒も買って帰ったようです」
「なんで発泡酒なんだ? ビールを買えばいい」
「善良だからですよ。ビビってるんです。……ビールには慣れてないから心臓マヒを起こすかも」
ゼムェラがピニャの太ももを触る。
「オウベイビ。カクテルはお預けよ……」「やめなさいって……」小声でゼムェラをたしなめ、ピニャは続けた。
「……さて、ここからのヤマダの行動です。彼は毎朝仕事に行くフリをして、公園ではなく漫画喫茶に向かいました。そこで、滝沢馬琴の南総里見八犬伝や、十返舎一九の東海道中膝栗毛を読み漁りました」
「なんでそんなものを読んでるんだ……」
「名作ですよ。あ、ときどきですが、『小説家になろう』も読んでいたようです」
「なんでそんなものを読んでるんだ……」
「私もそう思います」
ゼムェラが太ももを触る。
「ときどき、面白い小説もあるわよ。ときどきね。……わたしの膵臓を食べてみる?」「やめなさいって……」ピニャが続ける。
「そんな生活を続けたヤマダが、ついに善性を発揮します。……画面、ご注目ください」
みなが身を乗り出して画面を見つめた。
ロォシマ氏が座っている椅子のあたりで、ちらちらと稲妻が走った。
《……彼は、なにをしているのですか? 漫画喫茶のモニタを食い入るように見ていますが》
「ここに載っていたニュースは、他の国で起きた痛ましい事故を伝えています。死者は56名でした」
《それがどうしたのですか?》
「彼——ヤマダ イチロウタは、自分のせいでこの事故が起きたのではないか。そう考えているのです」
ピニャがそう言うと、プレゼンルームは沈黙に包まれた。ピニャは続ける。
「……ヤマダは、ボタンを押しながらずっと考えていました。『このボタンを押すと、世界からなにかが失われる。その、なにかとはなんだ?』……漫画を読んでいるあいだも焼き鳥を食べている時も、常にこの考えが頭にありました」
《ふむ。……それで?》
「自分がボタンを押すたびに、実は誰かが死ぬのではないか。どこかで不幸があるのではないか。……ヤマダはこう考えていたんですよ」
ロォシマ氏のあたりから、声が聞こえた。
《……なんで?》
よく聞いてくれたプラズマ野郎、ピニャはそう思った。自信ありげに口を開く。
「アーシアンの世界にはいくつもの伝承がありますが、こういうルールが多いのです。ポジティブな結果の裏にはネガティヴな代償がある」
《……だから、なんで?》
「そういうものだと信じたいんですよ。努力や犠牲を伴わない結果などなんの意味もない。そう信じたいからそういう教訓を作るんです」
《ボンハーッ!!》
信じられない!! まるでそう言うように、ロォシマ氏の辺りで稲妻が走った。
《石油国に生まれた人間は、実は不幸だと考えているのか!?》
「まあ、そう考えているかはわかりませんが。しかし、自分の元に謎の幸運が舞い降りたなら、他の誰かのところに不幸があるのではないか。そうでなければ、釣り合いが取れないのではないか。……少なくとも、ヤマダはそう考えていたようです」
《『釣り合い』だと……? なんでだ、全く理解できない。……ブルゼガルマくん、計算をお願いしたい》
「ナンノケイサンヲ?」
《銀河連邦市場で材料を買って、『人間』を作ったら幾らかかるのかを》
昆虫型土星人のブルゼガルマは、炭素……脂肪……ナトリウム……などとブツブツ言っていたが、やがて、手元の機械で算出した数字を読み上げた。
「542エンデス」
《……ピニャくん、聞いたかね。542円でアーシアンを作ることができる。なんでヤマダは、542円の生命体が消えたら、釣り合いとして自分に一万円が手に入ると思ったんだ? おかしいじゃないか、釣り合いが取れてない!! ……金星の幼稚園児でもわかることだ》
ピニャは大きく息を吸い込んだ。
相手は——ロォシマ氏は餌を飲み込んだ。
ここで、取っておきのカードを切る。
地球人が銀河連邦入りするにふさわしい善性を持っていると証明するのだ。
そして、ピニャはボーナスをたんまりもらう。
「……地球には、こんな格言があります」
《な、なんだそれは。それが、なんの説明に、》
「生命は、地球よりも重い」
プレゼンルームの誰もが、そんなバカな……と思った。
窓の外には金星の青い空が見えた。
小鳥が美しい声で鳴いていた。
ピニャは続ける。
「彼らは、自分たちを尊いものだと信じたい。生命とは美しいものだと信じたいのです」
《ふざけるなっ!! ……地球よりも重い? あの、暗闇の中で輝き続ける青い宝石が、アーシアンの一匹よりも価値がないだと……!? 》
ロォシマ氏の椅子の上で、バチバチと稲妻が爆ぜた。プレゼンルームの面々は息を呑んだ。
ロォシマ氏が、怒っている。
《人類は、根絶に値する……》
ロォシマ氏の近くに座っていた火星の軟体生命体が、触手を震わせた。
ロォシマ氏は、本気でアーシアンを滅ぼすかもしれない。
しかし、そんな気配を気にせずに、ピニャがひょうひょうと続けた。
「ゼムェラくん、例の資料を」
「かしこまりました」
ゼムェラが次の資料を用意している間、画面にはずっと山田が映っていた。
外国で起きた事故を見て、それが、自分がボタンを押したせいなのではないかと頭を抱えていた。
昆虫型土星人は言う。
「オロカナ……」
そのつぶやきを聞いたほかの面々も、口には出さないもののそう思っていた。
すると、画面は切り替わった。
「地球にはこんな言葉もあります。愛は地球を救う」
《いい加減にしなさいっ!! なんだこの映像は!!》
そこには、どこかの国で起きた戦闘の惨状が映し出されていた。瓦礫の町の中で、老婆が泣いていた。
《愛が地球を救うのなら、こんな事は起きないはずでしょう》
「そんなことは分かっています。彼らは知っている。愛が世界を救わないことを。……だから、それを信じたいのです。人間の生命は地球よりも重く、愛こそが地球を救うと」
《……どういう意味ですか?》
画面の中にはいくつもの映像が、切り替わりながら映し出された。
とある国が映し出された。
空港の前で旅行客が子供たちにまとわりつかれている。カバンを運んでチップを欲しがる子供たちだ。旅行客は子供たちを追い払ったあとに複雑な顔をしていた。子供たちが裸足だったから。
とある国が映し出された。
夜の港で、明かりを消した船の前で行列が作られている。その国から飛び出して、他の国で働くのだ。彼女たちは知っている。自分がどんな仕事をさせられるのか。それでも望んで船に乗った。幼い家族を学校に行かせてやりたいから。
とある国が映し出された。
津波で町が押し流された。
炊き出しは行われる。
一円の得にもならない。
それでも行われる。
とある国が映し出された。
とある国が映し出された。
とある国が映し出された。
そこは漫画喫茶の一室で、外国のニュースを見た男が頭を抱えていた。
ピニャは言う。
「……彼、ヤマダ イチロウタはアーシアンの代表ですよ。自分のせいではない他の世界の不幸を、まるで自分のせいなのではないかと勘違いしている。……しかし、この善良でバカな生命体は、『愚か』でしょうか?」
プレゼンルームは沈黙に包まれた。
ピニャは、ここだ……と思った。
「さて、季節は秋に変わります。ヤマダ家に、その不幸は襲いかかりました。ヤマダの子供のジロウマルが、難病にかかっているのが発見されたのです。ヤマダは嘆き、苦しみました。これも、自分のせいなのではないかと」
「オオ……、ナンテコトダ……!!」
昆虫型土星人のブルゼガルマが涙を拭っていた。緑色の体液だった。ピニャは満足げに笑う。
「さて、この難病の治療費ですが、2000万かかるのです。ちなみに、今までヤマダがボタンで手に入れた額も2000万円です。……どうすると思います? 542円を救うために、2000万円をどうすると思いますゥゥゥ……?」
ゴクリ。
みなが唾を飲み込んだ。
まさか、ヤマダは……、みなが期待していた。
「……ザッッッツライト!! ヤマダは全額を使い、ジロウマルの命を選びました!!」
「ウオオオオオオオオオオオオオッ!!」
ブルゼガルマが叫ぶと、みなが両手を突き上げて喝采をあげた。
——銀河連邦!! 銀河連邦!!
火星人と土星人が抱き合っている。
海王星人と木星人が握手を交わした。
ピニャの隣に立っていた水星人が、ピニャの太ももを触った。
「ボス、ボーナスを忘れないでね」
「たんまりやるよ」
くくく……。
ピニャは顔を隠し、邪悪にほくそ笑んだ。
————————————————
プレゼンルームから出たピニャは、通路に置かれたソファの上でくつろいでいた。ゼムェラが、ピニャに軽いキスをした。
「ボス、どうなるかしらね」
「ハハハ、決まってるだろ? ……今週末は、君と二人で木星旅行だ。あの服を持ってこいよ」
「……わたしはワイルドよ。ベイビー」
二人が審議の結果を待っていると、プレゼンルームの扉が開かれブルゼガルマが顔を出した。
「ピニャ、キタマエ。マスターロォシマノ、ケツロンガデタ」
「ブルゼガルマさん、あなたは地球の銀河連邦入りと却下か、どちらを支持してくれたんです?」
「モチロン、ナカマガフエルコトニ、サンセイダ」
「ぃよしっ!!」
ピニャはガッツポーズをしてからプレゼンルームへと入った。これでたんまりボーナスだ。
部屋に入るとロォシマ氏の椅子の上で稲妻がチラついた。ほかの面々は、腕を組んで、悲痛な顔をしていた。ピニャは思った。……なにかがおかしい。ボーナスを貰える雰囲気ではない。
「えー、みなさん?」
《ピニャくん、それでは銀河連邦としての結論を伝える》
ロォシマ氏の声が硬い。
まさか、却下か……?
ピニャが震えていると、ロォシマ氏が続けた。
《結論から言います。地球の銀河連邦入りを認めましょう》
「やったっ!!」
《しかし、続きがあります。……確かに、アーシアンは一定の善性を示しました。しかし、まだ不安定なのも確かです。百年の観察の後、銀河連邦入りを認めましょう》
「百年ですか……。まあ、そんな時間は宇宙の中ではチリに等しい」
ボーナスの査定は期待通りにはいかないかもしれないが、それでもピニャは結果を出した。増額は間違いない。
ピニャが木星旅行に思いを巡らせていると、ロォシマ氏が続けた。
《君の資料の中には重大な犯罪行為が記録されている。……地球の紙幣を複製しましたね? 銀河連邦法に触れているのではありませんか?》
「え……」
《未開発惑星の経済に介入した。そんなことを許していたら、宇宙は混乱に包まれます》
「た、たったの一枚ですよ!? しかも、別に私的目的ではないっ!!」
《データの上で、2000万円もの額を動かした。無から金が生まれるとでも? 実際に2000万円は使われたんですよ。……地球を混乱させないために、銀河連邦の予算からこっそり補填させてもらいました。そして、その2000万円は、君がながい時間をかけて払うことになります。……残念です》
「んっが……!!」
《もちろんボーナスは与えましょう。喜んでください。あなたの借金が、100万円減りました》
「くっ、クカっ……!?」
《それではまとめます。……有能なピニャ・コラーダのおかげで、我々は地球とそこに住むアーシアンを深く知ることができた。……地球の銀河連邦入りは百年後とし、しばらくは彼らを見守ります》
ピニャ・コラーダは、金星パークのベンチに座っていた。借金は1900万円。
「……帰れない。どうすればいいんだよっ!!」
季節は冬だ。
寒風がピニャの身に刺さる。。
「……新型ライトサーベルを待ってる娘がいるんだ。妻と水星旅行に行かなくちゃいけないんだ!!」
ゼムェラは、どこかへと消えた。
「オウベイビー、永遠のお預けよ」
そう言って消えた。
ピニャは懐から映像装置を取り出すと、それを操作した。画面の中では、幸せそうな山田 一郎太と、その家族が映っていた。
「お前らのせいで……!!」
ピニャは映像装置を叩き壊すと、宇宙の果てに見える青い惑星を見て叫んだ。
「ちっっくしょおおおおお!! アーシアンなんて大嫌いだっっ!!」
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さて。最後に地球の話をしよう。
季節は冬。12月。
山田 一郎太たちが住んでいる街にも聖なる夜は訪れる。
山田は家族と一緒に商店街に来ていた。
「おとうさん、焼き鳥たべたいっ」
「いいよ。買ってやる」
山田は、不甲斐ない自分を恥じていた。
世間のみんなは七面鳥を食べる日だ。
なのに、自分は子供に鶏を食わせるのだ。
すると、その手が妻の花子に握られた。
「あなた、わたしも食べたいわ。買ってくれる?」
「……まったく、一人三本までだぞっ」
妻と子供が、手を叩きながら喜んだ。
山田は、自分のマフラーを外し、妻と子供に巻いてやった。
商店街の電気屋の前を通ると人だかりが出来ていた。山田一家も足を止めて、テレビから流れてくる声を聞いていた。
『……次のニュースです。今日は金星が地球に最接近する日です。西の空を見れば明るく輝く星が見えます』
商店街のスピーカーを経由し、その言葉は拡散された。商店街にいる誰もが、西の空を見た。
『世界中の天体マニアが注目していたこの日がクリスマスと重なりました。今日は、世界中の人たちが、同じ星を見ています』
山田が周りを見渡すと、商店街の人間たちが、みんな空を見ていた。
「ねえおとうさん、肩車っ」
「よしきた」
肩車してやると、二郎丸は目を輝かせて西の空を見ていた。花子が山田の手を握る。
山田 一郎太は考える。
自分は不甲斐なくて、みっともなくて、哀れな男だ。
それでも、なんで自分は生き続けているのだろう?
「なあ花子。ごめんな」
「ううん。ありがとう」
その日、地球の生命体は、同じ星を見ていた。
世界を前に進ませるものはなんだ?
それはきっと、目に見えない、美しいものだよ。