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言霊 (上)     作者: 島津 至
1/1

ー無邪気な殺人者たちー

                 

                  2014・5・6

     

            言 霊 (上)

    

                      ―無邪気な殺人者たち―

          

                                  島津 至 

          

                  第一章 

   

                 一、SOS

         

 花巻市は宮沢賢治のふる里であり、西武の菊池雄星投手、日ハムの二刀流・大谷翔平選手の出身地である。 

 

 朋美は、長いこと爽やかな目覚めを失っている。いっそのこと朝が来なければよいのにと、ため息まじりに睡眠薬に頼る夜がつづいている。生きる希望も死ぬ決断もつかないまま、こうして今日もまた、出口のない迷路のような一日がはじまるのだった。

 朝食の用意をおえて、テーブルに頬杖をつく灰色の視線は、テレビに放たれる。その映像も網膜を刺激することはなく、音声も鼓膜をふるわすことはなかった。彼女がみているのはおぞましい空間である。そこでは四六時中、久保洋子の姿が消えることなく揺れている。夫が被災地でつくった浮気相手である。津波で夫と子供を亡くした洋子の年齢は二十六歳と聞いている。自分とおなじ年代だったらまだしも、どう足掻いても手の届かないその若さが一層、四十三歳の朋美の心を苛むのだ。いずれは子供が出来るだろうと思うと、思わず知らず五月雨のようにシトシトと悔し涙が流れ落ちる。

 夫の浮気を知ったのは去年の秋である。東日本大震災の被災地で汗を流す部下の妻、本田悦子が運んで来たのだった。夫の会社は土木建築資材のリース会社で、重機から軽トラまですべて揃っている。復興には欠かせない職業なので、夫はただちに三陸沿岸の被災地に入り、ひょっこりひょうたん島のモデルになった蓬莱島のある大槌町に決まった。いちど訪ねてみればわかるが、まさにひょうたん島お形である。その根拠は、井上ひさし氏がご母堂とともに隣町の釜石市に住んでいたことでもわかる。

「告げ口みたいで嫌だから、言うべきかどうか、すごく悩んだのよ。だけど、あなたにとって重大なことだから決心したの。ゆるせないわよね、隆嗣さんがあなたを裏切るなんて」

 と語るその顔には、いつもの諂いのくだけた表情はなかった。

 夫の浮気など露ほども考えたこともなかったから、いつもの嫌がらせだろうと、はじめは歯牙にもかけぬ表情で聞き流していた朋美だったが、相手の名前と年齢、勤務先の店名まで聞かされて、朋美の胸は波立った。

「わたしだって、まさか隆嗣さんに限ってと思ったわ。でもさ、男の浮気願望は本能のようなものだっていうじゃない。トモちゃんが信じられない気持ちもわかるけど、こういうことは早いうちに手を打たないとだめよ。ここよ」

 と悦子は、ケータイを開くや朋美の顔面に押し付けるように見せたそれは、久保洋子が勤める仮設のスーパーだった。わたしだったら飛んでって張り倒してやるわと、帰り際に浮かべた嘲笑の笑みが、稲光のように朋美のまなうらに焼き付いた。

 悦子が帰った後、一瞬硬直状態になったが、次には膨れ上がる疑念で眼が血走り手がうごいた。手当たり次第夫の持ち物や机の引き出しを掻き回した。だが、浮気を裏付けるような物証は一つとして出て来なかった。見つかりはしなかったが、振り返ってみれば悦子の言葉を裏付けるものばかりなのに、気づいた。眼には見えないそれらの確証は怒りと嫉妬で圧縮され、その日ちょうど土曜日で帰って来た夫に向かって、

「あなた、久保洋子ってだれですか! 知らないとは言わせないわ」

 まだ居間にも入らないうちに、爆発した。

「・・・!」

 隆嗣は、顔をこわばらせてのけ反った。

「隠したってだめよ! みんな聞いたわ。スーパーのレジ係だってね!」

 朋美は畳みかけた。

「だれに何を聞いたか知らないが、いつも行くスーパーの店員じゃないか。それがどうした」

 夫の動揺は一瞬で、バカバカしいと吐き捨てながら居間に入った。

―こんなはずではなかった・・・!―

 名前を出しただけですべてを認めて謝ると思っていたのが、平然とシラを切る態度にいっそう逆上してしまった。背中に向かって何を言ったのか覚えていないほど、喚き散らした。悔しい! と朋美は叫んだ。悔しいから怒りを抑えられないのだが、そこにはもう一つ、悦子の存在がつよく作用していた。

 もともと朋美は、気性の激しい性質ではなかった。どちらかといえばのんびりタイプで、この怒りは結婚して以来はじめてみせる激昂だった。もし浮気を教えてくれたのがほかの誰かだったら、じっと堪えて見守っていたかも知れない。それが嫌われ者の悦子だったから、生れてはじめて血の逆流となった。隣の不幸は鶴の味、それが悦子である。A子と話したことをB子に言い、B子が喋ったことを粉飾してA子に伝える。こうして年中、言葉巧みにわなを仕掛けては、その争いを生きがいにしている女性だった。まわりの者たちはそのような悦子を領地を持たない独裁者と陰口をたたきながら、しかし、面と向かって意見のできる者は一人もいなかった。始末のわるいおばさんなのだ。

 朋美たちの騒動も、既に団地の隅々まで知れわたっているだろう。きっと悦子は、いまごろお赤飯を炊いて祝っているに違いないと思うと、悶絶しかねないほどの血が逆流するのだった。

 夫は元来、服装には無頓着だった。下着もだまっていると何日でも平気で着ているタイプだった。それが去年の夏ごろからこまめに着替えをして、

『俺の体臭はどんな臭いだ』

 と訊かれたことを思いだした。

『どんなって訊かれても、いつものあなたの臭いよ』

『そのいつもの臭いってどんなにおいだ。臭いというものは自分では分からないからな』

『加齢臭にはまだ早いでしょ。一体どうしたのよ』

 夫の臭いなんて気にしたこともなかった。

 が、この時、強烈な臭いの記憶が蘇えった。朋美は犬もネコも嫌いではないが、ペットを飼った経験がないのは、縁がなかっただけのことである。だから夫か和也のどっちかが欲しいと言っても、反対する理由はなかった。五年ほど前になる。仙台に住む姉夫婦が犬を連れてやって来た。その犬が玄関に入っただけで強烈な臭いが充満した。外国種なので犬種の名は忘れたが、かなりな大型犬だった。姉たちが帰った後も、しばらくは、犬の体臭が漂っているほどだった。しかし、姉たちには少しも苦にならないばまりか、家の中で放し飼いだという。つまり体臭というものは、相手が好きなら苦にならないばかりか、そもそも感じないものらしい。

『だって俺たちはもう四十を過ぎてる。早いってことはないだろ』

『どうしたのよ。少し変よ』

 朋美は、犬のことを思い出しながら、夫婦間のにおいもおなじことではないか、相手のにおいが気になるのは冷えきった愛情の証明ではないかと、そのようなことまで考えたものだった。

『被災地には全国からいろんな人々が集まって来る。政治家も来る。

役所のお偉方とも会わなければならない』

 そのようなことを聞かされて、そのときは所長としての立場上たいへんな気苦労をしているのだと、心から同情して労った。ときおり漂うほのかな化粧水の匂いも、人並みのおしゃれに芽生えてくれた夫の変化に喜んでいた。それまでは、ともすると油の臭いを漂わせている夫だったが、いま思えば情事を手伝っていたような自分の間抜けぶりに腹が立つ。しかも帰り際にみせた悦子の嘲笑を思いだすたびに、怒涛のような怒りが噴き上げてくるのだ。夫の変化はそればかりではなかった。帰って来ると居間のテーブルに無造作に放り出すケータイも、いつの間にか消えていた。時々、風呂場でひそひそ話していることもあった。緊急の連絡が入っているものとばかり思っていたが、悦子の話と符合するものばかりだ。悦子にスーパーの映像をこれみよがしに見せられたが、彼女の映像も入っていることは間違いない。

「いい加減にしないか! 誰からそんなほら話を吹き込まれた」

 夫は、居間のソファーに座りながら怒鳴った。

「嘘だというのですか」

「きまってるだろ」

 ビールを出せと怒鳴った。

「写真も見たわ」

「ばかばかしい」

 隆嗣は苛立ちも露わに立ち上がり、自分でビールを運んで来た。

「身の潔白を証明したいのなら、あなたのケータイみせてよ」

「そこまで俺が信用できないのか!」

 高をくくっていた夫は、はじめて本物の怒りを露わにした。いまにも殴りかかってくるような権幕である。高校時代はラグビーをしていて、その体形は根っからの体育会系である。いちども暴力をふるったことはないが、殴られたら華奢な朋美など砕けてしまうだろう。

「信用も何も、あなたのケータイみればわかることよ」

「誰がそんなことを言った」

「悦子さんよ」

 朋美は叫んだ。

「あの悦子か・・・」

 夫は一瞬怯んだが、あの嘘つきがと吐き捨てただけだった。

 結局、夫は否定を貫きながら、浮気を裏付けるように、土曜日ごとの帰宅が不規則になった。そしていまはもう、帰って来ても必要最小限の言葉だけになっている。日が経つにつれて深くなる溝がどうなるかは、朋美の決断しだいだった。


 身だしなみをわすれた朋美の顔に、陰鬱な翳がはりついた。冬の砂漠のように冷たく乾いた肌が、寒々とふるえている。物憂い仕草でコーヒーを啜りながら、光沢のない眼が天井に流れる。

―どうしたのかしら・・・―

 朋美は、テレビの時刻表示を確かめながら、階段を上がった。二階は六畳と八畳で、和也は六畳間を使っている。起きて来る時刻なのに、物音ひとつなかった。

 ドアを開けたが、ベッドの和也にうごきはなかった。

「どうしたの、学校遅れるわよ」

 身体を揺すると、ほんとうに眠っていたらしく半覚醒の眼をして、

「おなかが痛いので休む」

 と言った。

 いつからかと訊くと、夜中と言う。

「どうしてもっと早く言わなかったの。どんなふうに痛いの」

 と訊いても要領を得ず、かなり良くなったから心配ねえと、寝返りを打って背を向けた。

 小さいころから手がかからず、それが自慢の素直な子だった。それが最近、ぞんざいな口を利くばかりか些細なことで反発するようになっている。それも反抗期のせいだろうと、深く考えることもなかった。

 ノロウイルスが騒がれているので病院へ行くようすすめたが、布団をかぶって何も言わず、おかゆと梅干を運んで様子を見た。食中毒なら同じ物を食べた母親も腹痛を起こすはずだが、朋美には下痢の兆候も吐き気の気配もなかった。同じものを食べて一人だけ腹痛を起こしたら何かおかしいと感じてとうぜんなのに、朋美は病気ならしかたないと、学校へ電話連絡しただけで、その脳裡はたちまち洋子で埋め尽くされてしまった。

 味気ない朝食を食べ、掃除洗濯を済ませた。それからしようことなしに草むしりや花壇の手入れの真似をする。車でわざと遠くまで買い物に出かけることもある。時には喫茶店に入ってぼんやりと時を刻んだりもする。だが、何処へ行っても何をしていても、心の休まることはなかった。朋美は自分から積極的に友人をつくるタイプではなかった。それでもだれかれなく茶を飲みにやって来たし、朋美も茶を飲みに出かけていた。しかし、悦子に夫の浮気を団地じゅうにばらまかれて以来、訪れる客は激減した。唯一の気晴らしは、親友の結衣と電話で話している時だけだったが、遠野に移り住んでいるので滅多に会えず、いつも電話だった。もし結衣がいなかったらと思うくらい、いまはもう、結衣は朋美にとって絶対的な存在になっている。もちろん、夫のことはすべて打ち明けている。

 和也は、夕食時には腹痛騒ぎは何だったのかと思うほどの食欲をみせた。

「ほんとうにだいじょうぶなのね」

 と訊くと、いつものように、ああ、と答えただけだった。好物のハンバーグを食べるその姿を、朋美は、見るでもなしにみている。夫と同様、和也との会話も乏しいものになっている。これも反抗期なのだからしかたないと思いながら、向き合っているだけで鬱陶しくなるのが本音だった。できることならすべてを放棄して、

―暗い穴倉でじっとしていたい!―

 と、甚だ不安定な精神状態がつづいている。

 翌朝は、頭が痛いと言ってまた休んだ。三日目は冴えない顔色で登校してほっとしていると、病気の具合はどうかと担任から電話が来た。その和也は、どこで何をしていたのか夕方帰って来た。

「ねえ和也、何があったのか教えてくれない。先生から電話があったわよ」

 成績は親としては物足りないが、ズル休みをするほど学校嫌いではなかった。よほどのことがあったから休んだのだと、それぐらいの判断力はまだ健在だった。だから決して怒るまいと誓っていたが、何を問い質しても黙々とパンケーキを食べるだけで真面にはこたえてくれず、朋美が苛々したとたん、

「うるさせぇ!」

 とパンケーキを投げ捨て、朋美を睨みつけて二階へ駆け上がった。

 身体が砕けてしまうほどの衝撃が、つきぬけた。反抗期に入ってからしばしば衝突をくり返してきたが、いずれも単純な怒りにすぎなかった。だが、いま見せた和也の怒りはこれまでとはまったく異質で、身体じゅうが爆発してしまったような怒りだった。朋美は、その烈しい眼の奥の、かつてない憎悪に叩きのめされてしまった。

 夕食にも下りてこなかった。何があったか分からないが、和也の怒りがおさまるまで様子をみるしかないだろうと、テーブルに食事の用意をして寝室にこもった。

 予想どおり八時ごろ下りてきて食事を済ませ、また上がっていった。

―反抗期って、みなこうかしら・・・―

 食器を洗いながら、和也の気配を追っている。しかし、二階はしんしんと降る雪のような静寂である。以前のように、ねえ母さん今日学校でね、と何でも話してくれることはなくなった。いつから無口になったのかと考えてみても、わからない。子というものは気づかないうちに、こうして親離れしてゆくのだろうか。これが成長の証でもあるのだと自分を慰めるが、寂寞とした孤独感が込み上げてくる。夫に見捨てられ、いままた子供にも見放なされそうな寂しさは、どうしようもなかった。

 だが、反抗期と思っていた和也は、母親の想像もつかないより深刻な渦中で、独りもがいていたのだった。

 翌朝、食欲もないままコーヒーを啜る朋美の視線は、庭に放たれている。丹精込めて作った花壇も、六月の爽やかな陽光を浴びながら色褪せてしまった。これが日常を失った現実であろうと、朋美の混濁する脳裡に被災地が浮かぶ。

 被災地の惨状は夫からも聞いているし、彼女自身結衣と二人、夫には内密で三度も入っている。浮気相手の久保洋子が目的だったが、被災地に入った途端、朋美は立ち竦んでしまった。爆撃を受けたように広がる錆色の市街地と異臭は、夫からも聞いてはいたが、到底映像や活字で伝えきれるものではなかった。三度訪れて、家や街だけではなくて思い出さえもこわれたと悲嘆にくれる被災者たちの、涙も痛みもよくよく理解したつもりだった。

 だが、いまこうして自分自身が家庭崩壊を前にして、自分の理解など薄っぺらな同情心にすぎなかったことを知った。希望も勇気も砕かれた被災者たちにとって唯一の癒しは、泣くことだけだろうといまにしてわかる。泣くことでしか癒されない心の深い傷は、不安に怯えながら暗い穴倉でじっとしていたいとねがう朋美の苦痛と通じるものがあり、被災者たちのほんとうの苦しみをおぼろげながら、いまやっと想像できる朋美だった。

 朋美は、時刻を確認しながら立ち上がった。いつになく力を込めて階段を上がった。この足音が聞こえるはずだと思いながら、脳裡に突き刺さっている和也のあの烈しい眼を払い除ける。あのような冷たい眼を見るのは初めてだったから、思いだすだけで身体が震えるのだ。それは暴力的な恐怖よりも、母と子の断絶である。一瞬の間に稲妻のような速さで離れて行った怖さである。何の問題もなく順調に成長して来たと信じていただけに尚更、手の届かない絶望的な距離を感じるのである。

―和也・・・―

 と呼んだつもりだったが、声が出なかった。深呼吸をしてもういちど呼ぶ。

「和也・・・」

 三度呼んでノブを握るが、ドアはうごかなかった。鍵を掛けたことなどなかったから、朋美は二三度ゆすってみたが、やはりびくともしなかった。うごかないノブから、和也の並々ならぬ意思が伝わってくる。

 ため息まじりにテーブルに戻り、またなす術もなく裏庭に眼をやった。昨夜の小雨で庭の緑は輝いているが、脳裡では認めたくない想念が渦巻く。昨夜も一晩中、和也のことばかり考えていた。

―思い過ごしかも知れない―

 と朋美は、その忌まわしい思いを払い除ける。

 ちょっとしたトラブルで、どう対処していいか分からずに途惑っているだけかもしれないのだ。学生時代の朋美にも、そのような経験は何度もあった。振り返ってみてもいまもその原因はわからないが、些細なことで傷つき、何かのはずみで衝突してしまう。青春は棘だらけと歌っていたが、棘が鋭ければ鋭いほど、繊細で多感な証と言えるのかもしれない。

 和也が何も言ってくれないのだから、どうしようもなかった。しばらく様子を見ようと思っていたが、和也の怒りは鎮まるどころかしだいに激しい口調になってゆくばかりで、食事も朋美の隙を狙って下りてきて、ノラネコのようにガバガバと掻き込むようにして食べている。庭に出ている時、風呂に入っている時、あるいは買い物に出ている時である。たまに眼が合って声を掛けても、最初は無言で二階に駆け上がっていたが、ほっといてくれ、うるさいと怒鳴るようになった。そして月曜日にはじまった異変は、あっという間に土曜日を迎えてしまった。つづけて五日間も休むなんて、初めての出来事である。

 担任には体調不良にして、今日まで不安を堪えて様子を見てきたが、もはや限界だった。友達とのちょっとしたもめ事ぐらいでこんなに休むはずはない。それが何かはわからないが、深刻な状況であることだけは間違いない。ではどうするか、何をすべきかと考えても、具体的なものは何一つ浮かばず、途惑いだけが朋美の胸をふるわす。

 これまでの子育てには問題はなかった、と思う。自分ひとりで育ててきた、という自負さえ抱いていた。夫もそれを認めていて、朋美の教育には口出ししなかった。口を出す必要がないほど、和也の成長は順調だった。だが今回ばかりは、自分の非力を痛感する朋美である。病気ならまだしも、このようなことは初めてだから、どう対処していいかまるでわからないのだ。和也が再起不能に堕ちるまえに夫の力をかりなければならない。夫なら頑なに閉ざした和也の心を開けられるかも知れない。

―でも・・・―

 朋美は、ケータイを握りしめて躊躇った。強い抵抗感が指先をふるわす。できることなら、自分ひとりで解決したかった。問題はなんであれ、夫にぬかずくような真似だけはしたくなかった。だが結局、屈辱感を呑み込みながら、

   ー和也が学校を休んで一週間、帰って下さいー

 と、電報まがいのメールになった。


              二 、いじめ・・・?


 夫の帰宅も二週間に一度、あるいは三週間に一度になっている。帰って来ても夫婦の会話らしい会話もないのだから、何のために帰って来るのかと、朋美は夫の真意を測りかねている状態だった。洗濯物も被災地にコインランドリーが復活したので必要なくなったと、訊きもしないのに独り言のように言った。復活したのは事実としても、じっさいは洋子が洗っているのかもしれない。せっせと夫の下着を洗う姿を想像するたびに、朋美自身の下着を洗われているような恥辱感に襲われる。その屈辱感は、夫婦の絆はまだ完全には切れていないということだろうか・・・と思ったりもする。そして最近になって、これといって用もない夫の帰宅は、懐にしのばせた離婚届にちがいないと気づいた。今度こそ決着をつけようと帰って来るが、出しそびれて戻ってゆく。だから間違いなく、朋美の決断しだいなのである。

 しかし、夫だって子供のこととなればまた別問題なはずだと、ひとり昼食をとりながらメールの返事を待った。午後の買い物に出ても、どうしようもないほどケータイが気になった。しかしケータイは鳴らなかった。もし返事がない場合、それはそれで夫の覚悟の返事ということにもなる。その時は朋美も覚悟を決めなければならい。今日まで朋美は離婚の危機にふるえながら、離婚は避けられないと半ば覚悟してきた。離婚を覚悟しながら、しかし、その先のことを考えたことは、いちどもなかった。いかにも朋美らしい一面である。

 諦めかけていた五時過ぎ、夫のグレーの車が現れた。帰るにしてもいつもは八時頃だから、やはり子供のことは気になるらしい。眼が合うなり、

「和也がどうした、病気か・・・?」

 と、不機嫌もあらわな語気を発した。

「そういうことじゃないんです」

 朋美はビールを運んだが、

「病気ではないのか」

「学校を休んでいるだけです」

「何だ、それは・・・。わかるように言え」

 今度は、はっきりと怒気がこもった。

 朋美は、これまでの一週間を話した。

「どこも悪くないのに一週間もサボっているのは、いまはやりのいじめじゃないか」

「私もそう思っているんだけど、和也は一言もいってくれないので、どうしようもないんです」

「担任は何と言ってる」

「学校には、病気ということにしています」

 とたんに隆嗣は、

「馬鹿かおまえは!」

 と、怒鳴った。「一週間もただボケーッとしてたのか。それが母親のすることか? いますぐ担任に電話しろ。俺が話す」

「それはやめて下さい。おおごとにはしたくない」

「じゃあ、おまえひとりで出来るのか」

「だからあなたに相談してるじゃないですか。そんなに怒鳴らないで下さい。和也に聞こえるわ」

「じゃあ、訊こう。なぜ学校へ相談したくないのだ」

「まだいじめと決まったわけではないし、いじめだとしても、学校へ知れたら団地じゅうにも広まるのよ」

「それがどうしていけないんだ。いじめだとしても、和也は犯罪者とは違う。被害者だ。大っぴらになったところで、恥ずかしいことはないだろ」

「あなたは身勝手よ」

「身勝手だと! 急ぎの仕事を残して帰って来たのに、その言い草はなんだ」

 ビールも飲まず、煙草ばかり吹かしている隆嗣は、はやくも爆発しかねない形相である。

「あなたはケンカしに来たんじゃないでしょ。和也が心配だから飛んで来たのでしょ。何があったのか、はやく和也と話して下さい」

 朋美は立ち上がり、夫を促した。

「おまえはいい」

 隆嗣は、一緒に行こうとする朋美を制して階段を上がった。ラグビーで鍛えたその後ろ姿は、いざ決戦へ向かう闘牛の猛々しさを感じる。そう思いながら朋美は、不安げな面持ちで見上げる。

「和也、父さんだ。開けてくれ」

 父親の威厳というべきだろう、三度目でドアは開いた。

 子供部屋に入るのは何年ぶりだろうと、父親は部屋を見回す。足の踏み場もないほど散らかっているだろうと思っていたが、たしかに乱れてはいるが、言葉を絶するほどではなかった。

 和也と会うのは二か月ぶりぐらいである。身長がまた少し伸びている。震災後はたまにしか会えないが、それだけ一層、子供の変化がわかる。顔色もわるくないが、子供らしい覇気のなさが際立っている。やはりただのサボりではなさそうだと、父親は感じた。

「どうした和也、今日はおまえと話をするために帰って来た。一週間も学校を休んでいるそうじゃないか。何があったか話してくれないか」

 父は、語りかけながらベッドに腰掛けた。

「・・・」

 机の椅子に掛けた子供の口は、開かなかった。俯いて床に視線を落としている。いままで動かしていたらしい机上のパソコンは、開いたままだ。

「いじめじゃないのか」

 ストレートにぶつけたが、子供は否定も肯定もせず、俯いて無言をつづける。

「いじめだろ」

「・・・」

 何度訊いても、子供の口は閉じたままだった。

「おまえはそうまで優柔不断な男だったのか」

 はやくも苛立つ父は、昂ぶる感情を抑えながら腕組みをした。タバコを取り出した。だが灰皿がない。煙草が吸えないことで一層、優柔不断な息子の態度に腹が立ってきた。こんな煮え切らない男に育てたつもりはなかったと、激情が滾る。

「和也、いじめに立ち向かえ。逃げずに男らしく戦え。いじめがなんだ。いじめる奴らも卑怯だが、立ち向おうともせずに、一日じゅう閉じこもってめそめそ泣いているおまえはもっと卑怯だ。恥ずかしくないのか。男というものは、一生戦いつづけねばならない宿命を背負っている。弱虫は早晩死ぬしかない。明日から町の空手道場に入って鍛えろ」

「何もわかってないのに、何を偉そうに。卑怯なのは父さんのほうだろ」

 卑怯という侮辱がよほどこたえたらしく、子供は口元を歪めながら言った。

「おまえにも口があったか。だが、何だその口の利き方は。それが親にたいする言葉遣いか」

 父は心底おどろいた。これまでの和也のイメージは、純真無垢そのものだった。素直で、いちども問題を起こしたこともなかっただけに、いきなり雷に打たれたような衝撃をうけた。それにどういうことだろう。

「俺が卑怯とはどういうことだ」

 訊くが、またしても子供の口は貝になってしまった。俯いたその顔に、これまでにない挑戦的な不敵な翳が浮いている。やはり和也は変わった。これが男の成長というものかと、父は自分の子供の頃を手繰り寄せたが、おぼろだった。

「おまえは、父さんを卑怯者と呼べるほど、自分は正しい人間だと思っているのか」

「もういいよ、ほっといてくれよ!」

「これだけ心配かけながら、ほっといてくれとはどういうことだ。おまえは自分の力だけで生きているとでも思っているのか。甘ったれもいい加減にしろ」

 子の豹変は男の真面な成長なら喜ぶべきだが、歪んだ成長なら見過ごすわけにはいかない。いま甘い顔をしたら父と子の力関係は崩れる。いちど崩れた動物的な力関係はほとんどもとには戻らないということを、父親は知っている。いざとなったら殴り倒してでも服従させようと、父親は覚悟して身構えた。

「母さんがどれだけ心配しているか、おまえにはわかってないようだな。あんなに痩せた母さんの姿が、おまえには見えないのか。いつからめくらになった。いつからつんぼになった。卑怯な弱虫ほど、誰かのせいにして逃げる。そんな男は、真面な男になれはしない」

「よく言うよ。母さんを苦しめ、泣かせているのは父さんじゃないか」

「どういうことだ・・・!」

 父親は、いきなり胸ぐらを掴まれたようにギクリとした。

「ボクは、みんな知ってる」

 和也の眼に、きらりと光るものがあった。

「だから、それが何だというのだ」

 隆嗣の胸に不安が波打った。

「浮気だよ! 母さんは毎日泣いている。それでも自分は平気かよ。平気で説教できるほどりっぱな人間かよ」

 和也の眼に、こんどははっきりと涙がうかんだ。和也としても、ここまで言うつもりはなかったようだ。

「そんな噂話、信じているのか。そんなことに振り回されているから、いじめられるのだ。おまえの仕事は勉強して体を鍛えて、いじめなど吹き飛ばすことだ」

 和也が何処で聞いたのか、隆嗣にはすぐわかった。あのおしゃべり悦子である。団地じゅうに言いふらしているそうだから、団地の友達からでも聞いたのだろう。

「もういいから、ほっといてくれよ」

 息子は、もううんざりした様子で背を向けた。

「・・・」

 強烈なカウンターパンチを受けて、父親は言葉もなく立ち上がった。

 居間では朋美が、硬い表情で座っていた。

「おまえの教育がわるい!」

 隆嗣の、やり場のない怒りが爆発した。

「私だけの責任じゃないでしょ」

「俺に責任を押し付けるつもりか」

「同じ親でしょ」

「あんなろくでなしなど、俺は知るか」

「和也は何と言ってるのですか。どんな話をしたんですか」

「話にならん! 担任に全てを話して相談するんだ」

「そんなことをしたら、また団地じゅうに知れ渡るわ」

「それがどうした。世間体と子供の将来とどっちが大事か、わからないのか」

「よく言うわよ。これまでもどんな恥ずかしい思いをして来たか、あなたにはわからないのですか」

「またその話か。もう聞きたくもない。すべては俺を信じようとしないおまえが悪い。俺は仕事でいっぱいなんだ」

 言うなり、隆嗣は、帰ってしまった。まさに家庭放棄の勢いだった。

―もう、おわりだ・・・―

 朋美は、思わずテーブルに突っ伏した。

 夫はいちども浮気を認めたことはない。そのことになると、俺が信じられないのかと怒鳴るだけである。そこのところが甚だ微妙なのだが、非常時の恋は必ず破綻すると言った親友の言葉が今日まで朋美を引っ張って来た。でも、もう終わりだと朋美は確信した。

 その夜、朋美は、親友の結衣に電話した。今日まで和也のことは内緒にしてきたが、相談する相手はいなかった。学校に相談するにしても、その前に結衣の意見を聞きたかった。結衣は朋美と違って行動力があり、世間一般の知識は朋美など遠く及ばないほど豊かだった。

 高校時代の結衣については、記憶に残るような思い出はない。同じクラスになったこともあるのに、話した記憶はない。静かな存在だったのだろう。親友のきっかけは、去年一月の同窓会だった。大震災後まだ十か月しか経っていなかったので、ひとしきり震災の話ばかりだった。そんな中、遠野から釜石に入って支援活動をしている結衣と、被災地の大槌町に入っている夫の話が重なって、話が繋がった。だが、次の一言がなかったなら、親友にまで発展はしなかっただろう。

『ねえ、あなたご主人から聞いていない。被災地の恋ってけっこう話題になっているのよ。ある男性から聞いたことだけど、被災地の女性、とくに家族を亡くした女性の眼って縋りつくような眼が多いんだって。心の痛みと不安の表れであり、心の痛切な叫び声なんだろうと、その男性は言ってた』

『あなたも見たの、そういう女性』

『ううん。見たことない。女性同士では見えないのかもしれない。男性だってだれでも気づくというものではないと思うし、つまり、同じ心に傷を持つ者同士でないと分からないのだと思う。ボランティアでも痛みを共有できる者だけがその眼に、痛みに同情するんじゃないかしら』

『はじめて聞く話だわ・・・』

 朋美は、夫もその一人かと考えた。

 おしゃれには無頓着で、生きがいも趣味も仕事一筋の夫だった。はじめて被災地に入り、十日ほどして帰って来た時、夫の顔には悲愴感が浮き上がっていて、地獄だ、とつぶやいた。私も見に行きたいわと、朋美はその時、軽い気持ちで言ったのだった。が、何しに行くのだと、夫の表情が固まった。物見遊山のような軽薄な気持ちで行くところじゃない。苦しみもがいている被災者たちに失礼だと、夫は怒った。その時は疲労で苛立っているぐらいにしか思っていなかったが、結衣の話を聞いて思いは変わった。被災地に立った夫の心は、想像を絶する惨状に打ちのめされてしまったのだろう。そこから女性への同情が湧き上がり、深みへと嵌ってしまった。若くて美しい女性にひとめぼれということは、浮気に縁のなかった夫には考えられない。しかし、同情がきっかけだとしたら考えられる。結衣の話がほんとうなら、たぶん、そういうことだろう。かなり短気な性分だが、それでも人並みの優しさはそなえている、と朋美は思っている。

 朋美はためらいの後、夫のことを話した。話したことで、二人の仲は一気に深まった。そして結衣は言ったのだ。

『でもあなた、非常時の恋はこわれやすいと言うわよ。だからがむしゃらに問い詰めたり怒ったりしないでじっくりと時を待つことよ。大丈夫、きっと帰って来る』

 と、朋美の肩を包みこんだ。

 だが、この時すでに朋美は修復不可能なほど烈しくやり合った後だった。それでも、もし彼女の励ましと助言がなかったなら、家庭はとっくに崩壊していたにちがいない。


「どうしてもっと早く言ってくれなかったの。トモらしいわね」

 和也の成り行きと、今日の夫のことを話し終えた後の、結衣の言葉である。トモらしいというのは、朋美の優柔不断を批判しているのだ。花巻の実家にも用事があるので、明日ゆくと電話は切れた。

 翌日、十時近く、結衣のホワイトブルーのセダンが現れた。いつものジーパン姿で朋美の顔を見るなり、

「あなた、ちゃんと食べて、ちゃんと寝てるの。何よその顔」

 心配そうに朋美の肩を抱くように両手をおいた。これが結衣の癖である。百五十三センチの朋美にたいして、結衣の身長は百六十六センチある。それだけでも上から目線なのに、肩に両手を置かれて心底、見下されている感じがして最初は不愉快だった。だが、結衣の性格を知るにつれて、違和感はなくなった。これが結衣の愛情表現なのだ。結衣流のハグである。

「和也君、二階にいるんでしょ」

 結衣はチラリと二階の窓へ視線を走らせ、「外で話さない。何か美味しい物たべながら。私もおなかすいた」

 二人は喫茶店に入ってケーキとフルーツパフェを注文した。

 最近、朋美がよく入る店だった。白い壁の落ち着いた空間に、包み込むように流れるクラシック音楽が癒してくれる。いるのかいないのか分からないような、老マスターがつくりあげた世界だった。だから朋美のような女性でも、臆することなく入れるのだった。

「最初から、詳しく聞かせてくれない」

 結衣はケーキを頬張りながら、朋美の話に耳を傾ける。

 遠野から花巻までおよそ一時間かかる。結衣でそうなのだから、朋美の運転ならプラス三十分は必要だろう。何か軽い食事がほしくなって当然である。

「それで、トモはこの一週間なにもしなかったわけ?」

 聞き終えて、結衣は、夫と同じ質問をした。

「しなかったんじゃなくて、何も出来なかった。最初は病気だと思ってたのに、そのうち豹変してほっといてくれとか、うるせえとか、凄い眼をして怒鳴るようになって、夫を呼んだの」

「いじめは間違いないと思う。で、隆嗣さんは和也君と話したんでしょ。和也君は何と言ったの」

「二人だけで話すと言うので、私は居間で夫の怒鳴る声を聞いていただけで、どんな内容かぜんぜん分からない。そして下りて来るなり、おまえの教育が悪い、担任に相談しろと怒鳴って出て行った」

「それきり連絡ないの?」

「うん・・・」

「最悪ね・・・」

 結衣は深刻な面持ちでコーヒーをすすり、そして言った。「トモはいじめの怖さを知ってるの? いじめで何人もの生徒が自殺に追い込まれ、数えきれないほどの生徒が人生の落伍者になり、いまも多くの生徒が苦しんでいるのよ」

「それぐらい知ってるわよ」

 まるで子ども扱いじゃない、と朋美はカチンときたが、

「だってあなた、いじめかも知れないと思いながら担任に相談もしないなんて、ふつうの母親じゃ考えられない。それにいじめられてすぐ不登校になるなんてまずないのよ。長いこといじめに耐えて耐えて、心がボロボロになって学校へいけなくなる。子供はその間、親に向かっていろいろなサインを発している。トモは何か気づかなかった」

「サインって、例えばどんな・・・?」

「それまでにない子供の変化といえば分かりやすいわね。きゅうに表情が暗くなったとか、無口になったとか、あるいは怪我をして帰って来る、服が破れているとか、そういうことなかった」

「たしかに無口になって、あまり話さなくなったけど、でもそれって反抗期だからじゃないの」

「それ、いつから」

「中学生になってから気づいたけど、正確なことはわからない」

「もしかしたら、既に小学校時代から始まってたかもしれないわね」

「そんな前から・・・」

 朋美は、あり得ないと言った。

「ふつうの母親なら、意識しなくても常に子供の心模様が見えているものよ。なのに、あなた何も見てない。見ようともしない。だからいままで気づかなかった。きっと和也君の心はズタズタよ。子供たちは、ボロボロになるまで必死に耐えるものなの」

「・・・」

 朋美は、母親失格を宣告されて、ことばを失った。その友の憔悴の様子に、結衣はハッと気づいたらしかった。

「ごめん、トモ・・・」

 結衣は椅子から立ち上がり、朋美の背後から肩を抱いた。

「いいのよ。どうせ私は最低な母親よ」

 朋美は泣き崩れそうな声で言いながら、心底、結衣の言う通りだと思った。

「ちがうわ。私の言いすぎよ。間違ってた」

「まちがってなんかいないわ。どうせ私はダメな母親よ」

「トモは長いことふつうの状態じゃなかったんだもの、和也君の変化に気づかなかったのも無理はない。それなのに私、ついいじめのことに気を取られてキツイことを言ってしまった」

 二人の間に微妙な沈黙が流れたが、もし結衣が悦子のような歪んだ性格だったなら、とっくに椅子を蹴飛ばす勢いで席を立っていたにちがいない。

「ねえトモ、あなたいじめられた経験ある?」

「あるといえばあるし、ないといえばないってことかな」

「それ、どういうこと・・・」

「いじめの定義ってなに」

 朋美は訊いた。

「ネットには、国が定めた定義は載っている。分かりやすく言えば、しつこいまでの弱い者いじめでしょう。怪我を負わせるような明らかな暴力や物を隠したり汚したりする行為はべつとして、単純なおふざけでも相手が傷つけば言葉の暴力になる。だから、定義と言っても一言では決めつけられない微妙な世界でもあるのよね」

「私は、意地悪されたりからかわれたこともある。でも、学校へ行きたくないと思うほどではなかった。これくらいのこと、みな経験しているんじゃない」

「だから、あるようでないような、ということね。もし深刻ないじめを体験していたら、和也君の気持ちも少しは理解してあげられるんじゃないかと思ったけど、やはり無理かしらね。正直に言うけど、ほんとは私、いじめられっ子だったのよ。知ってる?」

「ぜんぜん」

 朋美は首を振りながら、「周囲に気づかれないいじめもあるんだ」

 いまの結衣からは、想像もできない過去におどろいた。

「あるわよ。やはりトモは、いじめに関しては何も知らないのね。陰湿ないじめほど目立たない。そういういじめのほうが多い。私はトモとちがって目立たない生徒だったけど、嫌になるくらいいじわるされた。おとなしくて反撃できなかったから、いじめのターゲットにされやすかったんだと思う」

「そこから、どうやって立ち直ったの」

「立ち直らなかったわよ」

「どういうこと」

「だって私、倒れたり転んだりしなかったもの。反撃できなかったけど、心の中ではいつも負けるものか負けるものかと歯を食いしばって、一日も休まずに卒業した。私は小さい頃から、しぶとい性分なの。いまだってそうよ」

 そう言って、結衣は笑った。

「つまり、結衣が言いたいのは、和也の不登校の原因がいじめだとしたら、結衣とおなじように意地と根性で戦えと言うことなの」

「そんなこと言ってない。言うつもりもない。だって個性は十人十色、百人百色。一つの答ですべてが解決するような、そんな生易しい問題じゃないのよ、いじめは」

「じゃあ、どうすればいいの。そろそろ結衣の正直な意見を聞きたい」

「その前に、ひとつ訊きたいけど。和也君、隆嗣さんの浮気のことを知っているの」

「知らないと思う」

「でもね、KYって知ってるでしょ。子供は空気に敏感なのよ」

「私たち、和也の前で罵り合ったり喧嘩したりしたことないもの。その点は気をつけてる、というより、子供の前で罵り合うなんて恥ずかしいじゃない」

「ならいいけど。とにかく、担任にすべてを話すことが先決よ」

「・・・」

「何を迷っているの。今から電話して会いに行こう。私もついてってあげるから心配しないで」

「ひとりでいいわよ」

 子供じゃあるまいしと思ったが、

「もしいじめだとしても、学校側にそれを認めさせるだけでも大変な仕事なのよ。正義感の強い熱血教師だったらまだいいけどね。いまの担任って、どんな教師?」

「河相良三先生っていうんだけど、ふつうとしか言いようがないわね。悪い噂を聞いたことないけど、格別いい噂もない。だから、ふつうってことかしら」

「だけどね、事いじめとなると話はまたべつだよ。確かな証拠がないかぎり、学校側はいじめを認めようとはしない。公表したがらない。いじめの解決などそっちのけで、ほとぼりが冷めるまで蓋をしろという態度。どうにかして隠そうとする。あなたも観たでしょう」

 結衣は、連日連夜大々的に報道された大津事件を語った。学校側も教育委員会も自殺の原因はいじめと認めず、とうとう警察が調査に乗り出した事件である。

「観てたでしょ」

「観たわ」

 朋美はこたえたが、あの頃の朋美にとっていじめは対岸の火事でしかなかった。だからほとんど観ていないに等しいものだった。ましていじめの災難が我が家に降りかかってくるなど、そのときは想像もできなかった。

「学校に行くにしても、隆嗣さんといっしょならまだいいんだけどねえ・・・」

 結衣は不安そうな眼で、何を考えているか分からない憔悴の友をみつめる。

「だいじょうぶ。行くわ、明日」

 と、朋美はこたえたが、

「なんか心もとないんだよね、トモ」

 じつに頼りない、と結衣は思っている。その結衣の気持ちが伝わったかのように、

「私は、和也の母親よ」

 やる時はやるわ! と朋美は心で呟く。

「あなた、ほんとにいじめの怖さを知ってるの? 私はいじめで辛い思いをしたからよくわかる。家の近所にもいじめから不登校になり、高校も中退して引きこもりになった青年がいる。いま二十三歳で、警察や救急車がやって来るほどの家庭内暴力で、母親はうちの子は死んだも同然、できることなら息子を殺して私も死にたいと泣いている。いじめの怖さは、誰もがその可能性を秘めているのよ」

「そっくりなのが、うちの団地にもいるわ。年齢も同じくらいだと思う」

 と、朋美は語る。 

 そのほかにも団地内に三人くらいいるらしいと、朋美は聞いている。いじめに関心はなかったからその実態はよくわからないし、青年のほうは滅多にその姿をみることはないが、二十代の娘さんだけは、家の近くなのでよく見ている。自分で運転して母親と買い物をする以外はなにもせずブラブラしている。

「だから最初は、いじめが原因で働くことも出来なくなったと聞いても、怠け者ぐらいにしか思っていなかった。そうでなければ、他人に知られたくない病気とかね」

「心がおかされているのよ」

「結衣は信じるわけね」

「信じるわ。だって、たくさんいるんだもの」

「ほんとに、ふつうの娘さんなのよ。お化粧もして可愛い女性なのよ」

「心の傷って、外見だけではわからないのよ。でもその娘さん、家庭内暴力や自死行為に走らないだけでも、まだいいわ」

「えっ・・・! 女の子でも暴力的になるの?」

「たくさんいるわよ」

「じゃあ、もし和也がいじめだとしたら、やはり、いつかはそうなるの・・・?」

 朋美は、いじめに一歩踏み込んだ感じはしたが、しかし、現実的な緊迫感からはほど遠いものだった。

「どうなるかは、母親であるあなたしだいよ」

 結衣は、突き放すように言った。それから、「あなた、いま何を考えているの」と、朋美の顔を覗きこんだ。

「・・・」

 朋美は、言葉を失った。和也のことを話し合いながら、いま尚、朋美の脳裏では夫と洋子の影が騒いでいるのだ。それを見抜いた結衣の言葉にちがいなかった。

「明日必ず行くのよ」

 と言いながら、結衣は時計を見た。まだ十一時になったばかりだった。

「もう帰るの」

 朋美は、置き去りにされるような不安に襲われた。

「これから、三人で何処かへ行こうよ。和也君、もう起きているんでしょ。電話かけて呼びなさいよ。今日はそのつもりで来たんだから」

「起きているとは思うけど、とても無理。昼間は一歩も出ないの」

「でも、今日は日曜日。学校は休みだから、たぶん出られるんじゃないかな」

「それ、どういうこと・・・」

 朋美は、それが何を意味するものか理解できないままケータイを操作したが、思った通り出なかった。

「和也君、どんな所が好き」

「前はよく、小岩井農場へ三人で行った」

「そう。じゃあ私の名前も入れて小岩井農場へ行こうってメールしてみて」

 ダメだと思ったが、言われるままメールを送った。が、やはり同じだった。

「しょうがないね。じゃあ、ふたりだけで行こう」

「だってあなた、実家に用があるんでしょ」

「親の顔を見るだけだから、いそぐことでもないの。ねえ、気晴らしに行こう。牧場の爽やかな空気吸いながら、何か美味しいもの食べよう」

 この日は結局、小岩井農場まで車を飛ばしておわった。


                  三、 覚醒


 翌朝、やるわよ! と意気込んだ昨日の朋美の熱気は、たあいもなく消滅していた。胸は重い気分に塞がれて、気が滅入ってどうしようもなかった。他人と会うことが煩わしくて、すべてに消極的で自信がもてないのだった。若い頃はこうではなかった。高校時代はバレー部で同級生に名セッターがいたので正選手にはなれなかったが、それでも毎日、爽やかな汗を流して過ごした。部活では声を張り上げ、教室でもよく笑いよく喋り、結衣とは対照的な高校生活だった。しかしこれは、彼女の自己弁護にすぎないのである。正選手になれなかったほんとの原因は、他人を押しのけても這い上がろうとする根性の欠如にあった。これが朋美の本質である。

 ともあれ、家庭をもってもその明るさに変わりなかったが、浮気が発覚して以来すべてが瓦解してしまった。団地内を歩いていても常にひそひそ声が聞こえてくるような気がしたり、後ろ指の幻影がつきまとって以前のように胸を張って歩けなくなった。悦子が言いふらしていることを幾人かに聞いているのだから、決して気のせいとばかりは言えないが、そうした気おくれと夫にたいする不安のなかで、朋美の顔に暗い陰影が刻み込まれてしまった。

 まだ八時前だった。連絡もしないで行くのも失礼だろうと思い、ケータイを握りしめて車に入った。和也が幼稚園に入る時購入した軽四輪である。車の中には和也との思い出が、記憶のアルバムといっていいほど詰まっている。

 和也と二人でよくあちこち走り回ったが、外観も車内も傷みはなかった。エンジントラブルの経験もなかった。それもこれも夫の入念なメンテナンスによるもので、よくは分からないが、夫は種々の資格を持っているらしい。リース会社だから重機はもちろん、整備士の資格も取得しているらしい。そのようなことはいっさい言わないが、根っからの機械好きであることは、間違いない。逆に朋美は、車の免許には一年ちかくかかり、ケータイのメールが送れるまで半年もかかったほどのメカ音痴だった。

 学校へ電話した。相談したいことがあるのですが、何時頃がよろしいかと訊ねると、

「そんなにお悪いのですか」

 担任のすこし緊張気味の声だった。

「じつは病気というのは嘘で―」

 こういうわけですと正直に、この一週間のあらましを説明して、いじめではないかと思っているのですがどうでしょうと、訊いてみた。

「いじめとはまた・・・」

 驚いたように担任の声が跳ね上がり、「和也君がそう言っているのですか」

「いえ。話し合うことも出来ない状態です」

「和也君がいじめと言ったわけでもないのに、おかあさんがいじめと判断したその根拠はどこにあるのですか。いじめの痕跡でもあったのですか」

 和也の病気を案じていた調子とは裏腹に不快な響きが広がった。しかも詰問調である。

「病気でもないのに一週間も学校を休んでいるのです。いじめではないかと考えるのはふつうじゃないですか」

 べつに決めつけたわけでもないのにと、朋美は少なからず不快感を感じた。

「わかりました。早速、お伺いして話してみます」

「それは困ります。」

 いきなり家に来られて和也を刺激したくないと、朋美は言った。いまの和也の精神状態では、断りもなく先生を呼んで、後でどのような怒りを買うか分からない。とにかく、いちど会って話がしたいと朋美はねばり、やっと十一時の約束を取り付けた。

 ケータイを閉じる朋美の口許から、ふっと吐息が洩れた。

 裏庭で洗濯物を干していると、キッチンで物音がして和也の影が揺れた。いつもなら食べおわるまで草むしりなどしながら時間をつぶすのだが、朋美は意を決して中に入った。和也は一瞬、おそろしく不機嫌な眼を走らせたが、食欲の勢いを止められないようにガツガツと、無言で食べつづける。食欲だけは旺盛だ。小岩井農場で買って来たレーズンバターサンドとチーズケーキも昨夜のうちになくなっていた。親子三人で行くと必ず食べる和也の好物だった。だから買って来たのに、ありがとうの一言もない。

「かあさん、学校へ行って来るからね」

 朋美が和也の反応を見る間もなく、

「何しにゆくんだ!」

 鋭い眼光が正面から突き刺さった。

「だってあなたは、何があったのか一言も言ってくれないじゃない。

河相先生なら、何か知っているんじゃないかと思うの」

「何が先生だ。あいつはダメだ」

「どうして・・・?」

「あいつは見せ掛けだけのセンコーだ」

 和也は、言葉みじかく吐き捨てながら食べつづける。

「とにかく、行って来る。いいでしょ」

 後で何を言われるか分からないので一応、承諾を得たいと思ったのだが、

「勝手にしろ」

 和也は、ガバガバっと味噌汁を呑み込んで二階へ駆け上がってしまった。

 猛反発すると思っていたが、拍子抜けするような意外な反応に、朋美は戸惑った。勝手にしろとは投げやりにも聞こえるが、好きにしていいとも取れる。

―どっちだろう・・・―

 それにしても、あの怒りといい血走った眼といい、わずか一週間前までの和也とは思えないほどの変わりようである。人間はこんなにも極端に変われるものだろうか。昨日までじゃれまわっていた子ネコが、いきなり牙を剥きだして襲いかかってきたような豹変ぶりである。殴られるくらいならまだしも、いまにも刃物が飛んでくるような形相に朋美はおののく。

 その時、ケータイが鳴った。結衣からだった。こっちから掛けなおすことにして、朋美は車に駆け込んだ。やはり、和也に聞かれたくなかった。

「今日、行くんでしょ」

 結衣は、それを確かめるためにわざわざ掛けてきた。

「うん。河相先生にも十一時の約束をした」

「よかった。あなたのことだからまたぐずぐず迷っているかと思ったけど、よかった。話がすんだら聞かせてよね」

 電話を切る気配を感じて、朋美は呼び止めた。

「何・・・」

 電話の向こうの結衣の声に、微かな不安がよぎった。

「わからないの」

 と、朋美は今さっきの和也のことを話し、勝手にしろとはどういうことかと訊ねた。

「和也君そう言ったのね・・・」

 すこしの間をおいて、「ふて腐れや投げやりな言葉とは違うと思う。いま和也君は学校へ行きたい自分と行けない自分と、この二つの狭間で戦っているのだと思う。第三者にはわからない葛藤のなかで、どうしていいかわからずに、独りでもだえ苦しんでいる。かあさん助けて、かあさんに任せたという痛切な叫び声が聞こえる。そこのところをよくよく理解してあげないと、たいへんなのよトモ。しっかりして」

「いじめの専門家みたいなこと言うけど、そのような言葉はとても信じられない。結衣は私を脅しているの? だってそうでしょ。助けを求めているのなら、かあさん助けてと言えばいいじゃない。それが、いまにも殴りかかってくるような血走った眼で怒るんだもの、私にたいする憎しみしか感じない」

「そう思うのも無理ないけどね、怒りも助けを求めているサインの一つよ。ぜったいにいじめだと思う。とにかく、行ってらっしゃい。話はまたそれから」

 必ず行くようにと結衣は、念を押して電話を切った。

 あれこれ考えているうちに十時を過ぎて、久しぶりに薄化粧して紺のスーツに着替え、ふたたび鏡の前に立つ。蒼白く窪んだ頬が気になり、頬紅を薄く刷く。結衣にはごはんを食べているのかと驚かれるぐらいやつれてしまったが、こうして薄化粧して身なりを整えると、それほど悪い風情ではなかった。

 アイボリーの軽四輪を出した。学校まで車で十五分ほどの距離である。指定された時刻までまだ十分ほど間があったが、河相教師は玄関先で立っていた。指導室に案内されて、

「それで・・・」

 と教師は、朋美が椅子に掛ける間もなく、せかせかした様子で問いかけてきた。気のせいだろうか、おそろしく不機嫌な表情にみえる。

「無理を言って申し訳ありません」

 朋美は、恐縮して頭を下げた。

「いえ。よくあることなので、気になさらないで下さい。さっそく本題に入りましょう。和也君のいじめを疑っておられるようですが、今朝も電話で話した通り、私の教室では、いじめのような卑劣な行為はありません」

 きっぱりと否定された朋美の脳裏に一瞬、清新な教室風景がよぎった。が、清新な風景とは裏腹に、眼の前の教師の表情には、甚だ迷惑そうな翳が漂っている。

「そうおっしゃられても、現に和也は、学校へ来れずに苦しんでいます」

「ええ。そのようですね。それで和也君は、誰かにいじめられてると言ってるのですか」

「一言も言いません」

「そうでしょ」

 教師は、納得したように頷いた。

「ですが、どうして言えないのか、そこのところをお察しいただけませんか」

「おかあさん、何かいじめありきだけが先走っているようにしか思えませんが、果してそうでしょうか。いじめにばかり気を取られて、大事なことを見落としてはいませんか。よくあることです。今朝もおかあさんと話した時、いじめの痕跡はなかったということでした。そうでしたね、藤村さん」

 有無を言わせぬような教師の態度に、朋美はたじろいだ。

「確かにそうは言いました。傷を負って帰って来るとか、服が破れているとか汚れているとか、そのようなことはありませんでした。でも、あれからよく考えてみて、見落としていたかも知れないという気がするのです」

 気づかなかったのは四六時中夫と若い女性が騒然としていたからである。おなじ坩堝の中でもがいていた朋美には到底、子供の心の傷はおろか、服の破れさえも気づけなかった。だが、そのようなことなど言えるはずもなかった。そしてこの時になって朋美はまた、新たな重大な見落としに気づいた。メールのやり取りが和也の日常だったはずなのに、かなり前から見ていないことにいまになって気づいたのである。そのような子供の重大な変化にも気づかなかったなんて・・・。朋美はそっと唇を噛みしめて、思わず顔を伏せた。

「不躾な質問と思われそうですが、家庭環境に何か変化がございませんか。子供は魚と同じようなものでしてね」

「魚ですか・・・」

 朋美は、意外な言葉に首を傾げた。

「人間は気温の一度や二度の変化は感じないものですが、魚は水温の微妙な変化を敏感に感じ取って行動しているそうです。子供も魚と同様に、家庭環境の微妙な変化に左右されやすいものですよ」

 そして教師は、「しかもおとうさんは、被災地に出向いておられるわけでしょう」

「・・・!」

 朋美は、夫の浮気騒動が学校にまで知れているのかと、ギクリとした。いや、教師の嫌味な物言いから察すると、確かに浮気騒動を知っていて、和也の不登校の原因もそこにあると断言しているとしか思えなかった。でもそんなはずはない。和也は父親の浮気を知る筈はないからだ。それだけは断言できる。心の中でそんな反論をしていると、まるでそれを見透かしたかのように、

「これは、あるご家庭の話ですが」

 と、教師は前置きして言うのだった。

 近所でも評判の仲睦まじい夫婦がいて、ある時から中一の娘が不登校になった。両親はいじめが原因だと学校側を問い詰めたが、いくら調査してもいじめらしい噂もなかった。するうちに、半年ほどして夫婦は離婚した。

「こうして、娘さんの不登校の原因は、家庭の不和にあったということが分かったのです」

「離婚の原因は、子供の不登校にあったのではありませんか」

 朋美は、つとめてひかえめな面持ちで訊いた。

「それがそうじゃなかったのです。ご夫婦は既に何年も前から、憎しみ合う仲になっていたのです。が、ご主人は社会的地位のある方で、奥さんも家庭は壊したくない。世間的体面もあるので、二人とも表面上は平和な家庭を装っていた。娘さんの前でもそれは同じだった。でも、どんなに幸せ芝居を演じても所詮は虚構、家の中の空気はぬくもるはずもありません。子供にとっては凍りつくような家庭環境だったに違いありません。いつしか心を病み、学校へも行けなくなった」

 教師は、事前に用意していたかのように一気に語ると、じっと探るような眼をして朋美を見つめた。恰も和也の不登校の原因も、父親の浮気にあると言いたげな眼である。朋美はじつに不愉快な思いだったが、教師の言葉に反論することは出来ず、

「まるで和也もそうだと仰ってるみたいですね」

 怒りを堪えて、静かに言った。

「誤解なさらないで下さい。一つの事例を申し上げたまでです。多感な子供の鋭くも傷つきやすさを言いたかったのです」

「それで、その娘さんはその後どうなったのですか」

「ええ。母と子の二人暮らしをするようになって無事に高校を出て、いまは母親を助けて働いているそうです。貧しくても温かい家庭環境こそは、彼女にとって何ものにも代えがたいものだったのでしょう。子供には、嘘や誤魔化しは通用しません」

 そう言って教師は、ひとり満足そうに頷いた。

「先生!」

 朋美は、教師をみつめた。「いじめがあるかどうか、調べてくれませんか」

「おかあさん」

 教師は、またうんざりした表情で、「わたしら教師は、親御さんよりも多くの時間、生徒たちと親しく接しているんですよ。朝のホームルームで一同を見渡せば、昨日の顔色と違っている生徒に気づきます。毎日毎日その繰り返しです。ですので、いまのところ私の教室でいじめがないと断言できるのは、そういうことです」

 結局、いじめを否定するばかりの教師の主張を、朋美の乏しい知識ではどうすることもできなかった。そればかりか、家へ帰る道すがら教師の言葉こそが真実かも知れないと思うようになった。確かに夫の浮気のことは和也には隠している。和也の前で怒鳴り合ったことなどいちどもない。それほど子供には気を配って来たが、教師が語る通り、それも確かに幸せ芝居にちがいない。結衣が語るように子供は敏感だというから、和也は親も気づかないところで苦しみつづけて、いつしか不登校になった。

―そういうことかしら・・・―

 買い物をしながら帰ると、二時近かった。怠かった。拭いようのない教師にたいする不信感が、ドロドロした澱のようにわだかまっている。どうにもすっきりしないのである。自分の思い描いていた展開とは全く逆の結果におわった落胆である。

 間もなく結衣から電話が来た。来ることはわかっていたので、ケータイを握って外へ出て、教師との顛末を説明した。

「思った通りね」

 結衣も先刻承知といった風だったが、これくらいのことでくじけていたら子供は救えないと、朋美の不甲斐なさを叱っているような口調である。

「くじけてなんかいないわよ。ただ・・」

「ただ、どうしたの。あなた先生の言うことをその通りだと思っているわよね。だから落ち込んでいる。声でわかる」

「ほんとかどうか、和也に確かめないとわからないじゃないの」

 なんて嫌な言い方をするのかしらと、腹が立って強い口調になった。それで、あれこれ訊こうとしていたことも、言葉にならなくなった。

「和也君がたとえ隆嗣さんの浮気を知って怒ったとしても、男の子はいじいじと不登校になったりしないわよ。男ならもっと過激な行動に出るわ。ぜったいいじめだからね。それはもう間違いない。いじめを知っているのは生徒だから、和也君の友達、クラスメートと片っ端から当たってみなさい。必ず出るわよ」

 結衣は強い口調で、「いじめがわかったら、その時こそほんとうの戦いのはじまりよ」

 この時、二階のカーテンが微かに揺れるのを見た朋美は、後で連絡するからと電話を切った。

 学校から帰って、まだ和也とは顔を合わせていない。和也も気になっているから、カーテンの隙間から覗くのだ。盗人みたいな和也の行為に、朋美の身体がざわついた。こんな卑劣な真似をするような子ではなかった。それだけ神経が刺々しくなっているのだろうが、教師とのやり取りをどう説明すればいいかわからなかった。父親の浮気を晒すわけにもいかないと思いながら、一方では、それを知ったときの和也の反応が見たい欲求が疼くのは、親を親とも思わなくなった子供にたいする敵意である。

 夕食時になって、めずらしく和也が下りてきた。やはり気になって仕方がないのだ。そわそわと歩き回りながら、その全身からピリピリした気が発散していて、迂闊にはものが言えない雰囲気である。

 朋美は、平静を装いながら食事を出し、流し台に立って汚れてもいない食器を洗う。

「アイツに会ったのか」

「会ったわ」

 朋美は、そっけなくこたえた。

「何て言ってた、アイツ。どうせろくなこと言わなかったろ」

「ねえ。先生のこと、アイツなんて言わないでよ」 

「うるせえ! オレが訊いてることに答えろ」

「いちど家に来て、和也と話がしたいと言ってた」

「それだけか・・・」

 和也の顔が落胆にも見える複雑な表情になったが、それも一瞬で、「アイツが来たってオレは会わねえからな!」

 怒気のこもった声を発しながら、二階へ駆け上がった。

「・・・」

 また分からなくなった。壁に向かって投げたボールは、その勢いと角度によって、跳ね帰って来るおよその見当がつく。それがこれまでの日常会話だったが、不登校になって以来、何がどのように跳ね帰って来るか分からない日常になってしまった。担任に会いたくない気持ちは何となくわかるが、それだけか・・・と落胆した気持ちがわからない。何かを期待していたらしいのだが、一体、何を期待していたのだろう。期待していたことだけは間違いない。担任に会いに行くと語った時、ぜったいに猛反発するだろうと思っていたが、勝手にしろと乱暴な言葉で容認したことも、何かを期待していたからだと、今になってわかった。

―やはり、いじめだろうか・・・―

 自分の口から言えないことを、担任に言わせたかったのかも知れない。でも、いじめならいじめと言えばいいじゃない。簡単なことじゃないかと朋美は、水道の蛇口を力いっぱいひねった。

 

              四、彩夏の証言


 翌日の午後、河相教師がやって来た。朋美は居間へ通した。

 教師からは、朝電話を受けている。来ることを和也に伝えると、食事をしていた和也は、会いたくないと言ったろ! と叫ぶなり、箸を投げ捨てた。

『どうしてよ。先生は和也を心配してわざわざ来て下さるのよ。悩み事があるなら、正直に言いなさい』

『アイツは嫌いだと言ったろ』

 それ以上の会話はできなかった。

 朋美は、和也が会いたくないと言っていることを正直に伝えた。

「よくあることです」

 教師は、驚く風もなく言った。

 朋美は、河相先生のどこが嫌いなのだろうと、お茶を淹れながら考える。性格に問題があるようには思えない。家庭訪問の時も、和也の性格をよく観察していて、

『少々神経質と思えぬでもない面はあるが、気になるほどでもありません。クラスメートとの関係にも問題はないし、後はもう少し勉強を頑張ってくれたら申し分ないです』

 そう話す姿からは、教育熱心な教師像しか感じなかった。何を指しての神経質な面か聞きもらしたが、たしかに和也は、同年代の男の子と比較してきれい好きかもしれない。そうした性格が神経質な印象を与えたとしても、新学期が始まって間もない時期にそこまで観察している熱意に、良い先生に出会えたと思った。単純な朋美は、前担任の情報など考えも付かなかった。

 ともあれ、和也はそのような河相先生を見せ掛けだけだと批判したが、その理由はいまのところぜんぜん見当もつかなかった。

「呼んで来ます」

 と、朋美は言うと、

「いえ。私のほうから行きます」

 と、先生は立ち上がった。

「すみません。おねがいします」

 ふたりで階段を上がる。父親にはドアを開けたのだから、先生ならなおさら断ることはないだろうと思ったが、ドアの前で声を掛けてもまったく反応はなかった。ドアには鍵がしてある。あまりの静けさに、

「ほんとに、いるんですか」

 と、先生は小首を傾げた。

「はい。いることは間違いありません」

 昼間の外出はしない。外へ出るにしても、十時ちかくにコンビニへ行く程度である。スナック菓子や雑誌を買っているらしいことは、ゴミ袋でわかる。

「和也君!」

 教師がいきなりヒステリックな声を発したのには、おどろいた。これまでの物静かなイメージはひっくり返り、朋美はまじまじと教師をみつめてしまった。だが、教師の表情はいつもの顔色である。ただ声の調子からして、かなり興奮していることがわかる。

「和也君、私の言葉が聞こえているだろ。何があったのか、説明してください。みな心配しているよ。君のいない教室は、私もさみしい。何があったとしても、勇気を出して一歩踏み出すんだ。その一歩が大事だ」

 教師は、教師ならだれでも言いそうなことを並べたが、結局、さいごまで部屋の静寂をやぶることはできなかった。

 居間へ戻ってから、教師は、和也のことよりも隆嗣のことが気になるらしく、根掘り葉掘り訊かれた。父親に変わったことはないか、毎週必ず帰るか、帰って来た時、子供との会話はどうかなど、そして最後に、

「おかあさん、悩み事がありましたら、なんでも相談してください。子供の教育はひとえに家庭にあります」

 と、暗に浮気のことは知っていると言わぬばかりのことを並べて帰った。朋美は、教師の質問にたいして肯定も否定もせず曖昧な言葉で押し通したが、やはり知っているとしか思えなかった。伝わった経路はもちろんわかる筈もないが、噂というものの怖さをあらためて思い知った。

―和也も知っているのだろうか・・・―

 先生の仰る通り、和也の不登校の原因はそのことにあるのかもしれないと、朋美は唇を噛んだ。しかし結衣は、男の子は親の不倫などで陰にこもった不登校などにはならないと断言した。

―じゃあ、どうすればいいの・・・―

 朋美にはどうする術もなかった。結衣にはこれまでのように気軽に相談できない抵抗を感じるのは、結衣の強い口調が突き刺さっているからだ。そしてまた、朋美にとって夫は既に遠い存在になっている。そのような夫をふと思い出して、いい気なものだと腹が立ってくる。

 先生が帰っても、和也の部屋に物音はなかった。それとなく様子を探りに来てもよさそうなものだが、いつまでたっても下りてくる気配はなかった。具合でもわるいのかと、静かに階段を上ってドアの前に立ったとたん、ドアが開いて危うくぶつかりそうになった。

「ナニ探ってんだよ。おまえの顔なんか、見たくもねえ」

―何よ! それが親に向かって言う言葉ですか―

 胸の中で叫ぶだけで、声にはならない。家庭の不和が原因なら、和也の苦しみはいかばかりかと、階段を駆け下りる和也の背中を見送るしかなかった。トイレの閉まる音がした。

―少し勉強しなくちゃ・・・―

 朋美はいまさらながら、自分の無智ぶりを反省した。これまでは親子の関係などことさら考えたこともなかった。その必要もなかった。ふり返ってみればじつに平穏な日常だった。それだけに、和也の不登校は家庭が原因と言われても、どうしていいか皆目わからなかった。だから結衣には、子供みたいに叱られてばかりいる。

 結衣には、ぜったいいじめが原因だから友人や同級生を当たってみるように言われたが、それは外れたようだ。友人と言われても、あらためて考えてみれば、和也の友人が見当たらないことにはじめて気づいたのである。小学校時代は仲良し三人組で、いつも家に来て遊んでいた。それがいつの間にか来なくなっていた。

―いつからだろう・・・―

 はっきりした記憶はないが、中学に入ってからのような気がする。友人が来なくなっても気にならなかったのは、和也は毎日メールを操作していたからだろうが、じっさいは和也を忘れていたと言っても過言ではない。

 ところが翌日の夕方、いつものスーパーで買い物をしていると、

「河相先生、何しに来たんですか」

 と、ある女子生徒に声を掛けられた。

「ああ・・・。彩夏ちゃん、久しぶりね」

 団地の西はずれに住む彼女の家とはかなり離れているが、和也と彩夏は小学三年生くらいまでは大の仲良しで、行ったり来たりしていた。学年が上がるにつれていつしか疎遠になり、たまに道で会って挨拶するくらいになっていたが、彼女の存在は和也にとっても忘れ難い思い出になっているに違いない。それほど仲が良かった。

 先生が何しに来たと問われても、嘘の苦手な朋美には、咄嗟には答えられなかった。それにしても、いつどこで知ったのだろう。先生は下校時間より早く帰ったから、生徒にみられたとは思えない。それなのに彩夏はもう、知っている。このぶんでは私が学校へ行ったことも知れ渡っているにちがいない。そして教師の家庭訪問と重なって、彩夏はあれこれ興味を抱いて声を掛けてきた。きっとそうにちがいない。和也と遊んでいた頃の天真爛漫なイメージはもうなかった。他人のあらを探すことにしか生きがいを感じない中年女の感じがして、朋美は、せかせかとレジを済ませて店を出た。ところが、追いかけてきた彩夏は小声で、

「いじめのことじゃないですか」

 と、周囲をはばかる様子で言ったのだ。

 夕方の買い物客で、駐車場は満杯状態だった。出て行く車、入って来る車。ことにもポイントが三倍の日とあって、レジ袋を提げた客たちで賑わっている。子供の泣き声。母親の甲高い声。いつもの殷賑な光景が一瞬、彩夏の放った爆風で掻き消えた。

「それ、どういうこと・・・。和也はいじめられているのですか」

「知らなかったんですか」

 彩夏のほうが、びっくりした顔になった。そして、洩らしてはならない秘密を思わず洩らしてしまった後悔の表情になった。

「ねえ、彩夏ちゃん。詳しく教えてくれない。先生はいじめなんかないと断言するし、和也は何も言わずに学校を休んでいるし、ほんとうに困っているの」

 状況が一転した。朋美のほうが彩夏にすがりつく。

「先生は、いじめなんかないと言ったんですね」

 彩夏は、一呼吸おくような感じで言うと、考え込むように黙り込んでしまった。彩夏は何かを躊躇い迷っている。その迷いの中は朋美の知らない秘密で満たされているのだ。

 朋美は、半ば強引に彩夏の腕を取って近くの公園にむかった。和也と遊んでいたころも小さな子だったが、いまも中二としては小柄な方で、その華奢な身体は抵抗する様子もなく朋美に従った。

 公園のベンチに掛けた彩夏は、朋美が語りかける前に、このことはぜったい誰にも喋らないでほしいと言った。

「約束する。だれにも言わないと約束します」

 朋美は、レモンジュース缶を握らせ、彩夏の信頼を得ようと精いっぱいの笑みをつくった。それにしても、大げさとも思える彩夏の深刻な表情には、おどろくばかりだ。

「先生は、和也君のいじめはないと言ったんですよね」

 彩夏は念を押した。

「ええ。そう断言しました。でも、ほんとうはいじめられていたということですか」

「はい。みんな知ってることです。だから先生がいじめはないと断言するのって、おかしい。いじめの現場を目撃していないとしても、いじめの噂は耳に入っているはずです。でも、河相先生なら・・・」

 と、彩夏は語尾を濁した。

 彩夏は、和也にたいするいじめは小学校六年生頃から始まったのではないかと語った。

「そんなにも前からですか・・・!」

 朋美は絶句した。いじめの事実にはもちろん驚いたが、それよりも、今日まで気づけなかった自分の愚かさに絶句したといったほう

がいい。だがその後で、でも本当だろうかと疑問がわく。夫の浮気騒動と重なったとはいえ、子供の苦悩に気づけなかったほど和也をないがしろにしていたはずではなかった。

 しかし、彩夏は語った。和也たちは四人グループで、そのリーダーにいじめられていると言うのだ。

「四人グループなの」

 朋美は訊き返した。

「はい。高石浩太がリーダーで、あと藤原海人君と斉藤昭義君。おかあさんも知ってるでしょ」

「ええ。確かに知っているわ、二人はね」

 朋美の知っているのは藤原君と斉藤君で、高石浩太という名前は初耳だった。もともと和也たちは三人組で、二人はしょっちゅう家に来て遊んでいた。小学校三年生くらいからの仲良しだった。それが家に来なくなったのは、思い返せば、小学校六年生くらいだろうか。ちょうど彩夏が語るいじめが始まった時期と符合する。

「それで、彩夏ちゃんも和也がいじめられているところを見たの」

「みてないけど、みんな知ってます」

「たとえばどんなふうな噂?」

「どんなふうと言われても、私、和也君と同じクラスではないし、詳しいことはわりませんが、いじめられていることは間違いありません。だから和也君、学校へ行けなくなっているんでしょ。それほどのいじめなのに、先生がまったく知らないというのは、考えられません」

 そして彩夏は、同じクラスの生徒たちにも訊いてみるべきだと言い、先生にも私の名前を出さないで下さいと言った。

 朋美は、逃げるように走り去る彩夏の姿を見ながら、なぜそうまで秘密にしなければならないのかと、疑念が浮かんだ。

 夕方、結衣から電話が来た。こっちからはもう掛けまいと思っていたが、結衣の声を聞くと忽ちいつもの朋美に戻った。

「今日、こういうことを聞いたんだけどー」

 朋美は、彩夏の話をした。

「それで、その子は自分ではみていないけどみんな知っていることだと言ったのね」

「ええ、そうだけど・・・」

 結衣は何やら気になる様子である。

「子供たちは何かにつけて、みな何とかかとかと言うわね。そのみながクセモノよ。例えばケータイ買ってと子供は言う。まだ早いと親は反対すると、だってみな持っているんだ。持ってないのはボクだけだと子は訴える。ゲーム機買ってと子は言う。そんなもの勉強のさまたげになるだけだと親は反対する。でも持ってないのはボクだけだ。みな持っているんだ。恥ずかしいよ、仲間外れにされちゃうよとかなんとか子供は食い下がる。トモにもその経験あるでしょ」

「うん。あるある。和也のケータイの時もそうだった。でも結衣、何が言いたいわけ?」

「だからさ、その子の語るみんなも同じようなものじゃないかと思うわけ。子供たちの語るみなの範囲って、高々周囲の数人にすぎないかも知れないのよ。その子、信用できるの」

 結衣もまた朋美と同様に同じクラスでもない生徒が話しかけて来たことに、少なからず不信感を抱いたらしい。

「信用できると思う。彩夏ちゃんとは幼稚園も一緒で、小学三年生まで行ったり来たりしていた大の仲良しだったの。でも、誰にも名前は出さないようにって言うんだけど、それがどうしても納得できないの」

「ああ、わかるわ。彩夏ちゃんって言うんだ、その子。信用していいわよ、ぜったいにいじめだよ」

「何がわかったの・・・」

 と、朋美は訊く。

「トモはなんにもわからないからね」

 と、またしても朋美の無智ぶりを嘲笑うような口調で、「彩夏ちゃんの覚悟がどんなものか、朋美にはわからないのよ」と、言った。

「覚悟って何よ」

「チクリがばれたら、彩夏ちゃんは忽ちいじめのターゲットにされかねないのよ。その危険を冒してまであなたに教えた。彩夏ちゃんにとって和也君は初恋の人で、いまでもそうかもね。だから、あなたに教えた」

「初恋はともかく、そのチクリって密告のこと・・・」

 朋美にも話の筋から何となくそれらしい意味を感じた。

「そう、密告のこと。いじめの世界では、チクリはもっとも卑劣な行為とされているの。だからわかったでしょ、彩夏ちゃんの覚悟と和也君を助けたい純粋な愛が」

「純愛なんて、いまの和也には似合わないわよ」

 いまの和也には愛の欠けらも存在しない。ただ身勝手に荒れ狂う暴風のようなものでしかない。そう思うのも、いじめの苦痛がまだ分かっていないからだと結衣の叱責が飛んでくるようだが、正直、朋美の心も和也と同様に暴風状態と変わりなかった。

「いじめの事実が判明したのだから、明日にも先生に会って問い詰めなさい。ただ、あなたひとりじゃぜったい無理だよ。今はね、こういう時は弁護士を立てて交渉するの」

「弁護士だって・・・!」

 朋美はおどろいた。夫の浮気問題に弁護士を依頼するのなら理解できるが、いじめの問題で弁護士を立てるとは想像もできなかった。

「そうでもしないと学校側は、そうそう簡単には応じてくれないわ

よ。弁護士とかその道のプロを頼むんです。だから、トモさえよかったら私が一緒についてってあげるけど、どう?」

「確かに結衣はいじめられた経験者だから、プロと言えるかもね」

「ねえ、トモ。そういうことじゃないの。私は真剣よ。和也君が心配なの」

「それはわかる。感謝してる。だからもう、結衣には迷惑かけたくないと思ってた」

「トモを見ていると歯痒くなると言ったでしょ。それはいまも同じよ。いじめの事実が分かったいま、前よりも一層、歯痒くてイライラする。ね、トモ。ほんとのことを言うけど、遠野に引っ越したのは、娘をいじめから救うためだったの」

「娘って、幸穂ちゃんのこと・・・!」

 はじめて聞くことだった。

「ええ。幸穂はね―」

 と語る結衣の話は、驚愕のなにものでもなかった。結衣の家で二度みかけた彼女の印象は、いじめとはあまりにもかけ離れていたからだった。いま思い返してみても、いじめの陰影など微塵も感じられない清楚で育ちのよさそうな面影しか浮かばない。

 ともあれ、小学三年生からはじまった幸穂へのいじめは中学生になっても収まらず、中二の時、夫の実家《遠野物語》で有名な遠野市へ引っ越した。もともと幸穂は遠野の幻想的な雰囲気に憧れていたこともあってか学校へ行くようになったが、人間そのものにたいする不信感と怯えはどうにもならないまま、それでもどうにか高校へ進学することができたのだった。

「高校進学を果たせたものの、薬とカウンセリングを欠かせなかったのだから、幸穂はどんなに辛かったかと思う。いつまでつづけられるのかと、内心ははらはらのしどうしだった」

 そんな時、二0一一年三月一一日・東日本大震災が起こった。幸穂の高二の時である。震災三日目から結衣は、被災地支援のおにぎり作りに加わった。人手が足りなかったので、強引に幸穂を連れ出した。

「もちろん嫌だって抵抗された。薬にカウンセリングの状態で、見ず知らずの集団に入るのって想像しただけで卒倒するような不安だったんじゃない。でも人生って、何が幸いするかわからないものね」

 と、結衣は語る。「被災地の人たちには申し訳ないけど、何十人もの人たちに加わっての支援活動のお蔭で、幸穂は立ち直った。私にとって、間違いなく奇跡だった」

「おにぎりを作るだけで、変わったってこと?」

「ただのおにぎり作りじゃないのよ」

 と、結衣はまたしても、何を言っているのかと言いたげな口調になった。

 未曾有の大災害の中で、救助という一つの目的に向かってわき目もふらずに作業する一員に加わったことで、幸穂は、驚くほどの速さで変化した。最初は母親にしがみ付くようにおどおどしていて、結衣もパニックにでもなりはしないかと、その時の心準備をしながらの作業だった。ごはんを冷ます間も惜しんで握るのだから、方々から絶え間なく、

「アチッ、アチチチ・・・!」

 と叫び声があがり、手は真っ赤になった。被災者たちを助けたい一心で、みな必死だった。市内九か所で、一日千個を超えるおにぎり作りは、一か月つづいた。

 支援物資のトラックが帰って来るたびに、新しい情報が入って来た。人口一万二千人余の大槌町の市街地は、巨大津波と火災で壊滅した。まだ街も山も燃えるにまかせている状態だった。大槌の情報が多いのは、支援物資のトラック第一便が大槌だったからである。

 震災の夜中、ひとりの男性が市役所に駆け込んできたのがはじまりだった。海沿いの幹線道路は通れず、雪が降る峠道を越えて来たと、青ざめた顔で男性は言った。大槌高校の体育館だけでも五百人余の避難者たちが寒さと空腹で大変な状態だと言う。あるだけの物資を運んでほしいと訴えた。津波襲来のおよそは知っていたが、停電と電話不通でなす術もなく待機していた市役所の職員たちが、このときはじめて大惨事を知った瞬間だった。そのわずか数時間後の早朝、物資を積んだ小型トラック第一便が、まだ暗い中、雪が積もる狭い峠道を越えて行った。沿岸沿いの幹線道路なら一時間だが、峠越えの道はかなりかかった。

 沿岸部の市町村はどこも壊滅状態だと聞いても、遠野は市役所が一部損傷した程度だから、結衣も幸穂も携帯の映像を観ても街が消滅した事実を実感できなかった。想像を絶する光景をみたのは、電気が通じてテレビが映ってからだった。大槌町だけで死者は千五百人にも及ぶと伝えられたが、詳細はまだ分からなかった。

 そんなある日、家に帰った幸穂は、

「このような疲れって、はじめだわ」

 と、言った。

「今日で一週間だものね。疲れてとうぜんよ。幸穂はよくがんばっている。かあさん、ホント言うと不安だった。幸穂がこんなに出来るとは思わなかった。すこし休んでもいいのよ」

 結衣はいたわると、

「ぜんぜん平気よ。疲れているのはたしかだけど、とても気持ちの良い疲れなの。こんなのって、はじめて」

 と、意外な返事が返ってきた。

 幸穂は、無償の愛と人のために役立つ喜びを知ったのだ。もし連日の労働に正当な対価が支払われていたなら、幸穂に烈しい疲労以外に何ほどの進歩も与えなかっただろう。

「一日の仕事を終えるとね、達成感を感じるの」

 今日も有意義な一日が過ごせた充足感が、幸穂の全身をあたたかく包み込んだ。親に何かをねだって買ってもらった喜びとは、まったく異質な幸福感だった。

 こうして幸穂はみなから必要とされ、感謝され、褒められて自信を取り戻しながら成長していった。結衣の予想もしなかった奇跡が起こったのである。幸穂の悪口を言ったり陰口を叩いたりする者などいるはずもなく、懸命になればなるほど幸穂にたいする評価は増して、幸穂の自信はいよいよ堅固なものになっていった。

 夏休みに入ると、同級生と釜石の避難所に入って支援活動をするほどの積極的な性格に変わり、遠くから来た多くのボランティアたちとの交流がはじまったことも、幸穂に望外の稔りを与えてくれた。

「それで、いまも幸穂ちゃんはボランティア活動をしているの?」

「前ほどではないけど、友達とグループをつくって被災地を回っているみたい。スーパーでアルバイトしながら勉強もしてるよ。幸穂は変わった。被災者をはじめ多くの人たちに助けられたと、幸穂自身が語るほどだから、何がどう変わったのかよく認識しているんだろうね。だから、これからは人の役に立つ人間になるんだって、目標にむかって勉強している」

「何になるつもり?」

「看護師になるんだって。大活躍した看護師さんたちの姿に感動したみたい」

「そう・・・。よかったね」

 朋美は、胸に湧き上がる感動と恥辱を整理できず、多くを語れなかった。

「幸穂がリストカットをくり返していた頃は、まさかこんな日が来るとは想像も出来なかった。

「・・・!」

 朋美は、またしても新たな衝撃に言葉を失った。幸穂が手首を切っている姿と和也が重なった。

「いつ死なれるかと、毎日が地獄の日々だった。で、思いきって遠野へ移ったの。和也君はそんなことはしないと思うけど、何事も早期発見・早期対応・・・と言うより、心の治療よね。幸穂のことで痛感しているので、これだけは間違いなく言える。それで、あなたどうする?」

「・・・」

 朋美は、返事に詰まった。何を訊ねられているのか理解できても、今後の対策などすぐには思い浮かばない朋美だった。

「明日、さっそく担任に会って話すつもり?」

「そうするつもりだけど・・・」

 いじめの事実がわかった。それ以外に為すべきことは考えられなかった。だが結衣の口ぶりは、まだ何かあるらしいことが感じられるので語尾を濁すと、

「もっと証人を探すべきだと思うけど」

 と言った。「彩夏ちゃんを疑うわけではないけど、和也君にたいする思い入れが強く感じられる。いじめの噂を聞いて、ほんとうはふざけていただけなのに、いじめと思ったかも知れない。ね、彩夏ちゃん以外にも、その団地にクラスメートはいるんでしょ。念には念を入れて確かな情報を積み上げないと、学校側のブロックは崩せないわよ」

「わかった。結衣が言うんだから間違いないでしょう。何かわかったら、また連絡する。いろいろありがとう」

 思わずお礼を言ってしまった。結衣と知り合ってありがとうなんて言ったのは、はじめてだった。ケータイを握る手が汗ばんでいた。汗に濡れるケータイに気づいて、はじめて朋美は、緊張している自分を知ったほどだった。同時に、

―自分は何をしていたんだろう・・・―

 と、恥辱の思いを噛みしめながら、呟いた。

 結衣はあんなに大変な思いをしているなかで、そんなことはおくびにも出さず、ただひたすら朋美を慰め、希望を失わないように助言をし、励ましてくれた。それほどまでやさしかった結衣は、和也のいじめの問題になった途端、急変した。時には冷たく突き放され、時には侮辱も露わに嘲笑うような態度に朋美は腹が立ち、もう結衣になんか相談するものかと思ったが、幸穂のいじめで地獄を味わった結衣の、和也を思いやる本気度を知った。

 それなのに、自分は何をしていたのかと、情けなくなった。被災地の悲惨な光景をテレビで観ながら、時にはため息をつき、時には胸を震わせ、時には涙を滲ませていただけだった。この世のものとは思えない光景を観ながら、ただのいちども被災地の人々のために何かをしたいと思ったこともなかった。安っぽいうわべだけの涙を流して自己満足していた自分に、いまになっていたたまれないほどの恥辱にふるえるのである。

―こんなんじゃダメだ!―

 今度は、力強くつぶやいた。


                                  第二章へつづく


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