ゾイの花の正体
エルストは顔をしかめ、ひたすら考える。ベルの怪我が自然に治癒のを待つこともできる。ほかに、これは物騒な手段になるのだが、長老の腕を払ってゾイの花を盗み、脱走することも可能といえば可能だ。エルストは風に揺れながら何色にも輝いている花を見つめ、『坊やは腐っちゃいない』という今しがたの長老のセリフを思い返した。
「僕には魔力がないんです。僕は魔法が使えない人間なんです」
エルストがとった行動は、まず正直に身の上を打ち明けることだった。
「魔力がないぃ?」
長老は怪訝そうに眉を寄せる。その後ちらりとプロトポロを見た。プロトポロはエルストの言葉を肯定するように、静かに頷いた。アギは眉尻を下げながら押し黙っている。
「おいおい。いくらプロトポロさんのツレだとしても……魔力がない? そんな話、信じられるか。だって坊やは生きてるじゃないかよ。魔力がないということは、寿命がないってことだぞ!」
「だけど、だから僕はここまで歩いてきたんです。魔法が使えたら魔法でここまで一瞬で来られたことでしょう。僕にはそれができないんだ。そうしたくてもできないんです!」
「ただ寿命が惜しくてウソをついてるだけじゃないのかね?」
「ウソだったら僕はとっくにサルバを殺してる! テレーマにだって太刀打ちできたさ」
「テレーマ?」
長老はさっと顔色を変えた。
「どうしてテレーマの名前が出てくるんだい。まるでヤツが生きてるみたいな口ぶりじゃないか!」
「生きているも何も、ヤツは二年前に組織ぐるみで王都を襲ったのだ。国王も殺された」
「ありゃりゃりゃ。プロトポロさん、やけに冷静だね。そうかい、アンタがいながらね。へえ……」
長老は口もとを手のひらでこすっている。エルストは、テレーマについて何か知っているのか、としきりに長老に問うが、その返答が聞けることはなかった。そしてしばしうつむいたあと、エルストにこう尋ねる。
「じゃあ、坊やはいったい何を差し出してくれるのかね。タダでこの花を持っていきたいってことは、人間が寿命を削らずに魔法を使いたいってワガママ言うのと同じことだよ。もちろんそれがとうてい無理なワガママだってことも、いくら魔法が使えない坊やにだってわかるだろう」
長老の言うとおりである。言葉を詰まらせるエルストに、長老はさらににじり寄る。エルストは背筋を凍らせた。この長老、底知れない不気味さを持っている。どうにも気味が悪くてしかたがないのだ。逃げたい。思わず視線が震えてしまうが、それではいけない、とも思った。怪我を負ったベルが自分の帰りを待っているのだ。
「この僕の、王族の証である目だったら……十年ぶんの魔力のかわりになりますか?」
「へ? ちょ、ちょー待てや王子っ!」
「アギ、僕はいま長老と話してる」
「あ、ゴメンナサイ。いや、せやけども!」
アギが動揺するのも無理はない。エルストは今、己の目を長老に差し出そうをしている。アギは何か言いたげにしたが、あー、とか、うー、とか唸るだけ唸り、それ以外は言葉を挟もうとしない。
長老はふたたびエルストへと顔を近づけた。
「いひひ。なるよ」
エルストのまなこが揺れたのを長老は見逃さなかった。エルストが、怖くないはずがなかった。
長老の家を訪れたエルストらは、砂地のままである床に座り込み、長老が古ぼけた戸棚の引き出しからナイフを取り出すのをじっと見つめていた。切れ味のよさそうなナイフだ。
エルストは固唾を飲んだ。これから襲いくるであろう激痛を予感すると、暖かい町であるはずなのに、やたら悪寒がする。痛みに耐えられる自身も固まってはいない。だが、耐えなくては、ベルの怪我は治せない。すうっと深呼吸を重ねる。
「治したいコってのは、よっぽどだいじなコなんだねぇ」
長老が愉快そうに笑っている。エルストは震える声で答える。
「僕の宮廷魔法使いです。一緒に復讐しようと誓った。僕をことを助けてくれたりもした」
「そういや、やっぱり坊やは王族かい。久しぶりに見たね、エルオーベルングの人間」
「だけど、ここは王国が統治していたんですよね?」
すると長老はにたりと笑い、それ以上は何も言わなかった。
その後、床に寝そべらされたエルストは、心臓を強く打ち鳴らしながら、それでもひたむきに瞳を開けている。長老が布巾を用意している最中、アギがとうとう口を挟む。
「王子。やっぱりやめへんか? えらい痛いで、きっと。イヤや。ワシ、イヤやわ、怪我するのとか、痛いのとか、そんなん見とうないわ。ワシにはもう心臓ないけど、それでも心臓のあたりがズキズキしてしかたないねん。なあ、ベルにはワシから、ちゃんと言い聞かせるさかい……」
これほどまでに弱弱しいアギの声をエルストは初めて聞いたようだった。それがなぜだかおかしくて、エルストは、ふっと笑った。心臓の音が少しだけ落ち着いた。
汚らしくヒゲの生えた己の頬を撫でながら、エルストは至極穏やかな声で語りかける。
「アギ。止めてくれてありがと。優しいんだね。キミのこと、前より好きになれたよ。僕は大丈夫だから。ありがと」
エルストの『左目』が最後に見たのは、歯を見せながら笑う長老の顔と、研ぎ澄まされたナイフの白く冷たそうなきらめきだった。
「うぐっ……」
ナイフがじっくりとまぶたを切り裂いた激痛はまだやまないどころか始まったばかりである。エルストは思わず身をよじろうとしたが、長老の腕によって肩が床に固定されているため、エルストはナイフの刃から発せられる痛みから自由に逃れられることはできなかった。いや、逃れてはいけない、と頭ではわかっているのだが、本能は意志と真逆に動こうとしているのだ。エルストは奥歯をしっかりと噛む。
ぶちぶちと聞くに堪えない音が頭に響く。眼球をえぐろうとしているのだ。ナイフがざくざくとまぶたを切っていく。顔に飛び散った血の混じった脂汗がエルストのこめかみを伝った。先ほどまではあんなに悪寒を感じていたというのに、今は全身がうだるように熱い。エルストの両手が砂を掴む。
エルストの左目の玉は、ナイフによって体外に押し出された。ひどく血が流れた。一切悲鳴をあげなかったエルストの姿を、プロトポロの静かなまなざしが見届けていた。
その後、長老の家にて、エルストは高熱にうなされていた。左目跡の傷が痛むのだ。傷の処置はプロトポロがしてくれたものの、傷がふさがるにはまだまだ時間が必要だろう。寝床に横たわったまま、意識がぼんやりしているエルストをアギが心配そうに見つめている。エルストは片手で傷に触れようとした。
「アカン! さわったらアカン。ばい菌が入って悪化するで」
アギの声が飛んできた。
「気張るんやで王子。ここで死んだらアカンよ」
こんなところで死ぬものか。
「そんな傷、はよ治しや。王子やったらできる! ワシは信じとる!」
自分だって信じている。そう思いながらエルストは片手をおろした。そのときだった。
「――おまえはここで死ぬのよ」
母の声がたしかに聞こえた。エルストは寒気を感じた。「王子のかーちゃん!」アギが叫び、エルストは、ウソだろ、と半信半疑に右目を動かす。すると目の前には自分を見おろす母親の顔があった。母親の手もとには何かぎらつくものがある。ナイフだ。
「なんで王子のかーちゃんがここに現れたんや!? なんでワシらがここにいること知っとんのや!」
王妃はアギのほうへ視線を移す。
「うるさいドラゴンね」
「やかましいのはそっちやろババア! 自分の子どもに言っちゃイカンことを言うとかワシは許さんで!」
アギは次にプロトポロを呼びつける。
「おいプロトポロのジジイ、また王子を守らんかい! って、あのジジイはどこに行ったんや? 誰もおらん。くそっ、こんな大事なときにィー!」
「あわれなものね」
王妃はそう言いながらアギを掴みあげた。
「大事なときに、加工済みドラゴンは身動きひとつとれないなんて。それでこそ加工済みドラゴンなのだけれど」
「好きで加工されたんとちゃうわアホ!」
「ふん」
鼻で笑った王妃はアギを放り捨てた。
「エルスト、おまえも傷を負って動けないようね……王子ともあろう人間が情けないこと」
「ベルのために怪我した王子のどこが情けないんや、アァン!?」
「ベル……それはこの前、おまえを庇った女の子のことかしら。そう。おまえはゾイの秘薬を求めてきたのね、エルスト。むかし私がおまえに話したことを、おまえは今でもおぼえているのね……」
母の顔が歪んだ気がした。エルストは弱々しい声で言う。
「母上。あなたはどうしてしまったんですか。二年前までは、あんなに僕を可愛がってくれたじゃないですか。あなたがおかしくなったのはサード・エンダーズのせいでしょう? あいつらが来るまでは、平穏な日々が続いていたはず」
「私ははじめからこうするつもりだったのよ。おまえが産まれる前から、私はおまえを殺すと決めていたわ!」
そして王妃は「立ちなさい、エルスト」と言いながら息子の肩を蹴りあげた。その痛みが左目に響き、エルストは背中を丸める。
「おまえは私が産んだ王子よ。エオニオとスティグ厶の血を引く王子なのなら、片目を失っても、熱にうなされようとも、痛みに悶えようとも、ナイフを向ける母の前でも立ち上がらなければいけないのよ!」
「ババア、言ってることメチャクチャやぞ! 王子、立てるんならはよ逃げろ! 殺されたらアカン!」
アギに急かされ、エルストは両手両足を立て体を起こした。
「僕は死にたくない……」
うわごとのようにつぶやく。
「母上に殺されるなんてまっぴらだ。僕のせいで怪我をしたベルが僕を待ってる。だけど、もう母上と離れたくもない。二年でも一瞬でも、家族と過ごせない時間なんて大嫌いだったんだ」
「なに言うとんのや王子。殺されるんやで、逃げろや!」
息子の言うことになど耳を傾けず、王妃はエルストににじり寄っていく。エルストはナイフを振り払おうとしたが、勢いあまって横転してしまった。その隙に王妃はエルストの背中にナイフを刺そうとする。
「王子ー!」
意識を失う瞬間、エルストは、王妃のノドに噛みつくアギを見た。
エルストが目覚めたのはその翌日のことだった。エルストとアギ、プロトポロはルナノワの町を出立することにした。長老に別れを告げ、エルストはアギを頭にかぶり、プロトポロを連れ、来た道を登りはじめる。
「――それで?」
道中、アギとプロトポロは王妃について話していた。
「結局、王子のかーちゃんはいなくなってしもたんや。どこかにワープしていったんやと思う」
「王妃はあんなに殺したがっていたはずのエルストを殺さずに去っていった。そういうわけなのだな」
「せや。ワシが追い払いに成功したんやろか? それにしては……あっけない気がするけど。不思議やな」
エルストは無言だ。
「なんにせよ事情はわかった」
「ワシにはサッパリなんやが」
「サッパリな部分もひっくるめて私は理解した」
「ほんなら王子のかーちゃんが言ってたこと……『エオニオとスティグムの血を引く王子なら立ち上がらなければいけない』とかいうセリフの意味も理解したんか? エオニオは神様やからワシも知ってるけど、スティグムって誰や」
プロトポロは黙った。「誰や訊いてんねん!」アギは口調を荒らげる。
「そいつが王子のかーちゃんに王子を殺させようとしたんか? そいつのせいで王子は危ない目に遭ったんやな? どこの誰や! ワシがエオニオともども丸焼きにしたる!」
「アギ、落ち着いてよ。きみがそんなに怒ることないじゃないか。僕は母上を追い払ってくれただけでじゅうぶんだよ」
エルストは頭上のアギに言った。「アカン」とアギが言う。
「また襲ってくるかもしれんやないか。もしそいつらが王子のかーちゃんをそそのかしてるんなら、そいつらにお灸すえたらなアカン」
「エオニオはすでに死んでいる。それにアギ、きみは神を敵に回すと言うのかね」
「神なら子どもを守らんかい! 子どもだけじゃなく、人間の神様なら人間を守るのがスジってもんやろ。あのとき……ベルのオトンとオカンを守っておくべきやったやろ。なあ王子。ワシが言ってることは間違ってんのかな?」
「ううん。僕もアギと同じ気持ちだよ。エオニオは『隣人を愛せ』って言った。母上がしたことも、サード・エンダーズがしたことも間違ってる」
「せやろ?」
「死んだ人間に生きている人間を守れと言うのかね」
プロトポロが言った。エルストはこう答える。
「言うよ。生きている人間を守ろうと思ったからエオニオは死んで神になったんじゃないの? わざわざ教えを遺してさ。だったらきちんと役目を果たしてよ」
「……そうか。それがきみの考えかたなのだな。これについて私はもう何も言うまい」
「いや言えよ。スティグムって誰なんや」
アギがいくら問いただそうとしても、プロトポロは口を割らなかった。
「ねえ、アギ」
「なんや?」
その後、数日かけて崖をぬけたエルストたち。夕日が隠れ家を照らしている。エルストは数十日弱ぶりに帰ってきた家を前に、アギへと言う。
「あのさ。僕が左目とひきかえに秘薬を手に入れたことをベルには言わないでほしいんだ。マーガレットにもね」
「なんでや?」
「そんなことを知ったら、ベルはきっとこの秘薬を飲みたがらないんじゃないかと思ってさ」
「たしかに飲みづらくなるかもやけど……」
「ね。いいでしょ。男同士の約束だよ」
「わかった。王子がそう言うんやったら、そうするわ」
「ありがとう。さあ、帰ろう」
エルストは隠れ家の玄関を開けた。
「ただいま」
そして家の中に入るなりアギのマントを脱いだ。
「皆さん、おかえりなさい!」
エルストらを出迎えてくれたのはキッチンに立っていたマーガレットである。エルストとアギ、プロトポロの帰還を確認するなりぱっと顔を輝かせ、ベルさん、皆さんがおかえりになられましたよ、とはしごのほうへ大声で呼びかけた。
「ベルの具合はどう?」
「プロトポロさんに教えていただいて用意した解熱剤や鎮痛薬がありましたので、以前よりはお加減よさそうですけど、それでもやっぱり……」
マーガレットの曇った表情を見るに、症状はあまり変わらないようだ。エルストらは床に荷物を下ろしだす。それだけで旅の疲れから解放された気分だとエルストは思った。そして頭からアギを取り外す。すると、マーガレットがぎょっとした顔でエルストの左目を見た。
「エルストさん、その目! どうされたんですか」
「なんでもないよ」
「なんでもなくないでしょう。ひどい傷」
「ほっといていいよ。大丈夫だから。それよりも、きみに頼みがあるんだけど……」
エルストは懐からゾイの花を取り出し、マーガレットに差し出した。
「この花を煎じてほしいんだ。そうしたら、その残骸がベルの怪我を治す薬になるから……手伝ってくれないかな」
「もちろん手伝います。でもエルストさんの怪我は?」
「僕のはいいんだ。それより、はやく取りかかろう」
エルストはマーガレットに有無を言わさず、ゾイの花から薬を作りはじめた。
「私たちは見物していようか、アギ」
「せやな、プロトポロ」
その後、エルストはアギを抱えてはしごを登り、ベルのいる二階を訪れた。プロトポロが水と秘薬をもち、エルストに続いてワープしてきた。
「やあ、ベル。ただいま。もう夜になっちゃったけど……起きてる?」
「わ、エルスト様、なんか毛むくじゃらですけど」
ベルはベッドに寝そべったまま瞳を開けている。エルストは空いた手で頬から顎をさすった。たしかに毛が生えきっている。まず剃り落とすべきだった、と少し後悔した。
「そりゃ僕だって生えるよヒゲくらい。寒さから肌を守ろうっていう本能の現れだよ」
「へへ、おかしい。プロトポロさんとそっくり。でもプロトポロさんはあんまり伸びてないですね。……みんな、おかえりなさい」
「ただいま、ベル」
「アギも。プロトポロさんもおかえりなさい。よかった、みんな無事で。よいしょ」
熱にむしばまれているであろうベルだが、かまわず上半身を起こした。次にエルストを見た瞬間、とうとうそれに気づく。
「エルスト様……その目?」
ベルの眉間にしわが寄った。エルストは気まずそうに顔をそむけ、こそこそとベッド横のサイドテーブルにアギを置く。
エルストの左目のあった傷跡は、包帯こそ巻いているものの、傷口がただれ、血と膿があふれ赤黄色に滲んでいる。また顔の左半分は腫れ上がっている。エルストは表情にこそ出していないが、まだずきずきと傷口が痛んでいるし、首から上が熱くてたまらない。
「転んだんだ」
床に腰かけ、エルストはそう答えた。これにアギが乗じる。
「見事な転びざまやったな、王子。あれは傑作やったで」
「まあね。その拍子に石にぶつけて怪我するんだからたまらないよね」
「そんな。私の怪我を治す秘薬を見つけにいった先で……」
「ううん。これは僕の不注意が招いた結果だ。僕はマヌケだしすぐカッカするし、今じゃなくてもいずれどこかで怪我をしてたさ。ていうか、そんなことはどうでもいいんだよ」
エルストはプロトポロから秘薬と水を受けとり、それをベルの目の前に運ぶ。
「飲んでくれる?」
ベルはしばらく黙っていた。その後、ベルはようやく意を決したのか、水と秘薬を受けとろうとした。そこへ、
「少し待て。この秘薬を飲むまえに、きみたちに言っておかなければならないことがある」
プロトポロがそんなことを言いだした。そして彼はエルストとベルを、ひとしきりじっくりと見比べたあと、こう告げる。
「じつは、この秘薬はルナノワの町に住む人間の魔力を糧にしている」
首をかしげるのはエルストもベルも同じだった。アギも、どういうこっちゃ、と不思議そうにしている。
「エルスト、ルナノワの町はやけに明るかったろう」
「そうだね、プロトポロ。常夜の町だっていうから、僕はてっきり暗いところかと思ってた。というか『常夜の町』っていうのも、あなたが本に書いたことなんでしょ?」
「そうだ。むかしは暗い町だったのだ。私はルナノワの町についてよく知っているし、この秘薬の材料となったゾイの花の正体についても知っている」
「花の正体?」
「そうだ。あの町を照らす光は町の住民から徴収した魔力で発生させられており、あの土地一帯に埋もれたドラゴンの肉体と自然の土や砂、それから人間の魔力が生み出しているあの光が奇妙な反応を起こし……さらに、人間の血液を混ぜた水を草地にそそぐことでゾイの花が誕生した。そしてこの秘薬が開発された」
エルストとベルは顔を見合わせる。わけがわからないが、エルストは、胸のあたりに薄気味悪さを感じ始めた。エルストはいったん一階に下りた。あの、エルストが本棚から見つけた、常夜の町ルナノワについての本はほんとうにプロトポロが記したものなのか確認したかったからだ。ふたたび二階に戻ってきたエルストは、ベルから見て、とても憔悴した顔だった。エルストの手中にある本の最後のページには、たしかに古びたインクの筆跡でプロトポロとサインしてある。ベルが、これはプロトポロさんが書いたんですか、と訊けば、当人はそうだとあっさり答えた。エルストはベッドのふちに背を預けて座り込んだ。
「プロトポロ。つまり、ゾイの花は人間の魔力をエサにして咲いてたってこと?」
「極端に言うならそういうことだ、エルスト」
するとエルストは上半身をベッドに乗せた。そこには、青い顔をしたベルがいた。
「ベル。飲まなくていい、そんなの。傷はゆっくり治そう。そんな、まるで人間の命を食べるみたいな!……そんなのはダメだ。よしてくれ!」
先ほどまでの態度とは一変し、エルストはきっぱりとそう断言した。けど、とベルは言い淀むが、エルストは、そんなものはベルに飲んでほしくないと強く思っている。人間の血を吸った花から作られた薬など、捨ててしまえと、エルストは立ち上がった。しかしエルストのそうした思惑を感じたのだろうベルはすばやく彼の腕を掴む。
「飲みます。私、飲みます」
「だけどベル、こんな薄気味悪いもの……」
「エルスト様の片目をムダにするなんて私はイヤ。私はイヤなことはしないから。それに、今できることはなんだってやりたい。見ててください、エルスト様。あなたは魔法が使えなくても私の怪我を治してくれるんですからね」
全身から力が抜けたエルストは、閉口してその場に腰を下ろしてしまった。エルストの頭上を水と秘薬がよぎった。いただきます、とベルの声が聞こえた。エルストは秘薬について、もう何も言えなかった。
次にエルストがベルに視線を移したとき、ベルはおそろしく元気になっていた。ベッドから降りた彼女が自分自身で服の中を覗き込むと、驚くことに、傷跡ひとつ残っていないというのであった。ほか、連日うなされていた原因である痛みも、熱も、一瞬にして気配を消したのだという。それはエルストの、左足の怪我が治癒したときと同様であるように思えた。ベルは体の感覚を確かめるように床の上で跳ねている。
エルストはつい口もとを手で覆った。嬉しさと、悲しさと、はがゆさなど、さまざまな感情が唇から漏れていくような気がした。あいかわらず言葉を失っているエルストに、ベルはありがとう、と礼を述べるのだった。それに答えられず、シーツに突っ伏したエルストの頭の上から、プロトポロがまたしても口を開く。
「きみたちにとある魔法について教えよう。エルストの魔力がない理由に最も近い魔法についてだ」
エルストは首だけ動かし、右目でプロトポロを見上げた。
「きみたちはとても勇気のある人たちだ。その勇気に敬意をこめ、教えようと思う」
気づけば夕日が大きく傾いていた。夕日を受け、金髪が輝くのをエルストは目の前で確認する。もうすぐ夜が来る。