再会 ★
城中に待機していた帝国兵が次々と襲ってくる。城内を老人とともに走るエルストは左脛の痛みを噛みしめながら帝国兵に立ち向かっていく。エルストが剣を振りかざした直後、目の前の帝国兵が壁際に移動した。老人が束縛魔法を使ったのである。エルストは立ち止まり、剣を下ろした。
エルストは息を切らしながら老人を見る。老人はベルのように加工済みドラゴンを持っていないのに、ためらいもなく魔法を使っている。もう寿命が尽きて死んでしまうのではないかとエルストは心配するが、老人が倒れる気配はない。
「そういえば、あなたの名前、まだ聞いてなかった。僕はエルスト。あなたはなんていうの?」
「プロトポロ」
「へえ、変わった名前なんだね。でもいい響きだと思う。庇ってくれてありがとう、プロトポロ。あなたの目的は……知らないけど」
「きみは魔法を使わないのかね?」
「使いたくても使えないんだよ」
エルストは剣を廊下に突き立てる。プロトポロは腕組みをし、黙ったままエルストが歩きだすのを待つ。ふたりはアギの居場所をしらみつぶしに探している最中だ。手当たり次第にあらゆる部屋を回っている。
「私が探してこようか?」
プロトポロが言った。動き出す様子のないエルストに痺れを切らしたのかもしれない。
「いいや。僕も行く。ベルたちと合流しなきゃ」
エルストはふたたび歩き出した。アギがいる場所に、きっとベルもいると信じている。
エルストはひとつの扉を開けた。ここは武器庫のはず。
「――うわっ!」
武器庫に入るなり正面から強風が吹いてきたので、エルストは目を閉じた。体が飛ばされそうな勢いだ。「ブオオ」という風の唸りも耳に届いてくる。そのうちエルストは体のバランスを崩し、うしろへ転げてしまった。この風はいったいなんだ、と思いつつ、エルストはおそるおそる目を開ける。
「……ドラゴン?」
エルストは息を飲んだ。エルストの目の前には、武器庫の様子ではなく、晴れ渡った草原の上を飛び回るドラゴンの姿があった。その白いドラゴンはこちらに顔を向ける。「やばい」とエルストは身構えた。あの白いドラゴンはとても巨大で、顔の高さだけでエルストの身長はある。このまま衝突してしまえば自分の命はない。エルストはそう思い、逃げようとした。
「プロトポロ、きみも逃げて――」
エルストはそう叫ぼうとしたが、ここにはエルストとドラゴンだけしかいなかった。硬直するエルストをよそに、当の白いドラゴンはエルストの頭上を過ぎていく。エルストはただドラゴンが過ぎ去っていく時間を待った。
白いドラゴンが飛び去っていき、エルストはあらためて周囲を確認する。自分はたしかに武器庫へと入ったはずだが、今いるのは見たこともない草原だ。空には何頭ものドラゴンが飛んでいる。
エルストは自分の知っているものを探そうとした。さっきまで一緒にいたプロトポロはどこにもいない。アギもいない。もちろんベルもいない。エルストは不安に駆られた。ドラゴンはいるが、エルストはひとりきりだ。
「どうして誰もいないんだ? ここはどこなんだ? 僕はさっきまで、城のなかにいたはずなのに」
エルストはそうぼやいた。そのときだった。エルストはあることに気づく。
「ここ……『平ら』だ」
ここには地上に倒れているドラゴンも、地中に埋まっているドラゴンもいない。そんなことを思っていると、足もとに陰がさした。真上を見れば、紫色のドラゴンがゆっくりと空を泳いでいた。
「――エルスト!」
「えっ?」
呼びかけてくる声がしたのでエルストが視線を戻すと、周囲の景色は一瞬にして暗くなった。エルストは驚き、言葉を詰まらせる。今エルストの目の前には、閉塞感ただよう室内で仏頂面を浮かべるプロトポロが立っている。
「だから、聞いているのかね? ここには加工済みドラゴンばかり集められている。こいつらのなかに、きみの宮廷魔法使いのパートナードラゴンはいるのかね、と言っているのだ」
「加工済みドラゴンばかり? そんなはずはないよ。さっきまで、ドラゴンはたくさん空を飛んでいたじゃないか、プロトポロ!」
「いつ頭を打ったのだ?」
エルストにはプロトポロの言っている意味がわからなかった。しかし、あたりの様子を確認してみて、自分がプロトポロと一緒にいる理由を思い出した。自分は今、アギを探して城の武器庫に入ってきたのだ。
「待って。僕たちはテレーマからのがれてベルとアギを探しにきたんだよね。うん、そうだった。すぐにアギを探すよ」
エルストがそう言うと、プロトポロは訝しげにしながらも頷いた。
「ぜひアギを見つけてくれたまえ。どうにもここは気味が悪く、一刻もはやく立ち去りたくてしかたないのだ。テレーマの趣味なのだろうが……ほら、見たまえ。民衆から奪い取ったであろう加工済みドラゴンをこうして並べ、一頭一頭の目の前に供え物をしているだろう」
「本当だ。見たこともないフルーツがたくさん並んでる」
「エテルネの実。ドラゴンの好物だ」
「よく知ってるね」
エルストは半透明のフルーツを横目にアギを探し始めた。右から順に一頭ずつ、エルストは加工済みドラゴンの顔をじっくり確認していく。緑色のドラゴン、違う。青色のドラゴン、違う。ピンク色のドラゴン、やけに派手だがこれも違う。土色のドラゴン、これはツノが五つもある。違う。そうして何頭目か――
「アギ! いた!」
エルストはとうとうアギを見つけた。すやすやと心地よさげに眠るアギの鼻ちょうちんを、エルストは勢いよく叩き割った。
「ふごっ」
アギが目を覚ました。アギのそばにはエルストがまとっていた青いローブや武器、赤毛の少女の黄色いストールもある。もちろんアギは帽子、マント、ナップサック、杖など『一式』そろっている。
「おおおー! 王子や! なんやえらい久々におうた気がすんな! アギさん怖かったでぇ〜。王子が助けにきてくれたんか?」
「そんなことよりベルは? どこ?」
「ベル? さあ、おうてへんで」
「そんなあ……」
「なんや王子はベルと一緒やあらへんのかいな」
「色々あってさ」
エルストは床に腰をおろし、テーブルにうなだれた。そのまま肩で息をする。これからエルストはベルを探しにいかねばならない。もしもベルたちがテレーマに見つかったら、彼女たちは無事では済まないだろう。
エルストの心配をよそに、プロトポロは部屋の中をうろうろと物色している。
「ところでこのジジイは誰や?」
「プロトポロ。僕を助けてくれた」
「噛みそうな名前やな、プロトポ……」
アギがプロトポロの名前を呟いた瞬間、プロトポロの叫び声が響く。
「伏せろエルスト!」
「えっ?」
その直後、武器を並べた棚の物陰から白い光がきらめいた。爆音が響き、重い衝撃がエルストとアギを襲う。テーブルが仰向けになり、あたりは一瞬にして散らかる。エルストはついに剣を手放さざるを得なかった。
「ゲホッ」
舞い上がった粉塵にエルストは咳き込む。なんとか生きているが、体の節々を強打した。煙の向こうでは、プロトポロが、やはり蛇のような腕で何者かの首を絞めている。やがて粉塵がおさまり、エルストはその『何者』かの顔を見ることができた。
「え……ウソだろ」
「なんや? なんや!? 誰や!?」
エルストは目を疑った。思わず涙が溢れ出たのは、なにも砂埃のせいではない。
転がって仰向けになっているアギからはその姿は見えないらしい。いや、見えていたとしても、それが『誰か』なのかは、この場においてはエルストしか知らないだろう。
「この者を知っているのかね、エルスト?」
プロトポロは首を絞め上げる手にいっそう力を込めながら言った。そのまなざしは鋭い。
「知ってるもなにも……その人は……」
エルストの声は震えている。プロトポロに捕らえられている者もまた、息苦しさから金髪を小刻みに震わせていた。
「僕の母上だ」
「へ? オカン?」
アギが拍子抜けした声で言った。
「きみの母親が……なぜ我々に爆撃魔法を放つ?」
プロトポロは目の前で捕らえたままの女を見ている。女――王妃は、金髪はなるほどエルストに似ている。それどころか水色の瞳も同じだ。
王妃は今、息苦しさに顔を歪めている。
「母上。生きてらしたんですか!」
エルストの顔はすっかり母親を求めている赤子だ。
「死ね、エルスト」
「母上?」
「私はおまえを殺したいッ!」
エルストが聞き返す間もなく、王妃はエルストのそばに落ちていた剣を操り始めた。
「エルスト、剣を取れ! 母を殺すか殺されるかだ!」
プロトポロはエルストに投げかける。
「そうでなくば私がきみの母を殺す!」
「そんなの、いいわけないだろ。母上を離せよ! プロトポロ!」
「私も戸惑っているがこの女のきみに対する殺意は本物だ」
「離せって言ってるだろ!」
エルストはプロトポロに体当たりした。そのおかげかプロトポロの手は王妃から離れてしまう。王妃はよろめきながらもその場に踏みとどまった。
「殺されると言っているのだ!」
なんと、プロトポロは王妃が操っている剣を叩き割った。
「げえッ、このジジイ手刀で剣を割りよったがな!」
「きみはちょっと黙っていてくれたまえ!」
「あ、はい」
「いや、良く見るときみのマントはいいマントだな。やはりこのマントを借りるぞ」
「それワシと契約したベルのマントやでぇ!」
「ちゃんと返す」
プロトポロはそそくさとアギのマントを拾い上げた。そのマントを、王妃に襲われようとしているエルストの頭の上からかぶせた。
「隠れよ。〈オルビド〉」
プロトポロが魔法を唱えると、なんとエルストの姿が消えた。すると王妃はきょろきょろと周囲を見る。エルストの姿を探しているのだ。だがエルストの目にはいまだ王妃とプロトポロ、アギはおろか部屋じゅうの光景がそのまま映っている。
「〈オルビド〉は隠匿魔法。エルストの気配を消したのね。これじゃエルストを殺せない!」
王妃がうらめしげにプロトポロに言った。やせ細った顔と体はかつての身分からは想像がつかないほどみすぼらしい。身にまとっているのも色あせたドレスだ。
「動きを封じよ。〈ハッド〉」
プロトポロは束縛魔法を使った。王妃の背中が壁際にぴったりと吸いつく。それだけではない。プロトポロの魔法はエルストの動きすら封じた。プロトポロが王妃に腕をかざすのを、エルストも当然見ている。
『プロトポロ! やめろよ! その人は僕の母上だ。その人は、エレクトラっていう、僕の母上なんだよ! 母上が僕を殺すわけがない! 何かの間違いだ! くそ、動けよこの体! 動けよッ! 魔法がなんだよ! おい、母上を殺すなよッ!』
エルストの声はこの部屋にいる誰の耳にも届いていない。プロトポロの蛇のような腕が徐々に形を変え、やじりのように鋭く尖っていく。王妃の喉元に突き刺すつもりだ。
『やめろォーッ!』
エルストが誰にも届かぬ声で叫んだ瞬間、
「エルスト様ー! いますかー!?」
とつぜん部屋にベルと赤毛の少女が現れた。まるでワープしてきたかのようだった。
「……って、あれ? エルスト様いない?」
『ベル! ベル、僕はここだよ! プロトポロを止めてくれ、お願いだ!』
「ああっ! アギだ! アギー!」
「おお〜ベルー! さびしかったで!」
『……聞いてくれよベル、アギ! どうして僕の声が届かないんだ!?』
エルストはプロトポロの魔法にかけられたことに気づいていないらしい。ベルはようやく頭の上にアギをかぶることができた。杖も取り戻した。
「このおじいさんと女の人はどちら様だろ」
「さ、さあ……」
たじろぐベルと赤毛の少女の前にプロトポロが向き直る。
「きみがエルストの宮廷魔法使い、ベルか」
「エルスト様を知ってる……まさかテレーマの手先!?」
「勘違いをするな。エルストを生かすという意味では私はテレーマとは真逆の存在だ。よく探せ、エルストならそこにいる」
「え?」
プロトポロが指さしたほうには何もない。だがベルは察したらしく、ベルらには見えていないはずのエルストに歩み寄り、エルストにかぶされていたマントをはぎ取った。するとエルストの姿があらわになる。
「ベル……」
「エルスト様、やっと見つけた! あ、なんか魔法で束縛されてるみたいですね。解除したげます」
ベルが杖を振ると、エルストの体は自由を取り戻した。
「って、ちょっと、エルスト様!」
そのままエルストはまっすぐにプロトポロに向かっていく。ベルは脇腹を押えながらその場にとどまる。
「その腕をおろしてくれ、プロトポロ」
エルストは惜しみなくプロトポロの腕を掴んだのだった。
「私は今、きみを助けようとしているのだが?」
「母上は僕の母上だ。母上は二年前、サード・エンダーズに殺されたと思ってた。だけどこうして生きて会えたんだよ!」
「エルスト様のお母様?」
「らしいで。まあワシらに爆撃魔法つこてきたけどな」
「ど、どういうことよ、それ。王妃様がエルスト様に爆撃魔法? 自分の子どもを攻撃したってこと?」
ベルとアギ、赤毛の少女はエルストらのそばで動揺している。
「僕の母上を殺すなんて何様のつもりなんだ、プロトポロ!」
「とても子どもじみた思考にはついていきかねる。きみは現実を直視していない。じつの母親に殺されかけているという現実をね。きみは母親に殺されたいのかね?」
「プロトポロ、あなたには助けてもらったけど、どうしても母上を殺すというなら……」
エルストは自身が山小屋から持ち出した剣を手に取る。
「僕があなたを殺す!」
「エルスト様、ちょっと待って――あぶないッ」
その直後、エルストの視界の片隅で、王妃の魔法によって床から作り出されたトゲに刺されるベルの姿がちらついた。
「え……ベル?」
「おいベルゥーッ!」
エルストとアギがほぼ同時に叫んだ。ベルはみぞおち付近を一突きにされた。
ベルが倒れた。赤毛の少女は悲鳴をあげている。プロトポロもこれには驚いたようで、目を丸くさせている。一方王妃は攻撃の手を止めることなくふたたびエルストを狙い始めた。
「ワ……ワープ……」
エルストが刺されることを危惧したベルが杖を振るった。
ベルがワープ先に選んだのは隠れ家だった。エルストとベル、アギ一式、それからプロトポロと赤毛の少女がいる。このあたりは夕焼け雲に覆われている。
「ここまでくれば、テレーマには見つからないです……」
ベルが言った。みな隠れ家の外に広がる草原へと放り出された格好となった。みなをここまでワープさせたベルは今、小さく呻きながら血を流しながら倒れている。
「ベル! ベル、だいじょぶか!?」
アギはベルの頭からすっかり転げ落ちている。
「母上! 母上!」
エルストは左足を引きずりながら、ここにはいない母親を探し始めた。
「母上……いないんですか!?」
どうやらベルは王妃をここ隠れ家まで運ぶことはしなかったらしい。
「母上……ちくしょう! せっかく会えたのに。プロトポロ! あなたが母上を殺そうとするから!」
エルストはプロトポロに掴みかかったが、逆に、プロトポロのこぶしによって殴り倒されてしまった。
「な、何するんだよ、プロトポロ」
頬を赤くしながら、エルストは悔しげに草きれを掴んだ。
「目の前を見たまえ。馬鹿者」
プロトポロはそれだけこぼすと、ベルを抱きかかえ、隠れ家の中に入っていった。赤毛の少女は隠れ家とエルストを交互に見比べたかと思うと、アギを拾い上げたまま隠れ家の中へ消えていった。
座り込むエルストの周囲には、青いローブと弓矢と剣、赤毛の少女の黄色いストールが散らばっている。エルストは目の前に視線を落とした。少し手を伸ばしてみると、そこはねっとりと濡れていた。ベルの血だった。そのとき、ベルが死ぬことを考え、エルストは全身を震わせた。
それからしばらく、エルストは隠れ家の中に入れずにいた。今さらではあるが、ベルの怪我に恐怖感をおぼえたからだ。恐怖に立ち向かっていくすべを見失ってしまっていたのである。ようやくエルストが隠れ家に入ったとき、ダイニングやキッチンがある一階に、やけに熱気がこもっていた。どうやら湯を沸かしていたらしい。赤毛の少女が働いている。
「あの、きみ。そういえば、きみの名前、なんだっけ」
エルストはついそのように呼びかけた。時刻はとうに夜中である。ダイニングテーブルの上から吊るされたランプが部屋を照らしている。
「私の名前はマーガレットです、エルスト様」
赤毛の少女マーガレットはほほ笑んだ。
「いい名前だね。マーガレット、ベルは?」
「二階で……」
マーガレットは二階へ続くはしごを見る。二階はとても暗そうだ。
「傷口の消毒と止血は先ほど済んだんですけれど、痛みがそうとう、つらそうで。ベルさん、大丈夫かしら。あ、いえ、大丈夫ではないですよね。刺されたんですから。私、なんだかここまでついてきてしまいましたけれど……」
どうやらベルは生きているらしい。エルストはひどく安心できた。
「きみはそこで何してるの?」
「プロトポロさんに鎮痛薬の作り方を教わったので、作っている最中です。お湯はそのせいなんです、ごめんなさい、暑いですよね」
「ううん。よくお湯を沸かせたね。火打ち石でもあったの?」
「え? ああ、魔法で」
「……そっか。魔法か」
「それにしても、プロトポロさん、本当に物知りなんですよ。材料は、アギさんが地下の保管庫にあるって言うから、そこで揃えさせていただきました」
「そっか」
エルストは椅子に腰かけた。
「あの、エルスト様も、お怪我なさってますよね? エルスト様のぶんのお薬も用意しますから」
「エルストでいいよ。僕の傷は、ベルよりは平気だ」
「怪我は怪我です。放置するともっと痛くなってしまいますよ」
「ねえ、それより、これ」
エルストはダイニングテーブルの上に黄色いストールを置いた。それからテーブルの横へ弓矢と剣、青いローブを置く。
「きみのものでしょ。外に落ちてた」
「あ……ありがとうございます。母の形見。エルストさん、ありがとう。本当にありがとう」
亡き母の形見を受け取ったマーガレットは嬉しそうに笑った。
エルストはテーブルに突っ伏す。魔法が使えない自分に、今できることは何も無さそうだと考えたのだった。こらえきれずに涙が出た。理由はひとつには絞れなかった。足と頬の痛み、母、無力感、ベルの怪我、数えるだけでも四つはある。そのひとつひとつにエルストはなぜだか泣きたかったのである。暑いというのに、マーガレットは、少し考えたあとにエルストの肩へ黄色いストールをかけてやった。エルストはそのまま一晩をテーブルで過ごした。
その翌日のことである。エルストは全身に足を滲ませながら、隠れ家の二階へと登っている。
たっぷりと時間をかけて登るエルストを、プロトポロが腕を組みながら見上げている。食卓では昼食のための香ばしいかおりがしている。
「あ、王子や」
二階に到着すると、ベッド横のサイドテーブルに置かれたアギがエルストを出迎えた。すると下階にいたはずのプロトポロが一瞬のあいだにエルストの目の前に現れた。エルストは、ワープ魔法か、とぼやく。
母を殺されかけて以来、エルストはプロトポロとの距離を測れずにいる。
「エルスト。きみはなぜ魔法が使えないのかね?」
「そんなの知らないよ、プロトポロ。生まれつきなんだ」
「魔力も持たないということか?」
「知らない。でも、誰も僕に魔法の使い方を教えなかった。教えてって言っても無駄だった。それってつまり僕が魔法を使えることは絶対にありえないってことでしょ? 王国では子どものころから魔法の使い方を教わるんだから」
エルストはベルが横たわるベッドのふちに背を預け床に座った。エルストは己の腹をさする。突起しているへそがある。
「ベル。これからどうしようか?」
エルストはベルを見ず言った。どうしようか、というのは、サルバひいてはサード・エンダーズに対する復讐についてである。
「エルスト様。あなたの宮廷魔法使い、プロトポロさんに代わってもらってください」
「え?」
それはエルストにとって思いがけない返答だった。
「私は怪我しちゃいました。それにエルスト様にも怪我させました。宮廷魔法使いって王子様に怪我させちゃだめな人のことですよね? 宮廷魔法使いは王族を守る人だって私の親から聞いたことがあります。だから……」
「待ってよ。急に何を言いだすの?」
「だってこんな体じゃエルスト様を助けてあげられない。王妃様ってエルスト様を魔法で殺そうとしたんですよね? テレーマもエルスト様を狙ってる。サルバもきっと。全員からエルスト様を守って、そのうえサード・エンダーズを潰すなんて、こんな怪我した体じゃ私はとても自信がないんです」
「僕を守ってなんて、僕はひとことも言ってない!」
「でもエルスト様は魔法を使えないんでしょ!」
ベルの声が荒くなった。エルストはつい身構える。
「だったら私がエルスト様を守るしかない。サルバを殺すための〈最強の魔法〉だって私が使わなくっちゃいけない。だけどこんな体じゃまともに動くことさえ……」
「魔法、魔法って!」
エルストは床に膝をつき、ベッドのふちに両手を置いた。
「僕のことをバカにしてるのか!? みんなそうやって、魔法が使えない僕を下等だと思ってるのか!?」
「そんなつもりはないですよ。でも山小屋のサムは魔法が使えないエルスト様を庇って死にました! エルスト様は、こんな寝たきりの私に、サムのようにあなたを庇って死ねって言うんですか?」
「僕は死ねなんて言ったことはない。サムに死ねと言ったことはない。サムを殺したのはサルバだ!」
「でもあなたが魔法を使えたらサムはきっと死ななかった!」
エルストは一瞬、言葉に詰まる。
「……そうだね。きみが怪我をしたのはボクを庇ったからだもんね」
「あ、ちょい待ちぃや王子!」
それきりエルストはベルと言葉を買わさなかった。アギの制止の声も聞かず、エルストははしごを降りていった。
その後、隠れ家にこもる憂鬱な雰囲気を和ませるように、マーガレットが昼食を用意してくれた。マーガレットが嬉しそうな顔で合掌する。
「神エオニオとドラゴンの恵み、命の恵みに感謝し、いただきます。……あれ、プロトポロさんは合掌なさらないのですか? ここでは帝都のように合掌を禁止されてはいませんよ」
「私は朝、起きたときに一日ぶんの合掌をしているから問題ない」
「なんだそれ?」
エルストは首をかしげつつ合掌した。その後イモにかぶりつきはじめる。
「私、本当にここでしばらくお世話になってもよろしいんですか?」
ひとくちずつ小さく食べているマーガレットがエルストに訊いた。プロトポロは片眉を上げてエルストを見る。エルストは急いでイモを飲みこんだ。
「いいと思う。いま王都、ううん、帝都に戻ったら、テレーマに見つかって殺されちゃうよ。兵士だってきみの顔はおぼえてるだろうし」
「それに、この王子は怪我人の看病もできないようだからな。きみがいてくれると心強いのではないかね、マーガレット」
「ところで、そういうあなたはいつまでもここにいるつもりなの、プロトポロ? 僕、あなたが何者なのかさえ知らないままなんだけど」
「通りすがりの老人だ」
「城の中を通りすがるの? 皇帝の前を通りすがったの? どうして?」
「散歩だ。そしたらきみがテレーマに攻撃されていた。たまたまだ」
エルストとマーガレットは顔を見合わせる。エルストは訝しげに肩をすくめた。
「テレーマは二年もあんなふうに城に居座ってるの?」
エルストは次にマーガレットに尋ねる。
「暴虐っていうかさ。あいつはきっと国民をろくに扱ってないだろうね」
「そのとおりです。テレーマ陛下は平民を、ただの魔力の塊としてしか見ていません。おまけに水色の瞳……ちょうどエルストさんやプロトポロさんのような色の瞳をした者は、帝国への謀反を画策しているとして容赦なく処刑しています」
「僕はそれが不思議でたまらないや。どうして瞳の色だけで? なんの理由があって?」
「王族が決まって水色の瞳を持つからだ、エルスト。かつて二年前死んだ国王や王太子も水色の瞳だったという。きみの父と兄のことだ。だからテレーマは水色の瞳をしている者はみな王族だと断定して次々と殺してまわっているのだよ。もちろん中には王族でない者も混じっているが、そんなことはテレーマには関係ないのであろう。テレーマはほんの些細な可能性ですら摘み取ってしまおうと考えているのだろう」
プロトポロが説明するとエルストは匙を置いた。マーガレットがプロトポロの言葉に続ける。
「私の弟も水色の瞳だからという理由で殺されました。私の家系は、遠い先祖が王族の庶子だったとか。私は父譲りで緑色ですが、弟は母に似て、水色の瞳をしていましたから」
「じゃあきみの母親も?」
「いいえ、エルストさん。両親は二年前の火災で死にました。ですけれど、もしも両親が火災で助かっていたとしても、母はテレーマ陛下に処刑されていたことでしょうね」
「テレーマはきっときみを探していたはずだ、エルスト。二年前、王都では君の遺体が見つからないとして騒ぎになっていたようだからな」
「ちょっと待ってよ。プロトポロ。そんな言い方じゃ、まるで……まるで今までテレーマに処刑されてきた人たちは僕のせいで死んだみたいじゃないか!」
「十中八九そうだろう、エルスト」
エルストは思い切り立ち上がった。左足に激痛が走った。だが、エルストは構わずに大声をあげる。
「ふざけるなよ! 僕は誰も殺しちゃいないんだぞッ! それなのに、死んだ人が殺されたことを『僕のせいだ』って押しつけるなよッ!」
エルストが無意識のうちに払い落とした匙が乾いた音を立てて床に落ちた。マーガレットが慌てて拾う。そのあいだに、プロトポロはエルストの目をまっすぐに見つめてこう言う。
「だがきみのために死に追いやられた者はたしかにいる。否定するなと言っているのではない。押しつけようという気もない。ただ事実を見よと言っているだけなのだよ」
「事実って、そんなの……」
エルストはただ己が潔白でいたいだけである。サムであっても国民であっても、殺したのはサルバやテレーマなのだ。
「エルスト。きみには、『再会した母』や『誰も殺していない自分の潔白な姿』ばかりを見ようとすることではなく、自分を庇って怪我をしたベルやきみのせいで死んだ者たちという『目の前にある事実』を認識することのほうが何より必要だと私は思うぞ」
プロトポロのこの言葉はエルストには重かった。「あの……」とマーガレットが背筋を曲げて言う。
「エルストさんは王国を復興してくださるのですよね?」
「え?」
「テレーマ陛下を倒してくださるのですよね? そのために王都に戻ってきてくださったのですよね?」
「僕は……」
「違うのですか?」
マーガレットは王子であるエルストに、それを期待しているのだった。当のエルストはうつむく。
「僕はただ、父上と兄上を殺したサルバを殺したいだけだ。仕返してやりたいだけだ」
そのときエルストは気づき始める。殺したい相手がいる以上、自分が潔白であることは最適ではないのではないか、と。
「だけど、それだけじゃ、ダメなのか。……ダメだよな。なぜなら――僕は『王族』なんだ」
そしてこれが、エルストがようやく目前のことを見つめだしたきっかけであった。