帝都 ★
一羽の鳥が喉を鳴らしながら朝焼けの空を駆け巡る。
鳥の眼下にはツノやキバを剥き出しにしたドラゴンの肉体がいる。倒れていると言ったほうが正しいだろうか。ドラゴンはもう何千年とそこで生きている。ドラゴンは肉体が固まろうとも、その生命が尽きることはない。
このように、世界にはドラゴンの肉体がひしめいている。それが『峡谷世界』と呼ばれるゆえんだ。
エルストは大空を羽ばたく鳥を見ていた。朝日を浴びるエルストの背後には見上げるほどの大岩がぽつんと建っている。熊の頭のような形の大岩だ。周囲は平らな草原である。ここはとあるドラゴンの額の上らしい。
あの晩のあと、エルストはベルに連れられてここ『隠れ家』へとやって来た。隠すにはあまりにも目立っているものの、エルストとベル以外、ここに人の気配はない。夜が明ける前「ここは安全なのか」とエルストはベルに尋ねた。「安全ですよ」とベルは答えた。結界魔法とやらを使っているらしい。
鳥が去っていき、エルストも隠れ家に入った。簡素なキッチンとダイニング、そしてあちこちに散乱した本の数々がエルストの目に映る。丸い窓から射し込む光が照らすのは天井まで届く本棚だ。しかし本棚は空っぽである。そこに収められていたであろう本がこのように散らばっているのだ。しかも、昨夜来たときからこうなのである。部屋の奥には二階に繋がるはしごがある。ベルとアギはいま二階で就寝中だ。
エルストは足もとに落ちていた一冊の本を手にとった。
「魔法と魔力と寿命の関係……」
エルストは本のタイトルを呟いた。表紙にはタイトルのほかに、かすれた文字で「プロ……」という文字が刻まれている。
「『我々人間やドラゴンが魔法を使うとき、魔力と呼ばれるエネルギーを消費する。この魔力というものは、長年の歴史における研究のすえ、寿命と比例していることがわかった。つまり魔法を使うとき、人間やドラゴンは己の寿命を消費しているのである』」
エルストは本の中身をさらに読み進める。
「『ただし、ここで人間とドラゴンには大きな違いがあることを忘れてはならない。人間の寿命は有限であるが、ドラゴンは不死身であるため寿命は無限なのだ。魔法を使いすぎた人間は必然と死ぬが、ドラゴンはいくら魔法を使っても死ぬことはないのだ』」
それが魔力と寿命の概念である。エルストはさらにページをめくる。
「『ところで世界には、ドラゴンを加工した――いや、加工されたドラゴンが存在している。それは、もはや自力では肉体を動かすことが不可能となったドラゴンの肉体を、ホウキや帽子、マントなど、あらゆる形に加工した品のことであり、これらはすべて加工済みドラゴンと呼ばれている。加工済みドラゴンは一般のドラゴンや人間と同様に意識や魔力、そして意志を持っている。人間は加工済みドラゴンと契約を交わすことで、その契約した加工済みドラゴンが持つ魔力を借りることができるのだ。画期的なこの加工済みドラゴンは、大昔、アルムムの民が産み出したのを起源とする』……」
さらにページをめくるべくエルストの指が動いた。しかし、そこでエルストは本を読むのをやめ、朝食の準備をしようと思い立った。
「でも、食料ってどこにあるんだ?」
エルストは部屋を物色するがそれらしきものはない。外に倉庫もない。もしかして、この散乱した本の山に隠れているのだろうか。だとするなら、エルストがするべきことは決まっている。エルストは本を一冊ずつ片づけ始めた。本棚がみるみる埋まっていく。
「あれ? なんだろう、この扉」
ほとんど片づけ終えたころ、エルストは地下に続いていそうな扉を発見した。それは床にあった。この先が食料庫なのだろうか。エルストは扉を開け、中に進む。「あった、食料!」地下に広がる倉庫の中でエルストは目当てのものを見つけた。しかし、
「この本棚はなんだ?」
同時に不思議な本棚も目に入ったのだった。一階の本棚とは違い、エルストが何もせずともきれいに整頓されている。エルストはその中から一冊を取り、ページをめくってみることにした。
「『ドラゴンの殺害方法についての研究』……どうしてこんなものがここに?」
ここに置いてある本のどれもがドラゴンに関する研究資料のようだった。その資料すべて、作成者は『ベニー・テン』という名前である。とすると、これらの資料はベルの家族が保有していたものであり、その家族というのは、おそらく二年前に殺された両親のことだろう。
しかし、なぜベルの両親が遺した研究資料がこんなところに? ベルの両親は王都で殺されたはずだ。
「――エルスト様?」
エルストは肩をびくりと跳ねさせた。食料庫の入口へ振り向くと、そこにはベルだけが立っていた。「何してるんですか?」気のせいか、ベルの声は冷たい。
「これからお世話になるから、せめて朝食でも作ろうと思って。食料を探してたんだ」
「食料は右の棚ですよ。エルスト様が見てる左の棚は関係ないものです」
「ごめん、なんだか宝物に触っちゃったみたいだね」
エルストが持っていた本は、何も言わないベルによって棚に戻された。
やがてエルストはベルとともに朝食を用意した。テーブルでは、アギをかぶったベルがエルストの正面に着席した。テーブルの上には湯気を立てるイモが美味しげに並べられている。
エルストは両手を合わせようとした。サムと山小屋に住んでいたときのように、合掌をしようとしたのだった。そのとき、ベルは何も言わず、フォークの先をイモに突き刺した。エルストは呆気にとられた。
「食べないんですか?」
目の前でイモをかじるベルに、エルストは我にかえる。
「ベル。きみは食事の前に合掌しないの?」
「パパとママが生き返るのなら」
エルストはイモとベルを交互に見比べた。その後エルストは一度フォークを手に取ったが、それをすぐに手離した。乾いた音がテーブル上で鳴る。
「……神エオニオとドラゴンの恵み……命の恵みに感謝し。いただきます」
エルストは合掌した。
「なあなあ、もーすぐルクステラの季節やないか、ベル?」
エルストとベルの食事の音ばかり不規則に続いていたが、ふとアギが会話を始めた。
「ルクステラってめったに見ることができない流れ星だよね。ここからだと見えるの?」
即座に反応したのはエルストだった。ベルが答える。
「ここの周囲にある山が邪魔しければ、たまに見ることができますよ」
ベルの言う山とはドラゴンの活動が停止した肉体のことである。
「ルクステラってじつはドラゴンの肉体だって話、エルスト様は知ってます?」
「さあ。知らないな」
「どうせ迷信のひとつやろ? ホレ、『闇の谷の黒ドラゴン』みたいなモンやて。人間がお空おの上に行って確認したわけちゃうやろ」
「そういえば、アギは加工済みドラゴンなんだよね」
エルストが尋ねる。
「じゃあベルはアギと契約してるの?」
「そうですよ。加工済みドラゴンの魔力を使わせてもらうには、魔力を用いた契約が必要不可欠ですから。アギは魔法学園に入学したときに、王様からもらいました。預かったって言ったほうが正しいかな。死んだ魔法使いの加工済みドラゴンはまた王様に回収されますからね」
「父上は死んだよ。回収する人はいなくなったんじゃないの」
会話はそこでしばしのあいだ途切れた。
「王都って今、どうなってる? 僕はサムから何も教えてもらってないんだ」
エルストが言った。ベルは食事をする手を休め、じっとエルストの顔を見る。
「私とアギ、たまに食糧の買い出しで王都に行くことがあるんですけど……聞きたいです?」
そしてベルはこう言ったのだった。それは返答というよりは、意志確認のようだった。エルストは頷いた。ベルは顔色を暗くさせ、こう続ける。
「王都は、というか、王国は二年前から帝国に支配されています」
帝国、と復唱しながら、エルストは眉根を寄せた。
「――エルスト様、ひとりじゃ危ないんですってば!」
ベルの声がエルストの背中に届いた。隠れ家のクローゼットにあった青いローブをまとったエルストは、二年という月日を経て、この王都に戻ってきた。エルストとベルは王都郊外から中心街へと薄暗い道を進んでいる最中だ。エルストが歩くたび剣が揺れている。エルストを追うベルの肩にはアギを詰め込んだナップサックがぶらさがっている。空飛ぶホウキは隠れ家に置いてきた。
隠れ家をエルストが抜け出した理由は、今日、朝食の席でベルから聞いた『帝国』の話である。帝国とは——今や滅んだとされるエルオーベルング家のかわりに『皇帝』が君臨している国らしい。世界は現在、その帝国に統治されているという話だった。
「魔法使いが加工済みドラゴンを所持するだけで罪になるなんてふざけてる!」
エルストが怒号を飛ばした。そう、帝国では、魔法使いは加工済みドラゴンを奪われるどころか『加工済みドラゴンを所持した罪』によって殺されるという。ベルがアギの頭を隠しているのはこのためだ。さらには皇帝自ら選出した国民は帝国兵として徴兵されるという。逆らった者は死罪にするそうだ。
「だいたい皇帝ってなんなんだ。そんなの聞いたこともないよ」
エルストが王都で暮らしていた時代、そんなものは聞いたことがなかった。兄や両親ならば見知っていたのかもしれないが、死人に話を聞くことなどできはしない。エルストには、皇帝が、サード・エンダーズによる王都襲撃事件の隙を突いて王に成り代わったようにしか考えられなかった。
ベルは目の前を早歩きで進むエルストの右腕を掴んだ。
「うかつに見つかってエルスト様の身分や正体がバレでもしたら……殺されますよ。皇帝は王国を嫌ってますから」
「じゃあ僕の名前を呼ばないでくれる、ベル? そうすりゃ無事で済むよ」
「そんなコワい顔してこの街をふらついてたら異端視されて捕まるのがオチです。だから私から離れないでくださいね。城に忍びこんで皇帝の顔を見たら、すぐ隠れ家にワープする。これが隠れ家を出るときに交わした約束ですよ」
ベルはエルストからやや目をそらし、ここはもう帝都なんですから、と念を押すように言った。
ぼうぼうに草木が生え、とても人間の手入れが行き届いているとは言えない薄暗い『帝都』郊外を抜け、エルストらはようやく民間の居住区に出た。殺風景だ。不規則な形をした石が道に埋め込まれている。風が砂埃を舞わせている。石造りの住居が建ち並んでいるが、どの家も窓や戸を閉め切っているか、あるいは廃屋となっている。草木は荒れ放題だ。
「このへんも二年前に火事で焼けました。それ以来、私はあまり帝都には来ていないんですよね」
ベルが言った。エルストは「人がいないね」と呟く。ベルは頷いた。
「皇帝はこんなところを統治してるんだね」
「統治するなら、もっと……復旧とか人を呼ぶとかすればいいのにって思いますけど」
「同感だよ」
しばらく進むと、少し先に建つ住宅の陰から女の悲鳴が聞こえてきた。エルストとベルは顔を見合わせ、やがて一斉に走り出した。
「あ、待って、エルスト様。武装してる人がいます。念のため隠れましょ」
エルストはベルによって住宅の陰へと押しこまれた。そしてベルを先頭に、道端で繰り広げられている口論を覗き見る。口論しているのは赤毛の少女と武装した男だった。
「――いくら皇帝陛下のご命令であっても、水色の目をしているからといって弟を処刑したなんてあんまりです!」
黄色のストールをまとった赤毛の少女は長い髪を振り乱しながら泣き叫んでいる。エルストはベルの右肩を叩く。
「水色の目だって? ベル、どういうこと?」
「私も初めて聞きました。意味わかんないです」
「あっ! あの男、女の子を殴ったぞ。許せない」
「ちょっと、エルスト様、勝手に動かないでくださいって、あーもう!」
住宅の陰から飛び出したエルストを、ベルが慌てて追いかける。
「おい!」
エルストは赤毛の少女と男のあいだに割って入り、帝国兵の前に立ち塞がる。
「おまえ、今この女の子を殴ったばかりか、剣を抜こうとしてるだろ。誰がこんな暴挙を許したんだ」
エルストの目は剣の柄に手をのせた男の挙動を見逃してはいなかった。
「のけ! なんだテメェは! 俺は皇帝陛下のご命令でここにいるんだぞ」
「国民を殴ることが命令だって? おまえは兵士なのか?」
「ああそうだ! 俺ら兵士は選ばれし帝国民だ。貢ぎものを免除してもらうかわりに、陛下の御意に背くヤツを処罰してんだ。……ん? テメェのその『瞳』……そしてその目立つ青いローブ! 貴様、加工済みドラゴンを持った魔法使いだな!」
「え? いや、そのローブはただのローブで……」
ベルはつい声に出した。もしかするとエルストも似た反応を示したかもしれない。だがベルが口を挟む前に、エルストらの未来は帝国兵によって決定される。
「水色の瞳をした者は重罪人! ましてや加工済みドラゴンの所持は死刑! テメェらを城に連行する!」
思いがけない展開だった。帝国兵が高らかに叫んだ次の瞬間、エルストとベル、そして赤毛の少女は、城の中にある牢獄へとワープさせられた。
ドラゴンの肉体を加工して建つ城の内部、その中でもひときわ寂れた雰囲気のある牢の土壁は背中を刺すように冷たい。エルストとベルは羽織っていたローブやマントを没収された。ついでに言えば、ベルの杖やアギが入ったナップサックも押収された。エルストも丸腰である。ベルは黒いワンピース姿だ。
現在、鉄格子の檻にエルスト、ベル、それから赤毛の少女が入れられている。三人の手足にはいかにも頑丈そうな鎖がはめられ、身動きが取れないようにつながれている。
エルストが魔法使いでないことはすでに帝国兵へ伝わっている。エルストが羽織っていたローブはただの布きれだったからだ。そのかわりエルストと一緒にいたベルへと容疑が向けられ、ベルはみごとアギという加工済みドラゴン一式を奪い取られたという始末である。この三人はかれこれ小一時間は同じ体勢のままだ。手首から続く鎖は頭上からたれ下がっているため、三人はやむなく棒のように立っている。
「はあ~」
ベルは盛大に溜め息をついた。
「ここに入れられてから考えてたんですけど、エルスト様ってそーゆーとこあるタチっぽいですよね」
「そういうとこって?」
エルストにベルはこう答える。
「見境がないっていうか、勢いだけっていうか」
「そこの女の子が殴られてるっていうのに黙って放っておけないじゃないか!」
エルストはベルの頭の向こうに見える赤毛の少女を見た。
「それとこれとは話が違うじゃないですか。ひねくれてるのかまっすぐなのかどっちなんですかっ」
ベルは両足を浮かせたり、手首を吊る鎖に体重をかけたりしながら反論する。
「私はね、放っておけないからといってむやみに飛び出せばいいってもんじゃないって言ってるんです。私だって困ってる人がいたら、そりゃあ助けたいですよ。助けたいとか悪いヤツを許せないって気持ち、私だって知ってるもん。でも……計画性って言葉、あるじゃないですか!」
そう言うとベルは思い切り床に足を打ちつけた。
「あーもう。賑やかなアギがいないからってきみがアギのかわりに騒ぐことないだろ!」
「そう、いま最も重要なのはそこなんですよ……アギ~! どうしてさらわれちゃったの。今どこにいるのー! もう一緒にお料理できないなんてさびしい! アギも絶対さびしがってる! 絶対助けてあげるからねー!」
「静かにしやがれ!」
ベルを牽制したのは三人を連行してきた帝国兵だった。いつのまにか三人の入る檻の前に立っている。
「帝国兵。ふーんだっ。ベロベロベー! 私たちをここから出しやがれ! べろべろ!」
ベルは舌を出しながら挑発している。
「おまえ、僕たちをここから出せ!」
すぐさまエルストも怒鳴りつけた。
「ああ出してやるぜ」
「えっ、帝国兵が意外にあっさり応じてくれた! 自分で言っておいてなんだけど、意外すぎる……あ〜っ、わかったぞ! さては何か企んでるんでしょ! そうに違いありませんよ、エルスト様、気をつけないとダメですよ」
「おい、何を企んでるんだ?」
ベルの忠告を受けたエルストが帝国兵を睨みながら尋ねた。
「出すのはテメェだけだ」
「エルスト様だけ? なんで? 私たち女の子は? ずるいずるい、そんなのずるーい!」
「うるさい。小娘たちはそこにいろ。じきに命令が下される」
帝国兵が檻の中に入るや否やエルストの両手足にはめられた鎖を解いた。そしてエルストに檻を出るよう顎で促す。エルストはベルと顔を見合わせる。不安げな面持ちだ。エルストは次に、心配そうに視線をよこす赤毛の少女を見た。少女は薄緑色のワンピース姿である。少女のまとっていた黄色のストールもまた没収されているのだ。少女はベル以上におびえた様子だ。
「ベル、その子のこと、よろしく」
「ひとりで大丈夫ですか、エルスト様?」
「大丈夫じゃないけど……大丈夫」
ベルや赤髪の少女と別れ、エルストは今、謁見の間に連行されている。階段をのぼる。岩トカゲと呼ばれるドラゴンと同化するように建てられた城はどこもかしこも石造りだ。エルストは途中、二年前の誕生日に会食していた広間の横を通りすがった。あの広間の中に、もしかするとまだ家族がいるかもしれないという錯覚を抱き、エルストは目の奥を熱くさせ、足を止めた。だが帝国兵はエルストに剣を向け、足を進めることを強制した。エルストは唇を震わせながら、帝国兵の指示に従った。
やがてエルストは、謁見の間へ繋がる扉の前に立たされた。扉の両端には見張りの兵がいる。
「テレーマ陛下。例の者をお連れしやした」
帝国兵が謁見の間奥へと語りかけた。すると扉の奥から「入れ」と応じる、まだ若そうに思われる男の声が聞こえてきた。重い扉を開けた帝国兵はエルストを謁見の間内部へ押しやった。エルストの目の前に敷かれた真紅の絨毯の先には、玉座に乗っかる黒髪の男の姿がある。
「おまえが皇帝か?」
エルストは黒髪の男をじっと見つめる。紫色のコートを羽織った長い黒髪の男は、うつむきがちに玉座にいたかと思うと、エルストの声に反応してその顔を上げた。
「まず、てめえの名前を聞こうか」
黒髪の男は若そうだった。エルストよりも少し歳上だろうか。ランプの明かりが男の顔を照らし出す。
「おまえに名乗るような名前はないね」
「そうか、残念だ。殺される前に名乗らなかったことを悔いろ」
「僕が水色の目をしているから殺すのか?」
「我が帝都の情勢は知ってるようだな」
黒髪の男は愉快げに口角を上げている。
「我が帝都だって? 今、王都が誰のものって言った?」
「この俺様のものだって言ったんだよ。この都をいまだ王都なんぞと呼ぶ、古臭い風貌したおぼっちゃんよ」
黒髪の男にそう言われるなり、エルストはこぶしを握り、悔しげに奥歯を噛み締めた。だが、エルストはまぎれもなく、あの王国の王子だ。
「いいさ、名乗ってやる。僕がここで名乗ることには意義がある。僕の名はエルスト・エレクトラ・エルオーベルング! この王国の王子だ!」
エルストのそばで、帝国兵は、こいつまさか本当にあの王国の、などとのたまった。その隙にエルストは帝国兵の腰から剣を奪い抜き取る。一方黒髪の男はどうだろうか。黒髪の男はやけに落ち着き払っており、にやついた顔を崩してはいない。
「忌まわしいその名とドス黒い血筋こそが、俺がてめえを殺す理由だ!」
黒髪の男が立ち上がったのを合図に、エルストは剣の切っ先を黒髪の男に向け、剣を取り戻そうとする帝国兵を蹴飛ばしながら黒髪の男へ立ち向かっていく。黒髪の男は長い前髪を掻き上げ、魔法により手もとに剣を出現させた。エルストの大きく振り上げた剣は黒髪の男が持つ剣先に受け止められた。エルストは身をかわし斜めに斬り掛かる。
「たしか第二王子は魔法が使えないんだったよなあ。サルバが言ってたぜ」
そう言ったのは黒髪の男である。その直後、エルストのうしろに黒髪の男はワープした。エルストの隙を突けると思ったのだろう。だがエルストの反応は早く、黒髪の男の剣は空振りに終わる。
両者はしばらく斬り合ったかと思うと、エルストは玉座の肘掛けへと倒れこむ羽目になった。背中に激痛を受けたエルストの顔が歪んだ。そしてエルストが体勢を崩したのをいいことに、黒髪の男はさらに追撃する。エルストの左脛を斬りつけることに成功した黒髪の男は愉快げに笑った。床に倒れたエルストは真紅の絨毯を血で黒く染めながら寝返りを打つ。同時にこう叫ぶ。
「おまえ、まさかサード・エンダーズなのか!?」
「今ごろ理解したか。じゃあとっとと殺されな。このテレーマ・ラミナ・ターグによ」
テレーマがふたたび身構えた。
重たい玉座が動く。エルストがテレーマに向けてぶつけようと押し出したのである。しかし、玉座はテレーマに当たることなく床に横転した。テレーマは再度エルストの背後にワープする。だがこれにもエルストは即座に反応し、テレーマの攻撃をかわした。
「魔法が使えないにしてはやけに身のこなしがいいな。下等生物のくせに」
「サルバに立ち向かった勇敢な戦士に戦いかたを教えてもらったのさ。おまえが使ってるみたいなワープ魔法の攻撃には絶対に反応しなきゃいけないって体に染みつかせてるんだ。あのときみたいな思いはもう二度とごめんだからな!」
「虫ケラの決意表明ほど聞く価値のないモンもねぇな」
テレーマと刃を交えるエルストはじりじりと場所を移動していく。そうしてランプの下に辿り着いたとき、エルストは、ランプを思い切り叩き割り、テレーマのコートにオイルをかけた。
テレーマはそのまま火をかぶってしまう。テレーマから離れたエルストは次々とランプを割っていく。やがて絨毯にオイルと炎が飛散した。すると炎はとたんに勢いを増していく。
「おいおい。なに火つけてくれてんだ。てめえのだいじな城だろうに」
コートを脱ぎ捨てたテレーマはうんざりした様子で謁見の間を見渡した。エルストとテレーマのあいだには燃える絨毯が横たわっている。
「べつにいいさ。どうせ、そこの玉座も空っぽだろ?」
「空っぽ! あっはっはっは、そうかそうか。死ね」
笑顔から一瞬にして真顔になったテレーマはエルストへとまっすぐに剣を向けた。その切っ先から黄色い光が瞬き始める。
「〈バルク〉! ぶっ飛べ!」
テレーマがエルストへと放った魔法は爆撃魔法のひとつである。
謁見の間に爆音が響く。反射的にエルストは目を閉じた。だが、少し前に斬られた左脛以外、いつまでも『平気』な身でいる自分がエルストには不思議だった。「てめえ!」テレーマの荒荒しい声が聞こえた。エルストはおそるおそる目を開ける。
「――プロトポロ!」
テレーマが怒鳴ったが、次の瞬間には彼は笑い始めていた。
「ははっ。まさかてめえが現れるとはな。王族の生き残りはなんとしてでも死なせたくないってか? さすがスティグムに負けず劣らずのクズはしつこいぜ。ははは!」
「なんだ? 僕を助けてくれたのはいったい誰なんだ」
エルストの目の前には――ひらひらと舞い踊るマントのようなものが映っている。もちろん、ベルの赤いマントではない。
自分に背を向けて立っているこのマントの人物は何者なのだろう。ちらりとエルストへ振り返ったその人物の目を、エルストもじっと見つめ返す。同じ水色の瞳だ。後頭部でひとくくりにした白髪は長い。顔はシワだらけだ。いかめしげな表情がどこか、何かを思わせるが、この老人の顔に心当たりはない。二年前、自分に仕えていた老執事はいたが、このように険しい顔なんてしていなかったし、瞳の色も別物だった。
「プロトポロと王国の王子。『殺したい相手』が二人も現れやがった。まったく今日はツイてやがる」
テレーマは相変わらず笑っている。
「宮廷魔法使いは?」
老人に話しかけられたのはエルストだった。エルストは思わず「え?」と素っ頓狂な声をあげてしまう。
「きみには宮廷魔法使いはいないのかね」
「いる。助けにいきたい!」
「行こう」
老人はエルストの背中を押した。ところがエルストの左脛に激痛が走る。老人は「怪我をしているのか」と言いながらエルストの足を確認する。その後、老人は己がまとうマントのすそを左の人差し指で撫でた。すると、撫でた部分に切り込みが入る。ちょうど包帯のようになった麻の布切れを、老人は、人差し指を杖のように振って魔法を起こし、くるくるとエルストの傷口に巻き付けた。
「ま、魔法」
礼を言うよりもまずエルストの口を突いて出たのは魔法に対する驚きだった。
「待ちやがれ。てめえらはここでくたばれ。セカンド・エンドの恨みを忘れてやったわけじゃあねぇぞ!」
テレーマがエルストを見逃してやるはずはなく、次々と狙撃魔法を放ってきた。絨毯の炎を越えてやってこようとする火の玉を前に、老人はしわくちゃな右腕をかざす。
「炎よ出てこい。〈マギラス・ダ〉」
老人はなんと絨毯の炎をあやつり始めた。絨毯から浮かびあがった、まるで火のドラゴンと化した炎は、老人の意のままに、テレーマが放った火の玉をも取り込みながらテレーマへと襲いかかる。
「今のうちだ。さあ行こう。牢屋かね?」
それ以上テレーマには構わず、老人はエルストを連れて謁見の間をあとにした。
エルストは目の前の老人が登場したことに困惑しながらも、ベルたちのいる牢屋への道案内をした。道中、救援の知らせを受けた帝国兵が立ち塞がってきたため、エルストは剣を手放せずにいた。もっとも、帝国兵の多くは、老人の魔法により壁に打ちつけられていたが。
「ベル!」
牢屋に辿り着いたエルストは老人をよそに叫びだす。ところが、ベルやエルスト、赤毛の少女が入れられていたはずの檻はもぬけの殻だった。それどころか鉄格子はこなごなに砕けている。何かが起こったのだろうということはエルストの目にも明白だ。
「どうした。誰もいないのかね」
老人は周囲を警戒しながらエルストに尋ねた。エルストは答える。
「うん。ここにはいない。無事だといいけど」
「その檻を見て無事だと思えるとは素晴らしい神経だな」
「だって何が起きたのかさっぱりじゃないか!」
エルストはむきになったが、老人はとくに気にした様子もなく、砕け散った檻や鎖を指した。
「居場所に心当たりはないのかね? このありさまだとそのベルとやらは逃げ出したようだが」
「知らないよ。アギだって奪われてるし……いや……アギ。待てよ。もしかしたらベルはアギを取り返しに行ったのかも」
「どこへ?」
「さ、さあ?」
エルストと老人は顔を見合わせた。