極悪・邪悪・非道人
白い砂に大きく空いた穴の中心部には一頭のドラゴンがいた。小さなドラゴンだ。
「うう……」
ドラゴンが動いた。しかも唸っている。エルストは思わず後ずさりした。『生身』のドラゴンを見るのはこれが初めてなのだ。
「エルスト様、あれって本物のドラゴンですよね? 私、生身のドラゴンは初めて見ました」
「ドラゴンに本物もニセモノもあるの、ベル?」
「あらへんわ! ベルも王子もうろたえすぎやで。ありゃどっからどう見ても本物の生身のドラゴンやろ!」
ベルの頭の上でアギに叱咤されたので、エルストは気を取り直し、例のドラゴンを観察してみた。全身が砂まみれになった緑色のドラゴンは、穴の中心部に降りていったアーロンに軽々と回収されている。頭には短いツノが四、五本は生えているだろうか。もちろん翼もある。
「すごく小さなドラゴンなんだね。たぶん、アギの帽子と同じくらいの全長だよ」
「誰がチビなドラゴンやー!」
と怒鳴られた瞬間、エルストは「うわあ! しゃべった!」と悲鳴をあげながらベルの背に隠れた。その様子を見ていたアーロンはこう呟く。
「加工済みドラゴンがしゃべっていることを不思議に感じないわりにはゲムには驚くのか。変な王族」
「……王族?」
そのとき、アーロンの腕の中にいたドラゴン、ゲムがぴくりと体を揺らした。
「どこや! どこにエルオーベルングの人間がおるんやー! 出てこいっ、いてこましたるー!」
「飛んだ。ねえベル、アギ、あいつ飛んだよ! しかも叫び散らかしながら! なんてうるさいやつなんだ……ドラゴンは声さえあればみんなうるさく叫ぶのか!?」
「オイッ、そりゃどういう意味や王子! 聞き捨てならへんぞ!」
「私が言うのもなんですけど、エルスト様、動じすぎです。そりゃドラゴンなんですから空くらい飛べますし、声を持ってるんですから叫ぶことくらいしますよ。アギも落ち着いて……って、あれ?」
そう首をかしげたのはベルも、エルストも同じだった。全員の目の前で、ゲムの体が急降下を始めたのである。
「あのままだと落ちちゃう!」
一目散に駆け出したのはエルストだった。そのまま穴を滑り降り、砂よりも早くゲムの体を受け止めたのだった。
「大丈夫?」
ゲム同様、体のあちこちがすっかり砂まみれになったエルストは、自分の胸の中で痛みに目をつぶるゲムに尋ねた。
「きみ、ドラゴンなのに飛べないの? 飛ぶのが下手くそだとか?」
そう、先ほどエルストやベルが首をかしげたのは、ゲムが空中を飛び始めたかと思うとすぐに急降下し始めたからである。
「下手なんじゃねえよ。こいつの体はもう空を飛べないくらいボロボロなんだよ」
近くでアーロンの声がした。エルストが視線をあげると、隣にアーロンが立っていた。アーロンはその場にしゃがみ、言葉を続ける。
「見ろよ、片翼は折れて、もう再生不可能になっちまってるだろ?」
「たしかにこいつの翼の片方は折れてますけど……再生不可能って、もう治癒することはないって意味ですか、アーロンさん?」
「少し違う。ドラゴンの肉体は治癒なんてしない。一度つかいものにならなくなったらそれきりなんだ。負傷や損傷をしたら、あとはいつ全身が動かなくなるか、だ。ゲムは、この調子だとあと百年もすれば……この世界じゅうにひしめいているドラゴンの肉体と同じように、魔力を持つだけのただの塊になる」
「そんな……」
エルストは無意識のうちにゲムの翼を撫でていた。ところが、
「触んなや!」
ゲムはエルストの手に向かって火を噴いた。「あつっ」とうめきながらエルストはローブで手をこすった。火をかぶった箇所は赤らみ、血がにじんでしまったが、エルストの関心は火傷を負った己の手よりもゲムの行動のほうに向いている。エルストは先ほどからのゲムの行動、そして言動について振り返ってみる。そしてこう訊いた。
「エルオーベルングの人間がきみに何かした?」
「エルスト様、どういうことですか?」
穴の上からベルが尋ね返してきたのでエルストは答える。
「こいつ、『どこにエルオーベルングの人間がおるんやー!』って言ってた。ひどい剣幕でね。ただごとじゃないでしょ?」
「おい、わいは『こいつ』なんて雑な名前やないで! ゲムっちゅうカッコええ名前があるんや!」
「ご、ごめん、ゲム。僕はエルスト。お察しのとおり、エルオーベルングの人間だよ」
「エ、ル、ス、ト。エルスト。ふん、いけすかん字面やな。わいがこの世で一番キライな名前になってもーた」
そのゲムが最も嫌いな名前の持ち主は困ったようにアーロンの顔を見た。「すまないね。こいつには悪気しかないんだ」とアーロンはエルストに教えた。
「悪気があって悪いことするんならまだマシなほうやで、アーロン。いっちゃん手におえんのは、自分らだけエエ気になって悪事を起こす腐ったヤツらや。たとえば、ん~、そやな~、エから始まってグで終わる名前のどこぞのお偉い人間様とかな!」
「それってもう答えを言ってるようなものじゃないか……僕がきみに何したってのさ?」
「およよ? べつに誰もエルオーベルングさんとは言ってへんけども、まあ、ご自分でお認めになられるならそのほうが世のためでっせ、エなんとかさん。極悪・邪悪・非道人さんでしたっけ?」
ゲムの挑発も度を超えてきたころ、とうとうエルストは眉尻をつり上げて言う。
「きみ、ちょっと言いすぎだよ」
「ああん?」
「僕が先祖から受け継ぎ、母からもらい、父につけてもらった名前を理由もなしに愚弄して良い気になるなんて、きみのほうこそ極悪ドラゴンじゃないか!」
「なんやと!」
「ドラゴンには『誰かから名前をもらうことの喜び』がわからないようだね。きみが飛べないなら、たとえ腕が焼け落ちようが僕がきみを抱えてこの穴をのぼってやろうじゃないか。極悪・邪悪・非道人のぬくもりをとくと味わうことだ!」
抵抗するゲムを抱きしめたままエルストは穴をのぼった。ベルとアギがなんとも言いがたい表情で迎えてくれたとたん、ゲムはあろうことかエルストの顔面に火を噴いた。
「エルスト様! 〈ロヴェーショ〉!」
苦痛の声をもらすエルストの顔にベルが魔法で水をかけた。だが火の勢いはよほど強かったらしく、鎮火するころにはエルストの顔面、頭皮の一部はひどく焼けただれてしまっていた。左目を隠していた眼帯も、とっくに焼失している。ベルとアギが心配そうに見つめてくる中、エルストはゲムをずっと抱きかかえていた。そこで声をあらげ、エルストの手中からゲムの体を抜きとったのはアーロンだった。
「ゲム! おまえ、やりすぎだ!」
「うっ……アーロン、なんでおまえがそんなに珍しく怒鳴るんや……」
「おまえが悪いことをしたからだよ。今おまえがしたのは、おまえが嫌う『残虐なこと』だ。違うか? 悪気があろうがエエ気になろうが、悪いことをするヤツは全員が悪いんだよ!」
「そんな怒らんでも……わいはおまえのことを思って……」
焦げたまつ毛が数本残る右目でエルストはアーロンとゲムを見た。エルストが見るかぎり、ゲムはアーロンの叱責を受けたことにより気落ちしている。ひりひりする唇を動かし、エルストはアーロンを呼んだ。
「嫌がるゲムを無理やり抱きかかえてきたのは僕です。ゲムを責めないでやってください」
エルストがそう言うと、アーロンは表情を大きく歪めてエルストとゲムを見比べた。エルストの言うことが理解できないとでも言いたげな顔だ。
「エルスト。きみがゲムを庇ったら、おれが怒る意味がなくなっちまうんだが」
「でも、ほら、ゲムだって反省してるみたいですし……」
「反省すりゃ解決するのか? 加害者が気落ちすりゃ悪事を許しちまうのか、きみは?」
「え? いや……」
エルストは言葉に詰まった。
「ちなみにこいつが反省してるのは、自分がきみに悪いことをしてしまったと理解したからじゃない。本来なら自分に同調してくれると踏んでいたはずのおれに怒られたから、だ。そうだよな、ゲム?」
アーロンに問われたゲムはもう何も言おうとしない。
「……王族に関わると調子狂うぜ」
と言い残し、アーロンはエルストとベル、アギ、そしてゲムを置き去りにしてサンゴルドの町に戻っていくのだった。




