王国のバカヤロー
ベルとアギが会った今日のエルストは、思いのほかあっけらかんとしている。
「やあ、おはようベル。ゆうべはよく眠れた?」
などという挨拶まで投げてくるほどだ。ベルは、眠れました、とウソをついた。
「魔法が使えたんだ」
どこを目指すわけでもなく、炊き出しで賑わう人混みの中を歩きながら、エルストは隣のベルとアギに切り出した。
「この炊き出しの鍋……僕が火をつけたんだ。魔法で。ふたりに教わったとおりにしてみたら、できたんだ」
エルストがふたりの顔を盗み見ると、ふたりとも笑ってはいなかった。続けてふたりに言おうとした「あんまり嬉しくなかったよ」という言葉は、エルストは飲み込むことにした。そのかわり、ひと気のない路地裏にふたりを誘う。
肌寒く薄暗い路地裏に入るなり、エルストはこう言う。
「ねえ、ベル、アギ。君たちにはいろんなことを話したいんだけど、その前にひとつ、いいかな」
アギもベルも不思議そうな顔をすると、なんですか、とベルが促した。
「人の命を奪うことは悪いことだ。それだけ、まず言っておきたくって」
そのエルストの言葉を聞くなり、ベルはどこかはっとしたように目を光らせ、そしてしばらく押し黙った。その後、こう口を開く。
「どうしてそう思うんですか?」
今度はエルストが黙る番だった。ベルにこう尋ねられることは意外だというのがエルストの正直な感想だ。
黙したからといって、エルストは言葉に窮したというわけではなく、胸の中に溜まっている言うべき返答をどのような言い草に変換すべきか戸惑いつつも、エルストはこう答えだす。
「おととい、アギがアデルフィアの基地で言ってくれたよね。僕がテレーマを目の前にして戸惑っていたとき、『王子がゲロったときの感覚を思い出しや! アレがいま王子に必要な正しい感覚や!』って」
「なんや、ワシのモノマネ似てへんなぁ」
「次からは練習しとくよ。そしていま重要なのはそこじゃなくて、『正しい感覚』ってところ」
エルストは冷たい石垣に腰をおろした。
「僕が『人殺しは悪いことだ』と断言できるようになったのは、もちろんベルとアギがテレーマの前で僕を叱りつけてくれたことも大きい理由だし、城で見聞きしたことも、チャックを守れなかったことも……そして母上を食べたことも理由だからなんだ」
「いろんなことが理由になってるんですね」
「うん」
相づちを打ちながら隣に座ったベルにエルストはうなずいた。
「それらの理由を前にすると、やっぱり胃のあたりがむかむかするんだ。すると『悪いと思う』のは、不快感が生まれるからなんじゃないかって気づいたんだ」
「不快感ですか」
「うん。人の命を奪うって行為は、はっきり言って不快だ。そうして不快感をおぼえて、やっと、僕はそれを悪いことだと思うんだ。ベル、きみも言ったように、もしもサルバが父上たちを殺したときに僕が不快にならなかったのなら、今ここに僕は居ずに済んでる。だって、その場合、サルバは悪いことなんてしてないんだから。そのことをようやく理解できた」
そしてここからが本題なんだけどね、とエルストは続ける。
「ふたりにお願いがあるんだ、ベル、アギ」
「なんや?」
「ふたりには……僕のことを許さないでいてほしいんだ」
許さないでいるとは、とベルは首をかしげた。
「母上を食べて殺した僕のことを、絶対に許さないでいて。母上を食べて、命を奪うなんて悪いことをした僕を許さないでいてほしいんだ。悪いことを理解している僕のまま、サルバを殺してサード・エンダーズを潰すために」
そうでなければ『復讐』とは呼べない、とエルストは説いた。復讐と聞いたベルは眉を寄せる。
「復讐のため……でも、サルバが殺したのは結局、国王様とサムだけでしたよ」
王妃は生きのびていたし、コネリーも生きながらえていた。それでも復讐をするのか、と、ベルはそう言いたいのだろう。
「父上とサムの命だけでもじゅうぶんすぎるよ」
「それでも……国王様はエルスト様にひどいことしてました」
つらそうな表情を見せるベルは、きっとベル自身の生まれのことと、自分――エルストの生まれのことを重ねて考えているのだろう、とエルストは察する。
「でも、だからって、父上がサルバに殺されていい理由にはならないよ」
復讐を続けると決めているエルストはそう答えるしかなかった。
「せやったら……」
と、アギが声を震わせて口を挟む。
「サルバが王子らに殺されてええ理由にもならへんのとちゃうか? べつにワシはサルバの肩持つ気はあらへんけど。でもいまワシが言うたこと、もう王子は理解してへんとは言わせんで」
アギ、と呟きながらベルは視線を落とす。一方、エルストはしっかりとアギの目を見つめ返している。
「ああ。理解してるよ。だからこそ許さないでいてほしいんだ。サルバを殺すことは悪いことだって、どこかではっきりと分別しておかなくっちゃならない」
「そうわかっててもなおサルバを殺すことには、国王とサムの命と同等の価値があるんか?」
「それ以上の価値がある」
「それ以上やと?」
アギはムッとしたように眉根を寄せた。
「サルバを殺せたらテレーマも殺せるってことになる」
エルストも語気を強める。
「テレーマを殺せば、帝都の人たち……小さな赤ん坊の未来を保障することができる」
「保障?」
「一時的にでも、あの人たちは解放されたんだ、テレーマに食べられる未来から。なら僕はそれを永遠のものにすると保障しなくっちゃいけないんじゃないかって、そう思うんだ。それが実現できたら、それはこれ以上ない価値のあるものだ」
エルストはアギやベルから視線をそらし、路地裏の向こうに見える、朝の日射しの中で賑わう人々の姿をたしかめた。
地形は歪み、家は壊れ、チャックという小さな赤ん坊ひとりは死んだが、それでも帝都民たちは、その身が差し出される恐怖から、一時的にでも解放されているのだ。
「それに、ここで僕がサルバやテレーマを殺すことをやめてしまったら、それは兄上と同じってことになっちゃう」
「コネリー様と?」
「うん」
エルストはベルにうなずいた。
「僕はサルバやテレーマがドラゴンであると知ってしまった。最強の魔法〈ラウフヤドム〉のことも知ってしまった。そしてテレーマが帝都の民たちにしてきたおぞましい行為のことも知ってしまった……ここで僕が復讐をやめたら、それは僕が帝都の人たちに『見ないふり』をしたってことになる」
ベルもまた座ったまま路地裏の向こうに首をかたむけた。エルストもその先を見続けている。三人の視線の先には、手を繋いで炊き出しへ向かう親子の姿があった。
「僕は兄上にこう言った。『知ってたんなら、なんとかしてほしかった』って。その僕は兄上と同じことはしたくないんだ。知ってしまったから、なんとかしたいんだ!」
見ないふりをされることがどれほどつらいものであるのかを、今こう語るエルストは知ってしまっているのである。
アギはもう何も言うことはなかった。ベルの瞳は路地裏の向こうから一転し、エルストに向けられた。エルストもまた、ベルを見る。
「エルスト様、ごめんなさい」
「えっ? なに、急に?」
とつぜん謝られるものだから、エルストは拍子抜けした。
「私、軽く考えてました。人の命を奪うこと。親を殺すこと」
「そうなの?」
「はい。けっして軽く考えてたわけじゃないんですよ。でも実際に目の当たりにしたら、想像以上に重すぎました。重すぎたんです」
「そうだね」
エルストはうなずく。
「それは僕も、少しわかるな。でも僕、ベルはもっと思い切りがいい子だって思ってたけど」
「んー。私自身、思い切りがいいつもりでした。だけどいざエルスト様と王妃様を目の当たりにすると、こう、いろんなものがグチャグチャに見えちゃったんです。これまでの価値観とか、ぐらぐら揺れ始めちゃってて」
「そうだったの? ごめん、気づかなくって」
「気づかなくていいですよ、私の気持ちですもん。それに、いまエルスト様と話してたら、グチャグチャだったものがまたちゃんと形になってきました。おまけにエルスト様ったら、自分のことじゃなくて、大勢の人たちのことを考えてるんですもん……私も見習わなきゃ」
ベルは立ち上がる。
「エルスト様。あなたは悪いことをしました。また、私も、あなたに悪いことをさせました」
「ベル……」
「そのことを、ずっと忘れずにいましょうね。そして復讐してみせましょう」
今までに見たこともないベルの薄い微笑みに、エルストは、うん、と笑み返し、右目にわずかな涙を浮かべながら立ち上がった。
「王子?」
エルストの涙を見過ごせなかったアギが尋ねた。
「ううん。なんだか、やっと……母上を食べた自分のことを、受け止めることができた気がして」
すると、自分たちも予期していなかったかのように、ベルとアギの瞳からも涙が溢れた。その様子に、三人はなぜだかいっせいに吹き出してしまった。
「すー、はー……」
やがてベルはなにやら大きく呼吸をした。そして何を思ったか、
「王国のバッカヤロォォーッ!」
と叫んだのである。ベルの怒号が路地裏や岩トカゲの肌に反響し、あたりにこだまする。都じゅうに聴こえたのではないかと思うほどの大声だった。
「よっし!」
何かが吹っ切れたような顔でベルは両手を腰にあてた。エルストは戸惑っているが。
「私たちがこうなのは全部親のせい! 王国のせい! サード・エンダーズのせい! だけど私たちはそれを受け止めてやるんだからね、コンチキショーっ! あーすっきりしたっ!」
エルストが次にベルを見たとき、ベルは、いつもの彼女の姿に戻っていた。「ホンマやかましいわぁ」などとアギがぼやいている。
「ふうっ。じゃあエルスト様、今日からも気張っていきましょー! 打倒・みんなの未来を脅かすものっ! エルスト様、途中でヘコたれたら許しませんからね!」
「ベルこそ」
エルストもまた、いつもの自分に戻りつつあった。




