思い悩むベル
その後エルストは、およそ一時間かけ王妃の肉体の一部を食べ、そしてほんの少しの時間で王妃の首を絞めて殺害した。
エルストの体を操ったのはやはりベルだった。エルストの意識はそのまま覚醒させておき、彼の肉体の動きだけを巧妙に動かした。それはとても初めて使う寄生魔法〈オルデアクル〉とは思えないほど繊細なバランスをたもっていた。おまけにベルの目も、迷っていなかったのである。むしろエルストの意識がベルに乗り移ったのではないか、そう思えるほどであった。
ミズリンは恐ろしいものを見る目でベルを眺めている。
深夜を迎えている帝都の片隅で、ミズリンは、つい先ほど嘔吐したばかりのベルの背をさすってやっている。
「僕の目的は王国の復興と、その未来を守ることと、サード・エンダーズへの復讐だ。そして……母上。これはあなたへの復讐だ」
ミズリンはエルストが王妃を殺害するまでのすべての時間に立ち会ったのだが、あれから数時間経った今でも、エルストが発したあの言葉が耳に残っていることに確実な嫌悪感と達成感を抱いている。
嫌悪感の正体は単純明快で『人が人を食べること』への感情である。これはけっして褒められたことではないし、この帝都にいる人間だれしも持ちうる感情であろう、静かに封印されているテレーマひとりを除けば。
ならば達成感は? それもまたミズリンは自分の気持ちをちゃんと理解している。およそまともな人生を送っていないエルストが、自分自身の意志で、ある意味でひとつのケリをつけたからである。じつを言うなれば、コネリーはエルストに魔力を取り戻させたがっていた。ミズリンから言わせれば――このさいミズリン自身のおこないには触れないでおくが――子に『外道』な仕打ちを与えた亡き国王と王妃に対し、子みずから罰を与えたのだ。
そして、ベルがとつぜん緊張の糸が切れたように弱り始めたことについては『なぜなのか』という疑問ばかりを感じている。これはベルがためらいも迷いもなく〈オルデアクル〉を敢行してみせたことへの問いである。
とにかくいま自分にできることは、ベルと、とくにエルストの精神状態を気にかけることと、王妃とともに姿を現したのちベルに捕らわれたままでいるマーガレットを逃がさないこと、そして帝都民の動揺を鎮める手立てを考えることだ。ミズリンはそう気を張り詰めている。おまけに自身の赤ん坊には乳を飲ませてやらねばならない。そのように慌ただしいのだが、それすらエルストの前ではささいなことのようにミズリンには思えている。
◇
「ねー、ミズリン様……ミズリン様は、ご自分を『犠牲にした』って、そういうことですよね?」
ベルは自身の容態が落ち着いた未明ごろ、岩トカゲ裏のとある空き家にて、ちっとも眠気がやってこないことをいいことに、隣のベッドに身を倒しているミズリンに声をかけた。ミズリンはつい先ほどその腕の中の赤ん坊が泣いたことでベルと同じく目を覚ましていた。一方で、アギはベルの頭の横で鼻ちょうちんを膨らませている。
「犠牲? どういうことかしら?」
赤ん坊の機嫌を損ねないような声でミズリンは言った。ベルはこう答える。
「岩トカゲが倒れるのを阻止したときのことです。地形を変えるほどの大きな魔法なんて、消費される魔力の量も膨大ですよね。だから私たち魔法使いはふつう、小規模の魔法しか使わない」
「そうね。『ふつう』はね」
「あ……」
その言葉に反応したベルは気まずそうに眉を歪めた。
「あ、ごめんなさい、違うのよ」
ベルの様子が変化したことを察したミズリンは慌てて取り繕う。
「あなたを傷つける意図はなかったの。でも言いかたが悪かったわね、ごめんなさい」
「……あの。その、私のことは、ほかにも……」
「いいえ。知っているのはコネリー殿下や私くらいかしら……二年前、『そのこと』を知っている王国上層部はほとんどサルバに……サード・エンダーズに殺されたの。あとは私の両親だけれど、その両親も……」
そこでミズリンは言葉を詰まらせたが、すぐに言い直す。
「少なくとも私が口にしたのは昨夕が初めてよ」
「そうですか。あの……できれば、今後も……えっと」
「ええ。言わないつもりよ」
「ありがとうございます」
ベルは少しだけ安心できた。
「それで、さっきの質問だけれど……私が私を犠牲にした、とかいう話よ。そうね、あなたがそう思うのなら、私は私を犠牲にしたということなのかもしれないわ」
「うーん」
ベルは仰向けに身を倒したまま腕を組んだ。
「私わかんなくなっちゃいました」
「わからない? 何が?」
「ミズリン様は、その、えっと、さっきもおっしゃってたように……自分の家族のことを死に追いやったんですよね?」
「……ええ。そうね、そうよ」
「私、それって……たとえ正当な理由があったんだとしても……すごく、きたなく感じちゃいます」
そう言ってベルはミズリンを一瞥した。
「あ、あの、私もミズリン様を傷つけたいわけでこんなことを言ってるんじゃないんです。だからミズリン様の気に障ったのなら、この話、やめますから」
「いえ、大丈夫よ。あなたの言うことに私は反論するつもりはないし、あなたがいま何か悩んでいるがゆえにこうやって質問しているのだということは、ちゃんと私に伝わってる。私に答えられることなら答えるわ。続けて」
「はい。ありがとうございます」
ベルは再度、礼を述べたあと、言葉を続ける。
「で、自分の家族を死に追いやった、そんなかたわら……ミズリン様は岩トカゲが倒れるのを防いだ。自分の魔力を大きく犠牲にして」
ミズリンは無言でベルが言い終えるのを待っている。
「それがすっごく勇気が必要な、キレーな行動だったんだってことも、私は心から感じてるんです。ねえミズリン様……なんでそうまでしてあんな魔法を? ヘタしたら、あなたが死んでしまうのに」
ベルが今一度たずねると、ミズリンはしばしのあいだ返答を考えるような顔を浮かべ、やがてこう言った。
「コネリーが王国を守ろうとしたから……命がけでテレーマを封印したから、かしら」
そのとき、ミズリンの表情が柔らかくなったのをベルは見た。
「私がコネリーの婚約者であったと同時に、コネリーの宮廷魔法使いだったことは知っているわよね」
「は、はい」
「私は彼と一緒に旅をして、世界や王国の、いろんなことを知った。きっとあなたの基準でいうと王国はすごくきたないことをしてきたわ」
「きたないこと……」
「あなた自身がその被害者であるようにね」
被害者。そうか、自分は、他人から見れば被害者なのか、とベルはぼんやりと思った。
ミズリンは続ける。
「だけどコネリーは、そんな王国の未来を守りたいと言った」
「でも、だからって……」
ミズリンはベルに、困ったような笑顔を見せてこう述べる。
「私の大好きな人がそんなことを言ったのだから、私はどうしても、そのお手伝いをしたくなったのよ。私が魔法を使う理由はそれだけでじゅうぶん」
その言葉を届けられ、ベルはなぜだか胸のあたりが締めつけられる感覚をおぼえた。
ベルは以前、エルストと一緒にテレーマのもとを訪れたとき、テレーマの魔法からマーガレットを庇い、魔力消費量の多い魔法を使ったことがあった。その際テレーマには「寿命が惜しくねえのかよ?」と言われたが、ベルは、ことのほか惜しくはなかった。
ベルにとって、魔力とともに寿命を消費するよりも、時間を無駄にするほうが損だったのだ。その考えは今も変わらない。
「惜しくない。私は寿命なんて惜しくない……私は誰かのために魔法を使っていたい」
「……ベル?」
ベルの声色が落ちたので、ミズリンは不審そうに目を細めた。
「だけど、だからって自分が他人の寿命……命を好き勝手にしていい理由にはならない。でも、エルスト様がやったこと……やらせたこと……私たちがやろうとしてることは……」
ミズリンが想像できないようなところで、ベルは思い悩んでいた。
◇
その日の明け方、ベルは外で帝都民に挨拶をしながら炊き出しをおこなうエルストの姿を見つけた。
「なんや珍しいなあ。王子て、あんなに人と喋るヤツやったか?」
ベルの頭の上ではアギが目を瞬かせている。
「そんなことより私もお手伝いしなきゃ。行くよアギ」
「おう! けどベルも王子もちゃんとメシ食えよ!」
ベルはエルストのもとへ駆け寄った。




