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岩トカゲの崩落

「兄上!」


 エルストの悲鳴が帝都の空に響き渡った。

 エルストらは城下町に放りだされた格好だ。おそらくコネリーは、弟たちを転移させる場所の細かな指定はしなかったのだろう。城の外に脱出さえしてくれれば、それでよいと思ったのだろう。


「なんやなんや、岩トカゲがホラっ、あんなに傾いとんで! 前代未聞やでぇ!」


 目を丸くさせたアギが叫んだとおり、城を抱いた岩トカゲは明らかに前傾している。

 テレーマが城のいたるところを破壊して回ったことで、岩トカゲは重心を預けていた城の根幹を失い、ああなっているのだろうとエルストらには理解できた。


「テレーマは、あの様子じゃまだ封印されてない。このままじゃ、王都が岩トカゲに押し潰されちゃう」


 エルストが指摘した。

 エルストもまた岩トカゲに怯えている。いや、怯えというよりは、自分が生まれてからずっと鎮座していた岩トカゲが傾きつつあるという目を疑うような光景に放心しているようだ。


「まずワシらも逃げたほうがええんちゃう? それよか王子の兄ちゃん、大丈夫なんか?」

「大丈夫って信じるしかない。僕は兄上のことを考えるよりも、まずは人間を避難させなきゃ! あちこちに民間人いるはずだ!」

「せやけど王子、モタモタしてたらワシらが危ないやんかーッ!」


 民間人を見捨ててはおけないと考えるエルストは奮起しているが、アギはあくまでも自分たちの安全を確保したいようだ。


「ベル!」


 エルストがベルの右肩を掴みながら呼んだ。

 城からはテレーマのものと思われる紫色の翼が見え隠れしている――まだ動いている。


「民間人を助けよう。そうでなければベルは先に避難してて!」


 このとき、エルストは本心では、またしても兄と生き別れたことを嘆きたかった。だがエルストは、それを表に出さず、ただひたすら『岩トカゲが倒れかけている事実『』を見ることができている。一方、ベルはどうだろうか。


「エルスト様……やだ、置いていかないで。私も行きます」


 ベルもまた、エルストを見て自身の気持ちを強く引き締めた。



 エルストらは爆音が鳴り響く中を駆けていく。爆音というのは、もちろんテレーマが暴れる音である。城から粉塵が舞い上がっているのが城下町からも見てとれる。


「隠れ家にホウキ置いてきたの失敗でした」

「どうせ一軒一軒まわるしかない。あ、分かれ道だよ」


 エルストは目前に迫る岐路を指す。二手に分かれた道だ。


「僕、右のほう行くから!」


 ベルはこれに頷く。


「わかりました。私とアギは左の道に行きますね!」


 そこで口を挟んだのは名前を呼ばれたアギである。


「なあなあ民間人やワシらの合流地点は? 決めとかんでエエの? 王子、ゼッタイ迷子なるやろ?」


 そうは言っても合流地点など考えている暇はない。岩トカゲは以前よりもさらに前傾しているのだ。

 一瞬のあいだ思案したすえ、エルストはこう提案する。


「じゃあ岩トカゲの真後ろで! それなら僕もベルもわかる、誰にだってわかる!」

「エーッ、そんな歩かすの、民間人をッ? ココからやとエラい距離やで!」

「つべこべ言うなアギ! 国民はひとり残らず、僕が潰されてでもきちんと助けるさ!」


 それを最後に、エルストらは二手に分かれた。



 その後エルストはひとり、それぞれ家に閉じこもっていた民間人をひとりずつ誘導した。ひとりひとりを岩トカゲの真後ろへ連れていくのではなく、岩トカゲによる被害が及ばないと踏んだ地点までの避難を呼びかけたのだ。


 城に異変が起きていることを知らない民間人の中には妊婦もいた。

 エルストは戸惑ったものの、妊婦数名を荷車に乗せ、それを単独で引いていった。

 そうして避難誘導は順調に進んでいるかのように思えた。岩トカゲは倒れる速度をやや高めつつあるが、コネリーがテレーマを再封印したのかは、今エルストは考えないことにした。

 そんなエルストは民家一軒一軒、屋内を確認し、取り残された者がいないか見てまわっている。

 あの家で最後だ。エルストは古びた戸を叩く。


「誰かいますか!」


 岩トカゲの傾く角度が狭まってきたころ、このエルストの呼びかけに応じる声が聞こえてきた。年寄りの声である。


「おばあさん! はやく逃げますよ、事情があって岩トカゲが倒れてきてます!」

「はえ?」


 戸を開けて出てきたのは白髪も禿げた老婆だった。耳が遠いのか、はたまたエルストが言ったことの意味がわからないのか、まばたきを繰り返している。


「岩トカゲ……倒れてきちょる?」

「空、見て。ほら、ねっ?」

「ありゃま本当だわ。こりゃイカンわね」

「だから逃げますよ!」


 エルストは老婆を半ば強引に連れ出そうとした。ところが老婆は足腰が悪いらしく、まともに歩けそうにない。


「乗って!」


 老婆を背負っていこうと判断したエルストは、腰を曲げ、老婆を背中に乗せた。

 ところが、老婆がこんなことを言いだす。


「ありゃ? あの子はどこかねえ?」

「あの子?」


 老婆の口ぶりから、行方が見当たらないのは子どもだろうとエルストは推測できた。


「まさか家の中?」

「おお、きっとそうじゃ。両親が死んでから、わたしひとりで面倒を見ておってな」

「名前は?」

「チャックといってな」


 エルストは老婆を背負ったまま家の戸をふたたび開けた。


「チャック! チャック! いる!? おいで!」


 このさい無礼も何もないだろう。エルストはずかずかと家の中をうろつき始めた。外はもう岩トカゲの巨体によって薄暗くなっており、窓からは日の光など差し込んできてはいない。その中を、エルストは一心不乱にさまよう。


「うああ……」


 物陰から小さな声が聞こえてきた。


「チャック!」


 エルストは、その子を見つけることができたことを喜ぶと同時に愕然とする。

 なぜならチャックは、まだ一歳にもならないような男児で、祖母と同じくろくに歩けも、ましてや走れもしない様子だったのだ。

 家の外で大きな音が響いた。何かが崩れ落ちたような音だ。それが城から降ってきたガレキであろうとエルストは想像する。きっと岩トカゲはさらに接近してきているだろう。


 子どもと老婆、歩くこともままならないふたりのどちらを優先して避難させるべきか、エルストは今その判断を迫られている。

 エルストの喉が鳴る。その間にもあちこちで崩落の音が聞こえてくる。


「『国民はひとり残らず、僕が潰されてでもきちんと助ける』……のではなかったのか?」


 背後からそのような言葉がエルストの耳に届いた。老婆の声ではない。


「プロトポロ! なんでここに!」


 振り返ったエルストは、家の中に佇むプロトポロを見つけた。


「マーガレットを追ってきてな」


 とはいえプロトポロは誰かをを心配して来たわけではなさそうである。


「マーガレットは無事かな……」


 エルストが呟いた。すっかりテレーマや兄、岩トカゲに気をとられていたが、彼女も王都にいるのならば岩トカゲの被害を受ける可能性は大いにある。しかしながら今エルストが取り組むべき問題はこの老婆とチャックだ。天井から落ちてきた砂屑を避けながら、エルストはプロトポロにこう怒鳴りつける。


「ねえ、手伝ってよ。なに悠長にしてるんだよ。たくさんの命が危ないんだぞ!」


 この怒号に、プロトポロは静かに腕を組み、こう答える。


「岩トカゲのあの規模よ。死傷者のひとりやふたりは必須」

「誰かを見捨てるってことか?」

「それもやむをえぬということ……」

「手伝えよッ!」


 エルストは、魔法を使える人間が誰かを見捨てることもやむなしと考える一方で、魔法を使えない自分が人間をもれなく助けたがっていることに対してこの上ない腹立たしさをおぼえた。


「これらは助けるべき命だ! 事実を見ろよプロトポロ。きみの目の前には助けが必要な命がいるんだぞ!」

「私の答えは変わらない」


 いくらエルストに言われようとも、プロトポロはそう言い、眉毛を上下させるだけであった。

 エルストはこめかみに青筋を走らせながら、老婆をおぶったまま肩で大きく息を整えている。人に頼ることがそもそも見当違いなのかもしれない。プロトポロに頼ることが、そもそも見当違いなのかもしれない。そう考えながら、呼吸や気持ちが落ち着くと、エルストは背後の老婆にこう尋ねる。


「おばあさん、おんぶヒモはある?」

「そりゃそこの棚の中にあるが……ほれ、そこじゃ」

「だったらなんとか大丈夫だ。おばあさんも赤ん坊も、僕が連れてくよ」

「じゃが、そんな力仕事、いくら坊やでも……」

「大丈夫だってば。おばあさんは僕の背中で安心しててくれたらそれでいい」


 エルストはいったん老婆を床におろすと、チャックを抱きかかえる格好になるよう、幼い体を紐を使ってくくりつけた。


「しっかり掴まっててね。って言っても、わからないかな……」


 こうした子どもに接するのは、エルストにはてんで勝手がわからない。おんぶヒモという言葉もとっさに口を突いて出たくらいで、本当の使い方とは間違っているだろう。


「うー」


 チャックはエルストの襟元をぎゅっと握った。


「……よし」


 それに満足したエルストはふたたび老婆をおぶった。そしてプロトポロの前へ出ると、こう言う。


「なにしてるんだ。きみも逃げるんだよ、プロトポロ!」

「私もか?」

「悪いけど、動かないつもりなら蹴とばしてくよ。石ころのように地面を転がりたくないなら、ほら歩いて!」


 プロトポロはいよいよ目を丸くさせ、左右に視線を泳がせると、おとなしくエルストのあとを追った。



 家の外では、砂塵や城の破片が雨のように降り注いでいる。エルストは上を見る余裕すらなく、街並みを覆う黒い影が濃いことから、岩トカゲが倒れてしまうのもそう遠い未来ではないだろうという推測だけを頭によぎらせた。


「ひいいっ」


 老婆が悲鳴をあげた。

 すぐ近くの住居に、コーンの形をした城の屋根が崩落してきたのだ。


「おばあさんは目を開けてちゃだめだ!」


 エルストが老婆に対して言った。その横で、プロトポロが口元を袖で隠しながらエルストを見る。

 老婆をおぶり、子どもを抱くエルストは、おそらくガレキが衝突したのだろう、頭や肩に血を滲ませながら歩いている。


 そのエルストの歩みを徒労であると嘲笑うように、バランスを崩した岩トカゲが急速に近づいてくる。


「おお、ペドラ……」


 プロトポロが呟きながら岩トカゲを仰いだ。空はまるきり見えなくなり、プロトポロもエルストも、視界を黒く濁らせる。

 この日、岩トカゲは初めて都の土地と肌を触れ合わせた。

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