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SFっぽい短編集

その言葉を知らない

作者: 桜井あんじ
掲載日:2017/05/14

 自分の瞼を意識する前に、僕はそれを開いていた。そして状況を理解するより前に、彼女と僕の瞳とを合わせていた。まるで卵から孵ったばかりの雛のように、僕が新たな世界で始めて目にしたのは、不思議そうに僕を覗き込む彼女の顔だったのだ。

 そしてその瞬間から、まるで雛鳥が母鳥を慕うように、僕は彼女に心惹かれていたのかもしれない。


 西暦1965年。第二次世界大戦後、再びの混乱期を経て、世界は三つの全体主義国家によって支配されていた。僕はその一つ、戦前の呼び方で言うアジアを中心とした地域にある、イースタシアという国に生まれた。

 イースタシアは、「調和と統一」のスローガンを掲げる、イースタシア共栄党の独裁体制によって統治されている。党のトップである「偉大なる国家主席」の指導の元、心を一つにして理想国家の繁栄に力を尽くす。それがイースタシア国民の義務であり、また最大の幸福なのである、と憲法には定義されている。

 個人の自由やプライバシー、人権とかいった話題が大っぴらに語られる事無くなって久しい。「頭脳警察」と呼ばれる、国家に対して否定的な思想を持つ人物を見つけ出し排除する組織が、常に国民を監視している。もし危険思想の持ち主だと認定されれば終わりだ。彼はある晩突然姿を消す。その人物が存在していた痕跡、名前の記載された書類など、全てが一晩のうちに書き換えられる。そうして彼は、元々存在していなかったと同じ事になるのだ。彼がどうなったかは、誰も「知らない」。特別高位警察所の中で、拷問の末に獄死するのだという事は誰でも知っている。でも、そんな事は「知らない」。何故なら、この素晴らしき理想国家イースタシアに対して不満を持つような者など、始めから存在し得ないのだから。

 そして国民は、数々の矛盾に取り巻かれた日々の出来事が、こういった具合に処理されるのに慣れていた。


「我が国家の繁栄を、永続的なものにする技術開発に着手せよ」

 イースタシア共栄党上位幹部が白羽の矢を立てたのは、党のお抱え技術者の中でも下っ端の僕だった。幹部の持って回った物言いに、僕は困惑した。具体的にどんな「技術」を開発するよう要求されているのか、飲み込めなかったのだ。

「国家の為、我らの偉大なる指導者を失う訳にはいかない」

 幹部の言わんとする事を悟った時、僕はほんの一瞬、いつも通りの無表情を保つ事が出来なかったように思う。しかしすぐさま、常に意識下にある頭脳警察への恐怖が僕を守ってくれた。僕はすぐさま、党に対して全幅の信頼を持つ模範的な党員の表情を取り戻し、全力を持って開発にあたると幹部に告げたのだった。

 自分の研究室に戻り、デスクに座る。腕組みをし、考え込んでいるような素振りをする。

 一人きりの自分の研究室でも、油断は出来ない。テレスクリーンと呼ばれる、テレビとよく似た装置が壁に取り付けられていて、いつ何時監視されているか分からない。だから、今の僕の思いを表情に表すのは危険を伴う。

「馬鹿馬鹿しい」

 顔にも態度にも一切表さず、僕は内心で毒づいていた。

 党はつまり、僕に、不老不死の技術を開発しろと言っているのだ。偉大なる国家主席の為に。

 今から約十年前のイースタシア建国当時、主席は既に高齢だった。人間であればいつか年老いて死ぬ。当たり前の事だ。しかし偉大なる我らの主席に限っては例外なのだ。

 その日僕は長い間、コンピューターの画面を睨みつけたまま座り込んでいた。研究プランを練っている風に見えるよう、意識しつつ。そうして深夜を回る頃、僕の頭の中で計画が出来上がった。


 完成したコールドスリープ装置には、9つの数字キーが並んだ小さなキーボードが付いている。これが、鍵なのだ。ある任意の数字を入力すると、スリープが解除され蓋が開く。

 コールドスリープによる睡眠で、どうしても必要な時以外は眠る。それを様々なアンチエイジング技術と組み合わせる。それにより不老不死とはいかないまでも、かなり長い間、主席に「最高の状態でいていただく」。僕のプランは党の上層部を納得させた。そして僕は堂々と、コールドスリープ技術の研究開発に打ち込む事ができたのだ。

 しかし、いざ開発に成功した時――僕は主席ではなく、僕自身の身体を装置に横たえたのだった。

 僕はうんざりしていた。身体の内奥から何かがいつも波のように胸に打ち寄せてきて、吐き気を止める事ができなかった。縛られた獣のように、僕はずっとこの社会の中で身悶えしてきたのだ。そして、こんな矛盾と欺瞞に満ちた馬鹿馬鹿しい計画を聞かされた時、僕はとうとうこの世界に愛想を尽かしたのだった。

 コールドスリープの自動解除に設定された年月がやって来るまでは、僕だけが知る解除キーを入力しない限り、装置の蓋が開く事は無い。僕のしでかした事を党が知れば、もちろんただで済まそうとはしないだろう。しかし僕は保険をかけていた。開発した技術のデータ、つまり主席の命を永らえさせる鍵を、僕は装置の中に持ち込んだのだ。記録媒体はコールドスリープの生命維持装置と連動していて、もし僕に何かあればデータは失われる。間違った解除キーを入力した場合にも同様だ。迂闊に手は出せない。つまり人質という訳だ。党は歯噛みして、いつか来る自動解除の日まで装置を保管するしかないだろう。

 党は知る由もないが、コールドスリープ装置の自動解除は、100年後。その頃にはもっとましな世の中になっているはずだ。子供の頃に両親が頭脳警察に連れて行かれて以来、天涯孤独の僕に、この世界への未練は無かった。

 そうして僕は長い眠りについたのだった。


 ゆっくりと、記憶が戻ってきた。

 慎重に上半身を起こしてみる。身体のどこにも異常は無いようだ。思わず、口元に笑みがこぼれる。計画は成功した。僕は、新しい世界に生まれ変わったのだ!

 傍らで目を丸くしている少女を安心させようと、僕は彼女に言葉をかけた。

「こんにちは。驚かせたようで、すまなかったね。僕は事情があって、長い間ここで眠っていたんだ。君、名前は? それと、今は西暦何年?」

「西暦……、2055」

 彼女はか細い声で、恐る恐るそう答えた。

「2055年?」

 僕は首を傾げた。予定では、100年後の2065年にスリープが解除になるはずだった。10年早い。

「あ、もしかして……。君が解除キーを押したのか!?」

 少女はただ僕を見つめている。

「これだよ、これ。この数字キー。君が押したの?」

 彼女は黙ったまま、僕の顔とキーボードを見比べていた。もしかして、と、僕は思い当たった。言葉が良く分からないのかもしれない。

 僕は少女の手とキーボードを交互に指差し、指でキーを押すジェスチャーをして見せた。すると彼女は頷いた。

「そうか、やっぱり。しかし驚いたな。おそらく偶然押してしまったんだろうけど……。ところで君、名前は?」

 少女は首を傾げているばかりだ。

 僕は自分を指差し、名乗った。次に、彼女を指差して言葉を待った。

「3258」

 少女は小さな声で答えた。

「違うよ、それは君の押した解除キーの数字だよ。そうじゃなくて、僕が聞いてるのは、君の名前だよ。な、ま、え」

「知る ない」

 少女は、辿々しく単語を口にした。やっぱり、イースタシア語が良く分からないらしい。外国人なのかもしれない。僕がコールドスリープに入った1965年には、捕えられた敵国の捕虜以外、イースタシアに外国人が出入りする事はまず無かった。こうして外国人がイースタシアにいるという事実はつまり、党も主席も頭脳警察ももはや無く、自由な世の中になっているという証拠だ。僕は小躍りしたい気分になった。 

「えっと、名前だよ。名前……、ええと、どう説明すれば……」

 僕は懸命に、ジェスチャーで意図する所を伝えようと試みた。

「3258」

「だからさ、そうじゃなくて……」

 その時、僕は気づいたのだ。彼女は何だか野暮ったい灰色のワンピースを着ていたが、胸の所に名札のようなものが縫い付けてある。そこには、「3258」と数字が書かれているのだ。

「え……?」

 嫌な予感が、ぞくりと背中を走った。その時になって僕は始めて、自分が今いる場所を見回してみた。今は使われていない様子だが、どうやら、元の僕の研究室らしい。

 僕は慌てて立ち上がると窓に向かった。空はどんよりと曇り、町並みはそれ以上に薄汚い灰色で、とても豊かな暮らしをしているようには見えない。遠くに、通りを行く人々が見えた。皆お揃いの灰色の服を着ている。強い風が、そんな人々をなぶるように吹き付けていた。見慣れた1965年の町並みと大差ない。そしてみすぼらしい町並みとは対象的に、その向こう側の小高い丘にそびえ立つ、近代的で美しい大きなビル。その上に掲げられた旗には、見慣れたイースタシア共栄党のシンボルマークが、僕を嘲るように踊っていた。


 あんな国家体制が、100年も続く訳がない。

 そう考えた僕は、甘かったのだろうか。

 僕は暫くは口をきく気力も無かった。あまりの絶望感で座り込み、動けなくなってしまった僕を、少女は半ば無理やり引っ張って自分の家に連れて行った。

 僕は今、古ぼけた暖炉の前で、得体の知れない飲み物が入ったカップを手に呆然と座り込んでいる。

 台所に行っていた少女が、手に皿を持って戻ってきた。ふちが欠けたその皿を、僕の前に差し出す。

「いいよ、欲しくない」

 そう言って皿を掌で押し戻した時、僕ははっとした。見れば彼女はじっと僕を見つめている。もしかして彼女は、自分が装置の蓋を開けてしまった事で、僕を困らせていると勘違いしたのじゃないだろうか。彼女が差し出した皿に目を落とせば、一目でカチカチになっていると分かるパン、黴をこすり落として食べられるようにした、でこぼこのチーズの一欠片がそこに載っていた。

 自分の食べる物も満足に無いのだろうに。僕は、皿を持ったままの彼女の小さな手にそっと触れた。

「君のせいじゃない、そうじゃないんだ」

 首をふるジェスチャーをしてみせ、そして少女に向かって精一杯のから元気で微笑みかけると、僕の言わんとする事を理解してくれたらしい。安堵の表情を見せた。しかしそれはほんの僅かの、気をつけていないと分からないような表情の変化だった。さっきから思っていたが、彼女は言葉が覚束ないだけでなく、極端に感情表現に乏しい。

「ねえ、君もここに座ったらどうだい。一緒に食事をしよう」

 僕は掛けているベンチの、自分の隣を叩くジェスチャーをして見せた。彼女はおずおずと腰掛け、真っ黒い大きな瞳で僕を見つめた。

 何となく心が安らぎ、僕は肩の力を抜いた。そうだ。失望していてもしょうがない。

「ねえ、聞かせてくれないかな、今の世の中はどんな風なのか。僕はまず状況を知りたいんだ。そうすれば、これからどうしたら良いかも自ずと見えてくると思う」

 ジェスチャーと、彼女が理解できるらしい幾つかの単語を使い、僕は彼女に自分の思いを伝えた。彼女も、この男は自分の身の回りの事を聞きたがっているようだと判断したらしい。考え込みながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

「3258 はたらく そうじ」

 少女は、入り口近くの床に置いてあるバケツとモップを指差した。コールドスリープ装置の蓋を偶然開けた時、彼女は掃除の仕事中だったらしい。使われなくなった研究所だが、党は保管のためにある程度手を入れていたのだろう。

「歳はいくつ? 学校へは行かないの」

「16。 がっこう 知る ない」

 彼女の歳を聞いて、僕は少し驚いた。彼女の見かけから、13歳くらいだと思っていたのだ。しかしよく見れば、栄養状態の悪さが成長を妨げているようだ。細い手足と、青白い頬。生活ぶりは相当な貧困状態にあるのだろう。それは家の様子を見ても分かった。それにどうやら教育も施されていないらしい。

「お父さんやお母さんは?」

「ない」

「亡くなったのかい? ええと、死……」

 少女は首を振った。

「けいさつ」

 僕にも、何が起こったのか察する事が出来た。

「そうか……。悲しい事を思い出させてしまってごめんよ」

 少女は首を傾げた。

「その ことば 知る ない」

「え? 『悲しい』?」

「かな……しい?」

 少女辿々しく口にした――、その時だ。

「何してる!」

 怒鳴り声が響き、僕はびくっとして振り返った。戸口の所に一人の老人が立っていて、僕を睨みつけていた。


 少女の祖父だというその老人は、僕の話を聞き終わると深い深い溜息をついた。そして、コーヒーとは名ばかりの泥水のような液体を啜った。長い沈黙の間、僕は老人の皺だらけの頬や、かつての頑健さを思わせる節くれだった太い指、長く伸ばした白い顎髭を見つめていた。

「禁止されている」

 唐突に彼は言った。

「え?」

「辞書に載っていない言葉を使う事は、禁じられている。もしアクティブライブカメラに捉えられれば……、3分以内に頭脳警察官が駆けつける」

「辞書? ライブ……カメラとは? 一体どういう事ですか」

 老人が語ってくれた話は、驚くべきものだった。僕が眠りについた1965年当時、頭脳警察は言論規制を行っていた。それがこの90年の間に、さらに極端になっていったらしいのだ。老人がまだ若者の頃、党は「新イースタシア語」なるものを作り、以降は言語をこれに統一すると定めた。そして政府が発行する新イースタシア語辞書に載っていない言葉を使う事を禁じたのだ。アクティブライブカメラと呼ばれる小鳥ほどの大きさの偵察機がそこらじゅうを飛び回り、人々を絶えず見張っている。もし辞書に無い言葉を使う所を捉えられれば……、終わりだ。

「党の狙いは……。人々の思考や意識をより浅く、狭くする事なのだ。毎年、辞書の新しい版が発行される。その度に幾つかの言葉が削られている。これがどういう事か解るかね」

「語彙が、減っていくという事でしょうか」

「そうだ。だが、真に減るのは語彙ではない。言葉が無くなるとは、その概念そのものが消えてなくなるという事なのだ。先程のが良い例だ。『悲しい』……」

 老人は辺りを見回し、一層声を潜めた。

「この言葉は、もはや辞書に存在しない。愚かな感傷を意味する言葉で、『好ましくない』言葉だからな。そして呼ばれるべき名前を失った感情は、遠からず消えてゆく」

「そんな……」

 僕は愕然とした。これで、あの少女が片言しか話せない訳が分かった。あれが今日の人々の、標準的言語能力なのだ。

「儂は、かつての時代、かつての言葉たちをまだ覚えている者だ。だが若い世代はな……」

 老人は呟いた。

「とにかく、この家が儂らのような労働者階級の家で、ライブカメラがあまり彷徨いていないから良かったものの。もしこれがブルジョアジーの家だったら、今頃あんたもあの娘も警察署の中だ。たった一人の孫娘に万が一の事があったら……」

「申し訳ありませんでした」

 僕は知らぬ間に彼女を危険に晒していた事を、素直に侘びた。

「それで、あんたはこれからどうするつもりだね。この家に置いてやらん事もないが……」

 僕はコールドスリープ装置の事を考えた。あれは壊れてしまった訳ではない。再度設定して、また100年の眠りにつけば良いのだ。だけど、何かが僕の心に引っかかっていた。

「あの……。少し、考える時間が欲しいんです。しばらくここに置いて下さい。もちろん、僕も働きます」

「ああ。構わんよ。この街は儂らのような最下層の労働者が集まる、ゴミ溜めのような場所だからな、身元が不確かでも何とかごまかせるだろう」

「ありがとうございます」

 僕は老人に頭を下げた。

 

 老人の口利きで、僕は街の小さな工場での仕事にありつく事ができた。ベルトコンベアーに乗って流れてくる部品を組み立て、また次の工程に流す。一日14時間の仕事はきついものだったが、僕はこの生活から逃げ出したいと思わなかった。貧しく苦しい暮らしぶりにも関わらず、老人と少女の小さな家庭は居心地が良かった。僕はそこで、孤児である僕が経験した事のない、家族の暖かさというものを感じていた。

 僕はずっと寂しかったのかもしれない。そんな自分の感情に、僕は改めて気づいた。寂しいという感覚。それはどこから来るのだろう。(もちろんこの言葉も、新イースタシア語辞書には載っていない)半ば諦めて日々の生活を送っていた1965年の世界で、僕は寂しさなど感じた事は無かった。国民が一人きりの時間を持つのは好ましくないとされていたため、仕事以外の時間には地域の集まりに参加したり、社交の場へ出向き、誰かと共に過ごす必要があった。そして常にその相手に、自分は模範的なイースタシア国民なのだとアピールし続けなければいけなかった。それは本当の意味での親しい付き合いでは無い。お互い監視し合う為に、人々は一緒の時間を過ごすのだ。そんな人間関係の中で、僕はいつの間にか「寂しい」という感情を忘れていた。

 この2055年の世界でも、アクティブライブカメラの危険があるので、僕と老人は思うままに語り合う事は出来ない。しかしそれでも時折、少ない言葉の端々に、堅苦しい表情に、彼は人間らしい所を垣間見せてくれた。彼にはどこか、僕も知らない遠い昔の人々の名残があった。僕は、「懐かしい」という想いが、心地良く優しいものだと知った。

 しかし一方で、少女の方にはそういう所が見えなかった。必要がある時にだけ、まるで機械の様に、必要な単語を発する。まるで人形のように動かない表情。

 時に彼女は言葉だけでなく、感情というものがある事すら知らないように見えた。だがその反面、僕には、彼女の黒い瞳の奥底にちらちらと瞬く光が見える気がしてならなかった。

 彼女に、本物の「言葉」を教えたい。そして、言葉と共に封じられた彼女の奥底に眠る思いを、聞いてみたい。彼女がそれを自分自身の言葉で、生き生きと語るのを。

 しかしそれは同時に、彼女の身を危険に晒す事になる。

 名も無い彼女。この時代の人々が生まれた時に与えられる連番で呼ばれる彼女――。


 ある晩、彼女が眠りについた後、老人が話があると言ってきた。

「そろそろ、心は決まったかね」

 老人の言葉に、僕は少し失望した。何となく、このままここで家族のように一緒に暮らしても良いのじゃないか、などと考えていたのだ。

 しかし そんな僕の心を、老人は見透かしていた。

「このままここで朽ちていってはいけない。希望があるのなら、それを未来に繋ぐのだ」

 老人の言う通りだった。僕はより良い未来で、自由になる事を求めていたはずだ。それなら、ここで踏みとどまってはいけない。だけど僕は……。

 表情から、僕の葛藤を読み取ったのだろう。老人は静かな声で言った。

「もし、あんたが望むなら……、あの娘を……」

「え?」

「孫娘を連れていきなさい。あんたと一緒に」

 思いがけない老人の言葉に、僕は咄嗟に何と答えれば良いのか分からなかった。

 確かにあのコールドスリープ装置には、僕が入ってもまだ余裕がある。身体の小さな彼女が一緒に入っても問題無いだろう。しかし……、

「しかし彼女は、貴方にとってたった一人の家族じゃありませんか。彼女がいなくなったら……」

 僕は口籠った。装置には、さすがに三人の人間を受け入れるだけの余地は無い。

 老人は微笑んだ。

「儂も……、儂の希望を未来に繋ぎたいのさ」

 彼はそう言って、イースタシア人にしては色素の薄い茶色の瞳で僕を真っ直ぐ見つめた。


 出発の日がやって来た。その朝、僕達三人はまだ陽の登りきらないうちに家を出た。肌寒さに身体を震わせながら、僕は、隣を歩く少女の表情をそっと見やった。しかし彼女の乏しい表情からは、どんな感情も読み取る事が出来ない。そんな彼女の様子を横目で眺め、僕は心中で呟いた。

(やはり、無理だろうか) 

 僕と一緒に行きたいと、彼女がはっきりと自分の意思を口にしたら、僕は彼女を連れて行く。

 それが、僕が彼女の祖父に告げた言葉だった。老人はああ言ったが、老い先短い彼から孫娘を奪うと同時に、彼女にとってもただ一人の家族から引き離す事になる。それが果たして正しい事なのか、僕には判断がつかなかった。そもそも、未来の世界で自由を手にする事が、彼女にとって幸福なのか。それも分からない。彼女がそれを心の奥底で望んでいる人間だと感じたのは、ただの、僕の勘違いかもしれないのだ。もしくは願望から来る思い込みと言うべきか。他の大多数の人々のように、彼女もそんなもの望んでいないかもしれないのだ。『自由』という概念が消失した世界で生まれ育った彼女にとって、それは扱いかねる兵器のような物かもしれない。

 彼女がはっきりと自分の意思を言葉にする事無くして、僕は彼女を連れてゆく気になれなかった。

 それに僕には、彼女に一番伝えたい言葉があった。教えたい言葉があった。同じ言葉が彼女から返ってこないのであれば……。僕は……。

「あの娘はあんたに心を開いている。儂にはそれが解る」

 老人は言った。しかし僕には、最後の一歩を踏み出すために、彼女の言葉が必要だった。僕は願っていた。あの日僕が卵から孵った雛の如く彼女に出会ったように、彼女も殻を破って新たな世界に這い出てくるのを。僕はそれに賭けたのだ。

 僕達は今、研究所までの長い道のりをゆっくりと歩いている。研究所に着くまでの間に、彼女は自分の願いをはっきりと示さなければいけない。


 様々な想いが、春の空の雲のように心をよぎる。

 そのうちに、道は僕達の住んでいた貧民街を抜けて隣町に差し掛かった。

「ここから先は、注意が必要だ」

 老人が囁いた。

 確かに、辺りを見回せば、僕らより幾分かましな身なりをした人々が通りを行き交っている。党の親衛隊メンバーである事を示すバッジを付けた者、党本部の制服をきた者も見える。ここから先は労働者階級の街ではなく、いわゆるブルジョアジーの住居エリアなのだ。そして頭脳警察の監視は、労働者階級よりもブルジョアジーに対して厳しい。労働者は人間だと考えられていないので、それほど厳しく取り締まる必要もないのだ。労働者などは謂わば害虫と同じ、いざとなればいつでも駆除できる。それに対し、教育を受け、いくらかでも物を考える事の出来るブルジョアジーに、頭脳警察はより厳重な監視を行っている。

 僕は気を引き締め、街への入り口になっている鉄製の門をくぐった。その時……、ピッという軽い電子音が響いた気がして、僕は思わず辺りを見回した。

「何でもない。大丈夫だ。行こう」

 小声で老人が僕を急かした。

 通りを行き交う人々からまるで隠れるように顔を伏せ、僕達は足早に街を通り抜けた。街の外に出る門が見えて来た時、僕はほっと溜息をついた。ここまで来れば、研究所の廃墟までもう少しだ。後は、人通りの少ない郊外の田舎道を歩くだけで済む。もちろんそんな場所でも、至る所に隠しマイクがあるのだけれど。

 門の向こう側、丘の上に、イースタシア共栄党本部の建物が見える。僕は大きく息を吸い込むと、彼女の手を取り、門から外に踏み出した。

「動くな」

 背後から響いた声の異様なまでの冷たさに、思わず身体が凍りついた。

 恐る恐る、振り向く。するとそこには、頭脳警察隊が一人の男の周りをぐるりと取り囲み、銃を向けていた。

「反政府組織番号156の首領、国民番号DYLKCI3255だな。銃殺の刑に処す」

 警察隊の一人がそう言い放つが早いか、凄まじい銃声が耳をつんざいた。男が倒れ、一瞬の間を置き、周りの人々から大歓声が上がった。口笛、拍手、歓喜の声。その声援に応えるように、警察隊は執拗に発砲し続けた。その中心で身体を地面に投げ出しているのは……、あの老人だった。


「労働者の連中は本当に、考えるという事が無いんだな。登録されている指名手配犯は、街の入口にあるカメラで顔認識される事くらい知っているだろうに」

 警察隊の一人が小声で呟いたのが、僕の耳に届いた。

「さあな」

 もう一人が、大した興味も無さそうに相槌を返した。

 呆然と立ちすくんで老人を見つめる僕と彼女に向かって、老人が顔を上げた。唇がゆっくりと動く。その唇は……、彼女に向かって、あの言葉を形作った。

「あ、こいつ! まだ生きてやがる」

 再び一斉掃射が放たれた。老人の身体はその勢いで一度跳ね上がり、後は壊れた玩具のように動かなくなった。

 

 ただの通りすがりのように然りげ無くその場を離れ、街から出ると僕は彼女の手を引いて走った。走って走って、息が続かなくなるまで走った。とにかくあの場所から遠く離れたかった。恐怖と、怒りと、悲しみと、嫌悪。そんなごちゃまぜの感情を、走ることで振り切ってしまいたかった。だからとにかく走った。

 気づいた時には、研究所の入り口に入っていた。肩で息をしつつ、はっとして後ろを振り返る。彼女は顔を伏せ、苦しそうに息をしていた。

「ごめんよ、つい夢中で走ってしまって……、」

 彼女の顎に触れてその顔を上げさせた時、僕の心臓が跳ね上がった。

 彼女が泣いている。まるでたわわに実った大粒の葡萄が朝露に濡れる様に、その黒い瞳からただ涙が溢れ出ていた。

 泣く事は違法だ。党や主席に対して歓喜の涙を流す以外は、違法だ。もしカメラに捉えられれば……。

 しかし僕は、この美しい、おそらく彼女の人生で初めての涙を、人間としての彼女の誕生を、夜が明けるのを見守るように眺めていたかった。

 彼女はこみ上げてくる嗚咽を抑えようとした。しかし、どうする事も出来ずにしゃくりあげる。自分自身に何が起こっているのか分からないという顔。そこには確かに、今まで見た事が無かった、はっきりとした表情があった。そしてその頬を、涙の粒が飾る。

 その時背後で、乾いた機械音が聞こえた。蜂の羽音のような微かな動作音――。

 アクティブライブカメラだ!

 僕は咄嗟に腕を伸ばし、彼女を抱きしめた。カメラに映らないよう、彼女の顔を僕の胸に埋めさせる。肩越しにそっと振り返ると、やはりそこにカメラがあった。空中に浮かんで静止している。

 僕は息を呑んだ。遅かっただろうか。彼女の涙を、カメラは捉えただろうか。もしそうなら、すぐに頭脳警察がやってくるはずだ。

 逃げた所で無駄だ。もし逮捕されるなら、僕も一緒だ。僕は目を閉じて待った。1分、2分……。心の中で数を数える。力をこめ、彼女の身体をしっかりと抱きしめる。

 3分が過ぎた。さらに、5分が過ぎた。しかし、誰も僕達に近づいて来る気配は無かった。

 僕は全身の力を抜き、安堵の溜息を漏らした。僕は腕の中の彼女の、涙で汚れてしまった顔をじっと見つめた。

「僕は……、君を愛してる」

 僕はその言葉を口にした。

「解るだろう、僕の言葉が何を意味してるのか。辞書に載っていない、君の知らない言葉だけど……、解るだろう」

 彼女は、真っ黒い瞳で僕を見上げている。その唇は、動かない。

「ねえ、言ってくれないか。もし君も僕を……」

 僕にはもう解っていた。彼女も、僕を……。そしてその心を言葉にしてくれたら、僕は何の迷いも無く、彼女を連れていけるのだ。未来の自由へと。

「ない」

 彼女はそう言った。

 ああ、そうなのか? 彼女は僕を愛していないのか。しかし彼女の潤んだ瞳は、それとは正反対の感情を露わにしていた。

「ない」

 彼女は繰り返した。

 やはり駄目なのか。彼女がその言葉さえ口にできれば、全て上手くゆくような気がしていた。だけど……。

「……ない」

 首をふる彼女の辛そうな顔を、僕はもう見ていたくなかった。

「分かった、もう良いんだ。無理を言って悪かったよ。僕は……」

 僕がその先を口にすることはなかった。彼女の唇が、それを止めてしまったのだ。

 彼女の唇から、彼女の体温が僕の唇に伝わった。それは紛れもなく、人間の暖かさだった。

 僕はそっと目を閉じた。言葉はもう、いらなかった。

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