唯翔と竜翔
4時限目の終了を知らせるチャイムが鳴った。
唯翔はその音というより、席を引いて礼をするために立ち上がる音で目が覚めた。咄嗟に立ち上がりクラスメートとワンテンポ遅れて頭を下げる。
騒がしくなり始める教室を抜けて緋依里のクラスへ向かう。緋依里が殺されるなんてこと信じ切れやしないが、こういう話をされて緋依里の近くにいたいと思わずにはいられやしないだろう。少なくとも唯翔は不安に苛まれていた。
「移動授業かよ」
ドアを開こうとしても鍵がかかっていて入れない。
「確かこの時間は……、美術だっけか」
2年生になってからもう半年以上経った。だからもう自分の時間割はもちろん緋依里のクラスの時間割も把握している。唯翔は美術室へ向かった。
「あれ? いないじゃん」
まだ鍵が開いていたのでドアを開けてみたが中には誰もいなかった。教師の姿も生徒の姿も全くない。
「閉め忘れですか先生。……となると、入れ違えになったんだな。かーえろ」
学校の構造上と教室配置のせいで少々起きる入れ違えもこの時は運命を左右する一大事だったかもしれない。
教室に戻る途中、2階の渡り廊下の手すりにもたれる白衣の男がいた。
「おい。スルーしてんじゃねぇよ」
唯翔が気付いてるにも関わらず通り過ぎていくと、声を掛けて欲しかったのか、遠ざかる背中に竜翔は自ら声を掛ける。
「はぁ。俺急いでるんすけど」
立ち止まりはしたものの顔だけこちらに向けて冷たくあしらおうとする。
「お前の急いでる方向は間違ってんだ」
竜翔は唯翔のいる方を指差す。もたれていた身体を起こし近づいていく。
「お前が変なこと言うから俺は緋依里がいる所に」
唯翔も身体を竜翔に向ける。
変なこと、というのは屋上で、殺されるかもしれないと言われたことだ。
「そっちに行くなって言ってんだ。お前の向かうべき場所はそっちじゃない」
白衣が風に靡いて竜翔はズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「転校生が来たって知ってるか?」
風の音に掻き消されないよう竜翔は声を張る。
「あぁ。千馬っていう奴だろ」
教室で散々転校生の話題ばかり耳に入れさせられたから唯翔は知っていた。
「あいつは魔術師だ。魔導士の俺と比べれば、低レベルな奴だがな」
魔術師? 魔導士? またマンガみたいな話か、と唯翔は内心思った。
「思うんですけど、そういうファンタジーめいたものって証拠を見せてくんないとただの妄想にしか聞こえないんすよ」
ごもっともな意見を述べてみたものの、半分はそのことを信じている自分がいることに唯翔も気付いていた。それでも証拠を見せるように誘導する言動は曖昧なままでいるのを嫌ったからだった。
「ふぅん。まぁそうだな。もう証拠は見せたつもりだったんだが……。よし! そこまで言うならしっかりと見せてやろう」
竜翔にとっては最初に会った時に見せた瞬間移動で魔導師であることを露見させたつもりだった。しかし、実際のところあの瞬間移動は予期せぬ出来事に対して咄嗟にとった行動な訳だから自分としても見せようとして見せたつもりではなかった。どうせ色々と知ってもらわなければならないのだから、と竜翔は掌を上にして右手を前に出す。
「あっ。すまんがもうちょっと前に来てくれ」
「あ、あぁ」
魔法とやらを見せてくれるのかと好奇心と警戒心で身構えていた唯翔だったが、白衣の男の顔の引き締まりが緩むのに気が緩む。
竜翔が手招きをして促す距離まで行くともうだいたい1メートルほどの近さだった。
「近くね?」
「いいから気にすんな」
学校の渡り廊下だと下手すれば他の生徒に見られてしまいかねない。だから生徒の多くいる校舎を唯翔に背にしてもらえば少しは隠せる。まぁ見せるものも最小限に抑えることにしたんだが。
「炎」
右手に小さく広がる赤色の魔法円。ライターの火を20倍ぐらいにした火の玉が手の上に浮かんだ。
「うわっ! すげぇ」
自慢みたいになるから人前で見せるようなことは極力避けていた竜翔だったが、素直に感嘆してくれて嬉しくなった。
「今のが火を操る赤の魔法。ロッソだ。お次は水。これが水を操る青の魔法。ブレウだ。」
火の玉が音もなく姿を消す。その右手を引いて竜翔は今度は左手を前に出す。すると、同じように青色の魔法円が微かに浮かび上がり、またその上に金魚鉢サイズの水の玉ができる。
唯翔はまたも驚いている。
「そんで、電気。アンド、草」
今度は右手からバチバチと音をたてる小さな黄色の光。左手からは尖ったアロエのような草を出した。
「電気を操る黄の魔法、ジャッロ。それと植物を操る緑の魔法、ヴェルデだ」
坦々と簡単に説明してみせると唯翔の眼は輝きに満ちていった。
「なんかカッケーっすね!」
有栖唯翔も男子であることにはかわりなく、こういう魔法とか不思議な能力の類に心を惹かれるらしい。
「まぁ俺が見せたのは今即興でやってみせたちゃちなもんだ。本来なら今のようなことはまずしない。そして今見せたもの以外にも魔法の種類は多くあるんだ」
今言う必要のないものは最小限に抑えて述べる。四種の魔法を見せたのちも唯翔の表情は嬉しそうだった。
緋依里が殺されるかもしれない、と教えてやったのに魔法に執心したのじゃないかと竜翔は溜め息を吐いた。
「お前忘れてないだろうな。緋依里を守るつもりじゃなかったのか?」
「あ、そうだった。お前邪魔すんなよ!」
「お前が証拠見せろって言ったんだろーが!」
ほんの一時の兄弟喧嘩のように語気が荒くなった。
「……」
唯翔は指摘された事実に唸る。
「まぁそろそろ良い頃合いだな」
目をそらして口を開かない唯翔に竜翔はまた手すりにもたれる。
「行けよ。緋依里が待ってる」
右手親指を立て、特別室棟へ続く扉を指す。もう十分時間稼ぎは終了した。
「いやそっちに緋依里はいなかったんだよ」
美術室にいなかったのだから教室に戻っているのだろうと唯翔は単純な思考でそう思う。そう思うのが当然。竜翔の思惑を知らない限り。
「いいからそっちだ。千馬が緋依里を狙っている。俺を信じろ」
「……。あぁ分かった」
少しの逡巡ののち唯翔は特別室棟へ走った。
対しての竜翔は職員室に向かう為その反対へ進んでいった。
唯翔は2階の廊下に出て見渡す。美術室を覗いてもやはり誰もいなかった。入ったところにキャンバスが倒れており、そのキャンバスには火を点けた跡のように真ん中に大きな穴があり、その縁は黒ずんでいた。背筋に悪寒が走った。ついさっき見た火の玉が頭によぎる。
「緋依里」
そう呟いて美術室を出るとその刹那、ガラスの割れる音が一階から聞こえた。その音のする方へ唯翔は全速力で駆けていく。
唯翔が降りた階段は美術室に近く、家庭科室に遠い階段。見知らぬ背中の向こうに眞帆が窓から家庭科室に入っていくのを目が捉えた。
「誰だてめぇ!」
少し力を抜いて駆け寄っていく。制服を着た男が剣を所持していることに間合いを詰めてやっと気づく。
振り向く顔はやはり知らない顔で、その表情は異常だった。
「君も現れたのかい。先客がいるってのにさぁ」
ぼそぼそと喋る剣の男の声は聴きとりづらい。
「お前が千馬か。クソみたいな顔しやがって」
整った顔つきが歪みをもつ。
唯翔は千馬の注意を自分に向けようと挑発する。緋依里がいるという保証はなかったが、眞帆の傍にいることは予想がつく。それにもし緋依里がいなくてもその親友である眞帆を傷つけさせるわけにはいかなかった。
「ふうん。僕の注意を引き付けようって魂胆かな」
自分の考えを見透かされ自然と息を呑む。
「図星のようだね。まぁ目線でばればれなんだけどね」
千馬は憎たらしく微笑んでみせた。
「じゃあ。向こうを先にやろうかな」
「待てよ!」
家庭科室により近い千馬は足の速さに自信があるのか無防備にも唯翔を背にして駆けていく。それに遅れをとりながらも唯翔は追っていく。
唯翔が距離を埋める前に、千馬は古びた家庭科室のドアを剣で縦に真っ二つにしてしまう。
どうか逃げていてくれと願う唯翔の思いと裏腹に、眞帆は好戦的というか戦略的というか逃げはしていなかった。
顔面めがけて飛んでくる丸椅子に体を後ろに退いて回避する千馬。そこへ追いついた唯翔の蹴りが横腹に炸裂する。眞帆が椅子を投げたおかげで唯翔と千馬の距離が縮まることができたのだった。足の裏で踏みつけるような蹴りは千馬の腹を一時的に窪ませる。
「おりゃぁ!」
廊下を転げていく千馬には近づかず唯翔は家庭科室に向かう。
「緋依里! 大丈夫か!」
千馬をどうこうしようとかいう考えよりも緋依里への心配の方が明らかに唯翔にとって勝っていた。
その呼び声に緋依里が家庭科室特有の黒板前の長い教卓の下から顔を出した。
「唯くん!」
不安で仕方ないという表情をさっきまでしていた緋依里の顔が喜びに溢れ、そのせいか目尻に垂れる雫があった。
「はぁ。アタシの心配もしてくれたっていいのに」
眞帆は感動の再会を果たしたような二人の姿を見ながら弱い文句を言う。
「ありがとうな深月」
「おいおい、だきあってんじゃあないよ」
どちらからともなく抱き合う二人にジト目をする眞帆。こいつら本当に付き合ってないのかよ。そんなことなんて何度も思ってきたことだったが、今この瞬間ほどにその思いが鮮明なのは初めてだった。
「こんなことしてる場合じゃなかった」
唯翔が気付いて離れる。
「二人とも逃げろ。アイツは俺が食い止める」
家庭科室は一階にある。教室の中から校舎の外へ出られるドアがある。千馬さえ緋依里たちに遭わせなければいい。
「唯くんも逃げよ」
緋依里が心配そうに提案するも唯翔は眞帆に目配せをし外に連れて行かせる。
「行かせねぇよ!」
意味を成さないドアから千馬が怒りの形相で入ってくる。
ちっ。唯翔と眞帆が舌打ちをする。
「僕から逃げようなんてできると思ってるのかい?」
足音を立てて入ってくる千馬に対し、唯翔は眞帆に倣って容赦なく丸イスを投げる。軽い丸椅子は緩やかな早さで千馬の腹部へ向かう。切れはしないが千馬はそれを剣で叩き落とす。
眞帆は千馬を睨む唯翔の後ろを周り緋依里の元へ向かう。
相手は魔術師、少なからず竜翔が見せたようなことが千馬もできるのだと思うとどうすればいいのか判断がつかない。唯翔は緋依里を守ることに集中しようと努めた。
丸椅子はたくさんある。武器になりそうなものといえばそれか10ある大きなキッチンの収納にある鍋やフライパンくらいしかない。時間が選択肢を絞らせ丸椅子を手にしてそれを投げ込む。
「喧嘩なんて何年ぶりだよ」
これを喧嘩と呼ぶのか戦闘と呼ぶのか正しいところは分からないが、こちらが不利だということは見当がつく。
飛んでくる椅子を避けるように横へ跳んだ千馬は並べられた調理実習用の広いキッチンの上に立った。唯翔はすかさず2個目3個目の椅子を投げつける。細身の刀に殺傷能力があろうとしても硬い椅子を真っ二つにすることなどは不可能であり、素手で防ぐには重すぎる。避ける他、対処法がない。
世間一般の高校生には手段は限られる。しかし、千馬は刀を持たない方の手で投げられた椅子をどうにかしようとその手を前に出した。その動作を見て、唯翔はすかさず次の椅子を投げる為に千馬の右手に回り込む。
「我が手、水と成り。水掌!」
小さく何かを呟いたのち大きく横文字言葉を叫ぶ。それと同時に左手首を中心に竜翔が見せたような魔法円が浮かび上がる。すると左手が大きな水のグローブを纏ってゆく。水を纏うことで肥大化した掌で勢いを殺し、千馬の手に一つの丸椅子が収まってしまう。もう一つは水の中をゆっくり沈んでいき床に転がった。
誰もが目を見開く。緋依里たちは無論。唯翔も。予想はしていたものの魔法の能力に魅せられてしまった。
「やばい……」
緋依里を守るように抱きしめる眞帆が呟いた。唯翔は息を呑むように静かに頷く。しかし何も聞かされていない眞帆や緋依里の方が恐怖の思いは強かった。眞帆にとっては手品だと思っていたものが超能力にという認識に変わっていく瞬間だった。
「そんなに驚くことないんじゃないか。そんな眼で見られると心が痛くなっちゃうよ」
完全に楽しんでいるようだった。緋依里や眞帆が千馬を見る眼差しは化け物を見るように怯えきった目で寒気を走らせていた。
バシャン。手の形を成していた水の塊が重力に負けて地に落ちる。多量の水が床を叩く音と同時に千馬はキッチンづたいに跳んで近づいてくる。
怯えるなと自分に言い聞かせ、唯翔は千馬が跳ぶ直前の脚を狙って椅子を投げる。バランスを崩して倒れることを期待するも上手くいかない。周りにあるありったけの椅子を連続で投げ込んだ。
しかし、またも水掌の魔法を使われ、どれも床に転がっていった。これで得た収穫は水が形作る手を保つことができる時間は短いということだった。持って15秒といったところだ。
だが、その研究成果も虚しく唯翔の目の前には既に千馬がいた。
「もう遊びは終わりでいいのかい?」
恍惚の表情で唯翔の顔を覗き込む。そこには隙があったが、腹に突き付けられた剣で身動きをとろうにもとれない。十一月だというのに額から汗の水滴が噴き出、体の熱が温度をあげていく。顔が近く、相手の興奮による鼻息の粗さが耳へと入ってくる。千馬の方も決して涼しい顔をしてはなく唯翔のように体内の温度上昇が見てとれた。
「俺はもっと遊びたいんだけど、お前が終わらせようとしてんだろ」
殺される。死にたくない。逃げたい。逃げれない。どんなことを思っても無意味だと分かっていた。なおも口調が乱れないのは緋依里に自分の変化を悟られたくなかったからだ。へたれの自分を最後に見せて終わりにすることを男のプライドが許さなかったのだろう。眞帆が危機を感じて千馬に罵声を浴びせる中、唯翔の口角が上がった。
「遊びは同等のレベルの中でしか成立しない。お前が弱かったのが悪い。死ね」
千馬は憎らしい笑みを浮かべたが、唯翔の眼には映らない。
腹部に尖った刃の感触を感じたと同時に衣服が裂けていき痛みに辿り着く。ゆっくりと入ってくる鉄の冷たさに青ざめていく顔は悲痛に引きつった。
痛い。苦しい。
歯を食いしばることで泣き言を口から零さないようにするだけで精一杯で、瞳からは涙の粒が今にも堰を切って溢れそうだ。
今すぐこいつを殺せる力が欲しい。目の前の鬱陶しい顔をぶち壊したい。
「うおおおおおおおおおおおおお」
けたたましい叫び声が家庭科室に響く。それは奇跡を確信した唯翔の雄叫びだった。苦悶の表情に相反する涙まみれの希望の眼差し。白衣の男の姿が赤い魔法円を出現させたのを右目が捉えていた。だから唯翔は叫んだということを千馬は知らない。
「やれええええええ。おっさん!!」
盛大に窓ガラスが割れて飛び散る音がして千馬が廊下側に吹っ飛んで壁に激突する。握られていた剣は唯翔の腹を抉り血肉が付着したまま宙を舞い、落ちる。
「炎弾」
竜翔が右の掌を前に突き出して炎の塊を飛ばし、それが窓を突き破り千馬を吹っ飛ばしたのだった。炎の塊は既に消失したが項垂れる千馬の制服は少しだけチリチリと燃えていた。千馬が握っていた剣は衝撃で手から離れ床を滑っていった。
またも目の前で奇異な現象が起きたことに緋依里も眞帆も目を見開いている。
腹を押さえ痛みに悶える唯翔に緋依里は駆けより、それを確認した眞帆は壁にもたれて気を失っている千馬に近付く。
「気持ち悪いんだよ」
家庭科室に置いてあるやかんに水を入れて燃えている部分にかける。火を消し終えた後はやかんで顔面を一度殴った。嫌なめにあわせたお返しらしい。
「唯くんしっかりして」
緋依里は泣きじゃくりながら唯翔の傷を心配して顔を覗き込む。唯翔の腹部は縦に割れ、そこから血液が静かに流れていた。そんなグロテスクな状態も気に留めずに緋依里は唯翔を見つめる。張りつめた恐怖心がやっと割けたところなのに、「よくすぐに人の心配ができるよね」と眞帆は微笑んだ。
「いやぁ。少し予想外だったかな」
バスケットボールくらいの大きさの炎の塊が突き破った窓から白衣の男が入ってくる。少しだけ驚きの表情で唯翔の元に歩いて近づく。
「おっさん誰なんだよ。さっきのも……」
美術の授業終わりに見た白衣の男の突然の登場に目を丸くする緋依里。眞帆は千馬がやられたことの仕業を察し、男に追及せんとしたが竜翔が手で言葉を制止させる。
「深月、少し静かにしてくれ」
苦痛に顔を引きつらせる唯翔の大きな傷に竜翔はそっと右手で覆うように触れた。自分の名を呼ばれ、眞帆は驚きを積み重ねる。
「肉体再生」
傷口を中心に青よりも濃い藍色の魔法円が腹部に広がった。そうすると藍色の微弱な光を放つ薄い膜が傷を覆い始める。
緋依里と眞帆は白衣の男の見た目にそぐわない冷静な態度と彼が施す未知の手立てに目を奪われている。
「すまないが、二人で保健室に行って包帯を取って来てくれないか? あと貼るやつとはさみを」
二人は顔を一度見合わせて「はい」と頷いて、家庭科室を離れた。
「おい、唯翔しっかりしろ。そろそろ痛みがひいてくる頃だ」
今まで痛みに目を瞑っていた唯翔の瞼が徐々に開いていき、髭の濃い男が視界の大部分を占めていることに純粋に驚く。
「来るのが遅いんじゃないっすか」
不満というか文句というかを呟いている割にはほっとした顔色で今の状況を把握する。痛みに悶えていた表情は平安を取り戻した。
「まさかお前がアイツに立ち向かおうとは思わなかったんだ。お前の動きが止まった時は驚いたぞ」
抑揚をつけた喋りで驚きを表現する竜翔を前に唯翔は言っていることが分からないながらに「ふん」と相槌を打つ。
藍色の膜から光の胞子が傷に吸い取られるように付着していく。抉れた傷の奥にまで届き血肉の再生を胞子が始める。
「これが治癒系の藍の魔法。インディゴだ。俺はあまり得意としないから時間が少々かかってしまう」
訊いてもいないが竜翔は魔法の説明をする。また、自分を自分で悲観するように顔をしかめる。
痛みが完全に消え去り、座りが悪いのか腰の位置を変えようと身体をくねらせようとする竜翔に「動くな」と竜翔は注意し、次いで改まった様子で「話しを聞いてくれないか」と尋ねた。
唯翔はそれに「あぁ」と頷く。依然として竜翔に手を添えられながら治癒は続く。
「まずは俺のことについて詳しく話そう。俺はこの世に有栖唯翔の名で生まれた。小さな頃からずっと一緒にいた幼馴染の緋依里が大好きで仕方なかった。でも不器用な俺はなかなか言い出せずにいた。けれど何も言わなくても緋依里は自分の傍にいてくれた。あぁ。ずっとこんな毎日が続いていくんだろう、と俺は信じ切っていた。ずっと緋依里の傍にいられて笑い合って。でも明後日。修学旅行の当日、俺の願いを打ち砕く未曾有の事件が起きた。西洋の大魔導士アストラ=フリードリヒの襲来によりこの街は崩壊。その事件に巻き込まれ緋依里は死亡し、運よく生き残った俺は流されるように辿り着いた東京でおよそ20年間魔術の研究を続けた。そして今日俺はその力によって20年前の世界に来たんだ」
竜翔は自分の生きてきた過去とこの日の為に費やしてきた時間の量について並々ならぬ思いで語った。
もう疑いを入れる余地なく竜翔の言葉を真正面から受け止める。詳細には分からないこともあるが唯翔はもう一人の自分が抱いてきた苦しみを自分のことのように思い唇を噛んだ。
「緋依里を死なせない為にか?」
「あぁ。だが過去を変えに来たんじゃなく、俺はお前に過去を変えてもらいに来たんだ」
「どういうことだ?」
「過去にやってきたことがないからよくは分からないが、未来からきた人間が直接過去を変えるのは避けた方がいいと思って……」
少しのためを作り、続けて竜翔はこう強く言った。
「お前の力を貸してほしい! 緋依里を救うにはお前の力が必要なんだ!」
20年間の思いを今唯翔、20年前の自分にぶつける。あと数センチ届かなかった距離を埋めたいという願いを叶える為に。
頭を下げて瞳を閉じた。
藍色の薄い膜が魔法円と共に消えていき、裂かれた腹部は何もなかったように元の状態に戻り、着ている制服のみが傷を負っていた。それに気付いた唯翔は未だ添えてある竜翔の手を取る。
「当たり前だろ。ていうかあんたが来てくれなきゃ守ることなんて出来やしないんだ。こっちから願いたいくらいだ」
握る手に力が入り、下を向いていた竜翔の顔が上がる。目から涙を零しながら振り絞る声で「ありがとう」と言った。
「馬鹿、泣くんじゃねぇよ」
20年後の自分とは言っても自分は自分であって、自分の泣き顔なんか見たくなんかない。大の大人の涙にどうしていいか分からず唯翔は顔を逸らした。
「あ」
ふと顔を逸らした先に保健室から戻ってきた緋依里と眞帆と目が合った。
「何やってんのあんたら。気持ち悪い」
「唯くん……」
自分の左手が未だ竜翔の右手を掴んでいることに気付く。眞帆の眼差しはともかく緋依里のどうしていいのか分からないという感じの戦慄いた表情が唯翔の胸を痛めつけた。
「うわ! 違う! ご、誤解だ!」
何を誤解されたくないのか明確に口に出さないのは口にするのも恐ろしいからであり、また墓穴を掘ることになるかもしれないからだ。ん? これだと本当はそうであるかのような言い分になっているじゃないか!
「俺はホモじゃない!」
断じて違うと唯翔は誓う。和解をした未来の自分の手を振りほどいて無実だと言い張る被告人のように手を広げて主張した。
「お前も何とか言っててくれ!」
固まっている竜翔に目をやるとまだ泣いていた。
何だよ自分らしくない。30後半になると涙腺が緩みだすのか?
「はいはい。分かったから分かったから」
その言い方ぁぁ。
「唯くん包帯持ってきたよ」
緋依里が包帯やらはさみやらを持って処置しようと寄って来るが、傷口は既に塞がりきって流血も抑えられていた。制服と床を濡らす赤い液体だけが見えていて、コップ一杯のトマトジューズを零して座り込んでいる人のようにしか見えない。それに気が付いた緋依里と眞帆は驚愕する。二人して近づいてきて「治ってる」と感嘆の声を漏らす。通常何針も縫わなきゃならない傷口が何もなかったように塞がっていることは二人の好奇心をくすぐったらしく、包帯等を放り投げて手を伸ばして触れてくる。
手が冷たい。触られて分かったが、本当に傷が塞がっていてくっついていて、簡単に傷口が開いてしまうんじゃないかと危惧していた自分もおおいに驚愕した。ていうかべたべた触りすぎ。腫れ物に触るようにしてくるのが普通じゃないか?
「おっさんがやったの?」
さっきまでの出来事を既に気にしてない様子で眞帆が俺の前で座り込んでいる竜翔に訊く。いちよう千馬が気絶してるけどすぐそこにいるんだぞ。
「うん……。まあな」
ここであやふやな答えをすると余計怪しまれると分かっていたから竜翔は歯切れ悪く肯定だけして、詳細は述べない。
「おじさんって魔法使い?」
緋依里の本気で言ってるのか冗談のつもりで言ってるのか分からない発言に場が凍りつく。正確には竜翔の顔だけ凍り付いていて、唯翔と眞帆は平常運行の緋依里の愛嬌あるおバカ発言に寛大な微笑みを浮かべる。
「え、あ……。う、うーん。どうかなぁ?」
あかちゃんってどうやってつくるの? と無邪気に尋ねてくる小学生に何て答えるべきか分からずお茶を濁すように“まどうしさん”が慌てている。
自分には堂々と説明していたのに緋依里には本当のことを言わないということは今日知った色々なことは公言しない方がいいのだろうと、唯翔は悟る。
「緋依里違うよ。この人はきっと科学者で医者なんだよ。ほら、白衣を着てるじゃない? 最近の医療は進歩してるんだよ」
魔法使いという家庭科室を浮遊する言葉をおバカポニーテールが消し去る。
竜翔の顔に血の気が戻った。
「そ、そうなんだよ。俺は医者で科学者なんだよ。あはは」
苦笑いと共にぎこちない日本語で肯定する。
何故か喋るネズミが頭に浮かんだのは唯翔だけだろうか。
「ほらね」
「うん」
二人とも納得したらしい。察しの悪い二人で良かったと竜翔は胸を撫で下ろした。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、皆が我に返る。
「あっ! 授業が始まっちゃった」
「いや、それよりアイツをなんとかしないと」
唯翔は何か忘れている気がした。授業のことはどうでもよく、千馬のこともどうでもよくはないが、そんなに気にならない。じゃあなんだろう。
「三人とも聞いてくれ!」
さっきまで焦っていた竜翔が声を張って視線を集める。
「ここに来る前に職員室で聞いて来たんだが、今日は4時限目で授業が終わりで一斉下校らしい。だから生徒も先生も皆帰ったし、部活動もやってないそうだ」
あぁ。だからこれだけの騒ぎがあっても先生も生徒も誰一人としてこの場に来ていないのか~。って信じられるかよそんなの! と、思ったのは唯翔だけで他の二人は「そうなんだ」と納得している。
おいおいなんでもかんでも信じるんじゃねぇよ。ちょっとくらい猜疑心を持ったっていいんだぜ?
「だからやけに静かだったんだ」
「保健室の先生もいなかったし」
唯翔の疑念は二人の証言によって打ち砕かれる。
そう。竜翔に頼まれて包帯等を保健室に取りに行った時二人は校内の違和感に気付いていたのだ。保健室があるのは特別教室棟とは正反対の場所。生徒が通常授業を受けるホームルームのある棟。二人は保健室に辿り着くまでに生徒を一人も見なかったし、教室の方向からも声が漏れていることもなかったのだ。保健室の鍵が開いていたのにもかかわらず先生がいなかったのは、生徒共々教師らは既に下校してしまっていた。つまり現在この高校内にいる人間は唯翔に緋依里、眞帆、それに竜翔と千馬のみなのだ。
「あぁ。だから俺たちも下校しなきゃならないんだ。すまない。また二人で帰りの用意を持って来てもらえないかな。俺は唯翔と少し話をしたいんだ」
真摯な目つきをした竜翔が緋依里と眞帆に紳士に頭を下げて頼んだ。
「大袈裟。アタシらに出来ることなんて少ないんだからそれくらい任せてよ。なぁ、緋依里」
「うん。任せて」
「ありがとうな緋依里、眞帆」
正直、死を覚悟していた。だから緋依里の笑顔が強く胸をくすぐった。愛しい笑顔にまた出会えることが嬉しくて唯翔は感謝した。ついでとはいっても眞帆に対しても強く感謝していた。眞帆がいなければ緋依里を守ることができなかったんだ。唯翔は今度何か奢って上げようかな、と思った。
「じゃあ、二人で続きをどうぞ~」
家庭科室から二人が出て行く間際、眞帆が渾身の笑みを浮かべた。
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ!」
傷を気にしない怒号は閉じたドアに遮られた。
「あ、有栖がそうなんだったら、緋依里はアタシがもらうね~」
ドアが開かれて演技だろうが、すごく嬉しそうな笑顔を見せて眞帆がもう一度ドアを閉めた。
もう何も奢ってやんねぇ。舌打ちをした。
「で、重要な話なんだろ? 俺はどうすればいいんだ」
ここで愚痴ったところで無意味なことは当然なので、これからの説明を竜翔に促す。
「あぁ。単刀直入に言うと未来に行って欲しいんだ。未来に行って魔術の修行をしてくれ」
「未来に?」
魔術を見せられ、魔術師に命を狙われたことも超常的なことだが、『未来』という日常的な言葉が超常的なものに変わる瞬間が訪れて思わず息を呑む。
「大丈夫だ。向こうにはお前も知っている奴がいる。そいつに魔術を教わるんだ。だが、生憎俺の編み出した魔術の力ではちょうど20年前にしか戻れない。だからこれから丁度20年後に向かってもらうことしかできない。明後日にはアストラがやって来てしまう。だからこの2日間を大切にして欲しい。向こうの人間にも協力を仰いである。そいつらにしたがえば無駄な時間を過ごすことはないはずだ。」
「要するに未来で限られた時間の中、力を付けて戻ってこいというわけだな」
「そういうことだ」
唯翔は少し下を向いて、決意を固くする。
「ありがとうな。本当に。お前は今日まで20年間も一人で戦っていてくれたんだ。こっからは俺もお前の力になるし、お前も俺に力をくれよ」
二人は立ち上がって握手を交わす。
「今からが本当の戦いだ。お前が未来に行ってる間は俺が緋依里を見守っている。安心して行ってこい。お前には願いを叶えられるチカラがある。自分を信じろ」
「おう。よろしく頼んだぜ」
二人は眼を合わす。
「手を離したらお前は未来に向かう。いいか?」
「あぁ。行ってくる」
手を離して、唯翔は透明な光に包まれて消え、唯翔の視界は暗黒に染まった。
二人は大切なものを背負った男の顔をしていて、お互いに似通っていた。
第5話まで終わりました。
ここまで読んで下さった方々ありがとうございます。
どうやらブックマークして下さった方もいるようで、とても嬉しく思います。
さて、次話の展開としては唯翔が未来に向かって修行するという形になります。
今後の見どころは、新キャラたちですかね。
あらすじに書いている登場人物にもいるキャラが多く出てきます。
後は、二十年後の世界観ですかね。
では、また後日...。
ありがとうございました!