いつもの風景と、幽霊
八畳の部屋に敷かれた布団の上。有栖唯翔は寝相の悪さのせいでずれてしまった掛布団を欲して無意識に身体を転がし、布団の外へ。
チンッ。トースターが無駄に高い音を鳴らす。その音により昨日のバイトの疲れが原因の眠気から解放される唯翔。別に唯翔がトースターのタイマーを目覚まし時計がてらに使用しているわけではない。そもそもトースターのタイマーで測れる時間なんて高が知れているだろう。
窓から差し込む光を瞬きしながら眺め、唯翔は今が朝だということを知る。それと同時に、家の中に誰かがいることを察知する。
昨晩閉めたはずのカーテンが開かれていて、さらには台所の方で何らかの作業をしている物音が聞こえてくるからだ。日本の大半の高校生がそうであるように実家暮らしであるなら、家に自分以外の誰かがいることは無論であるだろう。しかし、唯翔は一人暮らし、朝起きたら家に誰かがいるというようなことは本来ならありえない。だがしかし、有栖唯翔の住むボロアパートの二階の隅の部屋に週3くらいで朝食を作りに来てくれる人間が一人いた。
「おはよう唯くん。朝ごはん食べる?」
百円均一で買ったプラスチックの皿に乗っかった食パンを差し出して少女は言った。透き通った声が唯翔の耳に心地よく入ってくる。
「ああ緋依里? 今何時?」
これまた寝相の悪さのせいで作られたぼさぼさした金色の寝癖頭を掻きながら唯翔は体を起こした。
「んーーと。8時は過ぎてるんじゃないかな? 私が唯くん家に来たのが8時前だから」
首を傾げ、右手の人差し指をこめかみに添えながら緋依里は言う。
正確ではないが、おおよその時間を把握した唯翔は何か考え事をしているのか、ぼーっとした表情をしている。
「で、私が作った朝ごはん食べる? 今回のは自信作なんだよ~」
「おうん」
『おお』と『うん』が混ざった生返事をして部屋の真ん中にある卓袱台の前に座る唯翔に差し出された食 パンは全体的に茶色に変色していた。
「緋依里の創作料理シリーズ第6弾! その名も味噌汁パン!」
制服の上にエプロンを着た緋依里が自信あり気な表情で唯翔が食べるのを眺めている。
意識がどっかにいっている唯翔は見た目不味そうな味噌汁パンを何の疑いもなく口に入れた。
「どうかな? 美味しい?」
自分で料理するくせに一切の味見をしない緋依里は果たしてその自信作がどんな評価を得られるのか心を高ぶらせた輝いた目で見つめている。
今まで心ここに在らずな冴えない目つきをしていた唯翔が一口入れたパンを咀嚼して飲み込んだ瞬間。
「はっ!」
眼が一気に開かれた。
「嘘だろ!?」
慌てふためき、部屋をウロウロする唯翔には「どうしたの?」と問う緋依里の声が届くはずもない。
「クソッ! 一時限目は鬼山の授業だった!!」
唯翔が着替えを始めようとジャージを脱ぎ始める。
「味噌汁パン美味しかった?」
感想を聞きたがる緋依里だったが、唯翔の慌てようを察したのか、少しの逡巡ののち部屋を出て行った。
手を広げて錆びた欄干には触らず、バランスを取りながら表面積の小さい階段をゆっくり降りていく緋依里。十一月のそよ風が吹いて長い銀色の髪を揺らす。
子持ちとは思えないスタイルの良さと若若しい美貌を持った日本人とドイツ人のハーフの母親と、上場会社に勤めるキャリアのある日本人の父親との間に生まれた渚沢緋依里は母親のような美しさを持った目鼻立ちをしているわけではないが、単純な可愛らしさは折り紙つきである。西欧な感じが前面にでている母親とは違い、クウォーターだからこその黄金比率の顔付きとスタイル、そして緩らかで見る者を釘づけにさせる銀髪が緋依里の天然な性格と相俟ってその可愛らしさが確立されている。世の男子が守ってやりたくなるようなそのあどけないその少女と有栖唯翔は幼い頃からずっと一緒だった。
小学校に入学する前。有栖家の隣の新築の一軒家に渚沢一家は引っ越してきた。その時から家が隣同士の二人は家族ぐるみの付き合いを始めた。春には花見をしたり、夏には海水浴や花火。秋は紅葉狩り、冬はクリスマスパーティーや初詣。しかし、いつからか子供が成長していく内に親しかった関係もしだいに薄れていった。その原因の一つに唯翔と両親が不仲になっていたことがある。
家計が悪化した有栖家は裕福な渚沢家が仲良くお付き合いしてくれることに味を占め、両親が媚を売ろうと考えていたことを唯翔が知り、それが基に口論になり、さらには父親も母親も不倫をしていることが発覚する事態へと繋がっていった。
前述にあるように唯翔は親元を離れ、一人暮らしを始める。これはバイトができるようになった高校1年の時からである。
金髪頭は反抗心から染めたわけではなく、小学校の頃に髪色のことで緋依里がいじめられた時に、「銀髪の緋依里をいじめるなら金髪の俺もいじめてみろ」といじめを止めさせる為からだった。いじめは止むどころか唯翔までもいじめの対象になる始末だったが、時間が解決していった。一週間も経たない内にいじめは消えたのだ。
唯翔の住むアパートと緋依里の家は二、三キロ離れているが、二人の通う高校の方向にあることから、今日のように緋依里が登校途中に来ることがあった。
扉が勢いよく開かれ、唯翔が猛ダッシュで階段を下りてくる。緋依里が創作した味噌汁パンを口に咥えながら。
「すまん。急ぐから、二人乗りさせてくれ」
どれだけ頑張って素早く支度を済ませたのか知らないが、息を切らしながら緋依里に二人乗りの申し出をする。いつもなら二人で歩いて学校へ行くのだが、名前通り恐い教師、鬼山の授業が一時限目にある月曜日に寝坊をしてしまった唯翔は遅刻することを避けたいが為にこの時は二人乗りを要求した。
「私に漕がせるつもりなの? 私は女の子だから無理だよ」
クリーム色の頬をほんのり赤くし、緋依里は腰に手を当てて膨れる。
「そうじゃなくてさ。俺が漕ぐから後ろに乗れって意味だっての」
そう言いながら止めてある緋依里の洒落たピンク色の自転車に跨り、手で合図する。
「なんだ、そう言うことかぁ」
唯翔に続いてその後ろに座る。
「しっかり掴まってろよ」
忠告はしたものの唯翔がいきなり漕ぎ出したことに驚き、咄嗟に抱きつく緋依里。母親譲りなのか日本人の中では比較的大きな胸の柔らかな感触を背中で感じとった唯翔は少しふらつきながら自転車を進ませた。
「速いよ! 唯くん。速い!」
唯翔の漕ぐスピードがあまりに速いので怖がる緋依里。
「すまん」
少し速度を落として緋依里の様子を窺う。
「ねぇ! パンツ美味しかった!? あ、間違えたパンツ不味かった? あ、間違えたパンツ……」
「パンツの時点で間違ってるって!」
速度を緩めても風を切っていくような速さで走るので、自然と声が大きくなり、語尾が伸びる。
「そうそう。味噌汁パン美味しかった!?」
「あの見た目にしては旨かったよ!」
同じように声を大きく上げると同時に力が入って速度が上がる。
「だから速いよ!」
「ごめんごめん」
瀬戸内海に浮かぶわりかし大きい島にあるこの町は海が近いので潮風が吹く。しかし、この時間帯は波打つこともない朝凪で、無風である。今この町で風を感じているのはこの二人だけかもしれない。
そう、これがいつもの変わりない風景。
「ねぇ! あの子!」
自転車を漕いでいくその途中。住宅街の電柱の傍に立つ少女を指差して、緋依里は唯翔に知らせた。
唯翔は自転車を急ブレーキで止めた。
「ああ。分かってる」
緋依里が指差すその少女は唯翔や緋依里と同じ高校生ぐらいの身長で、ネグリジェを着ていて、ふわふわした感じのくせっ毛ショートの髪型をしていた。こちらに背を向けているので顔は分からない。
自転車を路肩に停めて二人は少女のもとへ歩いた。急いでいるにもかかわらず、ゆっくりとした毅然な足取りで近付く。
少女がこちらに気付き、振り返った。メガネを掛けた血の気の引いた真っ白な顔をし、四肢は共に力無くだらりと垂れていた。
そして、その足は地に着いていなかった。
電柱の下にはいくつもの花束や菓子、清涼飲料水などの嗜好品が置かれていた。
そう。その少女は幽霊であり、それらは手向けられた供物であった。
「!」
二人は衝撃を受けた。
その幽霊の少女を二人は知っていた。同じ高校に通う同級生。日野礼子だ。
日野はパッとしない地味な生徒だった。普段からメガネを掛けていて、休み時間なんかは終始本を読んでいる。日野にはおそらく友達と呼べる存在がおらず、誰かと楽しげに喋っているところなど誰も見たことがない。というか、彼女の存在を知る生徒自体ごく少数だろう。
そんな日野礼子を二人が知っていたのは、同じクラスになったことがあるとか、部活や委員会が一緒だからとかいった、校内でのちょっとした関係性があったわけではなく、ただ単に日野が一方的に関係を持とうと話し掛けてきたことがあったからである。
高校を入学して早々。日野は下校する唯翔と緋依里に突然、声を掛けてきたのだ。
『私、霊が見えるんです!』
開口一番。日野は言った。
『あなたたち二人もそうですよね!』
普段とは比べ物にならないくらい明るい感じ、というか興奮を抑えきれてないような感じであった。
何を根拠に日野はそんなことを言っているのか測り兼ねなかったが、この時、唯翔は『何言ってんだ? 俺たちは霊なんか見えない。第一そんなの信じてもいない』と言い切って、 緋依里の手を引いてその場を速やかに離れたのだった。
事実を言うと、その時点で二人は霊を見ることができていた。いや、見えてしまうようになっていたのだ。見たくて見ているわけじゃないということを分かってもらえれば、どんな言葉を用いても良かったのだが、いちおう訂正をしておく。
昨日も日野は学校に来ていた。おそらく、昨晩亡くなったのだろう。
日野の幽霊は虚ろな眼で二人を見ていた。ネグリジェは真ん中で引き裂かれ、うっすら透けている白い肌が露わになっていた。腹部から魅力のない谷間まで刃物で切り付けられたような傷も見受けられる。
「この傷痕……。誰かにやられたのか」
痛々しさが残る傷痕を見て、呟く唯翔。
緋依里は電柱の方を向いて手を合わせていた。
霊は何も語らない。見えたところで霊と会話なんてできるわけもなければ、意思の疎通などできるわけもない。死者が霊となってこの世に存在するからには、何らかの怨念を持っているのかもしれないが、霊は何もできやしない。ただそこにいるだけで、害などはない。だから、同じようにこの日野の幽霊は二人の近くにいるだけで、何もしはしない。
足音が近づいてくるのに気が付いて、二人はそちらを見た。
そこには喪服姿の中年女性がいた。日野と同じようなくせっ毛の女性だった。
二人はその日野礼子の母親らしき女性に向けて深くお辞儀した。
向こうも同じくお辞儀をした。