story:1 旅立ち
何も特別な能力などを備えていたわけではない。私はごく普通の中学生だった。それでもいつの間にかこうやって私は動いていた。「世界の平和」を守るために。
カツカツと薄暗い廊下を早足で通り抜ける。最近気になるほどに長くなった前髪がうっとうしい。顔をしかめながら前方に現れたドアを乱暴に開ける。
「お、おはよ…。」
「おはよう。」
もう太陽はとっくに空高くに昇っているけどね、という皮肉をすんでの所で呑み込み、ぶっきらぼうながらも挨拶を返す。そう、この教室に居る連中に罪はない。
小さな自分の机に近寄り、山のように詰まれた書類のてっぺんに無造作に置かれた紙をつまんだ。昨夜、眠い目を擦りながらも書き上げた書類だ。それを持って机の間を抜け、この教室で一番大きい机に座る人間の目の前に仁王立ちになる。
「よぉ。お帰り。」
一番大きな机に座っているからといって、この目の前の人物が一番偉いわけではない。ここではほとんど皆平等である。実際、この大きな机に座る権利は1ヶ月に1回程度回ってくる。当番制の上司なのだ。
「ただいま。そして行ってきます。」
憮然とした声でつまんだ書類を相手の目の前でちらつかせる。昨夜書き上げた書類は派遣申請書である。
「…相変わらず忙しいヤツだな。」
あきれたように呟きながらも、上司(仮)はさっきまで向かい合っていた書類を横に置いて私の書類に判を押してくれた。
「どうも。」
軽く礼を言って、すぐに先ほどくぐったこの教室唯一のドアに向かう。他の、同じく机に向かって色々と事務処理に励んでいる同僚達の視線が私に集まるのが感じられるが、それにいちいち構う余裕が今回はない。欠伸をかみ殺しながらも背筋を伸ばしてドアを開けた。
「昨日まで行ってた件に関する報告書、今回は俺が片付けといてやる。」
背後から聞こえたぶっきらぼうな台詞に、私は右手を軽く上げて感謝の意を示した。
出かける前にシャワーでも浴びようと一旦自室に戻ることにした私は、途中で同僚の一人と廊下ですれ違った。浅い傷と痣だらけの腕に私は苦笑しながら口を開く。
「また派手にやったのか?」
「ぶっ続けで3時間もだ!信じられるかい?」
普段は物静かな彼が珍しく大声を出す。私もそれに答えようと神妙な顔をして言った。
「まぁ殴られても平然としてられるのは我らが隊長だけだろうけどね、せめて後輩達には生傷見せないように努力すべきだと思う…あなたには無理だけど。」
後半はこっそりと呟くことにした。聞こえていたみたいだが。
「何さりげなく断言してるの。余計なお世話!それにしても、今帰り?今回も長かったね。」
「帰ったのは昨日。そんでまた今日出かけるの。」
さらりと私が言うと、目の前の彼は両手を上げで大げさに天を仰いだ。
「我らが魔女は自己を犠牲にして世界の安定を保っていらっしゃる!…いい加減少しは休みなよ。だいたい最近はここよりも派遣地に居ることの方が長いじゃないか。」
「そうしたいとこだけどね。生憎、皆が私の助けを待っているのよ!」
「何の真似、それ…?」
ポーズ付きで言うと冷静なツッコミが帰ってきた。
「ま、そんなわけですぐ出かけるから…。たぶん他の連中には挨拶できないだろうから、よろしく言っといて。」
「了解。気をつけてね。」
「はいはーい。」
小さく手を振って私は久しぶりに会う同僚と別れた。
本格的な仕事が始まる前に、少々の説明が必要であろう。そこでこの場で主人公「私」について、そして彼女の仕事「世界の平和を守る」とは一体何のことなのか、について簡単な解説をする。
主人公の「私」は名前を和泉巴という。現在17歳。ごく普通の学生である。いや、ごく普通の学生であった、というのが正しい表現であろう。親の仕事の都合で幼い頃から引越しを繰り返し、中学一年生の時にアメリカへ渡った。
ニューヨーク近郊の、日本人ばかりが集まった学校に通って3年目の春に、巴の世界は一変した。学校の体制が変わり、そこの生徒達は「世界」を監視し、安定させるという使命を帯びた「調整人」となった。学年はそのまま、教師もそのままで、一見普通の学校であるが、内部で行われていることは普通ではない。
普通の勉強と同時に、特殊技能・運動能力を限界以上に引き伸ばすために様々な措置がなされた。物語の中でしかありえないような剣術を習ったり、魔法を使ったりもする。そんな馬鹿な、と思うのは皆同じで、巴達自身も最初は半信半疑であった。それでも今は各々の仕事を理解し、与えられた任務をこなすために日々訓練を行っている。
世界を渡る役を負った人間、学校で事務処理を行う人間と役割が分担され、その中心は当時の最高学年であった巴やその同級生達である。巴の仕事は、世界を渡り歩き、各世界の綻びを修繕すること。
何故、急に世界の平和を守るという機関が生まれたのか。何故、巴達の学校が選ばれたのか。細かいこと物語が進むにつれは追々明らかになるであろう。
そのようなわけで、今日も巴は世界を移動することになったわけである。話を戻すとしよう。
雲一つない青空の下に広がる青々とした芝生を見つめて、私は目を細めた。
「もたもたしないで。私の計画ではこの仕事を3日で終わらせて、中間テスト一週間前に帰ってくるつもりなんだから。」
芝生に細いロープを張っている人物にそう言った所、相手は立ち上がりながら無言で私のほうを睨んだ。…どうやら準備はできたようである。
「その計画ですけれどね、絶対無理だと思いますよ。」
眼鏡を押し上げつつ一つ下の後輩ははっきりと言った。
「何でよ。」
「だって和泉さん、ここ2、3回まともにテスト受けてないじゃないですか。今更テストなんて大人しく受けるはずが…あたっ。」
最後まで言わせずに軽く後輩の頭を叩いた。まことに最もな指摘であるため、反論できない自分が腹立たしい。
「もういい。行くからね。」
黒く長いコートを翻しつつさっきから張っていたロープの囲いの中に立つ。ここが俗に言う「ワープゾーン」である。世界と世界をつなぐ入り口を一時的に作るための場だ。
「どうぞお気をつけて。」
後輩に微笑みかけた瞬間、目の前が白い光でいっぱいになり、私は飛んだ。
旅立ちますが、任地はどのような世界なのやら。