7
いま、青い空になった。オレンジ色の空ではなくなった。
私があの幻想的な風景を見たのは、確かオレンジ色のときだったから、私はもう通り過ぎたのではないかと思った。
私はあの幻想的な光景を見たところを通り過ぎたことを彼女に ― ついでに「あれは冗談だった」と嘘をつこうとも思っていた ― 伝えようとした。いまの私はこの世界からさっさと抜け出したくて、さっきまで何か良い案はないか考えていた。
するとナースが唐突に声をかけてきた。先ほど「飽きた」とだけ言ってスキップを止めたばかりの彼女だった。
「次は、あなたの番です」 彼女ははっきりとそう言った。
「何が?」私は素直に聞き返した。
「何か話すことはないんですか?」
私は彼女の言っていることがまた理解出来なかった。私が「どういうこと?」と訊き返すと、彼女は首をがくんと落とし、右手を額に当てて「あー」と低い声を出した。
「世の中はギブ&テイクなんですよ。分かります?」
「分からない」
「つまり、今度はあなたから話を振る番だってことです。さっきは私から話を振ったでしょ。はい、これで分かりましたね」
お互い何も干渉せずに歩き続ける方が楽だ、と私は思った。
私が黙ると「はやくはやく」と彼女は何度も私を急かしてきた。手まで叩き始めた。カウントダウンまで始めて、私は次第にイラついて彼女に「黙ってくれ」と言ったが、彼女は止めようとしなかった。
「だったらお話をどうぞ。不公平ですよ、私だけが頑張って終わりだなんて」
「そんなのお前の勝手だろう」
「私を止める方法は一つですよ。暴力反対、てか私ホログラムだから触れられないし」
勝ち誇ったような顔をして彼女は言った。その顔を見てますます腹が立った。私は腹の虫をおさめるためにもとりあえず彼女を黙らせるようとした。
さっき彼女が楽しそうにスキップしていたことを思い出し、いつスニーカーを履き換えたのか、― それもどうせ相手はホログラムなのだから答えも予想がつきそうなのだが ― そのことでも聞こうかと思った。
質問をしようとした時、気球に向かうときに見かけた蝶が私の歩く先の方からやって来るのが見えた。ああ、そんなとこまで戻ったのかなと思った。赤と緑の羽を持ち、羽に太い線で『◎』の模様を持つ蝶を見た時、私はあの記憶が頭に過った。
「あ!」と彼女が声を出した。
私はその声に驚き、彼女の方を向いた。彼女は行く道の先をぼうっと眺めて「あーあ」と言った。
「洗濯物、取り込むの忘れちゃいました」
「洗濯物?」と私は聞き返した。彼女は「はい」とだけ答えると、「まあいいです」と言って手を一回叩いた。
「それよりもです、何か話すこと見付かりましたね。さあ、話しましょう」
「話すこと?」
私は彼女が何を言っているのか、またまた分からなかった。
「あなたのスニーカーのことを聞こうと思っていたのだけど」
「そんなこと聞いても話は続かないでしょう。つまらない患者さんですね」
私は「つまらない患者」と言われておさえられそうだった腹の虫がまた騒ぎ始めた。「つまらない患者で悪かったな」と言い返すと、「正直者ですから」と言って彼女は鼻を鳴らした。
「じゃあ、何について話せば良いんだ」と私は聞いた。
「あの蝶を見て何か思ったでしょう。そんな顔をしていましたよ。どうです、図星でしょ」
私はそう言われて驚いた。
「そんなことない」
「嘘です」
「何で分かるんだよ」
「ナースですから。患者さんの変化を見抜くのはとっても得意なんですよ」
「すごいでしょ」と言って彼女は胸を張った。
「関係の無いことだろ」
そう言って彼女から目をそらすと、「そうでもないです」と彼女は言った。「プログラムバグの原因究明について大事な資料となる可能性大です」と彼女は続けて言った。
「親身になってお聞きしますよ」
私は躊躇い、話したいとは思わなかった。あの思い出はなるべくなら、もう直視したくない。
ずっと胸にしまっておきたい。
彼女は「さあ、話しましょう、話すのです!」と言って私に向けて右手で人差し指をさしてきた。表情は真剣で全く笑っていない。そして彼女はじりじりと私に近付いてきた。
その彼女の妙な行動から威圧的な感じを受けた私は、嫌な予感もしたので数歩だけ後ろに下がっていった。
その分だけ彼女はにじり寄ってきた。
「嫌ではありません、話しましょう!」
「嫌だ、断る」
「どうしてです!?」
「話したくないことだから」
「じゃあ、仕方ありませんね―」
彼女はそう言って、
「ドーン!!!」
と言いながら、私の眉間に触れるかどうかのところまで人差し指をいっきに持って来た。
私は言葉を失った。
彼女の顔は相変わらず笑っていない。
一瞬だけ、私は世界が冷めた気がした。
そして私は、このネタを知っているが、いくらなんでも古すぎるだろうという気がして、どうツッコミを入れるべきなのか、そんなことまで一瞬だけ迷ってしまった。
というより、こんなことをする人を初めて見た。
あ、こいつはホログラムだった。
私の顔をじっと見つめている彼女は、「あれ?」と言って顔を緩めると、きょとんとした表情になって口を開いた。
「もう、このネタも流行っていないとか、ですか?」
「いや、流行ってるよ。笑うセールスマンでしょ」
私は嘘をついた。すると彼女は「通じてたあ、良かったあ」とほっとした表情になって、人差し指から私を解放した。
「それじゃあ、話しましょう。そんな悲しい顔をして話すことなんて、ゲロっちまえば楽になれると江戸の親方が言ってました。ね、話しましょ、どうせ私はホログラムです。いつか人間に打ち明ける予行練習だと思って。私、聞きたいです、ほら、ね」
私はその彼女の誘いに何度か断った。その度に彼女は小さく唸り声を出した。しかし、「じゃあ、もう帰れませんからね。一生、この世界で私と暮らしましょう」と頬を膨らませて言われた。
「え、それは本当?
「はい、本当です。この世界の権限は全て私にあります。
どうします? 一生、私と一緒に暮らしますか?」
それは嫌だった。嘘か本当か分からないが、帰れなくなるのはいやだ。
私はついに言うことにした。話すだけで解放されるなら、楽だ。
それに、相手はどうせホログラムだ。
私はそんあことを思って「分かった、言うよ」と言った。
「まあ、失礼な人!」
そう言って彼女は怒った。
彼女は本当に訳が分からない。すぐに顔色を変えて「さあさあ、言いましょう!」と彼女はわくわくして言ってきた。
私はナースと歩きながら、少年時代の私が友人のミニ四駆を盗み壊してしまったあの思い出をありのまま話すことにした。盗んで、投げ捨てて、壊れていたミニ四駆、そしてヤモに謝ることもできずに全てがうやむやになったあの思い出を。
話を始めようとしたら、冷たい向かい風が急に吹いてきた。その風はすぐに収まり、私は地平線を眺めながら、話を始めた。