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歩いて来た道を戻ることになるとは思ってもいなかった。アリスの旅は唐突に終わったはずだ。イッツ、スモールワールド。たぶん果てしなく続く一本道と色の変わる空と背後に浮かぶ気球と、あと広がる草原。そして、私のとなりに歩いているナース(ホログラム)。
相手がたとえホログラムだとしても、人間と話せるのだから、たぶん人間として相手のことを考えていいはずだ。と、脳みそはたぶん考えた。
だから、私は何か気まずい感じに襲われているのだろう。黙って二人は歩いている。一人で歩いていたときは、広く雄大に感じられた世界が、二人になると、ぐっと世界との距離が縮まった気がして、私はどうすればいいかわからない。あんなに色々と考えられた世界が、どうしてもちぐはぐと見えてしまう。せめて目立つ何かがあればそっちを向いていられるのに、広がるのは地平線まで続く道と草原だけだから、私は隣を気にしながらただ前を見て歩くことしかできなかった。
土の道からアスファルトに変わるところで、突然ナースが私に声をかけてきた。
「あの、こういう時はどうやって話せばいいのですかね」
「さあ」とだけ返事をすると、彼女は「あー」と唸った。
「そのですね、あのですね。つまりですね、私にとってですね、こういう経験は初めてでありましてですね、その、」
「なんか話し方おかしくなってるよ」と私は思ったことをそのまま口にした。相手がホログラムだと分かっているから言えるような言葉だと口に出してから思った。
その言葉にショックを受けたのか、彼女の顔から血の気がいっきに引いていき、瞳孔が開いて呆然と真っ青になっていった。
ぎこちなく彼女は 「その、どこがおかしいので」と言った。
「いや、会ったときとずいぶんキャラが変わっているなあって」
彼女は口を少し震わせて「あの、あの」と詰まらせると、今度は唾を大げさに飲み込んではわなわなと話し始めた。
「キャラ、というのは性格のことですよね。そりゃあそうですとも、ええ、そうですとも。だって、私に与えられた仕事は、患者さんを検査してその結果を患者さんに報告してそして患者さんを治療する、ってことです。
つまり! 私はバグを直すことなんて一切出来ないんです! だから、困っているんです! 自分が急に消されるかもしれないという、一大事なんです! プログラマーにばれる前に、私が原因を見つけて、そしてプログラマーに直して貰えれば、ほら、私は役にたった! そしたら消されないでしょう、たぶん……」
そう言って彼女は少し黙ると、オレンジ色の空を見上げて「あー」と唸り声を出しでそして肩をがくっと落とした。
「もう駄目だあ。私の人生はこれで終わりだあ……」
首をうなだれたまま苦笑いを浮かべて彼女はとぼとぼと歩いて行く。「うあ、うはははは」という奇妙な笑いが急に聞こえ始め、やはり彼女はバグっているのではないかと私は感じた。
「そのプログラマーと話はできないの?」
彼女を落ち着かせるためにも私がそう尋ねると、彼女はゆっくりとこっちを向いた。その顔には私の言葉の意味を理解できていないのか、脅えを隠し切れていないとぼけた表情だった。どんぐりを持って人間と対峙したリスみたいだなと思った。
「だから、プログラマーと交渉できないの?」
言い直すと、彼女は意味を納得したようですぐに返答した。
「この世界が作られた世界なんですよ」
今度は私が彼女の言っていることが分からなかった。どういうことか彼女に聞くと、彼女は淡々と話していった。
「プログラマーも作られた人だってことです。プログラマーは、この世界のはるか上空から私のことを管理している、いや私だけじゃなくてこの世界ごと管理しているんです。プログラマーは、この世界を管理する役割を持たされた人だって言えば、話は通じますか?」
「よく分からない、もっと分かりやすく言ってくれると嬉しい」
「何ですってえ。嬉しいなんて言葉を安易に使いやがってえ。じゃあ、嬉しい繋がり、私の好きなショートケーキで言うと、ショートケーキは誰が作りますか?」
「パティシエ、とか言われる人たちだろ」
「ええ、それはそうです。でも、私はそんな高級なケーキ、食べたいけど食べられません。安月給ですからね。けど、パティシエの教えを受け継いだ機械が大量生産されるケーキだったら、安いですから私は食べれます。無理すれば三食も。これで分かりましたね?」
「その、つまり……」
「あー、もう! 不良品のケーキが出来たら修正するより、そんな不良品は捨てて新しく作り直した方が良いでしょ! ここも同じなんです! この世界に組み込まれている私を含む世界のどこかで異常が発生したら、この世界ごと消し去って新しい世界を創ればそれで済む、っていうことです!」
「話が飛んだね……」
「ぬわー、飛んで行くのは蝶と気球だけでよろしくて! 人間と話が飛んで行ったら、さようならアスファルト、こんにちは乱視の世界です。あ、そうそう、ここまで来る時に一度でも空を飛べたら乱視なんです。知ってましたか!?」
トリビアを話す時の彼女は目を輝かせて本当に楽しそうなのだが、私はもう何と返事していいのか分からず ― 本当に困っていた、さっさとこの世界から抜け出したい ― この喜怒哀楽の激しいナースの方を黙って、というより言葉を詰まらせて首を捻らせるぐらいにした。どうしてこんなに会話が飛ぶのだろう、彼女は。
その彼女は、私を見つめてまたまた顔から表情が消えていった。
すっかり青ざめてしまった彼女は足を止めて口を開いた。
「私の言葉、通じています、よね?」
私は「ええ」と頷いた。
「良かった。ついに言語にまでバグがきたのかと。驚かさないでくださいよ!」
そう言って彼女はまた歩き始めると、すぐに立ち止まり私の方に振り向いた。
「あ、そうそう! 私、あなたのせいでこんなことになって恨んでいますけど、嫌いじゃないですよ! むしろ今までの患者さんの中で好きな方に入るぐらいですからね! だから、私に嫌われたとか思って落ち込まないで下さいよ!
来た時から、ずっと悲しそうな感じを出してばっかりですから、念のため言っておきました!」
急に何を言い出すのかと思った。もう相手にしないでただ黙って歩くだけが良いのではないかと思うと、彼女は一人勝手にまた歩きだした。私もその後に着いて行った。
しかし、後ろから見ると彼女は本当に楽しそうに歩いているように見えた。あんなに腕を振って歩いていたのか。今にでもスキップでもしそうに彼女は鼻歌まで歌い始めて歩いて行く。よく見ると、薄ピンクのナース服は変わらないのに、彼女の靴だけ白いスニーカーに変わっていた。いつから変わっていたのだろう。
あ、スキップし始めた。
まあ、どうでもいいことか。私は早く、この世界から出たい。