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私にその過去を思い出させた蝶は、やがて空に吸い込まれるようにどんどん高く舞い上がって行き、やがて点となって天に消えていった。私はそれを足を止めて見送った後、ゆっくりと歩き初めた。気が付くと視線はアスファルトばかりに向いていて、嫌になって一度足を止めると、胸を張って大きく深呼吸をした。そして私はまた歩きだした。
さらに歩いて行くと、道路と草原の境界線のところに、道路標識らしきものが立っているのが見えた。やがてアスファルトに白線が横に一本引かれていて、そこからでは標識に何が書かれているのかはっきり見えなかった。小さな「・」のようにしか見えず、近づいて行くとだんだん見えてきて、それは「C」のような感じだった。その下に付いている補助標識には「0.3」と書かれていた。
その先にまた同じような光景が見えた。道路標識に白線。
白線のところまで辿りついたが、やっぱり標識は見えなかった。近付いて行くと今度は反対の「C」が書かれていた。「左」と私は呟いた。補助標識には「0.2」と書かれていた。
その「0.2」の標識を過ぎると、空が急にややオレンジ色に、夕焼けのように染まっていった。そしてそれは夕焼けのようだった。一瞬にして空が夕焼けになった。さすが仮想世界、もはや何でもありだなと私は思った。空を見上げたが、やはり太陽はどこにもなく、気球の先にもなくて、私の長く伸びるはずの黒い影もなかった。
アスファルトがほんのりと夕焼けに染まった。お酒に酔ったような色だった。後ろを向いたら、白線がまさにそんな感じだった。少し白線がうにょって曲がっていた。
気球の色も青空のときよりも見えにくくなって、少し黒っぽく見えた。若草色だった草原は熱を帯びて火照ったように少しオレンジ色に染まり、私は童謡の「赤とんぼ」を口ずさんだ。
風が吹いた。歩くことにした。
歩きながら私は「赤とんぼ」を口ずさんでいた。
歩いて行くと、道路の両脇に、小さい透明な球体がいくつか浮いていた。
その小さな球体は空の色をこれでもかと吸収して、オレンジ色に輝いていた。それも一度取り込んだオレンジ色を球体の中で反射させて、そして外へ一方向に放出しているようだった。その球体はクルクルと自転していた。そんな球体が歩いて行くとしだいに数が増えていった。
一言でいえば幻想的な世界が広がってきた。球体から放たれたオレンジ色の光と、また別の球体から放たれたオレンジ色の光がぶつかりあったとき、シャボン玉がはじけたようなかすかな音が聞こえてまた違う光を放った。私は、宇宙のビックバンを理解した気になって、その光景をしばらく見ていようと足を止めた。
そこでは、透明な球体は数えきれないほど多くなっていた。全ての球体は自転していたが、その場でコマのように自転しているだけで、公転する様子は見えなかった。だから、球体どうしがぶつかることはなさそうだった。
様々な音と光が生まれていた。私には名前がつけられない素敵な色がたくさん生まれていた。言うなら、十人十色な青が生まれて、八方美人な赤が出来たかと思うと、一蓮托生な緑が目に映り、夏炉冬扇な紫が誕生した。他にも色々な色が色々と色んなふうに風にのってふわふわと。私はこの光景を写真におさめたくなった。カメラもないから、私は両手の親指と人差し指を使ってL字の形を作り、それを二つ合わせて、「はい、ちーず」とやったら、球体がいっせいに音と共に弾けて、本当に素敵なことが起きた。
思わず感嘆の声を洩らした。すがすがしい気分だった。夏のかき氷シロップかけ放題、全てのシロップをかけようとしたら店主に怒られた。それでも笑ってごまかして、ブルーハワイとイチゴとメロンとレモンとカルピスをかけても、色が混ざらなくて幻想的なかき氷の出来上がり。店主さんありがとう、そんな光景を思い出す、そんな私がいた。
そして風が吹いた。私は歩くことにした。
さらに歩いて行くと、アスファルトの道が終わるのが見え、土の道が見えた。
でこぼこの見える土の道は、夕焼けにも負けない赤土の色で、しかし道幅は変わらずそして先には気球が見えて草原も広がっているから、私はさほど警戒することもなく土の道に第一歩をつけた。
アスファルトの道と違い、足が沈んだような気がした。そして、沈んだぶんだけ足が押し戻されるような気もして、私はこれが土の力かと勝手に思い、すぐに自嘲した。
ガキのようなことばっか思い付いて仕方がない。
そして歩いて行くと、まだ遠くだが道の右側に人らしきものが見えた。
私に気がついたのか、その人は私に向かって手を振った。
誰だかは分からない。歩いたまま私もとりあえず手を振り返した。
その人は今度は両手で手を大きく振りはじめた。左手には何か四角くて平べったいものを持っているのが見えた。
私はそのまま片手でさっきより大きく手を振り返した。
近付いていくにつれ、その人はスカートを穿いていると分かった。その人は今度はジャンプしながらはしゃぐように両手を振っていた。その時、四角い物を落としたのが見え、慌ててすぐに拾っていた。「あわわ」という女性の声がかすかに聞こえた。
「どちら様ですかー?」と私が呼びかけると、「ナースですよー!」と返ってきた。
やがて私は見知らぬ女性のいるところまで近付いた。
あと数歩でその女性と肩を並べるところで私は足を止めた。
私が「どうもこんにちは」と言うと、彼女は深々と頭を下げた。
「はい、お疲れ様でした~。私、この世界のナースです。個人的な情報はプライバシー保護のためお答えできません。この度は眼球治療用仮想世界にお越し頂きまことにありがとうございます。とりあえず、ここで終わりです。
しかし、ずいぶん遠くまできちゃいましたねえ」
少しピンク色がかかる白衣姿の若く可愛らしいナースがそこにいた。身長は私より同じぐらいに見えたが、足元を見ると高いヒールの靴を履いていた。足はすらりとしていて肌色のストッキングがよく似合うと言っては何か変だが、幼い顔立ちに似合わず妙に色っぽい。黒髪のショートカットがその幼い顔立ちをさらに幼く見せている気がした。
四角い物はバインダーだった。彼女は右手に持ったペンで左手に持ったバインダーに、何か難しそうな顔をしながらペンを動かしていた。顎を少し上に突き出して困った表情をつくりながら、たまに口を尖らせて小さく声をうならせていた。
「推定視力、0.06ですかあ。だいぶ近眼ですねえ」
私のことを(特に目をじっと見ながら)言ったらしいので、私は素直に返答した。
「そりゃそうだろう。こんな場所に飛ばされるとは思ってもいなかったが、私だって最近メガネが見えにくくなったから眼科へ来たんだ」
しかし、今の私はこの時になって気が付いたのだが裸眼だった。
「その考えは間違っちゃいないんですけどねえ。もう少し目を大切にして下さいね」
バインダーばかり見て少し素気なく聞こえたので、私は少し嫌みったらしく返事をした。
「遺伝もあるのだろう。仕方あるまい、親父も目が悪かった」
「それを言われちゃうと困っちゃうんですけどねえ」
彼女はそう言うと、本当に返答に困ってしまった様子で、バインダーを見ながら首を傾げて口を閉じた。彼女の低く小さな唸り声が聞こえたかと思うと、彼女はペンを胸元のポケットに閉まって口を開いた。
「ま、目立った異常も見られないですし、大丈夫でしょう。ついでに言っておきますとね、アスファルトからオフロードに変わった境界線。あれが視力0.1の境界線なんですよ」
そう言うと彼女は目元に皺が出来るぐらい目を細くして楽しそうに「へえーへえーへえーへえ~!」と気の抜けるような声で言った。右手を小さく上下に動かして、何かを叩いているような身振りをしてノリノリになって少しの間それをやり続けた。
私は呆然として、そしてそれを見ていた。ネタは分かるのだが、何しろもう古すぎる気がして彼女についていけなかった。
「あれ!? やらないんですか!?」
「そのネタはもうかなり古いかと思うよ」
「ええ~!! そんなあ、やっと恥ずかしがらずに出来るようになったのにい」
彼女はそう言って、「あの番組終わってしまったんですかあ、ショックだあ」肩を落とした。「流行りの番組はないんですか、いま」と顔をあげて訊いてきたから、知らないと答えると、またため息をついて俯いてしまった。
何か悪いことをした気になり、空気がうす暗く感じたので、私は口を開いた。
「長く歩く人ほど目が悪いってことなのか?」
「いやあ、そんなことありません」
俯きながら落とした声で彼女は返事をした。「ト~リビ~ア~…♪」と彼女は聞き覚えのあるあのメロディを妖しく口ずさみ始めた。取っ付き難い変なナースだなと私は素直に思った。せっかく顔は可愛いのにと残念にも思った。
私は向こうの空に浮かぶ気球が目に入り、思い付いたことをそのまま聞いた。
「あの気球、かなり近くまで来たけどあそこまで行くと視力はどれくらいなの?」
彼女は口ずさむことをぱっと止め、顔を上げて私の顔(特に目を見て)を見て言った。
「あの気球の真下ですか、駄目ですよ、行っちゃあ。あの真下は視力0。失明ですよ」
私は少しぎょっとした。あの気球をもう一度見返した。
ここからだと出発よりだいぶ大きく見えるあの気球にそんな怖い秘密があったとは知らなかった。到着したら失明だなんて。何も知らずに私はなんて恐ろしいものを目指していたのだろうと思った。
「でも、大丈夫ですよ。気球のとこに行く途中で大きな川があるんです。そこを渡らないとあの真下には行けませんから。その川沿いに着いたら視力は0.03で、川に足を突っ込んだら0.02です。川に足を突っ込むなんて私は嫌です。だから、その前に私が引き止めます。お互い濡れるのは嫌ですしね」笑顔になって彼女は言った。
「ああ、そうなの」
「とにかく、そうならないためにも目は大切に。パソコンの見過ぎ、ゲームのやりすぎ、目が疲れたら休ませることです。極度に目に負担をかけるようなことも駄目ですからね。歩き続けたから足が痛いでしょ、目も同じなんです。疲れたら休ませることです」
「そう、大して疲れてないし痛くもないけど」
「目と足を一緒にしないで下さい。って、あれ? まあいいや、とりあえず、検査お疲れさまでした。次に会うときはアスファルトで会いたいですね、ではお大事に」
「まってまって」
何となく私は彼女のことを引き止めた。この世界のことについて色々と訊きたいことがあった。それにこの世界からの帰り方も聞きたかったし、ここに来た時みたいに意識を突然飛ばされるのならそれまで彼女と話もしていたかった。一人で待たされるのは嫌だった。なら、現実の世界に戻るときまで可愛い彼女と話でもしていたかった。
あれ、現実の世界ってなんだ?
後ろを振り向いて気球の方へ歩きだそうとした彼女は「何ですか」と言って彼女は首を傾げた。私はまず聞きたいことを聞くことにした。
「いや、つまり、この道路を歩くことが私の診察になるってことか?」
「はい? ええ、全てはあっちの世界の人が教えてくれるはずですが」
「あっちの世界? いや、全く教えてくれなかったよ」
「それはおかしいですね。あの人、そんなこと絶対にしないのに。
とりあえず、あの人の代わりに答えるとするならイエスです。
ちなみにですね、アスファルトの道路を歩いている最中に何かに出会ったと思うんですけどね。その一つ一つがきちんとした検診になっているんです。知っていました?」
彼女はそう言って今度は控えめに「へえ~へえ~」とやった。私もそれを真似すると、彼女は「ありがとうございます!」と元気よく言って笑顔になった。
「なるほどなあ、ここに来る途中にとても綺麗で幻想的なオレンジの光景を見たんだけど、あれも検診の一つだったのか」
「へ? 何ですか、それは?」急に彼女の目がテンになった。
「いや、小さな水晶玉みたいなものがたくさん浮いているところがあって」
「ええ!! 見ちゃったんですかあ!」
彼女は飛び跳ねてそう叫んだ。私はその声に驚き、一瞬たじろいだ。
「見ちゃったって、見てはいけないのかい、あれ」
「あれは色盲の方に色を教えるための設定で、そうでない人は何も見ずに素通りするはずなんですけど」
「僕が色盲!? 馬鹿なこと言うな!」
私は驚いて声をあげた。彼女もそれにつられて悲鳴をあげた。
「知りませんよう。いやあ、プログラムのバグかなあ、そしたら私、消されちゃうのかなあ、嫌だあ」
「いや、ちゃんと検診しているんだろうな」
「やってますよ! 診察は全て無事終了しているんです!」
「どこでやったんだよ」
「トップシークレット! そんなことより、はい、あの気球を見て下さい!」
彼女は気球の方を指差した。私もあのある意味恐ろしい気球を見た。
「いま、何色に見えますか!?」
「上から、赤、黄色、緑」
「はい、次!」
彼女がそう言うと、気球の色がパッと変わった。
「紫と黄色」
「はい! これは」
「青と水色と黄緑色かな?」
「やっぱり色盲じゃないですね。どうしましょう」
声を落として彼女は私を見て言った。
「そんなこと知らないよ」
「私は知りたいです! この世界で致命的なバグがあったら、私ごと消されちゃう、うわわわ、嫌だあ、そんなの」
「消されちゃう、だって?」
「たぶん、突然、ひゅっ、って。突然死、いや、突然…消滅? 嫌だあ」
そう言って彼女は顔を両手で覆って俯いた。鼻をすする音が聞こえてきた。
「ずいぶんと酷いことをされるね」と私は言うと、彼女は「そうなんですよ」と言ってそのまま言葉を続けた。
「プログラマーとかいう奴は非情なんですよ、全く。私が四代目なんです。四代目だって言われたんです。てことは、私の前に三人も……、ひゅっ、って。いやー……。
……そのですね、三代目はロールケーキが食べたいとの遺言を残して、二代目はチョコレートケーキが食べたいって、それで初代なんかシュークリームとショートケーキが食べたいって、あ、ショートケーキは私がたべたいんだった、それで」
「落ち着いて。なんか話がおかしく」
「イヤー! バグってるだなんて言わないでー! あなた、まさかプログラマーの仲間!?」彼女はその場で飛び跳ねて、私に向かって身構えた。
「まあ、プログラマーだけど。でも君は作ってないよ」
「そんなの知ってます! 私を馬鹿にしてるんですか!?」
今度は顎を突き出して彼女は言った。言い終わると真剣な目つきのまま肩で息をしていた。ぜいぜいと彼女の息が切れる音が聞こえる。彼女はいちいちと大げさなリアクションをしながら話しているせいで、本当に疲れているみたいだったし、額に汗をうっすらと掻いていた。
どう彼女と接すれば良いのか私は本当に困った。こんなことになるなら関わらなければ良かったと思った。顔だけで女を判断してはいけないと改めて思った。私は黙って見ていることしか出来なかった。すると、彼女は息が整わぬままその場をぐるぐるとゆっくり歩き廻っては、今度は気球のある方へ行ったり来たりをし始めた。とりあえず焦っている様子には見えた。何かぶつくさ言っているのも聞こえた。なんか気の毒に思えた。
急に彼女は足を止めると、私の方に向いた。
「行きましょう! 現場へ! もうそれしか助かる道はありません!」
「いや、そのことは私に関係ないから君一人で」
「見て下さい! 道は一本です、迷うことはありません!」
「はあ」
「頑張るのです、私! シュークリームが待っている! さあ行きましょう!」
「待って」
「行く先この道旅先小町、旅は道連れ世は情け! 情けは人のためならずして、あなたのために情けあり! 道は険しくも一本道ならどうして迷うか立ち止まるか、さあさあさあさあ行きましょう!」
そう言いながら彼女は私の近くまで寄って来た。近くまで寄られて、黒く透き通った丸い瞳に吸い込まれそうになった。本当にかわいいと感じて心が揺れた。
そして私の手を掴もうとした。
彼女の手は私の腕を掴めずに、すり抜けた。
私はそれを見て呆然とした。彼女もそれを見てあっけにとられていた。
「そうだった。わたし、ホログラムだった……」
今にも泣きそうな声になって彼女は言った。
「その、私の言うこと聞かないと、帰れませんよ……」
彼女の瞳が潤み始めた。
「ああ、もう行くよ、ついて行くよ」
彼女は目元に涙を溜めている。
「ありがとうございます。あなた、良い人です」
そう言って彼女は右腕で目をごしごしと吹いた。
拭き終わると彼女は私の横をさっさと通り過ぎて、何歩か歩いたあとに振り返った。
「行きましょう! ぐずぐずしている時間もありません!」
涙は止まっていた。彼女は涙を拭いた右腕を天高くに振り上げた。
「行きましょう、おー!」
何なんだ、この人は。
「あ、どうしてやらないんですか! 私が馬鹿みたいじゃないですか!」
何なんだ彼女は、やっぱりわけが分からない。
彼女の一つ一つの行動が、全て感情のメリハリが強すぎて、さっきから私はやりにくいと感じつつあった。
私が何も言わなければよかったのだろうか? 気の毒なことでも告げたのだろうか。そういえば、私はここから本当に帰れるのだろうか。何も言わなければさっさと帰れたかもしれない。
とりあえず、私は何をしに来たのだろうか。
ああ、そうだ近眼手術をやりに来たんだっけ。