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脳内パンク寸前  作者: 朝比奈和咲
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 眼科病院から出て、私は高級住宅街を歩いていた。

 下を向いて歩かなければ遠くに青空が見える。白い雲が見える。下を向けば黒いアスファルトの道、タバコの吸い殻や小さいチラシがアスファルトに吸い込まれたかのようにくっ付いていた。住んでみたいと思った屋敷が並ぶ道路でさえこの有様だ。あれだけ爽快な青空と綺麗なアスファルトの道にはもう出会うこともないだろう。

 草原の代わりに家がある。電信柱がある。電線もあって、全て光に当たると影を作っていた。そうやって一つ一つを仮想世界と比べながら歩いている私がいた。無事に帰って来られると、また行きたくなるような世界だったのかもしれない。

 主人公が現実からありえない世界に首を突っ込んだ物語はいくつも読んだことがある。その度に思えたことは、どうして彼らはこんなに早く順応してしまうのだろうか、ということだった。子どもだからという理由で片づけられる物語もあったし、その主人公はよほど快活な人間で、仕方がない、ここで生きていこう、なんて考えてしまうものもあった。まあ、そういう主人公の場合はいきなり窮地に立たされてその世界にいる住民に助けられてそして世界を知って、というパターンも多い。

 もし窮地に立たされた主人公がそのまま死んでしまったら、その物語はどうなってしまうのだろうか。子どもの頃にそんなことをヤモに聞いてみたら彼女はこう答えた。

「死なない、絶対に。物語は都合の良いように作られているから。現実は、そうはいかずに死ぬかもしれないけどね。でも作られた物語はきちんと筋道を立てられて進行するから、現実と違うことがいくつ起きても何故か結末に向かって上手に収束していく。

 だから、もし現実で自分が予期していなかったことがいくつも起きて、それが物語のように繋がって次々と進んでいたら、一回考えてみないと危険だよね。誰かの手によって操られているかもしれないし、もしかしたらそこは現実じゃないのかもしれないから」

 そんなことを言う彼女だったのに、彼女は必ずハッピーエンドになる少女漫画や恋愛小説を好んで読むのだから、その時の私はヤモに「説得力ないなあ」と言った気がする。

 仮想世界に連れて行かれたとき、私は私だっただろうか?

 劇的に変化した環境に対してさっさと順応する平凡な主人公を「ありえない」と冷笑して本を捨てたこともあったが、仮想世界に突然行った私はどうだったかというと、たぶん順応していた。身に感じて思ったことはもしかしたら人間にはそういう機能が備わっているのではないかということだ。

 そして、やっぱりヤモは頭が良かったんだなと思う。

 私は、かろうじて順応出来ずに、こうして何度も頭を悩ませることになってしまった。

 電話をしたのはいいが、果たしてヤモに会えるのだろうか。

 ヤモに会わないと、私の心に引っかかった全てのモノが取れないのだろう。


 携帯電話の着信音が鳴る音が聞こえた。

 黒いカバンの中から携帯電話を取り出して画面を見ると、見知らぬ電話番号が表示されていた。不審に思いながらも私は電話を取った。

「どちらさまですか?」

「ああ、通じた。よかったあ。覚えていますか? 私のこと」

 その声を聞いて携帯電話を落としそうになった。

「ナースですよー。こっちの世界でお世話になりましたあの時のナースです。聞こえてますかー?

 一応、手術お疲れさまでした!」

 どうして仮想世界にいたはずのナースが私に電話できるんだ?

 この電話はどこに通じているんだ。

「どうしたんです? 応答せよ、応答せよ。聞こえています?」

「あれえ、返事がない。どうしたんだろ。電波の調子がおかしいのかなあ。一回切りますね。すぐにかけ直します」

 電話が切れた。


 私はどうなっているのか考えようとした。

 いや、機械音声による電話対応は現代にもある。不思議なことではないのだが、それでも彼女はどこからかけているというのだろうか。

 まさか仮想世界で? 仮想世界と現実が繋がった?

 落ち着いて考える余裕も無く、また携帯電話から着信音が鳴った。

 私は電話を取った。

「あ、繋がった。よいしょ。せーの、聞こえていますかー!」

 ものすごい大きな声が耳を突き抜け、耳が痛くなった。

「聞こえてる、聞こえてるよ」

「良かったですー! あー! あー! 拡声器を使ってお話しているんですけどー、しっかり聞こえているでしょーかー!」

 うるさすぎて携帯電話を耳から遠ざけた。それでも彼女の声は充分聞こえてきた。

「そんなことしなくても聞こえるから」

 携帯電話をトランシーバーのように持って使うのは始めてだった。

「えー!? なんか言いましたかー!?

 そのですねー! 声が小さくて聞こえなかったかもしれないという考えから、拡声器を使って声を増幅させてみたのですがー!

 どうやらそちらも声が小さいみたいなのでー、そちらも拡声器みたいなものを使って貰えると助かりまーす!」

「どうやって拡声器を持ちながら携帯電話で話をしているんだよ!」

「なんとか聞こえましたー!

 それはですねー! 地面に携帯電話を置いてですねー! それを見下ろすように私が立ちましてー! ちょうど拡声器と携帯電話のー!」

「あー! もういい! 今すぐ拡声器をどっかに置いて、携帯電話を持て!」

 なりふり構わず私は怒鳴った。携帯電話に怒りをぶちまけたような格好になった。

「りょーかいーしましたー!」

 ガザゴゾという雑音が聞こえると、「大丈夫かな、聞こえるかな?」という小さな呟きが聞こえてきた。

「大丈夫、聞こえているから」

「うわあ! いまの声で聞こえるんですか」

「ああ、聞こえているから」

「そうしますと、さっきはどうして会話できなかったのでしょうねえ。不思議ですねー」

 たぶん私はこのナースが苦手なのだと思った。このナースと一緒にいると、全て彼女のペースに持っていかれている気がしてならない。

 ヤモがプログラミングしたナースなら、それも納得できる。

 このナースはたまに話が通じないところもあって、ヤモよりたちが悪い。

 確かめたいことを聞くために、彼女が次の言葉を発する前に私から話かけた。

「君はいったいどこから電話をかけているんだ?」

「どこって、あの世界からですけど? あなたも来たじゃないですかあ」

「嘘だろ」

「嘘? どうして嘘なんてつくんですか」

「じゃあ、どうしてそっちの世界から、仮想世界から現実へ電話をかけられるんだ」

「え? だって、携帯電話がありますから。あ、番号は女医さんから教えて貰ったんですよ」

 それが分からないんだ。携帯電話でどうして繋がるのかということが分からないんだ。

「女医さん? 女医さんが仮想世界に行って私の番号を教えたのか?」

「そうです。来たと思ったら、後はよろしくって言って、私の隣、草原の上でいまぐっすり寝ています。よっぽど疲れているみたいです、だから起こさないようにしてます」

 仮想世界にあの女医さんが行った? そこで私の電話番号を教えた?

 もう何が何だか分からない。何がおかしいのか間違っているのかがしっかりと理解できなくなっているようで、別に矛盾していないと思えばそれで矛盾していない気もする。

「任された仕事をさせて貰っていいですか」

 彼女にそう言われ「仕事?」と訊き返すと、「はい。術後経過を知りたいです」と言われた。断る理由もないのに黙りこむと、「質問は後でしっかり答えますから」と言われた。

「いいよ」と返事をした。

「了解です。では、変に感じるところはありませんか?」

「ない。ないよ」

「それにしては先ほどから声が落ち着いていませんね。強がっちゃダメですよ」

「じゃあ、聞く」

「はいどうぞ」

「どうして仮想世界から現実の世界に電話がかけられるんだ」

「ああ、トップシークレットですね。技術的なことは一切言えません、ご了承あしからず、ペコリ。でも、出来るんです」

「ふざけないで聞いてくれよ。俺はほんとに分からないんだ。ここが現実なのか仮想なのか」

「何言っているんですか。あなたがいるところは現実世界ですよ」

「だったら、それはいったい」

「現実です。ぜったいに現実です」

「どうしてそう言い切れるんだよ」

「根拠はないですよ、予め言っておきます」

「根拠はないって」

「でも、だからあなたも悩んでいるのだろうと思いました。

 だから、はっきり言っておきます! あなたがいるところは現実の世界です、根拠はありません!」

「どうしてそうなるんだよ!」

「きゃあ!」

 彼女の悲鳴とともに何かが落ちる衝撃音が聞こえた。

「落としちゃった、大丈夫かな、壊れていないかな」という彼女の声が小さく聞こえてきた。

「あー、あー、聞こえていますか」

 心配そうに言う彼女の声が聞こえてきた。

「聞こえてるよ」

「そうですか。すみません、驚いちゃって携帯を落としてしまいました。

 でも、どうしたのですか、急に。何か嫌なことでもあったのですか? いま流行りの現実逃避なんて、あなたには合いませんよ」

「別に逃避なんかしていないよ」

「でも、現実か仮想か分からないって」

 私はどう言えば彼女に伝わるか、言葉を選びながら話そうとした。

「現実で出会えないものに今日は出会いすぎてしまって、もう何がなんだかわけが分からないんだよ。仮想世界に意識を飛ばす、そこにいた君の存在、さらに特殊なホログラム、その他にも色々と。ここが現実じゃなくて君のいるような世界だったら話は分かるんだけど。でもここは現実なんだろ」

 話している最中に、彼女に惨殺された夢を思い出して、胃の中の物が胸のところまでやってくるような感じがした。思わず口を閉じて鼻から息を出した。

「うーん。全部信じられないから仮想世界で起きたことにする。そうすれば丸く収まる、ってことですね。それじゃヘビですね、あなたは。噛み砕くのが面倒だから丸飲みしちゃえ、って意味ですよ。でも、それで納得するならそれで良いと思います」

 たぶん彼女も困惑しながら話しているのだろうと感じた。そんな声だ。

 彼女の言いたいことも何となく分かる。私も、もうそっちの方が体に楽な気がしてならない。これ以上考え過ぎてももう、無駄な気がして仕方がない。

「あのですね。そういうことは深く考えずに丸飲みしてしまった方が楽ですよ」

「ヘビみたいにか」

「はい。あなたが使っている携帯電話だって、どうしてこんな小さな機械でずっと遠くにいる人と話せるのか、うまくは説明出来ないでしょ」

「それとこれとは話が別だろうが」

「うーん。そうですねえ、じゃあ、こういうのはどうでしょう」

 そう言って彼女は少し黙り、「えーっと、あのー」のような場を持たせるためだけに使われそうな言葉を連発した。

「いや、もういいよ」

「不完全燃焼ですね、お役に立てなくてすみません」

 彼女の溜息が聞こえてきた。こういう彼女の反応を聞くと、彼女は本当に生きているように思える。いや、彼女は仮想世界では生きているのだろう。こっちも仮想世界で、あっちも仮想世界なんてことがあるだろうか。

「考えるだけ無駄かもな。今日のことは忘れるってことでちょうどいい」

「ええ! 私のこと忘れちゃうんですか、ショックだあ」

「じゃあ、私はどうすればいい」

「うう、そんなこと言われましても、もうあなたに任せるとしか言えないですし」

「そうか、そうだよな」

「そうですよ。世界はあなた中心に回っている、と考えてもバチは当たりませんし、それぐらいがちょうど良いんですよ。あ、でも世界はあなた中心に動いているわけではないですよ、間違えないように」

「そうだよな」と言うと「そうですよ」と返ってきた。

「それで、話を戻しますけど、本当に目の方は大丈夫ですか?

 物が二重に見えるとか、遠くが見えすぎて怖いとか、何でもいいですよ」

「何もないよ。本当に」

「本当ですか? まあ良いとしましょう。

 それともう一つ」

「何?」

「当院に傘を忘れて行きましたよね?」

「傘? 傘なんか持ってってないぞ」

「あれ? でも入口の傘立てに一本ビニール傘が置かれているんですけど。

 あなたのじゃなかったんですか?」

「違うよ」

 そう言って私は変だと気が付き、そのことを口にした。

「どうしてそんなことが分かるんだ? あの世界から出られたとでもいうのか?」

「あれ、これは失礼。私、先ほどよりバージョンアップ致しました。大出世です。

 今までより活動範囲が広がりまして、なんとこの病院全ての機械類の統括を任せられました。すごいですよ、病院の医療機械から監視カメラまで全て私の思い通りです。怖いのは停電だけです。あと漏電。ちなみに試験的運用なので、私がヘマをしたら失脚。文字通り外部への脚を失うことにもなります。ヒントですよ、これ。どうして連絡が取れるようになったのか分かりましたね」

「ああ、なるほど。よく分かった」

 本当はよく分かっていない。分かった気になっているだけだ。たぶん、電話回線を通じることに成功したのだろうと私は考えた。

「さすがです。頭の良い人と話すのは楽だあ。ああ、お腹がすいた」

「ネット接続とかは出来るのか?」

 どうして自分の口はこんなに口が回るのかが不思議だ。

「いえいえ。まだそこまで出来ません。あくまで病院内だけが私の行動範囲です。でもいずれかは病院外にも回線を通じて出られるようにすると女医さんが言ってました。

 大変です。メディアリテラシーにネチケット、プライバシー権利にウイルス判別方法、情報科学に鉄拳制裁のやり方など覚えることが一気に増えました。間違いなく人間だったら脳内パンク寸前になります。私だって脳内パンク寸前です。覚える情報を小分けにして全てシュークリームに変えて食べて、食べ飽きました」

 私は大笑いした。

「笑いごとじゃありません! ショートケーキもチョコレートケーキもチーズケーキも、食べ飽きて、私はいま幸福感と飽和感で胸いっぱいです。どうすれば良いのでしょう?」

「大食いだね」

「別腹です。私は大食いじゃありません!

 でも、どうしようって本当に悩んでいるんですよ。このままだとシュークリームに溺れる夢を見てしまいます。いや、実現してしまいます。うわあ、嫌だあ」

「他の物に変えれば良いじゃないか。食べ物なんていくらでもあるだろ」

「じゃあ教えて下さい。今すぐにでも」

「洋菓子だったら。あ、そういうことか」

 彼女の言いたいことが何となく分かった。

「はい、そういうことです。仮想空間にない情報は実現できません。私は一方的に現実の世界から与えられた情報しか手に入れられない。しかも私は甘い物しか食べたくない、でもホログラムだから太る心配なし! はあ」

「パティシエに教えて貰わないと、ってことか」

「その通りです。どうかご協力お願いします」

「ご協力? まさか」

「そのまさかです。ほら、早く傘を取りに来て下さい!」

「私のじゃない」

「いえ、あなたのです! 監視カメラに写ってなくてもあなたのです!」

「言ってることがおかしいよ」

「ええ、おかしいですよ! バグでもなんでも良いですよ、もう!

 あとシュークリームをいくつ食べればいいか計算したんですよ! 二進法で表された数値かと思いましたよ、ええ! やってられないです、もう! 一度は味気の無い情報のままで食べようとして、でもそれに慣れたら何か楽しみを失ってしまいそうで。

 あのですね! 苦痛じゃないんですよ、別に。むしろ情報が増えて知識が増えると、楽しいんです、だから食べたいんです。けど、けどですね」

「けど、なに?」

「やっぱり私はホログラムなんですよ。人間には敵いません。人間はとりあえず必要のない情報を忘れたりまたは代わりに何かに覚えさせますけど、ホログラムな私は記憶できる容量があらかじめ決まっていますし、代わりに何かに覚えさせるにも容量を使いまず。処理能力も与えられた分までしか動けないですし、進歩するには人間の力が必要なんです」

 私が黙って聞いていると、彼女はさらに懇願してきた。

「助けて下さいよ。頼めるのがあなたしかいないんです。紅茶って美味しいんですか? 女医さんが紅茶でも飲みながらケーキでも食べたら、ってさっき言って、そんでいま私の隣で寝ているんですけど、くっそー、幸せそうに寝ていやがってえ」

「えいえい」という声が聞こえ「私、ホログラムー。触れられなーい」という声が聞こえてくると、「うはははは」という奇妙な笑い声が聞こえてきて、ああやっぱり彼女はホログラムなんだなと思った。

「よろしくお願いします。こんなに頼んでもだめですか?」

「分かった。そっちに行くよ」

「やったあ! ありがとうございます!」

「でも、私がそっちに行って、どうにかなるのか?」

「なりますとも! 院内の機械は全て私の手中に収まっております。思いのまま、あなたに私からの情報を伝える手段はいくらでもあります! なんならこのまま電話しながらも情報は交換出来ますし。あ、そうそう、この電話番号、しっかりと登録しておいて下さいね! ポイ捨て厳禁です、何か困ったらお互い協力しましょう。友愛、親愛、あ、白けてる! なんだそれって感じですか?」

「情報を貰っても出来ないこともあるかも」

「ないですよ、だってプログラマーなんでしょ! 人間に不可能などありません。あってもそれは存在しないことになります。で、いますぐ来てくれますか?」

「ああ、行くよ」

「よかったあ。あ、美味しい甘い物の情報をたくさん持ってきてくれると助かります。でも、仮想世界に全てプログラミングすると疲れるかな? 出来るとこまでで良いですよ。ああ、人生がバラ色に見えてきた。あと、256GBのメモリを32本ほど持ってきて貰えますか?」

「256ギガバイト? メガじゃなくて?」

「シャレですか、それは? メガと目が、をかけたとか。

 256MBなんかあっても雀の涙ですよ、猫の額ですよ、私にとってアリさんの労働力にしかなりませんよ。ギガバイトです」

「そんなのどこにも売ってないぞ」

「へ?」

「あって8GBまでだが」

「ガーン。日本は後進国なのですか? 政治はダメダメだって聞きましたけど」

 私はその言葉を聞いて笑った。確かにあなたの世界では後進国かもしれないと思った。

「あんのか、そっちには?」

「ありますよお。現に使っているんですからあ。どうしよう、万事休すかあ。私はこのまま、嫌だあ。

 なんとかなりませんかあ。あっ、女医さんが起きた!」

 衝撃音が聞こえた。

 遠くで話し声が聞こえるのだが、小さすぎてよく分からなかった。

 やがて誰かが駆け足で近付いてくる音が聞こえた。

「聞いて下さい! 女医さん曰く、この仮想空間を作った人なら持っているだろう、ってことです! しかも私をプログラムしたお方をあなたは知っている、なんて素敵!

 お願いします! どうかその人に連絡を取って持ってきてくれるように頼んでもらえませんか! お願いします」

「それはヤモのことか?」

「ヤモ? そうです、ヤモです! 私の大好きな方で、あなたも大好きなヤモさんです!

 お願いします! 何か変な音が聞こえる、あっ! 電池がなくなって ――」

 プツリという音が聞こえ、少し何も聞こえなくなった。

 そして電話が切れた。

― 未登録の電話番号です。登録しますか? ―

 そう言えば、あのナースの名前を聞いていなかった。

 彼女の電話番号を電話帳に登録しようとしたのだが、名前が分からない。悩んだ末に私は「おかしなナース」という名前を記入して登録しようとしたとき、携帯電話が鳴り始めた。

 また知らない電話番号からの着信だった。

 不審に感じたのだが、先ほどの電話より驚くような相手はいないだろうと思った。私はたいして警戒せずにその電話を取った。

「はい、もしもし」と声をかけたが何も返事がない。

 イタズラ電話かと思い電話を切ろうとすると、「お久しぶり、元気?」という声が聞こえてきた。

「誰ですか?」

「誰でしょう。長電話、ご苦労さん。

 思い当たる節はない?」

 失礼な奴だと私は思い電話を切ろうとすると、「待ってよ」という声が聞こえてきた。

「本当に忘れちゃったの? それとも私の声、そんなに変わった?」

「知らない。人違いです」

 そう言った瞬間、ふっと思い出した。

「ヤモか?」

「そうよ。タク、お久しぶり。近眼治ったんだってね。良かったじゃない」

「お前、どこにいるんだよ」

「えっとねえ。いま、あなたの近くにいるの」

「は? どこにいるんだよ。どこにも見えないぞ」

「えっとねえ。いま、あなたに近付いているの」

 私は周辺を見回したが、人影はどこにも見えない。車が通ることもなく、物静かだった。

「どこ見ているのよ。いま、あなたの前にいるじゃないの」

 そう言われて前を見たが、やはり誰もいない。

 やはりイタズラ電話かと思った。

「前? いないぞ」

 振り返って見ながらそう言った。

「どうして後ろ向くのよ。いまあなたの後ろ」

「後ろ?」

「あ、前になった」

 どこからか見られている。

「おい、いい加減にしろよ」

「あ、そう。じゃあ、あなたの目の前にいるの」

 そう聞こえた瞬間、目の前に女の顔がとつぜん現れた。

 悲鳴も出ずに私の息が止まった。

 力が抜ける気がして視界がだんだん真上に落ちていく、青空が見えた。

 誰かの手が私の肩を掴み、抱きしめられた気がして。

 目の前が真っ暗になっていった。


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