14
絶対に帰らないで聞いてほしいと何度も懇願された。
私はさっさと帰るべきだと思った。この病院は不気味すぎる。呪われているのではないかと思わせるぐらい、不気味だ。
人間が関わってはいけない。
何度も帰らせてくれ、金なら払うと私は何度も言った。
しかし、女医さんは帰らないでほしい、どうかお話を聞いてくれと何度も言っては頭を下げる。
苛立ち始めた私は彼女を突き飛ばしてでも病院から出ていこうとした。
しかし、私が立ち上がると彼女はヤモの姿を私に何度も見せて足を止めさせた。
そのヤモは服装は同じなのに、出てくる度に顔の表情が違っていた。その度に幽霊じゃないかと思って足が止まった。
「お願いです。あなたが不思議に思ったことも私が知っている範囲で全てお話するつもりですから」
そう言って彼女は私を足止めする。
しかし、その顔に表情はほとんど見えない。話さないときは常に口を一の字に閉じて、何を考えているのか分からない。
とりあえず私は黒い手持ちカバンを受け取って横に置いた。
彼女の顔には汗一つなく、ただ私のことだけを見ていた。
「精神安定剤をお持ちいたしましょうか?」
怒鳴り声を聞いても顔色一つ変えず、怖気づく様子もなく堂々と入って来て、出会ってからの無愛想といいこいつは果たして人間なのかとさえ感じた。こいつもホログラムなのではないかと思った。いや、人造人間か? 現代の科学ではありえない。では、本当に怖くなかっただけか? 私が怒ってもたいして迫力がないことは知っている、この人に舐められている気がして心の中で舌打ちもした。
いや、もしかしてまだ夢の続き、いや仮想世界なのか?
そう思うとまたパニックになりそうで心の中だけで首を振った。
「とりあえず、お茶でも飲みませんか?」表情をあまり出さぬまま彼女は言った。
私の有無を聞くことなく彼女は振り返り、入口のドアの右側にある木製の棚があるところまで行った。棚の上には急須と湯呑茶碗が木製の丸いお盆の上に置かれていて、その隣に湯沸かし電気ポットが置かれていた。
「あら、お湯がない」
電気ポットを見て彼女は言った。振り返って私の方に向くと「どうしましょう」と言ってきた。私は「別に私は飲みたくないからいい」と言うと、「そうですか」と言った。
入口のドアがノックされる音が聞こえた。
今度は誰だよと思いながら私は「どうぞ」とだけ言った。
現れたのは私を手術室まで案内してくれた男の看護士だった。
「失礼します」と言って看護士は入り、彼女がいることに気が付くと驚いた顔をして足を止めた。
「院長、何をしているのですか?」
「ちょうどよかった。お茶、買ってきて」
「へ?」と納得のいかぬような顔を見せた彼は、「いや、私はナースコールがあったからここにやって来たのですが」と私の枕元の方をちらりと見て言った。
「患者さんとこれから湿っぽい話をするんだけどね、飲み物が何もないの。緑茶を今すぐ買って来るように。はい、さっさとgo」
「湿っぽい話ですか」と語尾を濁らせながら男はそう言うと、納得いかない様子のまま「分かりました」と言ってさっさと部屋から出ていった。
「湿っぽい話?」と私が言うと、「梅雨空のようなすっきりとしないお話だと考えてもらえれば」と彼女は言った。「彼がお茶を持ってきたらお話したいと思います。申し訳ありませんがお付き合いください」と彼女は言ったので、私はすっきりしない気持ちのまま「ああ」とだけ返事をした。
「何か聞きたいことがあれば今のうちに聞いて貰えると幸いです」
と、彼女は言った。
確かめずにはいられないことをもう一度に口にした。
「なあ、ここは現実だよな」
彼女は私のことをじっと見て、「ええ、現実です」と言った。
「本当か? 夢とか仮想世界とか、そんなんじゃないんだよな」
「ええ、現実です。25年間あなたが生きてきた現実世界です」
「そうなのか? じゃあ何だ、あの機械は。現代の科学であんな機械が出来るだなんて到底信じられない。あれは誰が作ったんだ、仮想世界に意識を飛ばすだって? その間に目の手術。確かに、確かにその通りになって私は仮想世界に行って来た。でも、そんなこと聞いたことも無い、あんなこと出来る技術があるならとっくに世界中に知れ渡っているはずなのに、日本はやっと3D映画が世間に受け入れられたまでだ。明らかにギャップがありすぎる。なあ、本当にここは現実なのか?」
「分かってます、申し訳ありません。そのことは彼がお茶を持って来た後に、全て含めてお聞かせしたいと思います。とりあえず、それでお願いします」
そう言って彼女は頭を深く下げた。私は何も言い返さずに、口を開けばもっと自分が取り乱しそうになるのが怖くて、彼女が頭をあげるのを待った。
だが彼女は顔をなかなかあげない。動かない、微動しない。スイッチを切ったように、指示待ちのロボットのようで私は気味悪く感じてきて、「いや、すまない」と自然と詫びてしまった。それでも彼女は動こうとしないので「顔をあげてくれ」と言うと、彼女はいよいよロボットのようにゆっくりと顔をあげた。無表情だった。そして彼女は口を開いた。
「それと、もうお気づきかもしれませんが近眼手術は成功しました。視力はご覧のようにすでに回復しております」
私は彼女にそう言われて、そのときになって初めて自分がメガネをかけていないのに彼女の顔がはっきりと見えている、ここから壁に飾られているカレンダーの数字も見えている、そういえば棚の上に急須と湯呑茶碗があることもベッドから見えて分かっていたことに気が付いた。目元を手で触って、邪魔な物がないことを確認した。
「何か見え方に変なところを感じませんか?」と彼女は言ったので、私は何も考えずに「今のところは」とだけ返した。
「それは良かったです」
「ああ、どうもありがとう」
近眼が治ることは望んでいた結果なのだが、腑に落ちない。
相変わらず表情を顔に出さない彼女は後で説明すると言っている。大量に彼女の仲間が来てどこかに連れ去られたりとかしないだろうか。そんな想像が頭を過る。そうなったら、どうせ私には何もできないだろう。抵抗して手足を縛られて連れ去られる私の姿が容易に想像できた。目からビームが出れば話は別だろうかと思ったが、そんな想像をふくらましても空しいだけだった。とりあえず私は彼女の言うことを信じるしかなさそうだった。
「それよりも」と私は話を変えようとして、一息おいた。
今の私にとってこっちの方が聞きたいことだった。
「あのホログラム、どうして子供の頃のヤモを私の前にだしたんだ」
どうして彼女があの頃のヤモのホログラムを持っているのだろうか。そもそもホログラムの仕組みについて私は何も分からないし、たぶんあれだけリアルなホログラムを写し出す機械があることもおかしい気がするのだが、そんなことを知るより、まず私は彼女と友人がどういう関係なのかを知りたかった。もし二人が知り合いであれば、仮想世界のナースが言っていたことの筋がなんとなく通る気もした。
仮想世界が本当にあれば。ここが現実であるという条件付きで。
でも、いまは全て飲み込むしかないのだろう。
「彼女に渡されたのです。このホログラムを写すペンの形をした機械を」
彼女はそう言って白衣の左のポケットから先ほど左手に持っていたサインペンを出した。
「表向きは単なるサインペンです。が、ペン先が付いていない方の先端からホログラムを映すための光が発出されるのです。こんなふうに」
彼女はペンを一瞬だけ強く握ると、先端が向いている方にちょうどあの頃のヤモが映し出された。どう見ても友ヤモだった。ホログラムには見えなかった。何度も驚かされたせいか、やっと直視しても動じないようになった。直視すると、あの頃のままで懐かしいとか可愛いとか思ってしまうのだから、慣れというのは怖いと感じた。
「これは当初、防犯用として試験的に作られたと言っていました。あなたにとって一番脅威と感じる存在をあなたに見せるそうです。ですから、私にはあなたに何が見えているのか分かりません」
「分からない? だってこんなにはっきりと映されているのに?」
「はい、見えません」と言って彼女はもう一度それを強く握った。するとホログラムはふっと消えた。
「この機械の欠点は、この機械から発出される光が邪魔することなく届いてしまう場所にいる人たちにも見せてしまうということです。分かりやすく言いますと、私を取り囲むように四人の強姦魔がいた場合、その四人全てに見せることができるということですが、駆け付けた警官にもホログラムを見せてしまう。だから、相手を怯ませるだけで自己防衛にはなるかもしれないけど、使用したまま他者に助けを求めることは難しいということです。
さらに、私には相手に何が見えているのか分かりません。相手の脅威となるものを私が知る由など滅多にないからです。ですから、相手から何が見えたのかを聞かないと私には分かりません。
どうしてそうなるかという理論を説明しますか? しかし長くなります。私は理解できずに丸暗記しました。ですから伝わるかどうか保障できません」
「いや、いいよ。それよりもそんな物をどうして私に見せたんだ」
「それが彼女の指示でしたので。もしあの機械のことで彼女に連絡を取りたいと言った患者さんがいた場合、この機械で報告なしにホログラムを見せるように指示されたのです。その、お茶がきたら話します」
急に声がかすれて話を止めた彼女は、咳き込みはじめると「喉が弱くて、すみません」とかろうじて聞こえるように言った。咳はしばらく続き、苦しそうな彼女を見て私はナースコールを押そうとしたが、彼女は「大丈夫です」と言って私を止めさせた。
やがて彼女の咳は止まっていった。「すみません」と言って振り向いた彼女の目は赤く、うっすらと涙が目元に溜まっていた。
「本当に大丈夫か?」と私が言うと、「ええ」とだけ彼女はポケットからハンカチを取り出して目元を拭いた。
「大丈夫です」と彼女は小さく言ったので、私はしばらく休んでほしいことを伝えた。
苦しそうに彼女は頭を軽く下げた。そして床に座ろうとしたので驚いた私はそれを慌てて止めさせて、どうか椅子に座るように、ないのなら私が寝ているベッドにでも腰かけてくれと伝えた。彼女が痛そうな喉を抑えたまま、口を開いてお礼でも言いそうだったので私は「いや、いい」とすぐに返答した。
彼女が困惑したような表情を見せたので、私がもう一言何か言おうそした時、タイミング良くドアがノックされた。
「どうぞ!」と私は強く言った。ドアが開き、現れたのは両手にペットボトルのお茶を持った男の看護士だった。
「お茶、買ってきましたけど、院長、ものすごく顔色が冴えませんが」
まじまじと彼女を見ながら看護士は言った。
彼女は無理に笑顔を作って口を開こうとした。
「いや、彼女は大丈夫だ。お茶ありがとう、では持場に戻ってくれ」と私は彼女の代わりになるようなことを言った。看護士は私にそう言われて「へっ?」と口にして、彼女の方を向いた。
彼女は首を縦に何度も振っていた。男は「何かあったらすぐに呼んで下さいね」とだけ言い残して、首を捻りながら部屋から出ていった。
彼女はお茶をさっそく蓋を開け数口だけ飲むと、「では」と言って話を切り出そうとした。私は「もう少し落ち着いてからにしてくれ」と言った。口を閉じた彼女に私はとりあえずどこかに座ってくれと伝え、彼女は「はい」とだけ言い、棚と壁のすき間に置いてあったパイプ椅子を引き出し、それを私の近くで広げ、静かに椅子に着いた。
その様子を見ながら私は考えた。これ以上、私は何も関わらない方が良いのではないかと。現代の科学ではありえない物に二つも出会っている、いやあの女医さんももしかしたらそうなのかもしれないのだが、そういった物に関わっても果たして良いことはあるのだろうか? 出来る事なら何事も無く帰った方が良いのでは?
しかし、あの機械のことを聞かなければ、私は一生あの機械を背中に背負って生きることになってしまうだろう。仮想世界とは何だ、あの記憶は本物だったのかが知りたくて、いやこの話の流れからすると本当に経験したことなのだが。あの仮想世界でナースが言っていた、いや、今あのナースのことは思いだしたくなかった。
あれは本当に夢だったのだろうか。夢なはずだ。
夢ではなく、あれが現実だったら?
私はどうなってしまうんだ?
肉体は既に死んでいて。
「なあ、聞いていいか?」
「はい、なんでしょう?」
「あの仮想世界っていうのがあるとして、そこでナースに出会ったのだが、あいつはここの病院にいるのか?」
彼女は首を傾げて少し悩んだ様子を見せてから言った。
「仰っていることが良く分かりませんが、仮想世界はあの手術機械の中に存在しています。その中に案内役としてナースはいますが、あのナースは現実の世界では生きていない。と言えば伝わりますでしょうか?」
そう言って彼女はまた咳こみ始めた。
苦しそうに咳こむ彼女を見て私は「すまない」と言った。
つまり、あの機械の中にしか仮想世界は存在せずに、とりあえず私がいまいるここは現実の世界で、あれは怖い夢だというのか?
ハンカチで口を抑えていた彼女の咳がようやくおさまってきた。
「本当に喉は平気なのか?」
「はい。潤せばそれで大丈夫なので」
潤せば。その言葉が引っかかった。
彼女はペットボトルに口をつけた。
「人間だよな、君は」
私はそう聞いた。
「はい」
本当か?
そう思ってそのことに関する質問を続けようとしたのだが、人間にしか見えない相手に「人間か?」と尋ねるのはあまりにも失礼な気がしてならなくて、 ― 相手がホログラムだと分かっているのならもう少し突っ込んで言えるかもしれないが ― 私はまた「すまない」とだけ言って話を切った。
「そうですか」と彼女は平然と言い、「では、話を」と言って話を始めた。