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そうして次に気が付いたとき、私はベッドの上で横になっていた。
いつの間にか寝てしまったらしい。
とりあえず時間を知りたいと思い、体をゆっくりと起こした。なんとなく部屋を見回したが時計はどこにもなく、そういえば私は病室にいたということを思い出した。時計らしき物がドアの右側にある棚の上に置かれていたが、時計は正面を向いていなかったので時間は分からなかった。
仕方なく私は携帯電話を探した。だが、携帯電話をしまっている私の黒いカバンがどこにも見当たらない。ベッドの回りにもなく、棚の上にも置かれているようには見えない。財布も入っているので私は焦り、どこに置いたのか思いだそうとした。
するとそういえば手術室に置いたままだということに気付いた。手術後に体調が悪くなり、ストレッチャーで運ばれてここまでやって来たことを思い出し、私はとりあえず胸をおろした。
あくびが出る。腕を頭の方へ伸ばして体を伸ばした。
体調は回復したようで、もうあの時のような眩暈や足に力が入らないということもない。不思議な感覚だった。足がまるで空気のように感じられないようだった。麻痺とはあんな感じなのだろうか。いや、麻痺だったらピリピリと痺れるはずだ。下半身の体重が全て上半身に集まったようなだるさだった。
とりあえず私は黒いカバンを取りに行くために手術室へ向かおうと思った。体の向きを変えてベッドから下りようとすると、私のスニーカーが丁寧に揃えられて置かれていた。果たして私は靴を揃えて寝ただろうかと思ったが、たぶん一緒に病室までやって来たあのナースのどちらかが揃えてくれたのだろうと思った。探せばスリッパもこの部屋の、たぶんあの棚のどこかに置いてあるのだとは思うのだが、もうベッドに入ることもなさそうなので私はスニーカーを履いた。
手術室に行く前に、私は眠る前に体験したことを思い返そうとした。ベッドに腰掛けながら足を少しぶらぶらさせた。ぶらぶらさせながらこの病院で体験したことを一つ一つ思いだして考えてみたが、変なことばかりだと思った。
特にありえないのは、近眼手術のときに使用した機械装置だろう。一般的な自動販売機ぐらいの大きさで白い箱のように表面にでこぼこはほとんどない。彼女がどうやってあの機械を操作していたのかも分からない。箱の中から出てきた装置に顎を乗せて額をくっつけて双眼鏡らしきものを覗いたら、顎と額が動かせなくなった。焦るのもつかのま、あの景色が見えて来て、あとはあの世界に飛んで行った。
仮想世界とか女医さんは言っていた。意識を飛ばすとか言っていたし、それを確かに体験したが、現代の科学ではどう考えてもありえないだろう。実現できるわけがない。理由も根拠もないが、しかし信じられない。
しかもその世界で出会ったナースがまたおかしな奴だった。
そしてそのナースにあれこれ振り回されて。
あの時の思い出を勝手に解決させられて。
あの話は本当なのだろうか。いや、信じても仕方がないだろう。仮想世界で話されたことを信じても、それは夢で起きたことを信じて満足するということに変わりないのではないだろうか。あれはもしかしたらこうだといいな、という私の勝手な解釈だったのではないだろうか。知らぬ間に色々と考えていて、その考えがあのような形になって現れた、と考えた方がおかしくはない。
もしかしたら、手術は現代の科学でありえる方法で行われていたのでは?
全身麻酔をかけられて意識を失い、その間に見ていた夢ではなかったのだろうか。その可能性の方がよっぽど理解できる。
しかし、全身麻酔をかけられる瞬間の記憶は全くない。手術台の上に横になる記憶もない。あるのは手術室に連れて行かれて手術機械の前に座らされ、たいした説明もなく意識を飛ばされた記憶だけ。しかもそっちの記憶がはるかに鮮明にのこっている。
わけが分からない。どこからが夢だったのか。それとも全て現実なのか?
万が一、あの機械が現実にあるとしても、いやそれはありえない。今は2012年だ。そんなはるか未来の世界なら話は分かるが、今はやっと3Dゲームが人々に受け入れられ始めた世界だ。そんな急に科学技術が発展するとは思えない。
しかも、仮想世界のナースがこのプログラムを作ったのはあのヤモだと言っていた。謝りに行きましょうとかも言っていた。
そう、もしヤモがあの機械のプログラムを作ったのなら、あのナースが言っていた話はヤモから聞いたものであり、はっきり言って筋の通る話でもあった。ミニ四駆をぶち壊したのがヤモなら確かに犯人は絶対に出て来ない。
けれども、確かにヤモは頭が良かったし、SF的な話もたくさんした思い出はあるが、あれを作れるとは、思えない。
本当に現実で体験したことだったのだろうか。
いや、もし現実ではないとしたら、私はどうしてここにいる?
一度考えるとどんどん深くはまっていった。しかも答えは見つかりそうにないことに気づき、私はとりあえずベッドから立ち上がって手術室に向かうことにした。
手術室に行けばはっきりすることだ、と私は思った。あの機械があればあの機械について聞けばいい。たぶん、あの女医さんは詳しく話してくれないかもしれない。けれどあるのならば、調べればいつか製造元に辿り着くだろう。いや調べなくても、マスコミに情報を流せば勝手にマスコミは調べてくれる。それぐらいインパクトのある機械なのだから。
なかったら、手術のことについて聞けばいい。そして内容の確認を聞いて、あの仮想世界とかいうふざけたものは夢だった、で終わる。それだけだ。
ヤモには、どうしようもない。連絡先も分からないのだから。
ベッドから下りて、私は手術室へ向かうことにした。何か言われるだろうから、黒いカバンを忘れたといい、もしナースステーションに届けられていたら、別のそれなりの理由を言えばいいと思った。
出口となるドアまで歩いていく。
病実のドアに手をかけて私はゆっくりと開けた。新しくできた眼科病院なだけあって、ドアは嫌な音もださずにスムーズに開いた。
廊下に出ると、右側の方から大きな声で呼びかけられた。
誰だと思って振り向くと、廊下の向こう側には仮想世界で出会ったナースがいた。
私は目を丸くしてナースを見た。
確かに彼女だった。
右脇に黒くて平べったくて四角い物を抱えて、彼女は微笑みながらこっちに近付いて来た。
「あれ、元気になったんですかー?」
とりあえず返事だけ返すと、「それは良かったです」と彼女は言ってきた。
私は何か分からなくなった。彼女は現実にいたナースだったのか? 確かにいてもおかしくはないのだが、ではこの病院に来てどこで出会ったのだろうか。夢の中で出会ったのならば、この病院に来て必ずどこかで出会わなければ夢に出て来られないはずだ。私の記憶に全くない彼女が、夢の中で初登場だなんてたぶん無理なはずだ。
仮想世界で初めて出会って、ここで登場だと?
そんなわけがない。だとしたらここはどこだ。
「何を考えているんですか?」
私の目の前まで来ると彼女は足を止めてそう言った。私の顔を覗きながら不思議そうな表情を見せて、「本当に大丈夫なんですか?」と聞いてきた。
「大丈夫だよ」と私は返事した。困惑している様子をなるべく顔に出さないように言ったつもりだったのだが、彼女は「そうですかねえ?」と疑り深く目を細めて見てきた。
「大丈夫だよ。それよりも何を持っているの、それは」
話を逸らすために私は彼女が右脇に抱えていた黒いものを指差した。
「ああ、これですか?」と彼女は明るい顔になって言った。
「あなたに見せるつもりだったんですよ」
そう言って彼女はそれを両手で持って平らな面を私に差し出すように見せた。
絶句した。
それは黒い額縁に黒いリボンが斜めにかけられていた。額縁の中にはあの頃のヤモの顔がアップで写されている写真が入っていた。
「何だよ、これ?」
「遺影ですよ、葬式で飾るあれです。知らないんですか?」
「どうして彼女が写っているんだって聞いてんだよ!」
廊下に私の声が響いた。
彼女は全く動揺を見せずに微笑み返してきて言った。
「あなたがあれを持って来たから、私たちが作ったんですよ、これ」
「持って来た? 何を?」
「ぐしゃぐしゃになったこの子のパーツですよ」
「何言ってんだよ。そんなわけないだろ」
馬鹿にされているのか、そうだとしてもたちが悪すぎる。
そもそも、どうして彼女があの頃のヤモを知っているんだ。
私が言葉を失っていると、ナースは急に顔色を変えて無表情になり、両手で私に差し出すように見せていた遺影を急に離した。
私がそれを見て驚いたとき、次には地面にもう落ちてガラスが砕けた。砕けた音が耳に響く。彼女の顔にヒビが入ったように見えて私は一瞬だけ目をそらした。何か、嫌だった。
「あのですね」と言って彼女は私を見て話し始めた。
「覚えていますか? あなたはこの病院に来たとき、ぐしゃぐしゃになった彼女のパーツを抱えてやって来たんですよ。全身を真っ赤に染めてドロドロとした赤い血を滴らせながら、ね。彼女、泣いていたんですけどね、片目しかなくて、それでも血に負けないぐらいの涙、まあそれも赤かったなあ」
「おい、何言ってんだよ」
「まあまあ、覚えていないようなので、思い出させてあげようと思いまして。親切ですって。人間の腸ってあんなに長いんですね。入り口前の階段からあなた全部抱えきれなくて引きずってきたものだから、入口の自動ドアに腸が挟まっちゃって、ぷっつんって腸がそこで切れちゃったんですよ。しょうがないから箒と散り取り掃除したんですけど、赤い血がどうしても取れなくて、しかも血だまりを踏むと靴にひっついて糸を引きますし、もう最悪なんでしたから。
それとですね。彼女の足はどこにいったんですか?両足さえ繋がっていれば、あんな抱えてこなくてもよろしかったでしょうに。
ぐしゃぐしゃになったパーツを全て繋ぎ合わせる作業をしたんですけどね。
駄目でした。彼女、顔の鼻から上が無くなっていたのに「ごめんね。ごめんね」ってずっと言っているから、助けてあげたかったんですけど。口がパクパク動いてましたけど、舌が抜かれていたからうまく発音できていませんでした。パクパクする度に歯がボロボロ落ちていって、歯が口の中に刺さってさらに血まみれになっていって。
血液の量って意外と多いんですねえ。
誰に対してごめんね、ごめんねって言っていたんですかねえ。
それとですね。人間の痛覚はもうなくなっていたようで、全身麻酔なんて必要なかったのは助かりました。悲鳴はあげずに、ただ「ごめんね、ごめんね」と。
それとですね。凶器が見つかりました。凶器はあなたの足でした。
それとですね、踏み潰したときどうでした? ドロって音がするまで踏んだ。
それとですね心臓をわしづかみにしたとき、どうでしたか?
それとどこが一番重かったですか」
淡々と話す彼女から私は逃げようと思った。彼女はまだ喋りつづけている。全身から血が引いていって私は逃げる事以外何も考えられなかった。いくらなんでもおかしすぎる。ここにいては駄目だ、足を後ろに動かそうとした。
気が付いたら膝が震えていた。
「それとどこに行こうとしているんですか?」
ナースは私の右手を急に掴むと、ぐいっと前に引っ張って両手で掴み直した。
その両手が冷たくて背筋に寒気が走った。全身の毛穴が開いて汗が出た。しっかりと握られて、さらに力を入れて強く握りはじめ、まるで心臓をわしづかみにされたような圧迫感を感じると、彼女の左手の指がとうとう手首に食い込みはじめた。
「止めろ!」と叫んで振りほどこうとした。まだ掴まれていない左手で彼女のどこでもいいから殴ろうとした。
次の瞬間、ずぶり、という音が体内の中で響いた。
彼女の親指と小指が私の右手首の中に刺さっていた。痛みも感じずにずぶずぶと、彼女の爪がもう見えないところまで手首に入っていき、そこから赤い物が少しずつ落ちて行った。
ヤモの遺影に私の血が落ちて付いた。ヤモの顔が少しずつ赤く塗られていく。
私は悲鳴をあげた。
彼女は微笑んで「ごめんね、ごめんね」と言った。
「やめてくれ」と私は叫んだ。
「いいですよ」と言って、彼女はそのまま私の右手首を握りつぶしながら、勢いよく私のことを引っ張った。
ぶちぃ、という音が聞こえ、右手首が抜けた。
血が吹き出て、私は悲鳴をあげた。
右手首の先が無くなった。全身が震えてうまく声も出せない。
膝から落ちそうになった瞬間、彼女の両手が今度は私の首にやってきた。
額の汗が鼻の方に垂れてきた。彼女の両手はしっかりと私の首を掴んだ。
赤く染まった両手は今度は生温かく、ぬるぬるとした感触が気持ち悪くて、彼女は親指をちょこちょこと動かしていた。
彼女の頬に血がついていた。笑顔を見せて彼女は言った。
「そろそろ急患用のストレッチャーがやって来る予定ですから、しばらくお待ちを」
彼女は私のことを突き飛ばすように離した。
私は腰から落ちて、床に手を付こうとしたが、右手がなくて手が付けずバランスを崩し、そのまま仰向けに倒れ込んでしまった。手首の先がないことに気づいて、体中が熱くなった。
後方から何かが台車に乗って運ばれてくるような音がした。
「来ましたよう」と彼女は言った。
私はうまく立ち上がることが出来ずに頭だけを後ろに反らして、なんとか来るものを見ようとした。
見えたのは黒い箱のような物だった。黒い箱がストレッチャーに乗ってやってくる。
「おい、まさか、あれは」私はそれが何か分かった。
「はい、棺桶です。あなた専用の」
「ふざけるな! どうして、何なんだよ、俺は何もしていない!
なにしたんだよ、俺が! 殺されるようなことは一回もしていない!」
「殺されるだなんて、人聞きの悪い」
そう言うと彼女は溜息を一つついて話し始めた。
「肉体はバラバラになってでもですね、精神は死なないんですよ。脳みそさえ無事だったら、そこから意識を取り出して、あとは仮想世界に連れていけば、ほらあなたは年をとらずに永遠に生きていけるってことですよ。
あなたは経験したのでしょう、仮想世界というものを。いいところだったでしょ。
余計なことは考えずに、考える事も出来ない世界へようこそ。考え過ぎのあなたへの処方箋は、何も考えないことです。
何も心配はいりませんよ。お任せ下さいね」
狂ってる、何もかもこの病院は狂ってる。
棺桶が私のところまで到着した。二人のあのおばさんナースがいた。
「じゃ、始めましょうか」
私は立ち上がろうとした。
「とりあえず、逃げられると困りますんで、足を切断しちゃいましょう」
ナースが言った。ナースの手に銀色に輝くナイフが手渡された。
「よっと」という声とともに彼女は私の足にナイフを突き刺した。
膝頭にナイフが刺さった。赤い液体が流れるのがよく見えた。
続けてナースは言う。
「でも、うるさいのも困るんで、まずは気絶させるってことで、どうでしょう?」
私の方を見て言った。
私は何も答えられなかった。歯がカチカチ鳴っていた。
目の前で彼女の手に餅付きで使われる杵が手渡された。
私を見ると、躊躇することなく彼女は振りかぶった。
「せーの」
後ろに逃げようとしても体がいうことを聞かない。
「よっ」という音が聞こえて、私の頭をかすめて右肩に落ちた。
骨が砕ける音が聞こえて私は後ろに倒れた。
天井が見えた。天井には気球を真下から見た絵が見えた。
横から大きく振りかぶった彼女が見えた。
「失明ですよう」
落ちてくる。鈍い音が鼻から響いた。
私はベッドの上で寝ていた。
シーツには汗がびっしょりだった。
全身が未だに震えている、呼吸は乱れていて、私はここがどこだか分からない。
白い天井が見え、ベッドの右手にある大きな窓からはカーテン越しに陽射しが差し込んでいた。
左を向くと、見覚えのある光景が広がっていた。ドア、木製の棚があった。
ここは病室だと気づいて、私はあれが夢だったのかどうか恐ろしくなった。
右手はあるのか。あった。傷一つなくある、右手が。
― 仮想世界に連れて行けば ―
ナースのあの声が蘇る。
ここはどこだ、現実か、夢か、仮想世界か?
仮想世界なら私は現実に帰れるのか?
いや、あれが現実なら、私はバラバラにされてしまったのでは?
思いだすだけで身の毛がよだつ。汗がまた毛穴から流れ出ていく。
どうなってんだ。
右手を触る、抓る、感覚はある。ある、夢じゃない。
夢じゃないのか、本当か?
夢の中でも痛いと思えば、それは実現するのではないか?
そもそも痛みなど感じていたか?
ドアをノックする音が聞こえた。
私は突然響いたその音に驚いて身を竦めた。
返事をしないと、もう一回ドアをノックする音が聞こえた。
返事をしていいのか、迷った。
さらにもう一回ドアをノックする音が聞こえ、今度は声が聞こえた。
「久保田さん。久保田健文さん。起きていらっしゃいますか?」
その声はあの女医さんの声だった。
唾をごくりと飲んで、「はい」と私は返事をした。
「部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
「何の御用で?」念を入れて聞き返した。
「検診です。手術後に体調を崩してから寝ておられたので、起きたら一度お話したいこともありまして」
寝ておられた、と言った。
そうか私は寝ていたのか。ならあれは夢だったのか。
「どうぞ」と私は言った。
ドアが開き、私は目の前の光景を見て頭が真っ白になった。
一人は先ほど会った院長先生。もう一人は、あの時のままのヤモ。
あれから全く成長していない、最後に私が見たときのヤモがそこにいた。