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そうして気が付くと、私はあの一本道と青空と気球を遠く離れたところから眺めていた。
「はい、もういいですよ」
女性の声が聞こえ私は戸惑いながら機械装置から顔を引いた。
私は丸椅子に座っていた。目の前にはそれを覗くと先ほどからずっと私がいたあの世界が見える双眼鏡みたいな装置があった。
頭が重い。とりあえずあの世界から私は戻って来たらしい。
いや、何だったんだ、あの世界は。私はどこに行っていたんだ。
「近眼手術はこれで終了です。お疲れ様でした」
「ああ、はい」とだけ私は返事をすると、機械の後ろから手術前に会った女医さんが姿を表した。女医さんは機械の側を通り私の隣まで来ると顔を曇らせた。
「顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
私は「大丈夫です」と言った。しかし、女医さんは私の言葉を鵜呑みにしなかった。
「もし、体調が優れないようでしたら、近くにベッドがありますのでそちらでお休みになって下さい。仮想世界に行くことでかなり体力を消耗する方もいるのですし」
「そうみたいですね」と私は頭を抑えながら言った。
仮想世界。いま確かにそう言った。
私はそこに行っていたのだろうか?
とりあえず手術室から出ていこうと思い、立ち上がろうした。
しかし、どうしてか足に力が入らない。足への力の入れ方を忘れてしまったようだった。
そんなはずはないと考えて無理に椅子から立ちあがろうとした。すると膝が折れてよろついてしまい、あの大きな機械に手をついてしまった。
そんな私を見た女医さんは、電話を取ってすぐにストレッチャーを持ってくるように言った。すぐにおばさんナースが二人入ってきて彼女たちと一緒にストレッチャーがこの部屋に運ばれた。私はそれに横になるよう命じられた。
体がいうことをきかない。次第に目が回ってきて体を支えるために手に力が入った。
「無理しないで下さい。肩を貸しますのでそれに横になって下さい」
私は女医さんに従って肩を借り、ストレッチャーの上に乗り仰向けになった。ミシっと音がして体が少しだけ沈んだ。けれども身体が少し浮いているような気もして、私は白い天井をぼうっと眺めていた。
仮想世界と言われるところであったことがぼうっと頭に浮かんだ。
のどかな世界だった。不思議なことが色々とあった。
あのナースが最後に言っていたことは何だったのだろう。
本当の話なのだろうか、ヤモがプログラムしたとか言っていたが、信じていいのだろうか? それにしてもおかしなナースだったことはよく覚えている。
瞼が半分閉じた状態で天井を眺めていたら、女医さんの心配そうに私を覗きこむ顔が横から見えた。
「申し訳ありません。しばらくお休みになられれば体力も回復しますと思いますし。時間があるのならばどうかお休みになってからでも」
「すみません、そうさせてもらいます」
そう言って私は息を一つ深くはいた。
聞いてみないと分からないか、と私は思った。
ナース達の手によってストレッチャーが動き始めようとしたとき、私は女医さんにいくつか質問をしたくて口を開いた。
「すみません。あの機械のことなんですが」
私はあの白く大きな機械を指差した。
「あの機械? ああ、近眼手術のための機械ですか?」
「それです。あの機械の世界をプログラムした人は誰だか分かりますか?」
「すみません。それは教えられないことになっていまして」
女医さんはあっさりと私に言った。「そうですか」と私は声を落として言った。
「どうしてそのようなことを?」
女医さんがそう聞いたので、私は言おうかどうか一瞬迷ったのだが、言うことにした。
「いや、その機械をプログラムした人が私の友人だったかもしれなくて。それで、誰がプログラムしたのかを確かめたくて」
「どうしてそう思われたのですか?」
「あっちの世界にいたナースがそんなことを言っていたので。とりあえず確かめておきたくて」
私がそう言っても女医さんは何一つ表情を変えずに黙って私を見ていた。
「もう一つ聞いても良いですか?」
「はい、何でしょう?」と女医さんは言った。
「あの機械、私は本当に仮想世界とやらに行って来たのでしょうか?」
「はい、そうです」とだけ女医さんは答えた。
「そうすると、あの世界で起きた事は現実というか、例えばこっちの世界と関係していることなのでしょうか?」
「ええ、あなたが体験したことは現実と言えば現実ですね。夢ではありません」
「じゃあ、あのナースが言っていたことも現実と関係しているのでしょうか?」
「何を言われたのか知りませんが、あのナースがあなたに何かアドバイスをしたのならそうなのでしょう。あなたの脳内だけで完結する夢の世界とは全く違う、とだけは言えます」
その返事を聞いて私は頭がこんがらがった。
そもそも意識を飛ばすとは何だ? 本当に仮想世界に行って来たのは間違いないかもしれないが。
でも、そんなこと聞いたこともない。そんな技術があるならとっくにどこかでニュースになっていてもおかしくない。
何か変だ。
何なんだ、あの機械は、この病院は。
「あの機械は何なんですか?」
私がそう言うと女医さんは眉間に少し皺を寄せて、そして表情を元に戻してから言った。
「あれですか? 手術前に説明した通りですが」
「あれが説明? 私は一つも聞きたいことが聞けなかったですけど」
あれが説明だとは言えないと思った私は、嫌みな感じに言って非難してやろうと思った。
しかしそれを聞いた女医さんはにこやかに笑って「では、お大事に」とだけ私に言い、ストレッチャーを動かすようにナースたちに言った。
おばさんナースたちの手によってストレッチャーが動き始めた。私はまだ女医さんに言いたいことがあった。しかし、仰向けに寝てから今度は全身がだるく感じてきて、思うように体を動かせなくなっていて、私は下りることも出来ない。
「まだ話は終わっていないぞ!」と強く叫んだが、手術室のドアは閉まってしまった。
私のクレームを笑顔で流したあの女医 ― しかも私に初めて見せた笑顔だった ― に対し私は腹が立ち、その怒りを八つ当たりに近い形で二人のナースにぶつけた。
「おい、この病院はどうなっているんだよ。ずいぶんと乱暴な医者じゃないか」
片方のおばさんナースが言った。
「良い方ですよ、あのお方は。ねえ」
もう片方のおばさんナースが続いて言った。
「ええ。腕は確かだし手術もきっちりこなしますし」
「それは医者として当たり前だろうが」と私が言うと、二人とも「まあ」と驚いた様子を一瞬だけ見せた。
そして片方のナースが言う。
「まあ、怒る気持ちも分かるのですけどね。あの先生はあまり話さないですし」
「そうねえ。『患者が求めているのは過程より結果』と言い切ってしまうからねえ」
「もう少し説明してくれないと困る」と私が言うと「そうですよねえ」と二人は息を合わせて頷いた。
「まあ、あまり興奮すると体に悪いから」
「そうそう。手術後ですしね。血圧急上昇による眼球破裂なんてシャレにならない」
二人はそう言って笑いあった。
私は全く笑えなかった。眼球破裂と聞いて笑えるはずがない。
「冗談ですよ、ねえ」
「ええ」
私が黙っても二人は冗談を交えながら話し続けていた。
そうしているうちにストレッチャーの動きが止まった。同時に「お部屋に着きました」と片方のナースが言った。「この部屋でもう少しゆっくりして言って下さい」ともう片方のナースが言い、病室のドアが開いた。
ストレッチャーと共に私は病室に入っていった。
その病室は個室だった。窓から光が差し込む明るい部屋の奥に白いベッドが置かれていた。私を乗せたままストレッチャーはベッドのすぐ横まで運ばれて行き、私は体を起こされ、肩を借りながらストレッチャーから降りてそのままベッドに寝転んだ。ベッドの布団は私の家の布団よりはるかに良い物だった。白い、シミがない、枕も敷き布団もちょうど良い柔らかさだった。思わず枕に頭をうずめた。
ゆっくりと体の向きを仰向けにした。白く綺麗な天井が見えた。こんな布団で毎日寝たいなあ、と思うと大きなあくびが出た。
その様子を見られたのか、どちらかのおばさんナースが笑った。
片方のナースが言った。
「一休みして歩けるようになりましたら、枕元にあるボタンを押して下さい。誰かが迎えに来ますので、そしたら一緒に受付まで行って、お会計、終わりです」
最近の回転寿司屋みたいなシステムだな、と私は思った。
「はい」と返事をすると、「他に何か質問ありますか? お答えできるところまでならお答えしますよ」と言われたので、本当は女医さんに聞きたかったことを質問した。
「それじゃあ、あの医療機械は何ですか? あんな、何だ、意識を仮想空間に連れて行ってその間に手術だなんて。今まで聞いたこともない。あれは新しい医療器具とかなのか?」
私の質問に対しおばさんナースたちは笑顔を見せて「では、お大事に」とだけ言い、礼儀良く頭を下げて踵を返すと、私が待つように言っているのにそのまま部屋から出てドアを閉めて去って行った。
「何だよ、おい!」と私は怒声をあげた。今すぐ立ち上がって追いかけようとしたが、足にうまく力が入らない。無理に動かそうとしたら足が震えはじめた。どこかで一服盛られたのではないかと思った。そう思うと血の気が少し引いて、腕に注射の痕がないか確認した。幸い、そういうのは発見されなかった。
しかし不満と苛立ちは収まらなかった。
私は枕元に置いてあったボタンをさっそく押した。何度も連打してやった。
ボタンから手を離すと、大きなあくびがひとつでた。顎が外れるのではないかというぐらい大きなあくびをし終わると、興奮も少し冷めて来て、体のだるさがまた戻ってきた。
一人になった部屋で、私は仰向けになって何があったのかを考えようとした。
近眼手術のためにこの病院にやって来て、そして変な機械によって仮想世界に行って来た。そこで変なナースに出会って、私が子どもの頃にミニ四駆を盗んでしまったことを話すと、バラバラにしたのは持ち主であった彼女で、その理由を話された。
そして、この機械をプログラムしたのも、変なナースの生みの親もそいつだと言って、早く会ってあげて、みたいなことも言っていた。
変な話だ。私は右腕で目を覆い隠した。
また大きなあくびが出て、目元にうっすら涙が溜まった。やはり私は疲れているのだろうか。腕を戻して、そして手で目元を拭いた。
体はあいかわらずだるい。重いというよりは、力が抜けてしまって浮いているような気がしてならない。
しだいに眠くなってきた。寝ていいのだろうか。
少し考えることを止めて、私は目を瞑った。