第一話 衝突
本作は、坂本龍馬といろは丸事件を題材にした歴史小説である。事件の日時・場所、明光丸による二度の衝突、鞆の浦および長崎での交渉の経過、金額、後藤象二郎・五代友厚・茂田一次郎・高柳楠之助ら実在人物の関与、賠償金の支払い、およびその後に龍馬が京都・近江屋で命を落としたという時系列を含む大筋は、現存する史料をもとにしている。
一方、高柳楠之助・茂田一次郎・後藤象二郎・五代友厚・坂本龍馬を含む登場人物の台詞・心情描写、および杢兵衛・利助・平助ほか創作上の乗組員の人物像・行動には、著者による創作が含まれている。とりわけ、高柳楠之助と機関方・杢兵衛の対話、聖福寺境内での龍馬と杢兵衛の場面は、すべて創作である。実在人物についても、作中の台詞は、史料に記録された発言を逐語的に再現したものではない。
慶応三年四月二十三日。
長崎を出て五日。いろは丸は瀬戸内の凪いだ海を、大坂に向けて進んでいた。
船倉には、米俵と砂糖の樽が積まれていた。朱の包みと、鮫皮の束もあった。少なくとも、機関方の杢兵衛の目に入る荷は、そんなものだった。
船倉の奥には、筵をかけた荷がいくつか積まれていた。杢兵衛の持ち場ではなかった。
杢兵衛は、火の番をしながら欠伸を噛み殺していた。
「今日も凪じゃのう」
「凪すぎて眠うなる」
甲板では海援隊の橋本平助が、帳面に何かを書きつけていた。航海日誌である。特に事件のない一日を、平助は特に事件のない筆致で記していた。
坂本龍馬は、船室で腕を組んで眠っていた。
何も起こらない夜だった。少なくとも、備中六島の沖に差しかかるまでは。
見張りの利助が、闇の向こうに何かを認めたのは、四つ半を過ぎた頃だった。
黒々とした海の上に、もう一つ、黒い塊があった。
「船だ」
利助の声は、最初、誰の耳にも届かなかった。二度目でようやく甲板の数人が振り向いた。
「船だ! 前だ!」
灯りが近づいてくる。速い。距離の読み違いに、誰も気づいていない。舵を切る声、蒸気を絞る音、走り回る足音。それぞれが正しいと思う動きをして、それぞれが違う方向を向いていた。
間に合わなかった。
轟音。
船体が跳ねた。甲板に立っていた者は皆、なぎ倒された。杢兵衛は船倉の壁に肩を打ちつけ、水音がすぐ近くで聞こえるのに気づいた。
揺れが収まりかけたところへ、もう一度、衝撃が来た。
杢兵衛は壁に手をついたまま、指を二本、折った。
明光丸。船体に書かれた文字を、甲板の誰かが叫んだ。
「紀州の船だ!」
浸水が始まっていた。
龍馬が船室から出てきたとき、甲板はすでに混乱していた。灯りが揺れ、水の音が下から響いていた。
龍馬は誰かを呼び止めた。
「怪我は」
「わかりません、まだ」
「動ける者は前へ出て、動けん者を運べ」
声を張り上げたわけでも、指図じみた口調でもない。誰かがやらねばならないことを、たまたまその場にいた者が口にしただけのようだった。
しばらくして、数を数え終えた者が戻ってきた。
「死人は、おりません」
「そうか」
龍馬は短く頷いただけだった。
いろは丸はもう自力では動けなかった。明光丸がこれを曳航することになり、いろは丸の乗員は綱を伝って、次々と明光丸へ移っていった。
杢兵衛は最後まで船室に残っていた。長年連れ添った道具箱を、諦めきれずにいた。
「早う来い、沈むぞ」
利助に腕を引かれ、杢兵衛はようやく道具箱を置いた。
梯子に足をかける前に、一度だけ船倉の奥を振り返った。筵をかけた荷が、水の中で黒く濡れていた。
龍馬が明光丸に移り、乾いた甲板に足をつけたとき、ふと平助の姿を探した。
「日誌は」
「何がです」
「航海日誌じゃ」
平助は懐を軽く叩いた。
「持ち出してあります」
「そうか」
龍馬はそれ以上、何も言わなかった。振り向きもせず、曳かれていくいろは丸の方へ視線を戻した。
宇治島の沖に差しかかった頃、いろは丸は静かに傾き、海の中へ消えていった。
明光丸の甲板に集まった者たちは、それを黙って見ていた。誰も勝ち負けの話をする者はいなかった。ただ、自分たちの船が沈むのを見ていた。
鞆の浦へ向かう船上で、誰かが呟いた。
「紀州です」
御三家――紀州徳川家。
その一言に、周りの空気が変わった。海援隊の隊士の何人かが、腰の刀に手をやった。
龍馬は刀に手をやらなかった。
代わりに、懐に航海日誌をしまった平助の方を、一度だけ見た。
それだけだった。
第一話 完




