5話 結婚
2010年春、あかりは18歳になった。
高校3年生、最後の春。
制服のスカートが少し短くなり、髪を少し伸ばした彼女は、近所でも、本当に綺麗になったと噂されるほどに成長していた。
しかし、その美しさは健以外には向けられなかった。
学校では相変わらず孤立し、クラスメートとは必要最低限の会話しかしない。
部活も、文化祭の準備も、すべて「面倒」と一蹴。
放課後はいつも、家で健の到着を待つだけの日々だった。
健は25歳。
表向きは、フリーランスのソフトウェアエンジニアとして細々と暮らしているが、実態はほぼ不労所得生活。
2010年時点で資産は3億円を超え、株配当、特許ライセンス料、少額の不動産賃貸収入が毎月安定して入ってくる。
会社員時代のような朝の満員電車も、上司の理不尽な指示も、もうない。
朝は遅く起き、午前中は市場チェックと読書、午後は趣味の時間。
そして、週に3~4回、鈴木家を訪ねるのがルーチンになっていた。
あかりの両親は、健を完全に家族の一員として扱うようになっていた。
父親は、いつかうちの会社を手伝ってくれないかと冗談めかして言うし、
母親は健くんがいると、あかりが笑うのよと嬉しそうに話す。
事件から5年近く経ち、あかりの心の傷は表面上は癒えていたが、根深い人間不信は健への絶対的な信頼と依存に変換されていた。
変化は、2010年4月の新学期から顕著になった。ある土曜日の午後。
健が鈴木家を訪ねると、あかりはいつものように玄関で待っていた。
今日は私服。
白いブラウスに淡いピンクのスカート。
髪を軽く巻き、薄くメイクをしている。
明らかに今日はいつもと違う雰囲気だった。
「お兄さん、来てくれた!」
あかりは健の腕に飛びつき、ぎゅっと抱きついた。
これまでは妹のような甘えだったが、今日は体全体で密着してくる。
胸の柔らかさが、健の腕に伝わった。
「……あかり、ちょっと離れようか」
健が軽く体を引くと、あかりはむくれ顔で上目遣い。
「嫌。今日は離さない」
リビングに入ると、両親は外出中だった。
あかりが、今日は二人きりだよと嬉しそうに言う。
ソファに座ると、あかりは健の隣にぴったり寄り添い、頭を健の肩に預けた。
「お兄さん、最近忙しい?」
「まあ、ほどほどにね」
「私、寂しかった……」
あかりの手が、健の手に絡まる。
指を一本一本、丁寧に絡めてくる。健は少し戸惑った。
これまでは妹として接してきた。
年齢差も7歳。
あかりが中学生の頃から見守ってきた存在。
でも、今のあかりはもう少女ではなく、立派な女性だった。
「お兄さん、私のこと、どう思ってる?」
突然の質問。健は言葉を探した。
「大事な妹みたいな……大事な存在だよ」
あかりは少し黙って、それから小さく笑った。
「妹、かぁ……」
その声に、微かな寂しさが混じっていた。
その日から、あかりの猛アタックが始まった。
まず、服装。
健が来る日は、毎回違う服。
可愛いワンピース、清楚なブラウス、時には少し大胆なオフショルダー。
メイクも少しずつ変わり、香水の匂いがふんわり漂うようになった。
次に、ボディタッチ。
手を握る→腕に絡む→肩に寄りかかる→膝に頭を乗せる。
そして、ついに抱きつく回数が増えた。
「お兄さん、ぎゅってして」
健が優しく抱き返すと、あかりは耳元で囁く。
「もっと強く……」
健は、妹だからと自分に言い聞かせて、優しく撫でるだけに留めた。
しかし、あかりは止まらなかった。
2010年夏、大学受験の夏期講習が始まる頃。
健はあかりの勉強を見に、ほぼ毎日鈴木家に通うようになった。
夜遅くまで一緒に問題を解き、解説する。
ある夜、午後11時過ぎ。
両親はすでに寝室に。
リビングのテーブルで勉強中、あかりが突然ペンを置いた。
「お兄さん」
「ん?」
あかりは立ち上がり、健の前に立った。
そして、ゆっくりと健の膝の上に座った。
正面から、跨がるように。
「……あかり?」
健の声が少し上ずる。
あかりは両手で健の頬を包み、目をじっと見つめて言った。
「お兄さん、私、もう妹じゃ嫌」
健は息を飲んだ。
「もう18歳になったから……ちゃんと、女の子として見てほしい」
あかりの瞳は真剣だった。
涙が少し滲んでいる。
「お兄さん以外、誰も好きになれない。誰も信じられない。お兄さんがいなかったら、私、もう生きていけない……」
健は言葉を失った。あかりはさらに体を寄せ、唇を近づけた。
「キス、して」
健は一瞬、固まった。
しかし、あかりの震える唇を見て、そして、5年間の彼女の孤独と依存を思い出し、ゆっくりと目を閉じた。
柔らかい感触。
初めての、甘いキス。
あかりは涙を流しながら、健にしがみついた。
「好き……大好き……お兄さん」
健はあかりを抱きしめ、背中を優しく撫でた。
「……俺も、あかりが大事だ」
それが、境界線の崩壊だった。
それから、あかりのアタックはさらに激しくなった。
毎日のように、好きと言い、キスを求め、夜遅くまで一緒にいたいと泣きつく。
健が少しでも距離を取ろうとすると、捨てないで、行かないでとパニックになる。
健は、そんなあかりを優しく受け止めた。
まだ恋人と呼ぶには早いと思っていたが、あかりにとっては、もう「運命の人」だった。
2011年春。あかりは大学に合格した。
健の推薦もあった私立の有名大学、文学部。
入学式の日、あかりは健に来てと懇願。
健は保護者席から見守った。
大学生活が始まっても、あかりの依存は変わらなかった。
サークルには入らず、講義が終わるとすぐに家に帰る。
友達はほとんど作らず。
健は心配したが、あかりは、大学はただの通過点。お兄さんと結婚するための学位が欲しいだけと笑う。
2012年、あかり20歳。
大学2年生。健は27歳。
資産は5億円を超え、完全に悠々自適。
都心にマンションを購入し、そこを拠点にしていたが、あかりの希望で、週末は鈴木家に泊まる日が増えた。
ある秋の夜。鈴木家のリビング。
両親は旅行中で不在。
あかりは健を自分の部屋に連れ込んだ。
ベッドに並んで座り、あかりは健の手を取って言った。
「お兄さん……結婚して」
健は驚いたが、あかりの目は本気だった。
「私、もう待てない。お兄さん以外、考えられない。ずっと一緒にいたい。私の全部、お兄さんに捧げるから……」
健は長い間、黙っていた。そして、ゆっくりと言った。
「……本当に、それでいいのか?」
あかりは激しく頷いた。
「うん。お兄さんがいてくれるなら、何もいらない」
健はあかりを抱き寄せ、額にキスをした。
「じゃあ、結婚しよう」
あかりは泣きながら笑った。
「やっと……やっと言ってくれた」
両親に報告すると、父親は待ってましたと笑い、母親は涙を流しながら祝福した。
2012年冬、二人は婚約を正式に発表。
結婚式はあかり21歳の誕生日である翌年春に決まった。
健は、あかりの指にダイヤの指輪をはめた。
あかりは指輪を見つめながら、お兄さん……これからは、健さんって呼ぶねと言った。
そして、健の胸に顔を埋めた。
「ずっと、ずっと一緒にいてね。私、健さんのためなら何でもするから」
健はあかりの髪を撫でながら、静かに頷いた。
「うん。俺も、あかりとずっと一緒にいる」
未来の記憶は、2025年で途切れている。
それ以降の人生は、未知だ。
しかし、今ここに、あかりがいる。健は思った。
この幸せは、記憶のおかげで手に入れたものじゃない。
あかりのおかげだ。
そして、二人は、永遠の約束を交わした。




