5.
――夢
静寂が、先にあった。
音もなくただ白い。
境界のない空間。
クラリスは、そこに立っていた。
(…ここは)
懐かしさが胸を撫でる。
かつて澄だった頃、女神と出会った場所。
けれど今は、祈りも選択も提示されない。
白の中心に、淡い青の光が揺れているのに気がつく。
水面のように波打ち、やがてひとつの光景を映し出す。
城。
玉座の間。
そして
「…私?」
そこにいたのは、もう一人のクラリスだった。
背筋を伸ばし、寸分の乱れもない立ち姿。
翡翠の瞳は冷たく澄み、微笑みは完璧で、けれど温度がない。
――青写真の中の、クラリス・アルメリア。
彼女は淡々と命じ、正確に物事を裁き、決して迷いを見せない。
判断は合理的で、言葉は正しく、誰も逆らえない。
正しい…それなのに。
臣下は距離を取り、
民は敬意よりも畏れを抱き、
誰もその隣に立とうとはしなかった。
(…知ってる)
胸が、静かに締めつけられる。
これは、滅びへ向かう途中の姿だ。
孤独。
疲弊。
誰にも弱さを見せられない日々。
やがて、場面が変わる。
夜の城。
床に走る青白い光の亀裂。
抑えきれない魔力が、静かに溢れ出している。
必死に制御しようとする、青写真の中のクラリス。
けれど、その背後には誰もいない。
「…ひとり、なのね」
青写真のクラリスは、何も答えない。
否定も、弁解も、しない。
その沈黙が、すべてだった。
崩壊が、ゆっくりと進んでいく。
城が、街が、光に呑まれていく。
クラリスは、ためらわずに一歩前へ出た。
「…怖かったわね」
その瞬間、青写真のクラリスの指先が、わずかに揺れた。
「完璧でいなければならなくて。
弱さを見せてはいけなくて。
誰かに頼ることが、許されなくて」
クラリスは、静かに両腕を伸ばす。
「でもね…それでも、あなたは生きてきた」
青写真のクラリスの目が、わずかに見開かれる。
「あなたは、間違ってなんかいない。
あの時の私は――
そうするしか、方法を知らなかっただけ」
次の瞬間。
クラリスは、もう一人の自分を抱きしめていた。
思っていたよりも細く、
思っていたよりも軽い。
冷たいはずの身体は、次第に温もりを帯びていく。
「ありがとう」
囁くように、そう告げる。
「私を、ここまで生かしてくれて」
抱きしめられた青写真のクラリスは、
初めて、ほんのわずかに目を伏せた。
そして――
ほどけるように、光へと変わっていく。
拒絶ではない。
切り捨てでもない。
それは、静かな統合だった。
青い光は、クラリスの胸の奥へと溶け込み、
冷たさも、孤独も、恐れも――
すべてが、やわらかく馴染んでいく。
城の崩壊は、そこで止まった。
白い空間が、静かに満ちていく。
(…これでいい)
クラリスは、そう確信した。
あの未来を否定する必要はない。
切り離す必要もない。
――選ばなかっただけだ。
それだけで、十分だった。
——
朝の光が、やわらかく瞼を照らす。
クラリスは、自分の寝台で目を覚ました。
胸に手を当てると、鼓動は穏やかだ。
「…夢」
けれど、胸の奥には確かな感触が残っていた。
恐怖ではない。
後悔でもない。
(私は、私を信じていい)
窓の外では、青薔薇がいつものように風に揺れている。
青写真は、もうない。
正確には――必要なくなった。
未来は、白紙でいい。
迷ったら、また選び直せばいい。
誰かの手を取り、
自分の心を見失わなければ。
クラリスは、静かに息を吸い、ベッドを降りた。
(私は、ここにいる)
その事実だけで、十分だった。




