4.
――数年後
朝の光が、白いカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
クラリス・アルメリアは、机の上に広げた書類から顔を上げ、小さく息をついた。
ペンを置き、窓の外を見る。庭園では、青薔薇が静かに揺れている。
(……静かだな)
かつて「完璧」であることを求められていた頃、この静けさはなかった。
常に誰かの視線があり、期待があり、失望されないための緊張があった。
今は――違う。
「クラリス様、少し休まれては?」
紅茶を運んできた侍女のミリアが、穏やかに声をかける。
昔と変わらぬ調子だが、その言葉には遠慮も畏れもない。
「そうね。ありがとう、ミリア」
クラリスは素直に頷き、椅子に背を預けた。
完璧にこなすことより、無理をしないことを選ぶ。
それが、今の彼女にとっての「正解」だった。
書類の内容は、王領の支出整理と地方視察の報告。
クラリスにとってさして難しいものではないが、丁寧さが求められる仕事だ。
――昔の自分なら、すべてを一人で抱え込んでいた。
(誰かに任せることは、弱さじゃない)
そう思えるようになったのは、いつからだっただろう。
扉がノックされ、穏やかな声が響く。
「入ってもいい?」
リアンだった。
背は伸び、面差しは青年のものになっているが、どこか昔の面影も残している。
「どうぞ、殿下」
そう呼ぶと、彼はわずかに眉をひそめた。
「またその呼び方。ここでは“リアン”でいいって言ってるだろ」
「立場上、そうもいきませんわ」
クラリスが笑ってそう返すと、リアンは苦笑して肩をすくめた。
ふたりの関係は、近すぎず、遠すぎず。
期待も、義務も、互いに押し付けない距離。
婚約の話は、いまだ「検討中」のままだ。
急ぐ理由はなかったし、誰もそれを責めなかった。
「今日の会議、無理してない?」
リアンが、ふと真面目な声で尋ねる。
クラリスは一瞬考えてから、首を振った。
「ええ。少し疲れたけれど……ちゃんと、自分の無理ない範囲で選んでいます」
その答えに、リアンは安心したように頷いた。
「それならいい」
窓の外で、風が青薔薇を揺らす。
花びらがひとつ、ひらりと舞い落ちた。
(――暴走の兆しは、ない)
胸の奥で、澄の記憶が静かに応える。
かつて恐れていた未来は、ここにはない。
完璧であることに縛られず、
孤独に追い詰められることもなく、
誰かの期待に押し潰されることもない。
今の私は――
ちゃんと息をして、生きている。
クラリスはカップを手に取り、紅茶をひとくち飲んだ。
温かさが、喉を通って胸に広がる。
(この未来は…悪くない)
いや、これは、私が選び続けてきた現在だ。
彼女はそう思いながら、静かに微笑んだ。




