2.
クラリス・アルメリアがこの世界に生を受けて、六年が経った。
生まれながらに豊かな魔力の加護を持ち、礼儀作法や読み書きも早く覚えた彼女は、周囲の大人たちから「完璧なお嬢様」と評されていた。
――けれど、その“完璧”は、澄が努力で形づくったものだった。
(この世界では、うまくやらなきゃ。
青写真では、この頃から少しずつ孤立していったんだもんね)
今日は王太子との初顔合わせ。
アルメリア侯爵家と王家の関係を正式に結ぶための、幼いふたりのお茶会。
まだ婚約ではないが、周囲の空気には「次期王妃候補」という期待が漂っていた。
鏡の前で髪を整えるクラリスは、そっと姿勢を正す。
白いドレスの裾がふわりと広がり、幼いながらも凛とした淑女の姿だった。
だが、鏡の中の自分を見つめるその瞳には、どこか影がある。
横に控えていた侍女のミリアが、やわらかく声をかける。
「クラリス様、今日の笑みもお見事です。まるで王妃様のようでございます」
クラリスは鏡越しに視線を落とした。
青写真の中の“自分”――冷たいほど完璧な淑女。
誰もが称賛するその微笑みは、まるで仮面のようだった。
(……あの時の私は、笑っていたんじゃない。
ただ、貼り付けたような“淑女の笑み”を浮かべていただけ)
少し息を整えて、クラリスは静かに尋ねた。
「ねえ、ミリア。
“微笑み”って、淑女の義務かしら? それとも、相手のためにするもの?」
ミリアは少しだけ目を瞬かせて、それから優しく微笑んだ。
「どちらでもございます、クラリス様。
けれど、今日のような日は“あなたがそうしたいから”笑うのが、一番素敵ですわ」
クラリスは短く息を吐いた。
――なら、今日は“義務”ではなく、“自分の意志”で笑おう。
鏡の中の少女が、ほんの少しだけ口角を上げる。
それは完璧ではなく、けれど確かにあたたかい笑みだった。
やがて侍女が告げる。
「クラリス様、王家の馬車が到着されました」
胸の鼓動が早まる。
深呼吸をひとつして、クラリスは庭園へと向かった。
春の風が、青薔薇の花びらを揺らしている。
アルメリア邸の誇る庭園の中央には、白布をかけた丸いテーブルと二脚の小さな椅子。
王家の紋章が刻まれた馬車が静かに止まり、扉が開いた。
金髪に淡い紅の瞳を持つ少年――王太子、リアン・サフィール。
まだ幼いながらも背筋を伸ばし、立ち居振る舞いに品がある。
彼は父王に一礼してから、クラリスの前に歩み寄った。
「はじめまして、クラリス・アルメリア様。
王家のリアン・サフィールです」
丁寧で、少し緊張した口調。
形式どおりの挨拶なのに、真面目なその声がどこか初々しかった。
クラリスは裾をつまみ、深く礼をする。
青写真では、彼女は冷たく完璧に振る舞い、この瞬間に“距離”を生んでいた。
――けれど今度は違う。
「はじめまして、リアン殿下。
お目にかかれて光栄です」
そして、少しだけ柔らかく微笑む。
その瞬間、リアンの瞳が一瞬だけ見開かれ――やがて、小さく笑った。
「ぼくも……クラリス様に会えてうれしいです。
青薔薇が好きだと聞いたので、飾ってみました」
クラリスは驚いて、庭園の中央を見た。
そこには淡い青薔薇の花束。
――青写真にはなかった“ひとつの違い”が、確かにそこにあった。
(この瞬間から、少しずつ変わっていくんだ……)
風が吹き、青薔薇の花びらが光の粒のように舞う。
クラリスは微笑みながら、そっと言った。
「まぁ……なんて素敵。ありがとうございます、殿下。
では――ご一緒に、お茶をいただきましょうか?」
「はい!」
リアンが嬉しそうに頷く。
テーブルに並んだティーカップが、陽光を受けてきらめいた。
その日、ひとつの“青写真”が静かに書き換わった。
完璧な令嬢ではなく、“心を込めて微笑む少女”としてのクラリスが、
この世界に、確かに息づきはじめたのだった。




