1.
――静寂。
音のない白い世界がすべて塗りつぶしていた。
そこに、ぽつりと“彼女”は立っていた。
水原 澄。
22歳。都内の中小企業に勤める、ごく普通の事務員だった。
朝は満員電車に押し込まれ、昼は理不尽な上司に頭を下げ、夜は誰もいない部屋でコンビニ弁当を食べる日々。
たまの休日に見たネット小説やラノベが、彼女にとって唯一の“現実逃避”だった。物語の中では誰もが努力を報われ、悪意にはきちんと罰が下る。
――そんな世界を、どこか羨ましく思っていた。
その日も、いつも通りの帰り道だった。
スマホに気を取られ、車に気づいたのが、ほんの一瞬遅かった。
雨上がりのアスファルト。きらめく水たまり。
耳に残ったのは、ブレーキ音と、誰かの声。
(……ああ、終わったんだな)
意識が遠のくなかで、なぜか涙は出なかった。
むしろ、どこかで「ようやく休める」とすら思っていた。
けれど――。
「……本当に、それでいいのですか?」
ーー声がした。
静寂を破るように、柔らかく響いたその声は、どこか懐かしかった。
顔を上げると、そこには光が人の形を取っていた。
金の粒子をまとった、美しい女性。
その瞳は深く、どこまでも優しい。
「あなたは、よく頑張りましたね。
傷ついても、裏切られても、それでも人を信じようとした」
「……信じたかっただけです。
誰かとちゃんと、笑い合いたかったから」
女神のようなその存在は、悲しげに微笑んだ。
まるで、澄のすべてを知っているかのようだった。
「では、あなたに一つ――“選択”を与えましょう」
「選択……?」
「ええ。あなたはもう、この世界では生きられません。そのまま…他の魂同様、穢れを落とし、次の輪廻を待ちます。けれど、私が提示したいのは、別の世界でなら“生き直す”ことが出来ると言うことです。
ただし――そこは、すでにある“青写真”に基づく世界です」
女神が手をかざすと、白い空間の中央に、淡い青の光が現れた。
それは、水面のように揺らめき、やがてひとつの“物語”の形を取る。
金色の髪、翡翠の瞳。
ドレスを纏い、王宮の中心に立つ少女。
優雅で、完璧で、まるで絵の中の存在のように美しい。
――クラリス・アルメリア。
青の光は物語を映すように、澄の目の前で展開していった。
王太子の婚約者として称えられる彼女。
けれど、完璧さを求め、独善的なその姿は次第に人々から忌み嫌われ孤立を深めていく。
唯一の理解者であったはずの王太子にも距離を置かれ、
やがて、彼女は狂気に飲み込まれてしまう…。
抑えきれない魔力の暴走。
城も、街も、人々も――光の奔流に呑まれて消えた。
「……まって。これ……もしかして、転生先って……!」
「ええ。クラリス・アルメリアとして、生きてみる気はありませんか?」
「この子……国を滅ぼす“悪役令嬢”じゃないですか!!?」
思わず叫んだ澄に、女神はふっと笑った。
その笑みはどこか寂しげで、けれど温かかった。
「そう、“予定”では。
ですが未来は確定ではありません。
あなたはこの青写真を“見た”上で、選べます。
それをそのままなぞるのか、塗り替えるのか。」
澄はしばらく黙った。
胸の奥に、静かに火が灯るのを感じた。
青写真の中で孤独に泣いていたクラリスの姿。
あれは他人事とは思えなかった。
ずっと、人との距離に苦しんできた自分と重なって見えたのだ。
「……この子の運命を、描き直したいです。
幸せにできるかどうかはわからないけど、少なくとも“滅ぼす未来”は選びたくない」
女神は目を細め、澄の頭に手を置いた。
その指先は春の日差しのように温かい。
「あなたらしい答えですね。
ですが覚えておいてください。
転生とは、“他者の心を生きる”こと。
あなたが彼女を救おうとするほど、あなたの心もまた、彼女の影響を受けるでしょう」
「……それでも、構いません。
今度こそ、誰かの笑顔を守りたいんです。そして、本当に心から…笑いたい。」
女神は、そっと頷いた。
光の粒子が舞い上がり、澄の身体を包み込む。
「――行きなさい、澄、そしてクラリス。
青写真を、あなたの手で描き直すのです」
世界が溶ける。
光が流れ、記憶が混ざり、意識が遠のく。
最後に聞こえたのは、やわらかな祈りの声だった。
「どうか、幸福を見つけてください――クラリス」
ーーー
まぶしい朝の光。
ふかふかのシーツ。手を伸ばすと、小さな指先。
絹のカーテン、薔薇の刺繍の天蓋。
息を吸い込むと、花と香油の匂い。
(……ここ、どこ?)
そう思った瞬間、胸の奥に“別の感情”が流れ込んできた。
寂しさ、怯え、そして――母を求める幼い心。
「……おかあさま……どこ……?」
声に出してしまった瞬間、自分でも驚いた。
涙が頬を伝う。止めようとしても止まらない。
それは澄の涙ではなく、“クラリス”の涙だった。
(泣きたくないのに……この子、どんな想いで……)
胸の奥が締めつけられる。
まるで、二人の感情が重なっていくような感覚。
――そうか。
これはただの転生じゃない。
“クラリスとしての人生を生きる”んだ。
扉がノックされ、柔らかな声が響いた。
「お嬢様、朝でございますよ」
澄――いや、クラリスは小さく息を吸い込んだ。
手の甲で涙を拭きながら、そっとつぶやく。
(大丈夫。今度こそ、笑って生きよう)
“青写真”は、ここから描き直される。
まだ何も知らないクラリスは、この瞬間――
確かに、新しい人生を歩き出したのだった。




