第四十四話「白龍討伐戦」
アルスの北門から、俺たちは出発した。
俺は今、セリスの腰に手を回し、地竜にまたがっている。
なんか変な気分だ。
これまでは背中に捕まっているように言われていたが、
なぜか今回は抱きしめるように言われた。
俺の不安や緊張を、取っ払ってくれようとしているのだろうか。
確かに、こうしてくっついていると安心するしな。
地竜たちの足音だけが聞こえる。
みんな引き締まった顔をして、だんまりしている。
これから決戦ってときに、笑ってるヤツなんているはずもないか。
「ガハハハハ!」
いた。
それもかなり近いぞ。
こんなに張り詰めた空気の中で、能天気なヤツだな……。
「ガハハハハハハハ!」
「あ、あの……」
「ガハハハハハハハハハハ!」
「うるせぇな!」
思わず本性が出てしまった。
だって、うるさいんだもん。
耳元でこんなにデカい笑い声を聞いたら鼓膜が破れるだろ。
「来たか。ヴァイスベルク。
間に合ってよかった」
「うむ。仕方なく応援に来てやったのだ。
感謝してもし足りんだろう?」
「ああ。助かる」
誰だ、この人。
少なくとも、アルスでは見たことがない。
紫色の肌に、短く、散らばった黒い髪の毛。
……え?
紫色の肌?
「あの、この方は?」
「フェルゼン皇国からの応援だ。
名を、ヴァイスベルク。見ての通り、魔族だ」
やっぱり、魔族だったか。
俺の知識では、魔族は人族と仲が悪いはずだが。
それも、フェルゼン皇国からの応援だって?
ちょっと、情報量が多いな。
「私はこの討伐作戦が決まってから、フェルゼン皇国に救援要請をしておいた。
後ろを見てみろ」
そう言われて、俺は後ろを見る。
すると――、
「――あんなに、来てくださったんですか?」
ラヴァニア王国の騎士団とは違った鎧を身にまとった騎士たちが、
俺たちの後に続いていた。
はるか後ろの方まで、ずっと地竜がついてきている。
「私が水面下で動いていた理由は、
他国からの救援が来るという期待が、卿らの気を緩ませると判断したからだ」
俺たちは、セリスから救援が来ることを知らされていなかった。
それはきっと、騎士団のみんなも同じだろう。
確かに、俺たちの他にこんなに救援が来ると知っていれば、
自然と気が緩んでしまっていたかもしれない。
……なるほどな。
セリスは、かなりの策士だ。
さすがの騎士団長だな。
「あの赤髪の小娘にしろ、こんな子供を白龍討伐に参加させるとは……。
セリスよ、貴様の手腕も落ちたのではないか?」
「あの少女は上級剣士だ。
そしてこの少年は聖級魔術師だぞ。
あまり子供を甘く見るものではない」
「ガハハハ! その程度、吾輩の手にかかればデコピンで殺せるわ!」
あの、味方なんですよね、この人。
今のところ敵キャラなんですけど。
「おい、貴様。名は何という?」
「ベル・パノヴァです」
「そうか、ベル・パノヴァか。
吾輩はヴァイスベルク。フェルゼン皇国騎士団長だ。
足を引っ張るようなら、その場で殺してやってもいいぞ」
「ヴァイスベルク。意地が悪いぞ」
「ガハハハ! 冗談だぜ、兄弟。
こう見えても、吾輩は貴様らラヴァニア王国近衛騎士団の味方だ。
とって食ったりはしないから、安心するがいい」
「よ、よろしくお願いします……」
何だろう。
俺、すごくこの人が怖い。
魔族と話すのは初めてだからな。
……というか、この魔族は人間語がわかるのか。
魔人語を勉強してきた成果を見せるときが来たと思ったのに。
世の中には、他言語を話せる人が多すぎやしないか。
それとも、これは俺が出会う人だけなのか。
「辛気臭い顔をするな、ベル。
そんな今にも死にそうな顔をしていたら、本当に死んでしまうぞ」
「――」
「ほら、吾輩のようにドデカく笑うがいい! ガハハハハハ!」
「は、ははは……」
「うむ。それでよい」
これでいいのか。
自分でもわかるくらい引きつっていたと思うんだが。
そして、また高らかに笑いながら俺たちの前へ進んでいった。
すぐに、別の騎士の地竜と並走し始めた。
もしかして、元気づけるためにずっと一人で笑っていたのか。
そうだとしたら、案外悪いヤツじゃないのかもな。
出てくる冗談のスケールが大きすぎるだけで。
「こんばんはぁー!」
と、今度は左側から声が聞こえた。
元気のいい、小さな少女だ。
……いや、幼女か?
「セリスぅー! 久しぶりだなー!」
「ああ、久しいな。背は伸びたか?」
「んー、あんまわかんない!」
橙色の髪の毛を肩まで下ろした、セミロング。
ひと房だけ跳ねている癖毛がある。
可愛いな。
「こんばんは」
右側から、また幼女の声が聞こえた。
右から左から、忙しいな。
「こんばんは。あなたたちもフェルゼン皇国からの援軍ですか?」
「そう。あの子は、ミア。私は、ムイ。よろしく」
ほう。
ビジュアル的に、双子だな。
橙髪に、青髪。
瞳はそれぞれ、琥珀色と青灰色。
どちらの耳も、先が尖っていて少し長い。
ハーフエルフだろうか。
かわいらしい双子だ。
「よろしくお願いします。僕はベル・パノヴァです」
「――よろよろ、ベルっち!」
「おわっ!?」
いきなり、ミアに背中を強く叩かれた。
その反動で地竜から落ちそうになった。
時速50キロで進んでる地竜を、片手で操縦しているとは。
ただの幼女ではないな。
「ベル・パノヴァ。この二人はこう見えて、フェルゼン皇国最高戦力の一角を担っている。
フェルゼンの中で、ヴァイスベルクの次に強い」
「えっ、この子たちが?」
「せやでい。あんま舐めてもらっちゃぁ困るぞぉ?」
まだ立っているところを見ていないからわからないが、
下手をすれば俺よりも年下だ。
それで、国の最高戦力だって?
将来有望なんてレベルじゃないぞ。
あの魔族が最強なのは想像がつくが、
この双子がそんなに強いとは思えないぞ。
「ミアとムイは、私のように剣術を使えなければ、
卿のように魔術に長けているわけでもない」
「では、どうやって戦うんですか?」
「ミアは、バーンって地面蹴って、もっかい空中で蹴って、そんでそんまま下に落ちる!」
「お、おお……!」
と、驚いたような反応をしてみた者の。
わ、わからんぞ。
頑張って説明してくれたから汲み取ってやりたいが、ちょっと限界がある。
「ミアは、戦場を自在に駆け回る。
地面はもちろんのこと、この子にとっては空さえも自分のフィールドにしてしまう。
ムイは、自身の重さを自由に調整することができる。
風船のように軽くしたり、錘のように重くすることも可能だ」
「……」
「エッヘン!」
なんだそのチート技は!
そりゃ最高戦力に数えられるわけだ。
こんなに小さいのに、立派なこった。
「ヴァイスベルク、そしてこの双子以外にも、
フェルゼン皇国の精鋭たちが集った。
だから、そんな顔をするな」
「……」
「心強い仲間が、此度の討伐作戦に参加している。
ベル・パノヴァ。――卿は、一人ではないのだ」
「……そう、ですね」
どうしても、不安だ。
ヴァイスベルクが元気づけてくれても、
やはりどこか、失敗したときのことを考えてしまう。
俺の悪い癖なんだ。
常に最悪の事態を想定してしまう、この癖。
「ベルっち、だいじょーぶ!
ミアとムイがついてるし、だんちょーもいるでしょ?」
「……はい」
「絶対だいじょーぶ!
もし負けたら、裸で逆立ちして、クレメンタル街道往復する!」
そりゃまずい。
絶対に負けるわけにはいかなくなった。
幼女の裸なんて、変なオジさんは大好きなんだから。
いくら人通りの少ない街道とはいえ、それだけは阻止しなければ。
「ミア、それはダメ」
「もちろんムイも一緒だぞ!」
「い、嫌だ……。絶対負けない……」
どんな理由であれ、俺たちは負けるわけにはいかない。
俺たちの旅を続けるため、
ラヴァニア王国とフェルゼン皇国の未来を守るため、
そして、散っていった数多の命のため。
――――絶対に、白龍を倒す。
---
出発してから、二時間ほどが経った。
エルシアによれば、この辺りで白龍が出現したらしい。
そのため地竜たちは、ゆったりとしたスピードで進んでいる。
「見ろ、ベル・パノヴァ。――白龍の痕跡だ」
セリスの視線の先。
そこには、凍り付いた地面があった。
草花は、白龍の冷気によってカチコチに凍っている。
地竜が一歩進むたび、ザクザクという音が聞こえる。
「――セリス! こっち!」
少し離れたところから、エルシアの呼ぶ声が聞こえた。
セリスは地竜の手綱を動かし、声の方へ歩き出す。
「……これは」
落ちていたのは、黒いマント。
これは恐らく、
「デュランの、マントだよ」
ベルは、その言葉を聞いて言葉を失う。
マントだけが残ってて、白龍の姿は見えない。
これは、もはや決まったようなものだろう。
デュランは、もう――、
「――――――ッッッ!!!!」
マントに目が釘付けになっていた、次の瞬間だった。
上空に、巨大な影が現れた。
もう嫌になるくらい聞いた、甲高い咆哮。
「――」
その場に居る全員が、一斉に上を見る。
「――出たな」
セリスは地竜を止めて、飛び降りた。
「怯むな! 恐れるな!
仲間を信じ、自分を信じろ!」
セリスは剣を抜き、振りかぶった。
力強く地面を踏みしめ、また一段と低く構え――、
「――――私に、続けぇぇぇぇぇぇぇ!!」
雄叫びを上げながら、その剣を振り抜いた。
紫紺の斬撃が、白龍の体に糸を引くように一直線に飛んで行った。
その斬撃を見届ける間もないまま、討伐隊が共鳴するように叫んだ。
その声たちは一丸となって、クレメンタル街道に轟いた。
「――――――――!!」
それと同時に、白龍の悲鳴が響き渡った。
触発されるように土埃が立ち昇り、
地竜に乗った討伐隊たちが一斉に突撃する。
そこには、エルシアやエリーゼ、そしてランスロットもいる。
「はァァァッ!」
ランスロットが飛び上がり、白龍の体に槍を振るう。
そのとんでもない跳躍力に、全員が目を見張る。
しかしその中で、高らかに笑いながらランスロットに続く者が一人。
「ガハハハハハ! 竜人の男よ、やるではないか!
このヴァイスベルク様が褒めてやろう!」
ヴァイスベルクが、ランスロットに続いて飛び上がる。
そして、白龍の巨躯に拳を振り上げた。
――かつて壮絶な争いを繰り広げた三つの種族の、共演である。
「照明発炎柱、展開!」
その様子を不安げな顔で見つめるベルの横で、セリスが再び声を放った。
セリスの声で、俺たちの後方にいた数十人の騎士たちが何かを展開した。
地面に突き刺し、何かを唱える。
すると間もなく、太い炎の柱が空に向かって伸びて行った。
そして、
「……雪雲が、晴れた?」
雪雲が、炎柱に向かって渦を巻くように広がった。
そして、雪雲は完全に消え去り、再び星と月の煌めく夜空が顔をのぞかせた。
――ちゃんと、考えられている。
ベルは、頭の中でそう呟いた。
白龍と戦う上で何よりの弊害になるのは、間違いなくあの分厚い雪雲だ。
月明かりすら遮るため、本物の暗闇の中で戦うことになる。
そこでセリスは、『照明発炎柱』という魔道具を用いたのだ。
地面に突き刺して特定の詠唱をし、魔力を注ぐだけで、
巨大な炎の柱を展開することができる。
それを何本も使用することで、雪雲を払えると考えた。
見事に、その考えは功を奏したのだ。
月明かりどころか太陽が出ているのかと錯覚するほどの明るさ。
発炎柱の光は、世界を鮮明に浮かび上がらせている。
――つまり、それは同時に、
「あれが……!」
――初めて、その全貌を知らしめることに他ならない。
全長三十メートルはあろうかというその巨躯。
翼を動かさずして、その場にホバリングしている。
まるで地上でこちらを見る討伐隊を嘲笑うかのように、
高々と見下ろしている。
ベルは地竜を飛び降り、セリスと入れ替わる。
セリスはベルに拳を突き出し、ベルはそれに応える。
拳と拳がぶつかり合う感覚を味わう暇もなく、ベルは討伐隊の後方へと走り出す。
ベルが足を止めたのを確認して、セリスは後方の部隊に叫んだ。
「――魔術師団、放て!」
魔術師団が、一斉に杖を構えた。
杖先を白龍に向け、各々が詠唱する。
そして赤青様々な光が灯り、
杖先から幾筋もの光が放たれた。
「――――ッ!」
悲鳴とともに、白龍の胴体から赤黒い血液が滝のように落ちる。
確実に、効果はある。
ダメージは、入っているのだ。
「『蒼龍の嘶き』!」
前衛で双剣を抜き、白龍の下っ腹目がけて剣を振り抜く。
龍の咆哮のような音がした後、エルシアの剣から翠色の閃光が放たれた。
白龍はまた悲鳴をあげて、翼をバタバタと動かす。
「飛ばされるな! 武器を地面に刺せ!」
セリスの叫ぶような指示で、騎士たちはそれぞれの武器を地面に突き刺す。
白龍の翼がはためき、凍り付くような冷たい突風が吹き荒れる。
白龍は高度を上げ、恐ろしい顔を前衛たちへ向けた。
そして――、
「――――ッッッ!!!!」
吸い込まれてしまいそうなほど大きな口を開き、強烈なブレスを吐いた。
「――『嵐哭一閃』!」
セリスが剣を振り抜くと、そのブレスは真っ二つに両断された。
そしてそのブレスがまとっていた冷気で、地面が凍り付いた。
が、前衛は何とか冷気をまともに浴びることなく、窮地を切り抜けた。
「傷を負った者は直ちに下がれ!
治癒術師は早急に治療をするのだ!」
ヴァイスベルクの叫ぶ声が、白龍の咆哮に割って入る。
数人の剣士が一時後方へ撤退し、治癒術師が治療をする。
そして再び立ち上がり、前線へと復帰した。
「魔術師団!」
ベルたち後方部隊はもう一度、杖を構えて魔術を唱える。
白龍はそれを一瞥し、また大きく口を開いた。
「警戒しろ――――!」
「ぐあぁぁぁあ!」
セリスの叫びが届くよりも前に、何かが数人の魔術師の体を貫いた。
「鱗……!?」
刺さっているのは、白龍の鱗だった。
倒れた魔術師の傷口からは血が滲み、呻き声をあげている。
「癒しの光よ――」
「貴様は戦闘に集中しろ!
それは貴様の仕事ではない!」
「――っ。はい!」
治癒魔術をかけようとしたベルの詠唱を、ヴァイスベルクの声が中断させた。
ベルはハッとして顔を上げ、
「『フレイムブラスト』!」
杖を手に取り、白龍へ魔術を放った。
「――――!」
しかしそれは白龍に届くことなく、
白龍の翼によって巻き起こった冷たい風によってかき消されてしまった。
「余所見を、するなぁッ!」
青筋の浮かんだセリスは、力いっぱいに剣を振る。
濃紫の閃光が白龍の横腹を切り裂き、大量の血が流れ出た。
「よぉし! ムイ、そろそろ行くぞい!」
「はいさー」
どこから現れたのか、双子の幼女が戦場を駆け回る。
正確には、ミアが素早く、ムイはそれをしっかりと凝視するように走っている。
「ムイ、頼んだ!」
「あいよぉ」
ミアの呼びかけに応じ、ムイはミアの小さな体に向けて両手のひらを向ける。
「――『フェザー・リフト』」
そして小さく、そう唱えた。
すると、ミアの体はまるで重力を忘れたかのように天高く舞い上がり、
瞬く間に白龍の体の真上まで到達した。
「うわーっ! デッカイな!」
目を見開いてそう叫んだミアの声は、もはや地上に届いてはいない。
しかし、ミアは目を閉じ、ゆっくりと頷く。
――――途端、ミアの体は白龍に向かって急降下を始めた。
「食らえ、デカブツ! とりゃー!」
可愛らしいかけ声とともに、ミアは足を高く上げた。
そして、白龍の体への接触と同時に、上げた足を真っ直ぐに振り下ろした。
「――!」
地上の討伐隊は、たまらず耳を塞ぐ。
ミアが踵から鋭い蹴りをお見舞いした瞬間、
凄まじい衝撃波が辺り一帯に広がった。
耳を塞がなければ、とうに鼓膜は使い物にならなくなっていたことだろう。
「これだけやれば、かなりのダメージが入ったんじゃないかな――」
エルシアが足を止めてそう呟いた直後。
「――ぁ」
――――クレメンタル街道を、霧が覆った。
---
繰り返し訂正するが、これは霧ではない。
白龍の体から放出された、凍てつくほど冷たい空気だ。
「ふっ!」
エルシアが剣を一振り、二振り。
周辺の冷たい霧は晴れたものの、またすぐに視界を覆われた。
「絶対にこの霧を吸っちゃダメです!」
ベルは腹の底から声を張り上げる。
彼の経験が、自然と声帯を震わせた。
――霧を吸い込めば、肺が凍る。
身をもって体感した、血がこみあげてくるあの感覚。
あの時は、吸ったのはベルだけで済んだ。
だが――、
「――ゲホッ!」
「ゴフッ……!」
そんなことは、初見の者たちにわかるはずがない。
ベルの叫びを聞いてとっさに呼吸を止めても、もう遅い。
咳き込む声、ビシャッと血を吐き出す音が、あちらこちらから聞こえる。
ベルは曇った視界の中で、グッと拳を握りしめる。
――あらかじめ、情報を共有しておくべきだった。
なんて、後悔をしても今更遅い。
「――あぁぁぁぁぁぁぁ!」
「――ぐあぁぁっ!」
唇を噛むベルの耳に、今度は悲鳴が聞こえ始めた。
白龍のものではなく、明確に人のものだとわかる。
――肉が裂ける音。
――殴るような、鈍い音。
加えて、人の悲鳴。
「何が……起きてんだよ」
握りしめた拳から、力が抜けていく。
自分の震える声が、さらに自分の精神を蝕んでいく。
「――!」
ベルの記憶の中から、ふとある出来事が蘇った。
――初めて白龍と遭遇した、あの日。
今と同じように白龍の霧に視界が覆われて、それをエルシアが風剣術で払った。
そして、ベルの『ヴァルクルス・ヴォルト』がまったく効かなかったことを受け、
エリーゼが闇雲に剣を振り回しながら、白龍へ突っ込んでいった。
ベルは当時、絶望感から狂ってしまったのだとばかり思っていた。
しかし、その考えはどうやら間違っていたらしい。
――確かに、エリーゼは霧を吸い込んでいた。
「あああ! あひゃああああああ!」
「落ち着いてください! それ以上自分を傷つけるのはダメです――ぐっ!」
自らの顔を爪で引っ掻きむしる男の手を抑えたベルは、
暴れ回る男の足で蹴り飛ばされた。
その男も、口から血を吐いた痕がある。
間違いない。
――――霧を吸い込めば、精神が侵される。
「ベル! どこ!?」
「エルシア! ここです!」
エルシアの声が聞こえ、ベルは必死に自分の居場所を知らせる。
霧の中から人影が近づいてきて、それが見慣れたシルエットであることに安堵を覚える。
そしてその影は、一つではない。
「……っ?」
もう一つの影は、エルシアの隣でも、後ろでもない。
――その腕に、また見慣れた形の影が抱かれている。
「――エリーゼ!?」
ぐったりと倒れ伏した血まみれのエリーゼを、
泣きそうな顔でエルシアが抱きかかえていた。
「何が、あったんですか……?」
「突然、騎士が斬りかかってきて……。
わたしを庇って、エリーゼが斬られたの……!」
「――!」
ベルは、行き場のない怒りを覚える。
斬りかかった騎士に怒りの矛先は向けられないし、
気を抜いたエルシアに対してぶつけるわけにもいかない。
――否、怒りの対象ははっきりとしているではないか。
「…………クソ、魔獣がぁぁぁぁぁ!」
ベルの咆哮と共鳴するように、白龍の哄笑が響き渡る。
「今はエリーゼを治療するのが最優先だよ!
何があってもわたしが守るから、安心して治療して!」
「……はい!」
我に返ったベルは、地面に横たわるエリーゼに手をかざす。
傷は、腹部。
一刻の猶予もないだろう。
「べ、ぅ……」
「……『エクストラ・ヒール』」
長い詠唱を終え、緑色の光がエリーゼの患部を包み込む。
あっという間に傷は塞がり、エリーゼの表情も段々と柔らかくなってきた。
「……終わりました」
「あり、がと……ゲホッ」
エリーゼはゆっくりと体を起こし、ベルにもたれかかる。
「悪いわね……迷惑かけちゃったわ」
「……っ」
「大丈夫」「どういたしまして」の言葉すら出せないほど、ベルは動揺していた。
あともう少し遅れていたら、エリーゼは死んでいたかもしれない。
そんな可能性がわずかでも存在していたことに、恐怖を感じたのだ。
「何が……起きてるのよ」
「恐らく、霧を吸い込んだら脳に直接干渉されるんです。
僕やエルシアみたいに、なんともない人もいるみたいですが」
と言いつつも、ベルは口を腕で覆う。
精神までは侵されないものの、吸い込んでしまったら肺が凍る。
エリーゼを治療している間ですら、気道が冷たくなる感覚があった。
「『久遠の乱風』!」
エルシアの声とともに、突風が吹き荒れる。
一瞬晴れた視界を、霧が補充するようにして覆った。
「――ッ」
理由もなく一点を見つめるベルの隣から、地竜の鳴き声が聞こえた。
先ほどまで乗っていた、セリスの愛竜だ。
「――」
ベルは顔を上げ、何かを決心したような声で、
「……エルシア。地竜に乗せてください」
「え?」
「僕を持ち上げて、地竜に乗せてください」
エルシアに、そう頼んだ。
呆気にとられたような顔をするエルシアを、ベルは真っ直ぐに見つめる。
「何を、するつもりなの?」
「そうですね。――ギャンブルです」
「ギャンブル?」
「僕が地竜を操縦して、白龍に突撃します」
「正気なの? あんた、地竜を操縦したことなんか……」
「ありませんよ。でも――」
今度はエリーゼに視線を向け、
「――ここで誰かが動かなければ、全滅します」
「――」
そう、言い放った。
討伐隊を率いているセリスやヴァイスベルクの声さえ聞こえない。
こういうときにリーダーがお手上げ状態では、誰にどうすることもできない。
二人のリーダーが、どうなっているのかはわからない。
周りの者のように錯乱しているのか、
必死に打開策を模索しているのか。
だがこういうときには、考えるよりも動くのが大切だ。
ベルは、そうやって生きてきたのだから。
「わかった。でも、無理だけはしちゃダメだよ」
「すみませんが、無理はしますよ。
なにせ、初めて地竜を操縦するんですから」
「わたしが操縦して、後ろにベルを乗せるっていうのは?」
「いえ。それでは、エルシアが気になって集中できないので」
「……そっか」
エルシアは軽く微笑んだ後、ベルの体を持ち上げた。
そして、地竜の上に乗せた。
ベルはエルシアにお礼を言って、手綱を握る。
「では、行ってきます」
「うん。信じてるよ」
ベルは姿勢を低くして、地竜の腹を軽く蹴る。
寸前で、
「……ベル」
「はい」
「――死なないでね」
エリーゼの震える声に、ベルの体が一瞬固まる。
死ぬリスクは、十分にある。
そして、ベルの思惑が必ずしもいい方向に働くとは限らない。
ベル自身、不安は拭いきれない。
だが――、
「――死んで、たまりますか」
ベルはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、エリーゼを見る。
もう、後戻りはできない。
ベルは手綱を強く引き、地竜を歩かせる。
そして徐々に前後に動かし、スピードを上げる。
後ろへ持っていかれそうになる体を必死に固定し、
冷たい霧の中を突き進む。
「――がっ!」
「あぁぁぁぁぁぁぁ!」
四方八方から、阿鼻叫喚の声が聞こえる。
ベルは目を伏せ、そして前を見据える。
風に乗り、地竜は最高速度に達する。
ベルは背中から杖を抜き、空に掲げた。
「黄昏を裂く稲妻よ――全てを切り裂け!」
ベルは、賭けに出た。
唱えたのは、ベルが唯一使える聖級魔術。
師匠から教わった、努力の賜物である。
その詠唱を――、
「――――『ヴァルクルス・ヴォルト』!」
ベルは、短縮した。
詠唱を、端折ったのだ。
長い詠唱をしている余裕はない。
だから、ベルは詠唱を短縮するという無謀な賭けに出た。
この世界において、詠唱を短縮して使える者は極めて少ない。
生まれながらにして魔術の才に愛されている人間にしか、
それは不可能であろう。
特級魔術師であるロトアでさえも、詠唱を端折るなどということはやったことがない。
成功すれば、状況は好転するかもしれない。
だが失敗すれば、いよいよ手詰まりだ。
祈るような視線を上空、曇った空気に向ける。
その瞬間、
「――――――――ッ!!!!!」
雷鳴と共に、暴風がうなりを上げる。
ベルは地竜を止め、踏ん張らせる。
――雷鳴。
そう、雷鳴だ。
「……!」
霧が、晴れていく。
上空に、再び巨大な影が映った。
――ベルは、賭けに勝ったのだ。
爆発しそうな感情を抑えて、地竜の手綱を引く。
振り返ると、取っ組み合いをしていた騎士たちが自我を取り戻していた。
「――よくやった、ベル・パノヴァ!」
セリスの凛々しい声が響き、騎士たちは立ち上がった。
「無事な者は剣を取れ!
まだまだ、我らの戦いは終わらない!!」
「うおおおおおおおお!」
――――まだまだ、討伐戦は終わらない。




