第十九話「いざ、デュシス大陸へ」
ラゾンに滞在し始めて、二週間。
生活はかなり順調だ。
最初の一週間は、シャルロッテが連勤地獄を味わっていた。
連勤最終日、彼女は「もう二度とお金は使いません」と言って倒れた。
今後のことを考えれば必要な出費だったため仕方ないが、
取り決めは取り決めですからね。
せっかく二か月もの長い時間があるため、俺は勉強に再着手することにした。
まだ完璧ではない竜人語に加え、獣人語の勉強。
言うなればアラビア語と中国語を同時に勉強しているようなものだ。
だから、かなり頭が混乱してしまう。
幸い、竜人語は人と会話できる程度には理解できるから、何とか続いているが。
獣人族の住む森はボレアス大陸の方にあるため使う機会があるかは分からないが、
勉強しておいて損はないだろう。
一方で、魔術の練習も怠ってはいない。
嫌でも二日に一回は使うが、それ以外の話だ。
連勤中のシャルロッテを連れ出すことは流石にしなかったが、
一人でも練習は欠かしたことはない。
休日でも平原に出て、シャルロッテから魔術を教わる。
中々上達はしないが、それでも着実に力はついてきているだろう。
今のところは、魔力最大量の限界は見えてこない。
せめて聖級魔術くらいは使えるようになりたいな。
もちろん、そう簡単にはいかないが。
それと、欲しい杖に目星が付いた。
白金銭12枚。
分かりやすく言えば12000円の杖だ。
シャルロッテが買った杖は白金銭20枚の杖。
俺が狙っている杖と比べると二倍近い値段だが、
それでも俺の目当ての杖は十分高い。
どうやらあの店の店主は俺のことを覚えていてくれたらしく、
その杖を俺のためにセーブしてくれた。
気前のいいおっちゃんはいいね。
とはいえ、白金銭12枚なんてそんなにすぐ貯まるものじゃない。
まず、シャルロッテは俺達の資金のうちの3分の1ほどを使った。
現状、船に乗るためのお金は足りていない。
そう、先日の誘拐事件の解決で貰った褒賞金をかなり使ったのだ。
だから、今はそっちを優先してお金を貯めている。
今、俺の所持金と言えるお金は白金銭換算で2枚。
あと一カ月と少しで目標金額に到達できるのかはまあまあ怪しい。
最悪買えなくてもどうってことはないが、
せっかく杖をセーブしてくれた店主に申し訳ないというか。
だから、仕事を頑張って何とかあの杖を買いたい。
俺のためにも、あのおっちゃんのためにもな。
「ねえベル、これ何て読むの?」
「これは、『さかな』です」
「分かった! ありがと!」
最近、エリーゼも竜人語に興味を持ち始めた。
度々俺に読み方や書き方を聞きに来る。
あんなに言語学習が嫌いだったのに。
大嵐が来て出航が延びそうだな。
ランスロットとシャルロッテは俺達のために、人間語を話してくれている。
シャルロッテは昔から人族の言葉に興味があったため、勉強していたらしい。
魔術も学んで、他の種族の言語まで学ぶとは。
そういう点から見ても、シャルロッテはかなりの勤勉だ。
かなり、俺と似通う部分がある気がする。
小さな頃から色々なことに興味を持って学ぼうとする姿勢というか。
「ベル、エリーゼ。朝ごはんですよ」
「はい」
早起きをすることも、最近心がけていることの一つだ。
早起きをすることで、一日の活動時間が増える。
それに、気持ちよく一日をスタートできるからな。
ちなみに、今日は寝坊した。
「稼ぎは順調だ。
運よく報酬の高い依頼ばかりを拾えているから、金の貯まりも早いな」
「今はどのくらいなんですか?」
「シャルロッテが使った金の半分ほどは回収できた。
何もなければ、問題なく大陸を渡れるだろう」
良かった。
と心の中で呟く俺の隣で、シャルロッテもホッとため息をついた。
自分のせいで間に合わないなんてことになったら本人は相当気負うだろうな。
別に少し遅れるくらいならいいんだが。
デュシス大陸行の船は一か月半後に出航する船だけではないんだし。
「今日は、私とベルの日ですね」
「はい。頑張りましょう」
今日の当番は俺とシャルロッテだ。
最初は冒険者活動が楽しくて仕方がなかったが、
最近はもう最早楽しくなくなってきている。
なにせ、今の冒険者活動には働く「義務」が発生しているからな。
それでもやらなきゃいけないんだが。
社会人ってきっとこんな感じだったんだろうな。
戦闘能力の向上、それに魔術の勉強にはもってこいの場ではある。
この辺りに出る魔物は比較的弱いし、油断しなければ難なく撃破できる魔物ばかりだ。
油断しなければ、だ。
そういえば、以前シャルロッテと共に魔物狩りに行った時、死ぬような体験をした。
シャルロッテと談笑をしながら現場に向かっている道中、
大きな鳥の魔物と遭遇した。
俺とシャルロッテは魔術を駆使してその魔物を即座に撃破。
倒れた魔物の肉を剥ぎ取ろうとしたその時。
俺は横から出てきた別の鳥の魔物に気づかず、食われかけた。
食われかけたというのは、本当に文字通りだ。
大きな嘴に、俺の体の半分以上が食われていたのだ。
流石に死を覚悟したが、シャルロッテのスーパーカバーによって難を逃れた。
以降、俺はシャルロッテに様を付けて名前を呼ぶことにしたが、
「からかわないでください」と怒られてしまったためやめた。
命の恩人をからかうような真似をしたつもりはないんだけどな。
それに、俺に魔術を教えてくれている時点で、
俺の師匠的な存在でもあるわけで。
最近だと、エリーゼよりも一緒にいる時間が長いようにも感じる。
いや、エリーゼは寝る時に決まって俺の隣に来るからそんなことはないか。
でも、実際に活動している時間に限ればシャルロッテの方が長いかもしれない。
二週間もペアで仕事をすれば、まあそうなるか。
今日も一日、頑張っていこう。
---
一か月が経った。
もういっそ、この町に住みたい。
そう思えるくらい、ラゾンはいい町だ。
人々は温かく、食べ物もすごく美味しい。
特に、海産物。
異世界にしては珍しく、「刺身」が存在する。
この町では肉よりも魚の方が食べられているらしい。
普通、魚ばかり食べていては肉が恋しくなるものだろう。
だが、ラゾンの海産物は肉の味を忘れてしまうほどに絶品だ。
子供の頃からずっと刺身が好きだったから、
好きなだけ食べられるというのはこの上ない幸せだ。
今も子供であるという事実には触れないでおこう。
エリーゼは王族であるのにも関わらず、
刺身を口にしたことがなかったらしい。
初めて刺身を食べた時、
エリーゼは「ほっぺたが痛いわ!」と言いながら美味しそうに頬張っていた。
きっと、渡った先の港町でも魚は食べられるだろう。
天大陸とデュシス大陸でどう違うのかが楽しみだ。
「ベル」
「どうしました? ランスロットさん」
「少し、話がある」
「話?」
「ああ。大事な話だ」
妙に改まっているな。
もしかして、金を全部使ってしまったから船に乗れない、とか言い出すんじゃなかろうな。
頼りにはなるが、たまにやらかすイメージがある。
リザードランナーの時がその代表例だ。
ランスロットは俺を宿から連れ出し、
柔らかな顔で「少し町を歩こう」と言った。
エリーゼやシャルロッテには何も言ってないが、大丈夫なのだろうか。
外はもうすっかり暗く、
町に出ていた店は続々と店じまいをしている。
今日は休みだったが、一日があっという間だったな。
俺達は綺麗な喫茶店に入り、腰を下ろした。
「それで、話って何ですか?」
「あまり、動揺せずに聞いて欲しいのだが」
何やらただごとじゃなさそうな雰囲気なんだが……
せっかく順調にここまで過ごせているんだからやめてくれよ?
「先日の誘拐事件のことだ」
「それがどうかしたんですか?」
「お前を見つけた後に少女たちを助けに地下には入った時、
二人の男の死体が入り口に転がっていた。
あれは、お前がやったのだな?」
「……」
そのことか……。
動揺するなって方が無理だろう。
俺は確かに、あの二人の男の命を奪った。
どんな理由であれ、殺害は殺害だ。
自分でも、目が泳いでいるのが分かる。
やっぱり、殺しは罪に問われるのだろうか。
ランスロットは真剣な眼差しで、俺の目を真っ直ぐに見つめる。
俺の返答をじっと待つかのように。
「……はい」
俺はランスロットの顔を見ず、目線を逸らしながら頷いた。
思えば、俺は人を殺したということを誰にも言っていなかった。
いや、「俺は人を殺したぞ」なんて喧伝するなんてことは誰もしないだろうが。
「どうだった?」
「どうって……どういうことですか」
「人の命を奪ったという事実を、お前はどう捉える」
「……怖くて、たまらなかったです」
震える手を抑えるようにして、魔術を放った。
反撃の余地を与えることなく、呆気なく男たちの命は散った。
人の命というものは、こうも簡単に奪えてしまうのだと。
そう思うと、怖くてたまらなかった。
「ベル。俺は怒っているわけではない。
ただ、お前の精神が心配で、お前に声をかけた。
もう少し早くこうして話ができればよかったのだが……。
お互いに色々と忙しかったからな」
「そう、ですね」
俺も、ランスロットが怒っているようには見えなかった。
宿を出る時の顔を見れば、それくらいはわかる。
「俺達には明るく振舞っているが、
本当はあの時のことを一人で抱え込んでいるのではないかと思ったのだ。
大陸を渡る前に、話ができてよかった」
「気遣ってくれてありがとうございます。
ですが、もう大丈夫ですよ」
「それなら、良かった。
ならば、俺から一つだけ伝えさせてほしい」
ランスロットは俺に向き直った。
「お前がやったことは、何も間違いではない」
「――」
「奴らは、死んで当然の人間だ。
逆にお前は、生きていなければならない人間だ。
だからお前がやったのは、必要な殺しだったのだ。
たくさんの命を背負って戦ったお前に、奴らは殺されて当然だった。
何も、気にすることはない」
ランスロットの言葉が、今は何故か心に刺さる。
そうか。
俺は何も、間違っていなかったんだ。
「これからも、お前は同じような局面に出くわすことがあるかもしれない。
その時は、殺しも厭うな」
「……」
「必要だと思ったのなら、迷わず動け。
お前が死んでからでは、遅い」
「……はい」
「殺しが絶対悪だと思うな。
時には、それが正義となり得ることもある」
ランスロットは低い声で、しかししっかりと優しさも伝わる声色で、そう言った。
そして、
「お前がやった殺害は、正しかった」
ランスロットは右腕をゆっくりと天井に掲げた。
そしてまたゆっくりと、俺の頭にポンと優しく置いた。
「お前は偉い子だ、ベル」
心を縛り付けていた鎖が断ち切られたかのように、
俺は体がふわっと軽くなった気がした。
その後しばらく、俺はランスロットにされるがままに撫でられていた。
……喫茶店でやるには、ちょっと物騒すぎる話だったかもしれないが。
---
「ついに……」
ようやく、その時がやって来た。
港町ラゾンに来て、あっという間に二か月。
そうだ。
俺達は今日、天大陸を旅立つ。
長いようで、短かった。
冒険者パーティ『碧き雷光』は、天大陸でそれはもう輝かしい功績を残した。
何と、俺達は月間の皆勤賞を二度も獲得してしまった。
あまりパーティランクとか気にしないが、A級も見えてくるほどらしい。
目前というわけではないものの、狙える位置にいるとのことだ。
デュシス大陸に渡っても、金は必要になる。
ラニカ村に帰るまで、冒険者を完全に引退するということはなさそう。
冒険者という職業は、かなり大変でシビアな世界だ。
その中でS級パーティなんかになる奴らは、きっと底知れぬ努力をしているに違いない。
俺はそこまで本気で冒険者になりたいとは思わず、あくまで金稼ぎが目的だからな。
なんてことをプロの冒険者の前で口走ったら、無事じゃ済まなさそうだが。
「これが、俺達が乗る船だ」
「おっきいわね!」
すげぇ……。
すげぇ!
まるで木造の豪華客船じゃないか。
そりゃ白金銭50枚も必要なはずだ。
正直大陸を渡れるならどんな船でもよかったんだがな。
でも、せっかくこんなに良さそうな船に乗れるんだ。
喜ぶべきだろう。
「お前達、船酔いは大丈夫か?」
「船には乗ったことないけど、このあたしが船酔いなんてするわけないわ!」
「僕も乗ったことがないので分かりません」
「以前船に乗った時、私は平気でしたよ」
俺は確信した。
エリーゼは確実に酔うと。
いや、この世界にはフラグがあまり通用しないからまだ分からないな。
俺も船酔いに耐えられる自身はあまりない。
最悪、平気だと言っているシャルロッテかランスロットに介抱してもらおう。
シャルロッテの膝枕は気持ちよかったから、わざと酔ったふりしようかな。
「忘れ物はないか?」
「ないわ」
「大丈夫です」
「私も大丈夫です」
「ベルは、杖を持ったか?」
「はい、ここにしまってあります」
俺は懐に手を伸ばした。
俺の手には、一本の杖。
赤い魔石が埋め込まれた、綺麗な漆黒の杖。
見ていて惚れ惚れするほどに美しい。
俺はつい三日前、念願の杖を手に入れた。
冒険者として仕事をしながらコツコツとお金を貯めた末、ようやく買えた。
最初から決めていた、あの杖。
自分で努力して稼いだ金でモノを買うという喜びを知った。
早くこいつの威力を試したやりたいぜ。
まだこれを使って戦ったことはないのだ。
杖を買ったのは三日前。
その時には既に、出発の準備の関係で冒険者活動を中断していた。
初めての愛杖との戦闘はお預けもお預けだ。
なにせ、デュシス大陸までは一か月かかるからな。
「さて、乗るぞ」
ランスロットは振り返りもせず、船の乗り口へ歩き出した。
名残惜しさとかないのだろうか。
……100年以上もこの大陸で放浪してたんだから、もう愛着とかないのか。
俺は、結構寂しい。
普通なら一生来ることなんてなかったであろうこの大陸に転移して、
それから三か月もこの大陸で時を過ごしたのだ。
自然と愛着もわく。
もう、今後一切ここに戻ってくることはないだろう。
そう思うと、やっぱり寂しい。
一生ここに住みたいなんて思ったことはない。
……嘘だ。あったわ。
で、でも、ラニカ村が一番いいところだということに変わりはない。
だから、一日でも早く故郷に戻って、ルドルフとロトアを探さなければならない。
酸いも甘いも、ここでたくさんの経験をした。
その経験は、今後この世界で生きていく上できっと役に立つ時が来るはずだ。
またいつか、来れるだろう。
――――さようなら、天大陸。
三十分もしないうちに、船は出航した。
「わっはぁぁぁ! 海! 海よ!」
「海なら毎日のように見てたじゃないですか」
「違うの! あれは海だけど、こっちは本物の海なの!」
偽物の海って何だろうか。
船に乗ったことがないエリーゼにとって、大海原は壮観だろう。
俺も、こんなに広い海を生で見た記憶はない。
感動すら覚える。
ちなみに、俺はランスロットに、エリーゼはシャルロッテに肩車をしてもらっている。
俺達の背丈では、一望するのは難しいのだ。
「綺麗ですね……」
「久しぶりにちゃんと海風に当たりました……」
「景色に浸るのもいいが、油断はするなよ」
「油断? 何が危険だって言うのよ?」
「一か月も乗っていれば、嵐に巻き込まれる可能性だってありますからね」
「それもそうだが、海にももちろん、出るところには魔物が出るぞ」
「わ、忘れてました……」
シャルロッテは分かりやすく落胆する。
そうか、すっかり忘れていた。
どうして海の上が安全だと思ったのだろうか。
海の魔物といえば、クラーケンやサーペントが代表例だな。
他にも、俺の知らない魔物がいそうだ。
船酔いでもして戦闘不能になったらどうしよう。
流石にゲロリながら戦うのは無理だぞ。
「すぐに戦いになったりしますかね?」
「この辺りには、まだ出ないだろう」
なら、もう少しこの景色を楽しめそうだ。
楽しめるうちに楽しんでおかなければ。
いつ、気分が悪くなるか分からないしな。
「わっ! 揺れてるわっ!
あはは!」
「暴れたら落ちちゃいますよ!」
エリーゼはシャルロッテの頭上でゆらゆらと体を揺らす。
実際に船は揺れたが、これはきっとわざとだろう。
落ちたらシャレにならないぞ、これ。
こんな沖合に身を投げ出してしまえば、まず助からないだろう。
奇跡的に生きていても、いずれ魔物が襲ってくる。
うお、今タマがヒュンってした。
「ご飯とかって、どうなるんですか?」
「お酒は飲めないのでしょうか……」
「大丈夫だ。一日三食、ちゃんと食べ物は出る。
あれだけ高い金を払ったのだ。
いいものが食べられるだろう」
「それ、本当でしょうね」
「ああ。170年の勘がそう言っている」
フラグにフラグを立てるな。
最低限食べられて、ある程度美味しかったら十分だ。
庶民の味でいいのよ。
これから、一か月という長い長い船旅が始まる。
デュシス大陸はどんなところなのだろうか。
今からワクワクが止まらないぜ。
うーむ、でも一か月も船に乗りっぱなしか。
マジでやることないな。
ラゾンにいる時は、暇になれば町へ遊びに出れば良かったが、ここは海のど真ん中だ。
この船の上で、何とか時間を潰すほかないのだ。
しかも、デュシス大陸がゴールではない。
デュシス大陸から、更に中央大陸に渡らなければならない。
気が遠くなる旅だな、全く。
「もうじき、昼食の時間だろう」
「海産物祭りですかね」
「私は魚が大好きなので困りませんけど」
「いい加減飽きそうだわ……」
大の刺身好きである俺でも、流石に海産物ばかりでは飽きる。
もう既に、ラゾンにいた時から飽きは来ていた。
「肉が恋しくなることはない」とか言ったが、
今俺はとても肉が恋しい。
ミノタウロスの肉が食べたい。
デュシス大陸に着いたら、まずは焼肉パーティーだな。
---
日はもう水平線に沈みつつある。
美しい茜空を眺めながら、他愛もない話をして笑い合う。
まるで青春のような、そんな時を過ごす。
……はずだったのだが。
「ヴォエエエエエエエエ!」
人生、そんなに上手くはいかない。
とはいっても、この声は俺のものではないが。
「大丈夫ですか? エリーゼ」
「ええ……だいじょうっ……オエッ」
昼食を食べてから少し経った頃。
エリーゼに異変が出始めた。
あんなに楽しそうにはしゃいでいたエリーゼは、
まるで人が変わってしまったかのように船の奥に引っ込んでしまった。
理由を聞いたところ、「気持ち悪いわ」と今にも出てしまいそうな声で訴えてきた。
そしてトイレに連れて行った途端、盛大に嘔吐したのだ。
もう、トイレと甲板を何往復もしている。
「無理せず休みましょう。
まだ船旅は長いですから」
「そうね……」
俺はエリーゼを連れて、再び甲板へ戻った。
それにしても、腹が減った。
昼食は、豪華とまではいかないながら、しっかり食べられた。
しっかり食べられたとはいっても、食事はなんとパンのみ。
そりゃ、乗客全員の一カ月分の食事なんて、そんなもんだよな。
ご馳走を期待するんじゃなかった。
船の奥からではあるが、見える景色はとても美しい。
海風に当たりながらたそがれたい。
今は動けないから、エリーゼが落ち着いたらもう一度甲板に出るか。
「『ヒール』」
「うーん……」
治癒魔法は、気休めにしかならない。
元来、治癒魔法は外傷を癒すもの。
病気などといった体の内部の異変を治すことはできない。
それでも、かけてもらうだけで少し違うらしい。
「どうですか? さっきよりはマシになりましたか?」
「……ええ」
エリーゼの額に手を当てながら、そう尋ねる。
俺も今のところは大丈夫だが、いつ船酔いに陥ってもおかしくない。
なんたって、一か月も船に揺られっぱなしだからな。
先ほどまでのエリーゼを見ていると、怖くてたまらない。
どうか船酔いだけはやめてください。
「……エリーゼ?」
肩に寄りかかっていたエリーゼは、俺の膝に頭をのせて体を横に倒した。
脂汗でエリーゼの体はベトベトだ。
不思議と嫌な感じはしない。
「……ごめんなさい」
「? 何がですか?」
「迷惑、かけてるから」
「……大丈夫ですよ。
シャルロッテ達に任せきりにするわけにはいきませんからね。
僕だって介抱くらいできます」
「そうじゃないわ」
「?」
介抱の件ならば、仕方のないことだ。
と思ったが、どうやら違うらしい。
何か迷惑をかけられるようなことをされたっけか。
「ベルはいつもあたしに優しくしてくれるのに、あたしはベルに酷いことを言ったり、したりするじゃない」
あぁ……なるほど。
確かに、俺からエリーゼに手を出したことはないけど、
エリーゼはよく俺を殴ったり、罵声を浴びせたりする。
大体俺が発端だったりするけど。
「こういう時にそばにいてくれるのに、あたしのせいで、いつかいなくなったりするんじゃないかって思うと、怖いの」
エリーゼは震える声でそう言った。
それは嘔吐感からなのか、はたまた……。
「僕は、いなくなったりしませんよ」
「……本当?」
「もちろんです」
「でも、いつも酷いことしてるのよ?」
「それも含めて、エリーゼという人間ですからね」
「……」
仰向けで俺の目を見るエリーゼの目が、僅かに揺らいだ。
「エリーゼ、僕は何とも思ってませんよ」
「なん、とも?」
「僕は、あなたが僕が嫌いであんなことをしているわけではないと知ってますから」
嫌いな人間とわざわざ関わりに行くような人間はまずいない。
そんなことをするってことは、もはや好きだろう。
エリーゼは、俺と一緒に居たがる時がある。
そこだけ見ても、俺に嫌悪感があるわけではないのは確かだ。
そりゃ、殴られたり蹴られたりした時は痛い。
少なくとも嬉しいなんてことはない。
「僕達は、家族のようなものです。
もう何年もずっと一緒にいるんです。
なので、エリーゼがどんな人間なのか、僕なりに理解したつもりです」
「……」
「ただでさえ、突然環境が変わってストレスが蓄積してるんです。
僕に気を遣うなんてことは、しなくていいんですよ」
「ベル……」
エリーゼは、声を震わせながら目に涙を浮かべた。
おいおい、らしくないぞ。
いつもの照れ隠しはどこにいったんだ。
「エリーゼは、エリーゼらしくいてください。
僕は、そんなエリーゼが好きなので。
急にいい子になられても、エリーゼらしさがなくなってしまっては嫌ですしね」
エリーゼは、俺の腹部に顔をうずめた。
くすぐったい。
「分かったわ。ありがとう」
俺の大好きなエリーゼは、そのままでいて欲しい。
よく汚い言葉で罵ったり、よく手足が出たりするけど、
たまに出るデレがとんでもなく可愛いのだ。
そのギャップが失われてしまうのは嫌だよ。
…………まあ、できれば暴力の頻度は減らしてくれるとありがたいかもだが。
---
出発して、丸一日経った。
昨晩は、波が荒かったためか船の揺れが激しく、あまり眠れなかった。
今は穏やかに前進しているため、エリーゼの調子も悪くはなさそうだ。
「あの、エリーゼ?」
「なによ」
「どうして僕の上に乗ってるんですか?」
「別にいいじゃない」
別にいいけどさ。
あまり動かないでいただけるとありがたい。
俺のアレがソレなことになったら言い訳ができない。
まだ9歳の俺のアレは小さな小さなものではあるが。
だとしても、エリーゼももう12歳。
小学六年生の歳なら、もうある程度のことは知っていてもおかしくない。
それに、少しづつ発育が進んでいるのだ。
日々鍛錬を積んできたエリーゼの体は、男ならば誰でも目を奪われるようなナイスバディになるだろう。
今でさえ、お尻がいい感じに仕上がってきている。
動かれたらまずいです。まずいですよ。
「エリーゼの体調が良さそうで何よりですね」
「船酔いしない人間はいいわね。
シャルロッテも味わってみるといいわ」
「遠慮しておきます。
昨日のエリーゼの姿を見て、つくづく私の体質に感謝しましたよ」
エリーゼは「なんですって」と言ってシャルロッテを睨む。
鋭い目つきに突き刺され、シャルロッテは少し驚いてみせた。
「今日から一週間は、波が安定するらしい」
「そうなんですか。
良かったですね、エリーゼ」
「その先はどうなのよ」
「大しけだ」
「またお願いするわ、ベル」
「へい……」
なら、この一週間を全力で楽しむしかないか。
楽しむと言っても、これと言ってやることはないが。
「にしても、退屈ですね」
「まだ二日目なのに、耐えられる気がしませんよ私」
「ならば、デュシス大陸の話をしよう」
お、興味深そうな話だ。
長い期間滞在することになるであろうデュシス大陸の情報は、知っておいた方がいいだろう。
地理や歴史は学生時代から好きだったし。
「ボレアス大陸に獣人の森があると言ったが、デュシス大陸にも、獣人がいる」
「え、そうなんですか?」
「そうですよ。
この世界には、二種類の獣人がいます。
一つは犬系、もう一つは猫系です」
何だ、それは。
性格の話か?
ツンデレか甘えん坊って話か?
「何が違うのよ?」
「単純に、犬に似ているか猫に似ているかの話だ。
あとは、性格の違いも顕著に表れている。
犬系は温厚、猫系は獰猛な奴が多い」
やっぱりそういうことだったのか。
思った通りだった。
「それで、デュシス大陸にいる獣人はどっちなんですか?」
「犬系だ」
お、これは嬉しいな。
個人的に、猫よりは犬の方が好きだ。
猫も可愛くてすごく好きだが、犬は特段に可愛い。
獣人の中にも、種類はあるのだろうか。
ポメラニアンとか、マンチカンとか。
犬で飼うならポメラニアンがいいな。
猫なら、そうだな……
「温厚な性格で知られている犬系獣人だが、過去に戦争が起こったことがある」
「戦争?」
「亜人戦争ですね」
物騒な世の中だな。
まあ、日本でも昔は戦争がしょっちゅう起こっていたから似たようなものか。
でも、亜人戦争なんて初めて聞いたな。
有名な戦争なら知ってるはずだが。
「人族が侵略しようとしたことがきっかけで、獣人達が猛反発したのだ。
そして、獣人の長が殺害されたことがきっかけで降伏し、終結した」
「激しい戦争だったんですか?」
「かなり大きな戦争に発展した。
だが、圧倒的な数と武力の差に、為す術なく敗戦した。
今は周辺国とは同盟を結んでいるから、睨み合いもなくなったがな」
「確か、戦争自体は半年も続かなかったんだったわよね?」
「え、エリーゼは知っているんですか?」
「当然じゃない。
仮にも一国の王女よ。
他の国のことを勉強するのは当たり前なの」
え……。
知らないの、俺だけ……?
おかしい。
有名な戦争なら、絶対知っているんだけどな。
俺の膝の上に乗っているエリーゼは、顔をこちらに向けてクスクスと笑っている。
こいつ……。
背後からくすぐってやろう。
――覚悟ォ!
「ちょっ、やんっ……!」
「――」
あ、まずい。
エリーゼの声に、俺の息子が起床した。
おはよう、ベルジュニア。昨夜はよく眠れたかい?
「な、何か大きくなったわよ……?」
「さ、さて!
戦争の話なんてやめて、海でも眺めましょう!
ははは。綺麗な海だなー」
「どこを見て言っているのだ……?」
俺の身長では、一人で海を見ることは叶わない。
俺の視界には、船体しか映っていないのである。
「死にたいです、師匠」
「急にどうしたんですか……?」
誰か、俺を殺してくれ。
第二章 少年期 「邂逅編」 -終-
次章
第三章 少年期 「ミリア編」




