第7話/照らし合わせ
朝の光がまだ薄い頃、事務所の電話が鳴った。表示は内線。神崎の声が低く響く。
「玲司、外の話を聞け。警察がこっちの口座を掘ってるらしい。慎重になれ──」
その一言で、午前の空気が一変した。
俺は手早く端末を閉じ、周囲の目を払うように窓のブラインドを下ろす。神崎の指示は単純だが重い。警察の動きが意味するのは、単なる監視ではない。情報の集合体がこちらに向けられ、口座と口座が一点に結ばれる瞬間を作り出すことだ。
数時間後、神崎からざっとしたブリーフが回る。噂の出どころは「協力者のアカウント」。警察は表の捜査だけでなく、ネット上の協力者──裏社会に潜り込ませた連絡係や、被害者側から上がった通報に接触する匿名アカウントを通じて情報を集めている。そこから得られた振り込め詐欺等で使われた口座の一覧と、俺たちが今手元に抱えている口座群を照合し始めたという。
照合──言葉は事務的だが、中身は極めて危険だ。
警察は、犯罪で既に使われた口座の「指紋」を集めている。頻度、時間帯、受取先の共通性、振込のパターンや金額帯。表面上は断片的だが、それらを横に並べて照らし合わせれば、ひとつの線が浮かぶ。口座と口座を結びつける線が一本でも描ければ、次はそこを掘り下げて実名、住所、端末ログへと繋げてゆく。
神崎は短く言った。
「協力者のアカウントが持ってきた情報は断片だ。だが断片が増えれば網は狭まる。お前は手元の口座を洗い出せ。危ないのは新顔と、最近使い始めた口座だ」
俺は冷静を装いつつ、頭の中でリスク評価を始める。ここで書くような細かい手順は無用だが、俺がやるべきことは明確だ──危険度の高い接点を切り離し、被害を最小化する。だが「切り離す」行為そのものが、警察の目に触れれば不利に働く。だから判断は迅速で、しかも静かでなければならない。感情は邪魔だ。計算だけを残す。
午前中、神崎経由で受け取った匿名のスナップショットに目が落ちる。そこには三つの口座番号と、いくつかの取引メモの断片、そして「昨夜○○時に大口が入金」という記述があった。明らかに警察が拾った痕跡の生データだ。これをどう扱うかで組織の被害は変わる。
俺は自分の頭の中で、三つの優先順位を組んだ。
1.当該番号と完全に一致するものが手元にあるかを即座に調べる。
2.完全一致がなければ、時間帯・送受金の相似性でクロス参照する。
3.危険と判断した口座は、回収経路を分散させるか、即座に画面上から消す準備をする(ただし目立つ動きは避ける)。
照合作業は、猟犬に嗅がれないようにする追跡劇だ。警察の協力者アカウントは、裏の連絡網に小石を投げ込み、反応を見ている。ある者が慌てた声を上げれば、その者の存在は露呈する。俺はその小石に気づかないふりをしながら、静かに動く。
昼過ぎ、端末のログを一つずつ照らし合わせている最中、ひとつの一致が飛び込んできた──微妙な文字列の一致、時間帯の重なり、そして同じ受取口座への小額送金。確率は低かったが、断片の積み重ねが一点を指し示した。胸の奥が冷たくなる。手元の口座の一つが、既に警察がマークしている口座群に近い動きをしている。
神崎は顔色を変えず、ただ一言。
「消しに行け。静かに、手早く」
俺は静かに頷き、深呼吸を一つした。やるべきことはわかっている。だが同時に、俺の脳裏には被買取者たちの顔が浮かぶ──あいつらは俺が差し出した通帳を握り、今も日常を生きている。俺が動けば、その誰かの生活がまた揺らぐかもしれない。だが見つかれば俺自身が消える。倫理と自己保存の二つの重りが、胸を挟む。
午後、俺は静かにいくつかの口座の「終わり」を決めた。手早く、確実に、露出を最小化するための手順を踏む。あくまで物語の中の描写に留めるが、現実の作業は殺風景な画面と数文字のログで終わる。通帳の残高はゼロにされ、紐づくデジタルの足跡を薄くする。だがそれは誰かの生活を奪う行為でもある。俺は複雑な気持ちでその作業をこなした。
夜、神崎が俺の前に来て茶を一杯差し出す。彼は珍しく真面目な顔で言った。
「警察の協力者のアカウントは、まだ全貌を握っているわけじゃない。だが、お前が動いた痕跡と、あいつらが持ってきた断片をこちらでうまく合わせれば、次の襲来は防げる。だが忘れるな──情報はいつでも増える。お前らのやり方も、いつかは洗われる」
俺は黙って茶を飲む。熱いが、味はしない。冷静さと罪の意識が混じる瞬間、俺は自分が選んだ道を再確認する。裏の銀行屋としての誇りはある。だがその背にある代償も知っている。今日、警察の匿名アカウントが投げた小石は、確実に水面に波紋を作った。次の波がいつ、どこで生まれるのか。俺にはまだわからない。
夜が更け、俺はまた数字の海へ戻る。目の前の仕事をやり遂げるしか道はない。だが、警察の網は細く、しつこく、そして時に冷酷だ。協力者アカウントが持ち込む断片は、いつか完全な線になるかもしれない--それを避けるために、俺は今日も計算を続ける。
警察の協力者アカウントが投げた小石は、水面に小さな波紋を立てた。そこで俺がやったのは、物理的な消去でも強引な隠蔽でもない。あいつらの「期待」を利用する方法だ。期待は人を動かす。期待が向く先に、人は自ら穴を掘る。俺は、その穴の位置を変えた。
神崎はいつになく無言だった。事務所の空気は張り詰め、外線は何度も鳴る。俺は端末の前で、握りしめたタバコの火を消すと、静かに計画を口にした。
「狙われてるのは新顔と最近の動き。そいつらに注目が向くような『らしさ』を作る。だが、本命は別に動かす。目くらましだ」
神崎はゆっくり頷いた。「お前の勝負だ。外に出るときは気をつけろ」
勝負という言葉に、いつもの泡立つ期待はない。勝負はリスクであり、勝てば一夜の平穏、負ければ消えるだけだ。
やり方を細かくは書かない。重要なのは精神だ。俺は「ある種の雑音」を意図的に作った。雑音は目を逸らすための白い布だ。白い布の向こうで、本当に重要な流れを静かに別の経路へ送る。警察の協力者は断片を集め、そこから線を引こうとする。俺はその線を複数に分岐させ、泳がせた。「あの口座が怪しい」と誰かが囁けば、彼らはそこを掘るだろう。掘ることにリソースを割いた瞬間、本命は安全圏へ滑り込む。
だが嘘を仕込むのは容易ではない。嘘には矛盾がつきまとう。矛盾を極力減らすため、俺は末端に「演技」をさせた。演技とは、振る舞い方を少し変えることだ。大げさな酒の振る舞い、突然の引き出し、タイミングを外した入金――そういう「らしさ」を散らす。警察の協力者は断片を拾い、整合性を探す。俺はわざと、整合性のある小片を与えた。彼らは満足し、深追いを始める。そこが狙いだ。
同時に、俺は本命側にだけ正確な指示を送る。冷静で、時間差があり、目立たない動きだ。文字ではなく、信頼だけで動く男たちに任せる。彼らは雑音の中で静かに動き、目につかないところで資金を回す。成功の鍵は目立たないこと。派手に動けば、必ず誰かが目を向ける。
計画は滑らかに動き出すが、心の中では別の感情が蠢く。俺が撒く偽の断片は、誰かの頭を燃やすための火種だ。被買い取り者の一人が、無関係に見える振る舞いのせいで警察に追及される可能性もある。俺はそれを避けるために細心の注意を払い、できる限り被害を分散する。しかしゼロにはできない。裏社会のゲームは、誰かが犠牲になることで回る。俺はその事実をよく知っている。
数日後、噂が出回る。警察はある口座の追跡に没頭しているという情報が流れてきた。協力者アカウントは満足そうに断片を投げ続ける。だが、それは俺の作った幻影に過ぎなかった。本命側の流れは淡々と動き、監視の目を巧みにすり抜けている。俺は一時の勝利に安堵を覚えたが、同時に冷たい後味が残った。
神崎は俺を呼び、無言で酒を渡した。彼の目は複雑だ。俺のやり方は組織にとって有効だが、倫理的なラインは曖昧だ。裏の世界では「有効=正義」になりがちだが、俺は時々その尺度に疑問を持つ。だが今は、その疑問に答える余裕はない。生き残ることが先だ。
だが警察は賢い。幻影に踊らされても、全く手がかりが得られないと悟いたとき、次のフェーズに移る。彼らは視点を変え、協力者アカウントの周縁を探り始める。そこに空白ができる。俺の作戦が長く続くほど、確率的リスクは増す。つまり、勝負は時間との戦いでもあった。
ある夜、神崎が小さく笑った。「お前の仕掛けは悪くなかった。だが、相手も動く。向こうの手が読めないうちは、こちらも動き続けろ」
俺は答えずに煙を吐く。相手の出方を読む——それがこのゲームの本質だ。俺の返しは成功したが、次の返しに備える必要がある。常に一手先、二手先を考える。観察と偽装は終わらない。
だが、人間は必ずミスをする。どれほど計算しても、誰かが感情に負ける。小林はその典型だった。彼が最後に見せた不安の表情を俺は忘れない。それを利用して幻影を作った俺にも責任がある。俺は彼に小さな手当てをし、口頭で今後の注意を促す。口先だけの慰めかもしれないが、俺の中ではそれが罪の償いの一つだ。
月が高く昇る頃、俺は一人で窓の外を眺めた。ネオンの光はきれいだが、底は冷たい。返しが効いた夜の満足は一瞬で、次の危機がいつ襲うかは誰にもわからない。裏社会の銀行屋は、常に振り子の真ん中でバランスを取る。揺れれば落ちる可能性がある。俺はその揺れを感じ取りながら、また計算を続ける。
返しは成功した。だがそれは終わりではない。網は広がり、また新しい小石が投げ込まれる。俺はそれを予期し、次の演出を考える。冷静であること、観察すること、そして時々手を差し伸べること――それが俺の流儀だ。だがいつか、このやり方が通じなくなる日が来る。俺はその日が来るまで、目の前の数字と人間を見つめ続けるしかないのだ。