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第6話/才覚

 夜、煌びやかなネオンに照らされたキャバクラの扉を開けると、甘い香りと音楽、笑い声が入り混じる世界が広がる。俺――玲司――は神崎隆司の隣に座った。隆司は組織内でも一目置かれる存在で、金の動かし方だけでなく、人間の見極めにも長けている男だ。


「おう、玲司、今日は俺の奢りだ。好きに飲め」

 隆司は豪快に笑い、テーブルに何本もボトルを置く。高級シャンパンに赤ワイン、ウイスキーのボトルが並び、隣には若い末端構成員が調子よくグラスを傾けている。


 俺はグラスを口元に運ぶことすらせず、ただ水をひと口だけ飲む。豪遊する末端のヤツらを眺めながら、心の中で計算を始める。調子に乗って飲みまくる奴ほど、組織内では昇進や信頼の対象にならない。隆司は彼らの飲み方や態度、酔った時の言動を観察し、各自の才覚を測っているのだ。


「玲司、お前も飲めよ」

 隆司がグラスを差し出すが、俺は軽く首を振る。「俺は今日は水で結構です」


 隆司はにやりと笑い、グラスを自分で傾けた。「なるほどな。お前は飲まなくてもいいやつだな」

 その言葉に含まれる意味は明確だった。飲むフリをしてごまかす奴、調子に乗って自分を見せようとする奴は、組織内で末端扱いされる。俺は観察に徹し、自分の立ち位置を崩さない。豪遊の場は、単なる酒と遊びではなく、組織の力学を見極めるためのステージなのだ。


 隣の末端構成員は、笑い声を張り上げ、シャンパンを次々に空けている。隆司はそれを冷静に観察している。俺も同様だ。誰が計算高く、誰が軽率か。飲んで羽目を外す奴ほど、組織の金を扱う才覚は無い。俺は酒を介さずとも、その観察眼を使って自己をアピールする。


 女の子たちが近づき、笑顔で話しかけてくる。俺は簡単に相槌を打ちながらも、表面上の会話に惑わされない。ここで重要なのは、表情や態度、言葉の端々に現れる性格や計算力を見抜くことだ。隆司は常にそれを見ている。俺は沈黙しつつも、視線を巡らせ、耳を傾ける。飲み過ぎる奴、調子に乗る奴、気配りができる奴、空気を読める奴——すべてが評価の対象だ。


 時間が経つにつれ、隆司は一人ひとりに声をかけ、軽い指示や試しの小遣いを渡す。俺は自分のグラスを置いたまま、観察を続ける。酒で自己を誇示する必要などない。行動や反応、計算された立ち回りこそ、組織内での価値を決める。


 夜が更けると、隆司は豪快に笑い、末端たちの手柄や失敗を軽く評する。俺は微動だにせず、そのやり取りを見守る。酒に酔わず、豪遊に踊らされず、ただ観察すること。それが俺――玲司――のやり方であり、この裏社会で生き残るための鉄則だった。


 グラスが空になったところで、隆司が俺に軽く肩を叩く。「お前、飲まなくても肝座ってんな。末端の連中とは違う」

 その一言で、俺は安心しつつも気を抜かない。酒の席での評価は、組織内での立ち位置を決める試金石。俺は静かにグラスを置き、次の指示に備える。夜の街の光の中で、金と人間、そして計算が渦巻く世界は、今日も動き続けていた。


 テーブルの端で、一人の末端構成員――小林誠こばやし まことがシャンパンのボトルを空けすぎて、笑い声が大きくなりすぎていた。店のスタッフに注意されても、顔を赤らめながら無理やり笑い続ける。彼の無防備な態度は、すぐに隆司の視線を引いた。


「おい、小林。そろそろ加減しろ」

 隆司の低く静かな声が店内に響く。小林は一瞬固まったが、口元に笑みを浮かべて言い訳を始める。


「す、すみません、つい……今日は盛り上がってしまって……」


 隆司は眉ひとつ動かさず、冷静に見つめる。俺――玲司――も横で観察していた。末端のヤツは、酒で自己顕示欲を満たすことで、自分の立場や能力を誤魔化そうとしている。しかし、その動きは計算されていない。感情任せで行動する奴ほど、組織では価値が低いことを、隆司は知っている。


 隆司は静かに笑い、グラスを掲げた。「面白い。だが、俺に見えているぞ。才能も無く、計算もできない奴は、こうして飲んで自分を誇示するしかない。お前の未来は見えた」


 小林は言葉を失い、赤く染まった顔を俯ける。周囲の末端たちも、隆司の鋭い観察眼に戦慄する。俺は水を口に含みながら、彼らの反応を冷静に見守る。酒で自分を見せるのではなく、状況を見極め、沈黙しつつ立ち回る――それが生き残る術だ。


 隆司は再び俺に目を向け、軽く頷く。「玲司、お前は見た通り、飲まなくても全てわかる。計算と観察力がある。だからお前は末端とは違う」


 俺は微かに笑みを返す。言葉を発さずとも、俺の立ち位置はここで明確になった。末端構成員の失敗と対照的に、自分の冷静さと観察力が組織内での評価につながる瞬間を、肌で感じていた。


 その後も隆司は、次々と末端たちの挙動を評価していく。調子に乗って話す者、隙を見せる者、他人の目を気にせず自己主張ばかりする者――すべてが組織内での将来を左右する判断材料となる。玲司の目から見れば、それは単純な選別作業だが、隆司にとっては一人ひとりの才覚を測る重要な瞬間だ。


 夜が更け、ボトルが空になるころ、末端構成員たちは一様に疲れと焦燥を隠せず、座り込んでいた。隆司は一人ひとりに軽く声をかけ、今後の指針を示す。玲司は静かに水を飲み、観察を続ける。酒に酔わずとも、計算と観察だけで、自分の価値を組織内に示すことができる。


 煌びやかなキャバクラの光の中で、数字の扱いと人間の心理を同時に見極める玲司の目は冷静だった。末端と自分の差を知ることで、組織内での位置は揺るぎないものになる。隆司の評価を肌で感じながら、玲司は次の任務の準備を静かに心に描く――豪遊の場も、裏社会の訓練場であり、才覚を試される戦場なのだ。


 小林の赤ら顔を横目に、俺――玲司――は水を口に含み、テーブル越しの光景を静かに分析していた。末端構成員たちの無駄な自己顕示、酒に酔って焦る手元や声の揺れ、表情の微妙な変化――それらはすべて、組織の中での彼らの価値を示す指標だ。隆司の観察眼と自分のそれを重ね合わせると、彼らの短所も長所も瞬時に把握できる。


 頭の中では、すでに次の動きが組み立てられていた。今夜は豪遊だが、明日には新しい口座を使った資金移動が待っている。振込の順番、金額の分散、手数料の計算、そして追跡の痕跡を残さない方法――すべてを頭の中で反復する。末端たちの挙動もまた、次に使う口座や現金のルートを計画する際の参考になる。どこに危険が潜むか、誰が尻拭いできるか、誰に任せるべきか――酒の席の観察も、業務の情報収集の一部なのだ。


 小林がグラスをひっくり返し、隣のテーブルに水を撒いた瞬間、俺は心の中でメモを取る。酒に酔って注意力を欠く者が、現金管理や口座操作ではどれほど致命的かを思い出す。隆司もその様子を見逃さず、軽く笑いながら彼を諭す。末端は焦るが、俺は冷静に評価するだけだ。


 さらに目を移すと、他の構成員もアルコールに沈み、計算力や注意力を失っている。俺は静かに頭の中でシナリオを組み立てる。次に買い取る口座は、どの地域で、どの銀行で、どの末端に触らせるか。分散経路を決め、リスクの高い経路は自分で処理する。手数料は最小限に抑え、監視や痕跡を残さないルートを選択する。豪遊の場での観察は、ただの余興ではなく、実務に直結する情報収集なのだ。


 隆司が俺に目を向け、微かに頷く。言葉はない。だが、その視線には「計算力と観察力を持つ者」という評価が滲んでいる。俺はグラスに口をつけず、水だけを飲むことで、周囲に惑わされず、自分の価値を示す。酒に酔い、派手に振る舞う奴らとは対照的に、冷静な判断力を維持すること。それこそが組織内で生き残る術だ。


 夜が深まるにつれ、俺の頭の中は次の資金移動のスケジュールで満たされる。誰に口座を割り当てるか、どの経路で振込を行うか、万が一追跡された場合の代替策――すべての可能性を計算し、末端の失敗を織り込んだプランを完成させる。キャバクラの煌めきの中、俺の思考は常に次の行動へ向かい、豪遊と観察の両方が一連の仕事の一部として進行していく。


 末端の失敗も、笑い声も、煌びやかな酒の光景も、すべてが俺の計算の材料だ。冷静に見極め、次の金の流れを組み立てる。その冷徹さが、玲司――裏社会の銀行を操る男――の価値を決定づける。夜が明ければ、口座は動き、資金は流れ、そして俺の計画は現実になる。


 夜が明け、街がまだ眠っている時間に目を覚ますと、頭の中には昨夜の観察メモと、組み立てたシナリオがそのまま残っている。キャバクラの光と笑い声はもう遠く、俺の世界は再び数字と人間の動きに戻る。酒場で拾った小さな挙動──小林の乱れた手つき、あの若いやつの過度な自己顕示、テーブルでひとり黙っていた女の子の観察眼──それらは今、口座の割り振り表に落とし込まれている。


 事務所は狭く、窓からは薄い朝の光が差し込んでいる。神崎の車が路地に止まり、俺は資料を広げる。神崎は朝から元気だ。昨夜の派手さが顔に残っているが、仕事の顔に切り替えるのは一瞬だ。

「どうだ、玲司。昨夜の判断、悪くなかったな」

 あいつは短く言い、さっと封筒を投げる。中身は昨日組んだルートの要点だ。俺は頷きながら、各口座の「信頼度」と当日のリスクを改めて頭の中で照合する。


 午前中は動きが速い。端末に向かって操作するのは事務的な作業だが、本当に大事なのは誰に何を任せるかだ。酒で揺れる小林には、絶対に責任の重い局面を任せない。彼には出し入れの“受け取り”だけを割り振り、監視をつける。逆に、昨夜静かにしていた二人のうちの一人──目線が冷たく、作業に集中できそうな男を、今日の核に据えることにする。神崎もその選択に一瞬の黙認を示した。無言の了解だ。


 電話が鳴る。依頼者からの確認だ。短い声で、今朝の受け渡しタイミングの確認をしてくる。俺は淡々と応答し、必要な情報だけを返す。依頼者の向こう側ではもう人が動いている。昼には現金が要求先に届かなければならない。時間は容赦なく進む。


 だが、すべてが計画通りに進むわけではない。午前九時、オフィスに入ったばかりの小林から電話が来る。声は震えている。

「玲司さん……さっき、窓口で引き出したんですけど、急にエラー出て、窓口の奴が怪訝な顔して……」

 その一言で、机の上の全てがピリリと引き締まる。銀行側の介入は最悪のタイミングで出る。俺は短く質問を返す。詳細を訊くつもりはない。ただ事実だけを集める。小林の焦りが伝わってくる。


 俺はすぐにプランBを起動する。だがここで細かい手順を書くつもりはない。物語として描くのは、俺の決断とその心理だ。まず必要なのは被害の最小化。エラーが出た口座はすぐに“切り離す”判断を下す。神崎は短く「そいつを見捨てるな。尻拭いはお前の仕事だ」と言う。言葉は冷たいが、意味は明確だ。組織では失敗は許されないが、失敗で全部が終わるわけでもない。重要なのは、どこまで被害を食い止められるか、そして誰を信用して任せるかだ。


 俺は手早く動いた。頭の中で別の口座群を再配分し、信頼できる男に急遽連絡を入れる。彼には直接会って動いてもらう。小林の状況は現場の混乱から生まれた偶発的ミスだ。俺は彼を叱ることもできるが、ここで厳しく当たるのは逆効果だ。代わりに、冷静に方向転換を指示する。俺の声は平静を装うが、心臓は速く打っている。計算の精度が問われる瞬間だ。


 外では街が動き出している。俺はタクシーを呼び、信頼のある男と合流する段取りをつける。合流する男の顔は平常だ。彼は無言で頷き、状況を理解した。手際よく動く彼の背中を見て、俺は自分の判断が間違っていなかったことを密かに確かめる。人を見極める力は、口座操作の技術よりもむしろ大事だ。昨夜の観察が、ここで活きる。


 昼過ぎ、俺たちは依頼者の指定に近い形で現金を揃え、何とか最悪の結果は免れた。小林のミスは表面に出たが、致命傷にはならなかった。彼は俺の前で頭を下げるが、俺は短く手を上げて制止する。情を見せるのは今は無意味だ。だが、内心では分かっている。彼のような若手が失敗を通じて学ぶこともある。厳しさだけが全てではない。俺は彼にもう二度と同じ穴に落ちないように、口調を柔らかくして注意点を伝える。仕事の一部は教育でもある。


 夜になって事務所に戻ると、神崎が紙巻きタバコに火をつけ、俺を見た。

「よくやった。だが、気を抜くなよ。次はもっと厄介な案件が控えてる」

 その言葉に、俺は深く頷いた。組織の評価は成功で一掃されることはない。常に次の試験が待っている。だが同時に、俺は確かな満足も感じていた。昨夜の観察、今朝の配分、昼の調整──すべてが繋がった。計算が生き、数字と人間の交差点で結果を出した瞬間だ。


 帰り道、ネオンが瞬く街を歩きながら、俺はふと考える。金を動かし、口座を使い、そして廃棄する。そのサイクルの中で、何人の人生が擦り切れていくのか。可視化できない代償を思うと、胸に小さな重りが落ちる。しかしその重りを抱えたまま、俺はまた次の一手を考える。生き残るための冷徹さと、人間に対するわずかな慈しみ──その二つが、俺の毎日を成している。翌朝もまた、キャバクラの観察から一日が始まるだろう。

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