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第4話/その後の二人

 雨上がりの交番の蛍光灯は、いつもより冷たく銀色に光っていた。

 高橋は白い紙コップのコーヒーを、指先で持て余すように握っていた。小さな児童用リュックを抱えたまま、保育園から戻ってきた直後だ。警官が淡々と告げた。口座の不審な入出金についての通報があり、事情聴取を行う——捜査は続行中であり、必要ならば後日、書類送検もあり得る。


 聴取室では、冷たい机の端に通帳が置かれ、男の声は事務的に事実関係を追っていった。

「どのようにして通帳を渡したか」「誰と会ったか」「最初にその広告を見たのはいつか」——質問は一つずつ、丁寧に繰り返される。答えるたびに、高橋の胸に石が積み重なるようだった。送った自撮り、玄関の動画——すべてが資料として回収され、捜査のデータベースにログとして残る。係官は言葉を濁さなかった。「こうした事案は、犯罪収益移転防止法などに抵触する可能性がある。協力してくれれば処分は考慮されることもあるが、関与の度合いによっては起訴に至る」——冷たい現実が、簡潔に示された。


 同時に、銀行側の動きも始まっていた。金融機関は内部監視システムで「異常な入出金」「不審な傾向」を検知すると、該当口座を一時凍結し、取引停止を宣告する。高橋の通帳はその対象になった。通帳の表紙には見慣れた支店名が印刷されていたが、その支店の端末では「該当口座は異常取引検知のため操作不可」と表示される。ATMで引き出そうとしても機械は静かに札を吐かない。銀行から送られてきた簡素な封筒の文面は、彼女の胸をさらに重くした。「口座に関する調査を実施しております。一定期間取引の停止を行う場合があります」——そこに理由の詳述はない。だが実状は明白だった:疑いが付けば、口座は機能を失う。


 佐藤も同じ波に呑まれた。聴取室の蛍光灯は彼の肌から色を奪い、車の窓から見た自分の街並みはどこか遠く見えた。彼の場合、金融機関だけでなく、勤務先の給与振込に関する調整や、家賃の自動引落しができなくなることが直ちに問題になった。会社は経理からの連絡で事態を把握し、当面の対応を迫られる。給料の振込先が変更されたり、振込が保留になったりするのを前に、彼は初めて「現金以外の仕組みで生活が回っている」ことを痛感する。


 やがて、捜査は公判や書類送検に向けた形で進む者と、処分保留で終わる者に分かれていく。高橋は、事情聴取への協力と反省の態度が考慮され、起訴猶予で済む可能性が出てきた。しかし、その法的帰結とは無関係に、銀行や関連機関が残す「痕跡」は消えない。金融機関同士は、金融犯罪防止のために情報を交換することがあり得る(審査部門の内部データや、疑義照会の記録)。一度「異常口座」と判断された履歴は、顧客管理システムのどこかに残り、将来の審査時に参照されることがあるのだ。


 ある日、高橋は市役所で住民票を取り、近所の銀行の窓口へ向かった。生活を立て直すため、労働先からの給与振込口座を新設しようとするためだ。窓口で提出を求められる書類は列挙される——本人確認書類、マイナンバー、住民票。形式を満たせば口座は作れるはずだが、実際にはもっと重い手続きが働く。銀行の受付から内部審査へ回り、支店の担当者がコンピュータに情報を入力すると、画面の片隅で赤いフラグが揺れた。支店長は静かに話す。「お預かりするにあたって、審査センターの確認が必要です。数日お時間をいただけますか」——彼女はそれがどれほど深刻な前兆かを、そこで初めて理解した。


 数日後、銀行からの回答は非情だった。「申し訳ありませんが、当行の基準では新規口座の開設をお受けできません」。理由は簡潔で、内部的には「要注意顧客リスク」「取引リスクの増大」と処理されていた。銀行は個別判断で口座開設を断ることができる。近年はマネーロンダリングや詐欺対策の強化により、金融機関は厳格なKYC(顧客確認)と「リスク基準」に基づいて判断する。個人にとっては、その判断の根拠はブラックボックスだ。問い合わせても説明は限定的で、「当行の基準に合致しないため」とだけ返される。理由を突き止めたい高橋に、実務担当は名刺を差し出しながらも、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべるだけだった。


 佐藤のケースはさらに露骨だった。彼は複数の銀行に申し込みをかけたが、三行目で窓口の担当者にこう言われた。「同姓同名の方で確認が必要な事案がございます。ご本人であることは確認できますが、審査の結果、弊行ではお取引を開始できません」——そこに含まれる含意は重かった。金融機関間の審査ネットワークは、同一人物の「リスクフラグ」を補完し合う。ある銀行で疑義が上がれば、他行でも同様の対応が採られることがある。結果、彼は新たな口座を作れず、給与の振込先に困窮する事態に直面した。


 口座が作れないという現実は、想像以上に日常を侵食する。給与振込が受けられなければ、会社は給与の支払い方法を検討せざるを得ない。振込ができないことで会社側からは信用問題にもなり得る。家賃の自動引落しができなければ、滞納や督促が始まる。クレジットカードの新規申請も通らなくなる。電気やガスの口座振替ができないことで、インフラの契約変更を迫られることさえある。人によっては、事実上の「金融的孤立」に陥る。現金に頼る生活へ一時的に戻ろうにも、家賃や公共料金、携帯電話の契約や就職の際の銀行口座の必須条件など、現代社会は銀行口座を前提として回っている。


 精神的な打撃はさらに深い。高橋は子どもの学費や病院の支払いのたびに、誰にも相談できない屈辱を味わう。佐藤は履歴書を手に就職面接へ行くと、面接官の目がどこか冷たくなるように感じる。噂や「事情」を知る者が小さな町ではすぐに広がり、彼らは「前科持ち」でもないのに、社会的な烙印を押される。銀行の拒絶は単なる業務上の判断だが、それは社会的排除の前段階になり得るのだ。


 法的に完全に立ち直る道もある。弁護士をつけて銀行とのやり取りを行い、誤解や関与の度合いを説明して記録の訂正を求めることは可能だ。しかしそれは時間と費用を要する。司法手続きで無罪を勝ち取り、かつ金融機関の内部記録を修正するのは容易ではない。被買取者――特に生活の逼迫から逃げ場のない人間にとっては、そのプロセスを踏む余力がそもそもない。結果、社会復帰の扉は狭まる。


 玲司はそんな末路を他人事のように見ていた。彼の手元では口座が次々と増え、短期的な利益は膨らんだ。しかし夜になると、被買取者たちの顔が頭をよぎる。自分が編んだ鎖が誰かの生活を締め上げている。訴追という現実、銀行の門前払いという現実——そこには法的な裁きだけでなく、社会的な抹殺が待っている。玲司は知っている。金は人を黙らせるが、同時に人を孤立させる。口座を手放した者たちは、たとえ罪に問われなくとも、金融社会の外周へ押し出されることがあるのだ。


 高橋は息子の寝顔を確認してから、スマホを握りしめた。数日間、銀行口座が作れず、給与の振込先も限定され、生活のリズムが狂っていた。頭の中でぐるぐると考える。自己流では何も解決できない——そう気づき、ついに弁護士を探し始めた。


 初回相談で、法律事務所の応接室は落ち着いた空気に満ちていた。弁護士は四十代半ば、淡々とした口調だが目は鋭く、彼女の状況を瞬時に読み取った。

「あなたの場合、口座凍結や新規口座開設の拒否は、金融機関の内部記録に基づくものです。まずはその記録が何に基づいて作られたのか、調査する必要があります」

 高橋は頷き、震える手でメモを取った。息子の学費や家賃の問題、公共料金の引落しが止まっていることを説明する。弁護士は細かく質問し、彼女が何を送ったか、どのような経緯で口座を渡したかを確認した。


 次に、銀行に対して情報訂正と開設再審査を求める正式な申請書を作成する。弁護士は文章を慎重に練り上げた。ポイントは三つだった。

 1.高橋が犯罪意図なく、生活困窮からやむを得ず行動したこと。

 2.取引が組織的犯罪に直接加担した証拠はなく、協力的であること。

 3.現在の生活維持のため、新規口座開設が不可欠であること。


 佐藤も別の弁護士を立て、同様のプロセスを踏む。書類には、過去の事情聴取の記録や金融機関とのやり取り、収入証明、身元確認書類を添付する。銀行は内部審査センターに回し、弁護士の提出書類と相談しながら判断を再評価する。


 数日後、銀行から弁護士を通じて回答が届く。

「当行の審査基準に照らし、口座開設を認める方向で検討します。ただし、一定期間は取引に制限が付きます」

 高橋は手元の書類を握りしめ、初めて胸の奥の重みが少しだけ軽くなるのを感じた。完全に自由になったわけではない。数か月間は監視下にあるような制約が続く。それでも、給与振込や公共料金の自動引落しは可能になり、日常生活を再構築できる余地が生まれたのだ。


 佐藤も同様に、弁護士の交渉により、以前拒否されていた銀行口座を開設できるようになった。もちろん、内部の記録には「リスクあり」のタグが残る。金融機関同士での情報共有も完全には消せないが、彼にとって重要なのは日常を回す手段を取り戻したことだった。


 二人は共通して実感した。弁護士を通すことの意味は、単に法的手続きをクリアするだけでなく、「自分の権利と生活を守る盾」を手に入れることだった。裏社会の被害者として、金融社会から排除される恐怖を経験した後、彼らにとって弁護士は、唯一の防波堤となった。


 高橋は夜、息子の隣で静かに呟いた。

「少しだけ、普通に戻れそうね」

 佐藤はアパートの机に向かい、通帳の新しいページを確認した。札束の温もりは消えても、安心感の代わりに小さな自由を感じることができた。


 裏社会で巻き込まれた一連の事件は、消えることはない。だが、弁護士を介した法的手続きによって、金融的な閉塞からの一歩を踏み出すことは可能だった。二人にとって、その一歩は文字通り「生活を取り戻す」始まりであり、過去の影響と向き合いながらも前に進むための道筋だった。


 高橋は朝、息子の保育園の送りに向かう。通帳の新しいページには、制限付きとはいえ振込可能な残高が記されていた。銀行からの通知では、1日の入出金上限やオンライン決済の制約が記されていたが、少なくとも生活費を確保できる。それでも、スマホで確認するたびに胸が締め付けられる。金融機関に残る「リスクあり」のフラグは見えないが、存在を直感できる。窓口での対応やATMの制限を通じて、それは日々思い知らされるのだ。


 買い物は以前のように自由ではなくなった。キャッシュレス決済は一部制限され、カードの利用額にも上限がある。コンビニで日用品を買う際も、決済端末が赤い警告を出さないか、端末の表示に一瞬ひやりとする。スーパーで食品を購入しながら、高橋は自分の心拍が上がるのを感じた。生活の些細な瞬間が、以前の「自由」と比較される。息子の笑顔を守るために、毎日の計算は必須だった。


 佐藤は、朝のニュースを見ながら、口座の制約を意識していた。給与振込が可能になったが、カード利用の上限や一部の送金制限により、以前のように支払いを一括で済ませることができない。公共料金や家賃の支払いは、事前に細かく日程を分けて振込しなければならず、毎月のスケジュール管理は以前よりも神経を使う作業になった。郵便局や銀行の窓口に並ぶたび、彼は周囲の視線が自分に注がれているような錯覚に陥る。


 二人に共通する心理的負荷は、「信用の欠如」だった。銀行口座が制限されているだけでなく、金融社会における「信用スコア」の低下は、ローンやクレジットカード、さらには携帯電話契約や賃貸契約にまで影響する。高橋は、新しい携帯電話契約を申し込もうとした際、事務担当者の口調から微妙な警戒を感じ取り、契約に少し躊躇してしまった。佐藤も同様に、再就職先の面接で経歴書の空白期間や金融の制限について訊かれることがあり、説明に疲弊する自分を感じた。


 さらに、二人は金融機関の監視を意識しながら生活することを強いられた。入出金の度に、以前のように無防備には振る舞えない。ATMで現金を引き出す際も、上限を超えないように計算する。カード決済を行うたび、取引履歴が監視されているという感覚が頭をかすめる。高橋はつい息子の学用品を買うのに慎重になり、佐藤は光熱費の支払いに一喜一憂する日々を送った。


 心理的には、二人とも「社会的孤立感」に苛まれた。銀行口座が自由に使えないことは、日常生活の制約であり、同時に社会からの信頼を部分的に失ったことを意味していた。友人に気軽に金銭の相談をすることも、以前よりも難しくなった。噂や誤解で周囲から距離を置かれる可能性があることを、無意識に警戒していたのだ。


 弁護士を介した手続きで生活は回復の兆しを見せたが、完全な自由はまだ遠い。高橋は毎晩、息子の寝顔を見ながら、「明日も計算通りに振込ができるだろうか」と考え、佐藤もまた、通帳を確認しながら「上限を超えてしまわないか」と神経をすり減らす。生活の基盤は戻っても、自由に触れる感覚は依然として遠い。


 しかし、二人は少しずつ適応していった。現金を使う際の計画、振込や引落しのスケジュール管理、銀行とのやり取りの慎重さ——それらはかつての自由な生活とは異なるが、現実的な「生き延びる知恵」として身についていった。高橋は息子の教育費を計算し、生活の優先順位を厳密に決めることを学んだ。佐藤は給料日と支払い日を逆算し、必要な現金の流れを管理するルーチンを作った。


 それでも夜になると、二人は孤独と不安を感じる。金融社会における信用の回復には時間がかかり、制約付きの口座では、突発的な出費や緊急事態に対応できない。友人や家族に相談することも、ためらわれる。社会復帰の道は開かれたが、以前のように軽やかに生きられるわけではない。


 生活は再開され、金融的な最低限の安定は取り戻した。しかし、銀行口座という「社会参加の権利」を制限される経験は、二人に深い心理的傷痕を残した。信用の回復には時間が必要であり、社会的信頼は慎重に築き直さなければならない。高橋も佐藤も、日常の小さな瞬間に慎重になり、生活のリズムを計算しながら生きる。それでも、弁護士を通じて最低限の安全を確保できたことは、彼らにとって新しい希望の光となった。


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