第31話/新しき世界
監禁部屋には夜の気配が濃く滲んでいた。コンクリートの冷たさが壁から伝わり、先ほどまでの喧騒が遠のいた後の静寂だけが重たく床を支配している。黒崎は椅子に縛られたまま、唇を震わせながら必死に言葉を紡いでいた。顔には青ざめた恐怖と、しかしなお死にたくないという本能的な執着が混ざり合っている。
「問題はな……アンタを生かせばいいのか、殺すべきか──それを迷っている」
黒崎の声は震え、しかしその言葉には生き延びるための必死の嘆願が隠せない。彼は何度も頭を振り、声を詰まらせながら、残されたカードを全て差し出すように語り始めた。
「聞け……聞け。お前が俺を消すというなら、ただの個人的怨恨では済まないんだ。俺が持っているのは、政治家との繋がりだ。表の力だ。影の世界での地位だ。俺が消えれば、あのルートは途切れる。表にとっても都合のいい整理ができる。──それに、俺はこの国の“調整屋”でもある。金の流れだけじゃない、世の中のバランスを取る役目を長年果たしてきた。お前がそれを奪えば、ただの暴力屋が表に出るだけだ。お前のやり方で本当に安定が保てるのか?」
喉を絞るようにして黒崎は続ける。彼は自分の過去、功績、表の世界で積み上げてきた「価値」を一つずつ列挙した。政治家の秘書と交わした密約。司法に影響を及ぼした小さな力の行使。非合法な資金を正規のプロジェクトに回して表の支持者を得た経緯。どれも黒崎にとっては自らを正当化する材料であり、捨てがたい「財産」だった。
「お前が俺を殺せば、その在り処は消える。表のパイプが断たれれば、我々が営んできた“折り合い”は崩れる。組の利益はどうなる? 関係者がどれだけ困るか、想像してみろ。お前の取り分は一時的に増えよう。だが長期の安定を望むなら、俺を生かす方が何倍も合理的だ」
黒崎は嗚咽をこらえながら、懸命に訴えた。彼の言葉は、自分の命乞いであると同時に、組織を統治してきた男の最後の理屈でもあった。だが部屋を満たすのは哀願ではなく、玲司の沈黙であり、冷たい計算の時間だった。
玲司は黒崎の訴えを最後まで静かに聞いていた。身体には先の暴行の痕跡が残るが、表情は揺らがない。胸中を巡る計算が静かに整理され、彼の口元には小さな氷のような笑みさえ宿る。
やがて玲司は、ゆっくりと口を開いた。声は落ち着いていたが、その一語一句は鋭く、黒崎の胸をえぐる。
「……あんたを生かしておく理由が無い」
その言葉は淡々と告げられたが、重みは圧倒的だった。黒崎の顔から一瞬、希望の色が消え去る。
「それら──政治家とのパイプだの、表での貢献だの、全部……もう掌握している」
玲司の言葉は続く。彼は単に黒崎の資産やルートを“奪った”というだけではない。既に外部との関係性、情報網、替えの役目を果たす人員の配置、表での影響力を操作する手先まで掌握しているという含みを持たせる。黒崎の訴えは、玲司にとってはもはや理由にならない。政治家も、金脈も、交渉のカードも、今は玲司の掌中にある──そう示すことで、黒崎の資産的価値は急速に剥落した。
部屋の空気は一層冷たくなった。幹部たちの視線が揺れ、誰も口を挟めない。黒崎は言葉を失い、ただ唇を震わせている。彼の両手はまだ縛られており、椅子に沈んだ体全体から敗北が滲み出ている。
その時、玲司の傍らにいた一人の部下が、静かに拳銃を差し出した。手渡される金属の冷たさは、この場の決断を現実のものにするための器具だった。部下の顔にも緊張はあるが、迷いは見えない。彼らは九条の一味から膝を屈した者たちであり、今や玲司に忠誠を誓っている。崇拝でも恐怖でもなく、勝者に従う合理的判断の表出だ。
玲司は拳銃を受け取り、しばしそれを見つめる。銃身の先に映る自分の眼差しが、これから自分が首肯するものを確かめるようだ。手の中の重みが決断の重みとなってゆっくりと増していく。
「これは……俺が行う、最初で最後の暴力だ」
玲司は低く言った。その声は静かだが、最終決意を告げる鐘のように響いた。彼の口調には躊躇も虚勢も無く、潔い断絶の宣言が含まれていた。暴力を行使するのはこれが最後だ──それ以後は暴力ではなく、制度と資金と情報で支配を続けるという意思表明でもある。
黒崎は必死に目を見開き、何かを言おうとしたが、声は喉に詰まる。もはや反論の余地は無かった。彼が高らかに守ってきた論理も、眼前の現実の前では空疎に響くだけだ。
玲司はゆっくりと引き金に指を掛けた。手元には短い秒が流れ、空気の粘度が増す。黒崎の目がわずかに光り、瞬間的に過去の栄光や息子たちの顔が交錯するのが見て取れる。
引き金を引く音は、監禁部屋の静寂を鋭く切り裂いた。だが描写はここで留める──音は響いた、決定は下されたという事実だけが部屋に重く残る。血や衝撃の詳細を長々と描くことなく、場面は冷徹な余韻を残す。
その瞬間、九条の残された部下たちの態度は、ほとんど本能的に変化した。彼らは玲司に向かって膝をつき、頭を下げた。膝まずく行為は、単なる礼儀ではなかった。これまで「暴力の頂点」として存在した九条が消え、代わって今ここに立つ人物──玲司が、彼らが従うべき新たな暴力の中枢であることを象徴的に示したのだ。彼らの膝は、生存のための賭けであり、次の支配者に対する承認の形でもある。
部屋に残ったのは、硝煙と沈黙、そして新しい秩序の始まりを告げる冷たい空気だった。黒崎の時間は終わり、玲司の時代が本格的に幕を開けた瞬間でもあった。
後は任せる──玲司はそう短く呟くと、静かに部屋を後にした。監禁部屋に残った空気には、まだ先ほどの緊張の余韻が濃く漂っていたが、もはや誰も動かず、誰も口を挟む者はいなかった。膝をつき、頭を垂れる九条の残党たちも、玲司の姿を最後まで見送り、彼の支配の前に自らを委ねるしかなかった。
忌み子と呼ばれ、組織の片隅で不吉な存在として育てられた玲司は、ついに裏社会の頂点に立った。その組織は、かつて秋口組ですら成し得なかった全国的な影響力を持つ銀行ネットワークとして完成していた。振り込め詐欺や小口の資金洗浄で細々と利益を得る時代は終わり、今や暗号資産も現金も、国内外の資金の流れは玲司の掌中にあった。バルター二、龍門会、そして国内外の大小の組織──すべてが玲司の目を通る金融網によって静かに統制され、必要ならば瞬時に操作可能な状態となったのだ。
バルター二との契約も、龍門会との交渉も、それぞれが互いに牽制しながら進められていた。しかし、玲司の手中にある情報網と、冷静かつ確実な行動力により、両者は緊張感を維持しつつも玲司の判断を尊重せざるを得ない。裏社会における勢力図は明確に、そして静かに、玲司を中心に再編されつつあった。
彼の成したことは単なる暴力や権力の掌握ではなかった。暴力の頂点に立つことよりも、金融の頂点に立ち、情報と資金を掌握することで、裏社会全体を動かす力を手に入れたのだ。もはや銀行家篠崎玲司の名は、単なる個人を超え、組織、地域、さらには国境を越えた裏社会の動力そのものとして認識されるに至っていた。
玲司の足取りは冷静で、無駄な感情は一切ない。背後には新たな秩序が生まれ、従属者たちの忠誠は確固たるものとなった。秋口組が長年夢見た全国制覇を、彼はすでに実現していたのである。今後、裏社会は銀行家篠崎玲司を中心に回るのは、もはや誰の目にも明らかだった。
闇社会に漂う緊張感、競合組織との微妙な均衡、そして内部の忠誠心──すべてを掌握した玲司の影響は、夜の街のネオンの光のように、静かにしかし確実に、国内外の裏社会を照らしていた。
彼の冷徹で計算された指示と決断によって、裏社会は新たな段階へと突入し、もはや誰も玲司の支配の前で無策に振る舞うことはできなかった。
こうして、忌み子と呼ばれた男は、裏社会の完全掌握を成し遂げ、誰も抗えない絶対の支配者として、その名を歴史に刻むのであった。
それは新しき世界であった
了




