第30話/先の先
室内の空気は依然として重く、血と恐怖の残滓が漂っていた。手錠が外され、凌辱と圧迫の時間を経た玲司の視線は冷徹に研ぎ澄まされている。今度、椅子に腰を下ろすのは黒崎の番だった。目には狼狽えの色が濃く浮かび、普段なら抑えられるはずの表情が、完全にその恐怖を露わにしていた。
「貴様、一体どうやって……」
黒崎の声は震え、言葉を絞り出すのがやっとだった。短く途切れ途切れの声が、室内に反響する。しかしその声の端に、かつての権力者としての威厳は微塵も残っていない。手のひらからは汗が滴り落ち、机に置いた拳はわずかに震えていた。
玲司は椅子に座る黒崎をじっと見据え、冷静に、ゆっくりと語りかける。声には怒りも動揺もなく、計算された冷徹さだけが宿っていた。
「黒崎さん……あんた、九条たちを安く使いすぎたな」
言葉の一つひとつが、まるで凍った刃のように黒崎の心に突き刺さる。揺らぐ視線はさらに細くなり、瞳孔が開いたまま動けない。
玲司は少しだけ前傾姿勢を取り、さらに言葉を重ねた。
「私が払う報酬は、今の三倍なんだよ。それを決断できなかったあんたの負けだ」
室内に沈黙が訪れる。言葉の重みが床や壁に吸い込まれるように、時間が一瞬止まったかのようだ。黒崎の目は恐怖と理解の入り混じった色で揺れ、口は開いたまま、次に何をすべきか、どこへ逃げるべきかを考えるが、もはや選択肢はない。
その瞬間、玲司の冷たい視線が、黒崎の全てを掌握していることを暗示していた。恐怖、敗北、そして絶対的な支配——椅子の上の黒崎は、ただ玲司の言葉に縛られ、逃れられない運命を痛感していた。
空気は凍りつき、かつて権力者であった男は、もはや自分の運命をただ受け入れるしかない存在として、椅子に座らされていた。
黒崎の顔は、椅子に縛り付けられたまま虚ろに揺れ、しかしその目にはかすかな怒りと諦念が交錯していた。長年の権力に守られ、幹部たちを操ってきた自信も、今や玲司の前では脆く崩れ去っていた。肩を小さく震わせながら、黒崎はようやく言葉を絞り出す。
「貴様……」
声はかすれ、しかしそこには感情の奔流が隠せない。黒崎の唇が震え、目の奥が赤く染まる。絶叫に近いその声が、監禁部屋の冷たい空気を震わせる。
「忌み子と呼ばれて育てられるだけじゃなく……拾ってやった俺を、裏切るとは……!」
言葉の重さに、室内の空気がさらに張り詰める。黒崎の吐息は荒く、怒りと恐怖、そして自らの敗北感が渾然一体となり、体の隅々にまで張り付いているのが見て取れる。
「組織内でも、とんだ……忌み子だったな!」
最後の一語はほとんど絶叫のようで、怒声と悔恨が混ざり合った音となった。長年の権力者としての威厳も、父性めいた保護者意識も、すべて玲司の掌中で砕かれ、ただ忌み子としての言葉だけが響き渡る。
黒崎の吐いた「忌み子」という言葉は、単なる侮蔑ではなく、古くから伝わる意味を帯びていた。かつて家系に生まれた不吉を暗示する子として、忌み嫌われ、畏れを込めてそう呼ばれた者——その血筋や運命を超え、玲司は裏切りと冷徹さを身につけ、組織に新たな秩序をもたらす存在となったのだ。
その場に残された静寂の中で、黒崎は自らの敗北と、手中で踊るはずだった忌み子の実力を、骨の髄まで痛感するしかなかった。絶叫の余韻が冷たい壁に反響し、椅子に座る彼の孤独と無力を、誰も覆すことはできなかった。
玲司の声は室内に冷たい刃のように響いた。
「息子をどうするつもりだ?」と黒崎が震える声で問い返す。言葉の端々には、これまで見せてきた全ての威厳と父親としての焦燥が混じっている。椅子の背に寄りかかる彼の身体は細く震え、顔面は青ざめ、その目はどこか必死だった。今や彼に残されたものは、威光と――あの二人の存在だけだった。
玲司は一瞬だけ目を細め、室内の薄暗さに沈む黒崎の表情をじっと見下ろす。手首の痕がまだ痛むが、その痛みを顔には出さない。代わりに彼の瞳には冷徹な計算が宿っている。時間を引き延ばすことは許されない。選択の瞬間を与えること、それ自体がすでに罠であり、交渉の形でもある。
静寂を破ったのは、玲司の低い声だった。
「それは――アンタの出方次第だよ」
その一言は説明を拒むように短く、しかし重かった。響いた瞬間、黒崎の顔はさらに強ばった。問いへの回答を期待していたはずの彼は、その言葉の意味の多層性に即座に気づいた。息子たちの安否は、単なる“交換条件”でも“金銭的譲歩”でもない。情報と行動、忠誠と見せかけの選択が複雑に絡んだ変数なのだ。
玲司は椅子から立ち上がり、黒崎のすぐ近くまで歩み寄った。足音はほとんど聞こえず、その身の動きは静かであるほど威圧的だった。顔を近づけた玲司の目には、嘲りでも慈悲でもないただ一つの真実が映っているようだった。
「君が素直に協力するなら、息子たちは比較的穏便に返す。だが手段を選ばずに抵抗を続けるなら、君は自分でその代償を払うことになる」
言葉の裏には、既に手配済みの選択肢が透けて見える。誰が捕らえたのか、どのような条件で彼らが縛られているのか、事の規模とリスク。黒崎にはそれが見えるはずだし、同時に見せるべきではない何かも隠れている。玲司はあえてその内部を明かさず、決断を相手に委ねる。相手の狼狽が、最終的な勝敗を決するのだ。
黒崎は喉を鳴らし、かすれた声で返す。
「お前――そんな選択肢を与えるつもりか。俺の息子たちを――」
言葉は途切れ、続く言葉は嗚咽まじりに消えた。父親としての本能と、組織の長としてのプライドがせめぎ合い、どちらを取るかの恐怖が顔に刻まれている。
玲司はゆっくりと椅子にもたれ、腕を組んで黒崎を見下ろす。表情に柔らかさはない。
「判断は簡単だ。君が我々の新しい秩序に従い、情報を差し出し、今までのやり方を改めるなら、息子たちは返す。君が古いやり方に固執し、誰かを動かして反撃するなら――状況は悪化するだけだ」
言葉が現実へと昇華する。室内の空気はさらに冷たくなり、幹部たちの視線は微動だにしない。誰もが玲司の掌握力と、彼が握る“返還の匙加減”の重さを理解している。黒崎が今示す行動は、彼の最後の賭けにもなり得る。
黒崎は震える手で椅子の縁を掴み、唇を噛み締める。過去のこと、若き日の情、拾い上げた“忌み子”としての感情が胸を引っ掻く。だが組織の論理は容赦ない。彼の答えはゆっくりと、しかし確実に形を成していった。目には敗北の色がにじみ、やがてそれは観念の色へと変わる。
玲司は相手の沈黙を待ちながら、静かに付け加える。
「だが一つだけ言っておく。君の出方が、単に個人的な情に流されるようなものなら――それは俺の望むところではない。組織の未来を考えるなら、君は君の意思で選べ。俺はその結果に責任を持つだけだ」
黒崎の瞳の震えが、ほんの少し弱まる。その瞬間、室内の気配が動き、決断の時間が過ぎた。玲司の冷徹な一言は、黒崎の中にあった最後の逃げ道をも奪い去った。外界の音が遠くなり、二人きりの世界で、答えは静かに、しかし確実に決まろうとしていた。




