第29話/玲司の流儀
監禁部屋は薄暗く、冷たいコンクリートの壁が四方を囲んでいた。窓はなく、外界の光や音はほとんど届かない。玲司は椅子に座らされ、両手は軽く拘束されている。手首の自由はわずかにあるものの、身動きには制約があり、精神的な圧迫感がじわじわと全身に広がっていた。
静寂を破ったのは、ドアの開く重い音。金属の軋む音とともに、影が室内に差し込む。黒崎――かつて組織の頂点として君臨し、玲司の育成に深く関わった男が、ゆっくりと足を踏み入れた。その表情は冷たく、笑みは一切ない。
「玲司……よく来たな」
黒崎の声は穏やかに響くが、その奥には意図が透けて見える。玲司の頭に浮かんだのはただ一つ。ここに来た理由は、彼の資産を全て手中に収めること――自分の権力を再確認し、玲司を組織から切り離すための行動だ。
玲司は微動だにせず、黒崎の視線を真っ直ぐに受け止めた。冷静を装ってはいるが、胸の奥には警戒心と緊張が渦巻いている。相手が動けば、次の一手を読む準備はできている。しかし、ここでは物理的な自由はない。心理戦が、今まさに始まろうとしていた。
黒崎は部屋の中央まで歩み寄ると、手に持った小さな封筒を玲司の前に置いた。その封筒には、これまで玲司が管理してきた資産の詳細、口座番号、現金の流れ、暗号資産の情報がびっしりと書かれていた。封筒は静かに置かれたが、その存在感は重く、玲司の胸を押し潰すかのようだった。
「これで君もわかるだろう。全ては私のものだ。君がどれほど裏で働こうと、結局、私はこの組織の頂点にいる」
黒崎は言葉をゆっくりと選びながら、圧力をかける。玲司の心理に食い込むように、少しずつ、しかし確実に自分の支配を示していく。
玲司は封筒の中身に目をやるふりをして、黒崎を観察した。相手の表情、指の動き、微かな呼吸の揺れ――全てが情報だった。心の中で計算する。ここで反発すれば、身体的に危険はある。従えば資産は奪われる。だが、目の前の黒崎には過去の信頼の名残もある。どこまで自分を追い詰めるか、それが今後の流れを決める。
黒崎は一歩近づき、封筒を指で軽く弾いた。紙の擦れる音が、室内の静寂を切り裂く。
「すぐに従うなら、私はお前を痛めつけずに済ませる。しかし、抵抗すれば……」
その言葉は脅迫というよりも、絶対的な現実の提示だった。玲司は言葉を発さず、ただ静かに視線を返す。
二人の間に沈黙が訪れる。空気は張り詰め、互いの呼吸と心拍の音が、まるで部屋の中で増幅されるかのように響く。玲司は心の中で計算を続ける――黒崎をどう出し抜くか、資産をどう確保するか、監禁という状況をどう転用するか。ここでの一瞬の判断が、今後の勢力図を大きく変えることを理解していた。
黒崎は封筒を拾い、ゆっくりと口元に微笑みを浮かべる。その微笑みは冷たく、意図を秘めている。玲司にとって、この瞬間が心理戦のスタートラインだった。
「覚えておけ、玲司。お前の全ては、私の掌の上にある……」
玲司はその言葉を静かに受け止めながらも、心の奥では決意を固めていた。ここで屈するわけにはいかない。たとえ資産を奪われ、身体が縛られても、彼の頭脳は自由だ。心理の支配権を握った者が、最終的には勝利する——その原則を、玲司は熟知していたのだった。
黒崎の一言は、室内の空気を刃物のように切り裂いた。短い「やれ」が出るや否や、九条の影が動いた。静かな、計算された一連の動作──そして拳が、玲司の頬へめり込む。
最初の衝撃は鈍く、金属のような音が小さく反響した。玲司は椅子ごと弾かれ、身体の奥で何かが軋む感覚を覚える。だが顔の表情は即座に作為的に固められ、苦悶を露わにしながらも言葉は出さない。九条の拳は容赦なく繰り返される。打撃が当たるたびに、短い「ドン、パッ、コツ」とした打撃音が薄暗い空間に散り、玲司の呼吸が荒くなる。額から血がにじむが、傷の描写は必要以上に詳述しない。
「暗号資産のキーの在処を言え! そうすれば楽にしてやる」
黒崎の声は冷たく、命令の響きは重い。室内に居並ぶ幹部たちの視線が一斉に玲司に注がれる。言葉は単純だ。言えば暴力は止み、言わなければ暴力は続く──裏社会の論理は非情を突きつける。
痛みは確かにあった。拳が繰り出すたびに視界が揺れ、思考の輪郭が一瞬だけ曖昧になる。しかしその瞬間ごとに、玲司の頭の中では別の戦いが同時に行われていた。肉体の苦痛に耐える一方で、彼は計算し続ける。何を差し出せば最小の代償で最大の回収が可能か。誰が知るべきで、誰に知られてはならないか。裸にされた資産を取り戻すにはどう動けばいいか──痛みの感覚は鋭いが、思考の機能は途切れていない。
幹部の一人が顔をしかめ、黒崎の脇で短く言葉を漏らす。だが黒崎はその声を遮るように、さらに声を低くした。九条は休むことなく拳を打ち込み、まるで相手の抵抗の意志をこそ奪おうとしているかのようだ。だが玲司の口は固い。唇の端からわずかに漏れる血の味を確かめる暇もなく、彼はただ低く息を吐き、痛みをそのまま内側に収める。
「言え。今すぐにだ」黒崎の命令は繰り返される。だが玲司は答えない。答えられないと言うより、答えたくないのだ。口を割れば、彼の作り上げてきた「銀行」そのものが瓦解し、多くの命と信用が粉々になる可能性がある。彼の心にある秤は、己の肉体の痛みよりも、組織と仲間たちの未来を重く置いていた。
時間の感覚がねじれる。打撃のリズムと、彼の内側で回る思考のリズムが交錯する。痛みが一段落するとき、九条は一歩下がり、拳を拭うように手の甲を振る。黒崎は封筒をじっと見下ろし、冷笑を浮かべる。部屋には一瞬の静寂が戻るが、それは嵐の前の静けさに過ぎない。
玲司は顔を歪めながらも、目だけは黒崎を捉え続ける。その瞳には諦めはなく、むしろ冷徹な計算が宿っている。彼はわずかに声を絞り出す。痛みに震える声だが、言葉は明瞭だった。
「……お前が欲しいのは、鍵そのものか。それとも、鍵で開く“物語”か」
黒崎は一瞬、言葉の意味を測りかねた。玲司の言葉は、ただの抵抗ではなく逆に挑発を含んでいた。彼は鍵の在処だけでなく、それを巡るネットワークと信頼関係が何より価値であることを示唆したのだ。言葉の裏に潜む含意を黒崎が理解する間、玲司は更に一つの事実を心の中で確かめる——自分はひとりではない、たとえ今は孤立して見えても、動く仲間と仕組みがあることを。
九条の拳はまた迫るかもしれない。黒崎の要求は変わらないだろう。しかしこの瞬間、玲司は確信していた——肉体を折られても、頭脳を折ることはできない。闇の銀行が持つ力は、単なる秘密の鍵だけでなく、それを守る覚悟と人の網でもあるのだと。
暗闇の中で、短い打撃音が再びこだまする前に、室内の空気はさらに濃く、次の局面へと移る予感を孕んでいた。玲司の沈黙は、単なる頑なさではない。そこには冷徹な戦略と、これから始まる反撃のための時間を稼ぐ意図があった。
長く続いた打撃音が、監禁部屋の冷たい空気を震わせていた。玲司の体は椅子に固定され、拳の衝撃に耐えるたびに顔は歪み、呼吸は荒くなる。しかしその緊張の渦中で、突然、電子音が室内に響き渡った。
「チリリ……」
黒崎と九条の手元のスマートフォンが、同時にTelegramの通知音を鳴らしたのだ。音は軽く、しかしあまりにも不釣り合いに、二人の緊迫した心理状態を切り裂いた。九条は一瞬、拳を止め、黒崎も封筒を手から滑らせたまま、スマホの画面を凝視する。
そこには、信じがたい映像が映し出されていた。
画面には、拉致された黒崎の息子たちが、無力に拘束されて座る姿。そして九条の家族、かつて守ろうと誓った者たちが、恐怖で目を見開く様子が映っていた。部屋の薄暗い照明の下で、震える手、こわばった表情、誰一人として安堵の色はない。
黒崎の顔面が青ざめる。瞳孔は開き、唇はかすかに震える。長年の権力と恐怖で鍛え上げられた男でさえ、この映像の衝撃には抗えなかった。九条はその場で絶叫した。
「な、何を……何をしやがったんだ――!」
叫び声は室内に響き渡り、金属の壁に跳ね返る。だがその絶叫が、彼の命を守ることはなかった。後方で控えていた部下のひとりが、低く、しかしはっきりと声を発する。
「九条さん、すんません……」
言葉が終わるより早く、部下の拳銃が火を吹いた。閃光とともに銃声が轟き、瞬間、九条の頭部が吹き飛んだ。血煙と衝撃が部屋を一瞬で支配する。絶叫は途切れ、代わりに室内は冷たい静寂に覆われた。
玲司は椅子に縛られたまま、目の端で状況を確認した。苦悶の表情を浮かべたままも、頭の中は明晰そのものだ。黒崎は完全に狼狽えていた。拳銃を握る手は震え、言葉を発することもできず、目だけが画面に釘付けになっている。息子たちが無事である保証もなく、九条が消えたことで、権力の均衡が一気に崩れたのだ。
誰がこの作戦を仕掛けたのか、誰がこのタイミングで行動したのか、黒崎には全く理解できなかった。自分の権力や情報、そして恐怖で支配してきた世界が、一瞬にして瓦解する感覚。心臓の鼓動は荒く、冷や汗が背中を伝う。
玲司はわずかに呼吸を整え、打撃の痛みを背に押し込むようにして、状況を分析した。Telegramに映る映像は、ただの脅しではない。これ以上の犠牲を防ぐための、完璧に計算された一手だった。そしてこの瞬間、玲司は初めて、完全に掌握されたかのように見えた黒崎の顔を、冷ややかな目で見据えた。
室内には、血と恐怖の臭気、そして電子音の余韻だけが残った。長い沈黙が続き、誰もが次の動きを読み合う──しかし支配の座にあるのは、もはや玲司だけだった。
監禁部屋の空気は依然として重く、鉄と血の匂いが漂う中、玲司は手錠を外された。冷たい金属が手首から離れる感触に、わずかに安堵が混じる。しかし顔には疲労の色はなく、むしろ静かに、冷徹に計算された光が宿っていた。
「よく聞け、黒崎……そして残る者たち」
玲司の声は低く、しかし室内に張り詰めた緊張を容易に支配する強さがあった。
「この部屋で何が起きたか、もう分かっただろう。Telegramに映った映像、そして九条の最期。あれは単なる脅しじゃない。これが俺の意思だ。俺に手出しをすれば、次は誰の命が飛ぶかも分からないという警告だ」
黒崎は動揺を隠せず、机に手を置いたまま言葉を失う。残る幹部たちも、血まみれの現場とTelegramの映像を交互に見ながら、息を潜めていた。
玲司はさらに声を低くし、言葉の一つ一つに重みを込める。
「俺はもう、これ以上の裏切りや強権には従わない。俺の銀行、俺のルールで、すべてを掌握する。資産、取引、流れ……すべてだ」
部屋の空気がさらに冷たくなる。黒崎は唇を噛み、言い訳を探すように目を泳がせる。しかし玲司は手首を振るだけで視線を固定し、続けた。
「覚えておけ。俺に刃を向ける者には、必ず代償がある。だが、俺に従い、理にかなった協力をする者には、保護と利益が約束される」
手錠の跡が赤く残った手首を軽く振りながら、玲司は最後に低く、しかし確信に満ちた声で言った。
「これが、俺の時代の始まりだ」
静寂の中、血と汗の匂いを吸い込んだ空間に、玲司の声だけが重く、冷徹に響き渡った。黒崎も幹部たちも、もはや反論する余地はなく、ただ玲司の意志に従うしかないことを悟った。




