第24話/トップ会談
玲司はオフィスの重厚な扉が閉じられると同時に、微かに眉をひそめた。幹部らが出迎え、会談室まで案内する――これは表向きは極めて丁重なもてなしだ。だが、玲司の経験が直感を告げていた。
中国社会、特にこうした裏社会的な組織において、トップ自らが現場に顔を出すことは滅多にない。通常、重要案件でも代理人や側近が先行し、トップは最終決定だけに関与するのが常識だ。出迎えや案内にトップ自身が立つのは、何か“特別な意味”が隠されている可能性がある。
玲司は心の奥で警戒を高めながらも、表情は変えずに椅子に腰を下ろした。部屋の内装は簡素ながら洗練され、厚いカーテン越しに都会の光が柔らかく差し込む。だがその空間の静けさは、表面以上の緊張感を孕んでいる。
「得体の知れない相手だ……」玲司は心の中で呟く。趙がわざわざ自ら動いた理由は何か──それは単なる礼儀か、あるいはこちらを試すためか。場合によっては、この会談自体が心理戦の舞台であり、現物換金という表向きの話以上の駆け引きが待ち受けている可能性がある。
冷静を装いながら、玲司はすでに頭の中であらゆる可能性をシミュレートしていた。相手の狙い、交渉の構造、もし裏切りや圧力が仕掛けられた場合の回避策──この会談は、宝飾の換金ルートを確保する場であると同時に、玲司自身の手腕を測る試金石でもあることを悟っていた。
彼は心中で結論を固める。表面の礼儀に惑わされず、警戒と慎重さを最優先に、すべての発言と動作を計算する――これが、彼が闇銀行を掌握する者として培った習慣であり、中国の得体の知れない相手に対抗する唯一の方法だった。
玲司は一瞬、心臓の鼓動を意識した。しかし表情は微動だにせず、静かに座ったまま視線を逸らさない。茶器の中の茶は温かく湯気を立てているが、その香りが一層警戒心を煽った。直感が告げる――これは単なる茶ではない、罠である、と。
背後の扉が音もなく開き、黒衣の側近が一歩踏み入る。手には拳銃が握られ、銃口は玲司の頭に向けられていた。緊張の空気が室内を覆う。趙天龍の鋭い声が低く響く。
「なぜ飲まない?」
玲司はゆっくりと呼吸を整え、冷静を装ったまま答える。
「単純です。何が入っているか分からないからです」
その言葉には嘘も誇張もない。だが玲司の眼差しはただの恐怖ではなく、相手を観察し、次の動きを探る計算された冷徹さを宿していた。趙は微かに眉をひそめたが、すぐに静かに笑みを浮かべた。
「なるほど……用心深いな。しかし、これは歓迎の証だぞ。拒否する者には試練が必要だ」
背後の側近が銃口をわずかに動かす。玲司は心の中で瞬時にリスクと可能性を整理した――撃たれるリスク、交渉の継続、あるいはここから得られる情報。全てを瞬時に計算し、次の一手を想定する。
室内の沈黙がさらに濃くなる。茶の香りと冷たい銃口、そして趙の静かな威圧。玲司は小さく口角を上げ、内心でつぶやいた。
「ここが試金石か……」
表面上は穏やかに、しかし頭の中は完全に戦場と化していた。すべての行動、すべての返答が、命と取引の両方を握る駆け引きとなる。
玲司の声は静かだったが、部屋の空気を切り裂くような重みがあった。
「もう一つの理由は、貴方が趙天龍ではないからだ」
言葉を放った瞬間、目の前の男の表情が変わる。驚きの色が一瞬で走り、目を天に向けたかと思うと、刹那に笑い出した。その笑いは、驚愕と冷笑が入り混じった不可解なものだった。
「はは……なるほど、貴様、なかなか鋭いな」男は低く唸るように言い、しかしその声にはわずかに動揺が混ざっていた。「よくも見抜いた……だが、ここまで辿り着くとは、さすが日本の闇銀行家よ」
背後の側近たちも微かにざわめく。銃口はまだ頭上に向けられているが、主の変化に一瞬戸惑いを見せる。
玲司は一歩も動かず、冷静に男を見据える。心の中では瞬時に盤面を再構築していた――目の前の人物は趙ではない。ならば、何が目的で自ら現れたのか。これは単なる接触ではなく、心理戦の布石、あるいは試されているのかもしれない。
男の笑いは収まらない。だがその裏には、敵意や疑念の炎が微かに揺らめく。玲司は沈着に息を整え、次の言葉を待つ──ここで動揺すれば、すべてが崩れることを、彼は知っていた。
この瞬間、香港の高層オフィスは、ただの取引の場ではなく、命と信用を賭けた心理戦の舞台へと変貌していた。
笑いが収まると、部屋の空気が一瞬凍りついた。背後の扉が静かに開き、一人の女がゆっくりと入ってくる。
彼女の姿は簡素ながらも気品があり、歩くたびに足音が床に柔らかく響く。黒のスーツに身を包み、冷たい視線を玲司に向けるその瞳には、計算と決意が宿っていた。
「遅くなったわね……」男の声が低く響く。だが、その声には以前の威圧感と高笑いの余韻がまだ残っており、微妙に揺れる緊張感が部屋全体を包む。
玲司は動じず、椅子に腰を落としたまま女を観察する。直感的に、この人物の存在はただの付き添いや通訳ではないと感じた。彼女の目つき、立ち振る舞い、そして入室のタイミング──すべてが計算されている。
「……あなたは?」玲司は静かに問いかける。声には冷静さが漂うが、内心では警戒の刃を研いでいた。
女は一歩近づき、軽く頭を傾ける。その表情に微かな笑みが浮かぶが、笑みの裏には鋭い意思が隠されているのが明らかだった。
この瞬間、玲司は理解する。目の前の状況は単なる現物換金の会談ではない――心理戦、駆け引き、そして未知のリスクが混ざり合う場になったのだ、と。
部屋の空気は再び張り詰める。女の登場によって、盤面はさらに複雑化し、玲司は冷静に次の一手を考える必要に迫られた。
女は静かに歩みを止め、玲司をまっすぐに見据えた。低く響く声が部屋の静寂を切り裂く。
「初めまして、ミスター篠崎。私が趙天龍よ」
その一言に、部屋の空気が一層緊張する。先ほどの男は微かに顔色を変え、玲司を観察する視線も鋭さを増す。背後の側近たちも一瞬、息を呑んだ。
玲司は微動だにせず、静かに頭を軽く下げる。声を発する前に、一呼吸置く――これは単なる挨拶ではなく、初対面から駆け引きが始まる合図だと直感したからだ。
「……なるほど、貴方が本物の趙天龍か」玲司の声は低く、冷静を装っていたが、内心では緊張と計算が交錯していた。彼女の登場で、単なる換金取引の場は、真の心理戦の舞台へと変わったのだ。
趙は微かに笑みを浮かべ、しかしその笑みの裏には冷徹な意思が隠されている。玲司はその一瞬の表情を逃さず、次の一手を頭の中で素早くシミュレートする。
「ここからが本当の交渉ね、ミスター篠崎」趙の声には柔らかさと同時に鋭さが同居しており、その場にいる全員の緊張をさらに高めていた。
玲司は深く息を吸い込み、心の中で盤面を整理する。目の前の女性が本物の趙天龍である以上、すべての発言、すべての動作が命と信用を賭けた駆け引きになる――この瞬間から、香港のオフィスは完全に心理戦の舞台となった。
趙は静かに目の前の男に目配せを送り、部屋の緊張感を支配するかのように、その指示だけで男は一歩引いた。
そして彼女自身が玲司の眼前に腰を下ろす。動作は滑らかで威厳に満ち、まるでこの場全体の中心に座ることを許されているかのようだ。背筋を伸ばし、落ち着いた仕草で座るその姿には、トップとしての風格と冷徹さが漂っていた。
目の前の古びた茶器はそっと下げられ、代わりに新しい茶器とともに熱い茶が注がれる。湯気がふわりと立ち、香りが部屋に広がる。玲司は手元の茶器を一瞥し、直感でその香りと色を確認する。もちろん、すぐには口をつけない。
茶の香りに誘われるように微かに動いた趙の手元も、無駄な動きはない。すべてが計算され、互いの心理を試すかのような間合いで進行していた。
玲司は静かに呼吸を整え、次の瞬間の駆け引きを頭の中で整理する。茶器を介したこの一連の動作だけでも、彼女の意図と計算が潜んでいることは明白だった。ここから始まるのは、単なる宝飾換金の交渉ではなく、互いの力量と駆け引きを試す心理戦なのだと、玲司は直感していた。
趙は静かに茶器を手元に置き、玲司をまっすぐに見据えた。声は落ち着いているが、その一言一言には鋭い重みがあった。
「あのまま茶に手をつける男なら、私たちの組織には必要ない」
言葉の響きには単なる忠告ではなく、試すような挑発の色が含まれていた。玲司の目は微動だにせず、だが心の中では冷静にその意味を解析していた――この茶はただの飲み物ではない。相手は心理戦を仕掛け、反応を見極めようとしているのだ。
趙は続ける。
「この世界、用心深さが必要……ね、そう思うでしょ?」
その声に柔らかさが混ざる瞬間、室内の空気はさらに緊張感を増す。微かな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には冷徹な計算が隠されている。
玲司はゆっくりと息を吸い込み、静かに頷いた。声には出さないが、頭の中ではすでに次の手を巡らせている。彼にとってこの瞬間は、交渉の始まりであり、同時に自らの冷静さと洞察力を試される試金石でもあった。
その場に漂うのは、茶の香りと微かな緊張、そして互いの駆け引きの予感――香港のオフィスは、目に見えない心理戦の舞台と化していた。
玲司は静かに手元の茶を持ち上げ、一口ずつ慎重に飲み干す。茶の香りと熱を感じながらも、表情は微動だにせず冷静そのものだった。
最後の一口を飲み終えると、彼はゆっくりと茶器を置き、静かな声で言った。
「お招きに預かり光栄です、Miss 趙」
その言葉には礼儀だけでなく、慎重さと洞察の含みがあった。挑発を受けつつも、動揺せずに対応する冷静さ――これが、玲司の持つ闇銀行家としての力量を端的に示していた。
趙はその返答を聞くと、微かに眉を上げ、室内に淡い笑みを浮かべる。その笑みには評価の色が含まれ、先ほどの挑発が単なる試しであったことを示唆していた。
部屋の空気は再び沈黙に包まれ、互いの視線が交錯する。これから始まる交渉は、単なる現物換金の話ではなく、心理戦、駆け引き、そして相手の力量を測る本格的な戦いとなることを、誰もが予感していた。




