第2話/銀行口座
表向きには、ただの募集だった。目立たない文言をいくつかSNSに撒き、反応を待つ。文面は短く、無害に見える言葉でまとめる——「困っている口座を買います。相談だけでも。まずはメッセージで」。目立つ宣伝を打つ必要はない。目利きは自然と集まってくる。多くは目ぼしいものを求めている連中か、首の回らない人間、あるいは単に好奇心が強い若者だ。
反応は夕方から深夜にかけて増える。匿名アカウントからの短いメッセージ。最初の取り次ぎはSNSのダイレクトメッセージで軽く済ませる。ここで俺がするのは、一つだけ――相手をTelegramへ誘導することだ。Telegramは便利だ。既読や通知を消すような設定もあるし、やり取りが外に漏れるリスクが少ない気がする。だが本当に重要なのはプラットフォームではなく、相手の態度だ。消えかけのアカウントから来る文章の文脈、絵文字の使い方、返信の速さ。そういうちっぽけな兆候から、相手の本気度と居場所を肌で測る。
最初のメッセージで、俺はあえて突っ込んだことは訊かない。重たい質問で相手を逃がすのは愚かなやり方だ。代わりに、相手がどれだけ切羽詰まっているか、どれだけ淡々としているかを見極める。言葉が乱暴ならば詐欺やヤミ金の関係者かもしれない。過度に慎重なら、本当に何かを隠している可能性が高い。どちらも扱い方が違う。俺は早口に二、三の選別用テンプレの問いを投げる――だがそれは台本のようなものではなく、相手の反応を引き出すための小石だ。相手がどう返すかで次の駒を決める。
Telegramに移ると、訊くべき“肝心な話”をぼかしつつ進める。相手には名乗らせることもあるし、名乗らせないこともある。重要なのは相手の状況を把握することだ——口座が普段どう使われているか、どの銀行か(地銀なのか都市銀行なのか)、名義人の年齢層、オンラインバンキングの有無……そういう話はするが、具体的な操作法や抜け道については口にしない。俺の興味は「使いやすさ」ではなく「使える可能性」と「リスクの度合い」だ。相手が正直に話すかどうか、嘘をついているかもしれないポイントを見つけることが、俺の最初の仕事だ。
ある者は簡単に話す。離婚して生活が苦しい主婦、働き口が見つからないフリーター、借金を抱えた中年。彼らの文面には疲労と諦観が滲む。別の者はためらいながら切り出す。「本当に大丈夫ですか。警察に捕まったら…」と。そんなとき、俺はあくまで淡々と、しかし誠意を込めて言葉を返す。誠意の演出は取引の潤滑油だ。だがそれは同情ではなく、効率のための戦術でもある。
初期の段階でやるのは「身元の程度の把握」だ。ここで言う「程度」とは、詳しい個人情報を集めることではない。相手がどれだけ追い詰められているか、どれだけ追跡の恐れを理解しているか、売る口座にどれほど執着やためらいがあるかを知りたいのだ。例えば、年金受給者なら手続きの変化に気づきやすいだろうし、普段の入出金が激しい人なら口座の動きを説明せざるを得なくなる。俺はそうした“生活の匂い”を言葉の端々から嗅ぎ取る。
銀行の種類を聞くのは重要だが、それは単なるラベルに過ぎない。都市部の大手行はネットワークが太く、監視の目も厳しい。地方の地銀は穴場に見えるが、地域コミュニティが絡むリスクもある。どちらにも一長一短がある。だが俺の判断基準は常に同じだ——その口座がどれだけ“自然に振る舞えるか”。日常の入出金に不自然さがないか。人目に付く動きが起きた時に名義人が説明できるか。そうしたことを総合して、買い取りを進めるか否かを決める。
やり取りの中で必ず出るのは「どうして売るのか」という問いだ。理由は様々だが、多くは簡潔だ――現金が必要、生活が立ち行かない、誰にも相談できない。稀に、好奇心や悪戯心で名義を手放す若者もいる。理由が軽いと見える相手は処理が危うい。売る理由に重大さがあれば、その人物は口座が犯罪に使われることを理解している可能性が高く、リスク管理がしやすい。俺はそこに確かな商売の論理を見出す。売る側がどれだけ“現実”を知っているかが、結果的に俺のリスクを左右するのだ。
一次的なやり取りで大体の目星がついたら、俺は次の段階を示唆する。会って話すこと、もしくは匿名での小さな確認をすること。ここで重要なのは、相手に「逃げ道」を残してやることだ。逃げ道が完全に塞がれている者はおそらく動揺しやすい。逆に、追い込まれすぎている者は冷静さを欠きやすい。俺は相手の心理を操作するというより、相手が自然に選べる範囲を提供するだけだ。選択肢があるように見えて、実際は俺のペースに嵌めていく。商売は常にそういうものだ。
ある日、俺は若い男とやり取りを始めた。彼は地方の小さな町に住む派遣社員で、口調はどこか素朴だった。彼の口座は地元の信用金庫にあるという。やり取りを進めるうち、彼が会社からの給料振込口座を持て余していること、生活の行き詰まりを感じていることが分かった。会うか郵便でやり取りするかの選択肢を与えたところ、彼は怖がりながらも喫茶店で会うことを選んだ。喫茶店の明かりは柔らかく、俺は彼の顔を見て金額と条件を提示した。彼の目に浮かんだのは安堵だけだった。
取引は平気で人を変える。彼はその場で通帳とカードを差し出し、小さな封筒を受け取った。受け取った瞬間の彼の体の緩み方を、俺は忘れない。だが脳裏の一角では常に警告音が鳴っている。こうして得た通帳がどこで、どのように使われるか。誰がそれを使って何をしようとしているか。俺はそれらを頭の中で分解し、最も合理的で、しかも最も安全だと思えるルートで組み込む。具体的な“動かし方”はここでは語らない。物語にとって必要なのは、取引が持つ生々しい感触と、それが生み出す道徳の欠片だ。
取引の終わりに、俺はいつも同じ言葉をかける――本心では慰めでもなく、方法論でもない。ただ次にまた破片が必要になった時に、相手が暴走しないように、静かに距離を取るための言葉だ。彼らはそれで救われた気になり、俺は仕事の蓄えを増やす。どちらも傷を抱えて次の朝を迎えるだけだ。
こうして、俺の“銀行”は少しずつ口座を積み上げていった。SNSの小さな募集から始まった連鎖は、Telegramの会話を通じて一つ一つ形になり、やがて俺の頭の中のネットワークに組み込まれていく。だが俺は知っている――どれだけ整然と積み上げても、その山はいつでも崩れ得る土の山だということを。だから俺は顔を上げず、日々の小さな手触りを大事にしながら、新しい名義を財布の中に押し込んでいくのだった。
遠方との取り引きは、街で会う取引とは質が違う。匿名性が高い分だけリスクもある――だが、同じくらい手間をかければコントロールも効く。以下はその描写を一人称で続けたもの。具体的な違法手口のマニュアルには踏み込まず、取引の心理と雰囲気、逃げられないように「縛る」ための描写に重点を置いている。
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ネット越しの相手とは、最初から「会えない」前提で始めることが多い。地方の若者、出稼ぎの労働者、あるいは海外在住のアカウント――顔も本名も分からない。ただし、俺はそれを逆に利用した。遠方の相手は、来訪の手間や時間の都合で心理的に追い込まれていることが多い。そこにこちらのペースを割り込ませるのだ。
最初にやるのは身元確認だ。だがそれは単なるID照合ではない。相手が「この先、逃げるかどうか」を測るための試金石だ。だから俺は要求を細かくする。自撮りの写真を一枚送らせる。それだけじゃ信頼度が低ければ、別角度の写真や、指定した合図をした短い動画を追加で送らせる。連絡先は単なる連絡手段ではなく、こちらの管理の入口だ。メッセンジャーのアカウントを教えさせ、連絡の履歴を溜める。連絡が断たれればこちらは即座に判断できる。逃げられないように、相手の行動範囲を透明化していくのだ。
さらに踏み込む場合、俺は自宅付近の写真や、玄関に向かうまでの短い動画を撮らせることがある。これは残酷に聞こえるかもしれないが、目的は単純だ――相手が本当にそこに住んでいるかどうかを確認するためだ。遠方の匿名の相手が突然消息を絶った時、俺たちはまず「存在しない相手」として扱われる。だが住所の片鱗があれば、向こうの行動に制約をかけられる。警察に追跡されるリスクがあるとすれば、相手を事前に見ておくことが、こちらの安全のための最低限の保険になる。俺はそれを「警察避け」と呼んでいた――皮肉な言葉だが、裏社会では防御と攻撃は紙一重だ。
要求を重ねるたびに、相手は心理的に屈していく。最初は抵抗していた若者も、数回のやり取りで諦めと理解が混じった口調に変わる。彼らは「逃げること」を選べる立場ではなくなる。そこに積み上がるのは、情報という名の小さな鎖だ。俺はそれを一つずつ手繰り、相手の動きを想像しながら、最も都合のいいタイミングで金を動かす準備をする。
だが、そんな縛りをしている自分のやり方に、夜になると微かな嫌悪が湧く。目の前で震えている人間の顔を見て、俺は自分が何をしているのかを思い知らされる。要求は合理的で効率的だが、その効率の裏には人間の生活が粉々に砕かれる音がある。俺は母の呪いを金で拭おうとして、他人の人生を小さな紙片のように扱っている。嫌悪は瞬間的だが無視できない。だから俺は、いつも少しだけ声色を柔らかくする。相手が安心するための言葉を投げる。それは慈悲ではなく、作戦の一部だと知りながら。
あるとき、遠方の相手が本当に消えた。最初はメッセンジャーの既読がつかず、次に小さなミスが見つかった。提出された画像の日付が矛盾していた。住所の写真は角度が違い、壁紙の模様が合わなかった。こちらが微かな違和感を拾った瞬間、組織の上層から圧がかかる。消えられると資金が凍る。損失は直接、俺の懐に跳ね返る。俺は動揺を見せず、ただ淡々と次の手を打つように指示を飛ばしたが、内心は冷たい汗で満ちていた。
警察避け――それは言葉の魔法に過ぎない。どれだけ備えても、想定外は起きる。ネットは便利だが嘘と真実が混ざり合う海だ。そこに足を踏み入れた者は、いつか自分の足場が崩れる瞬間を待つしかない。だがその「いつか」を引き延ばすことが、俺の仕事であり生業でもある。
夜、明かりを落としたアパートの机で、僕はこれまで集めた写真や動画のサムネイルを見返す。知らない誰かの玄関、誰かの足音、誰かの指先。小さなファイルの集積は、いつしか俺の権力の証左になっていく。だが手元に寄せ集められたそれらは、決して温もりを持っていない。冷たく、均質で、決して救いを約束しない。
電話が鳴る。遠方からの依頼だ。俺は画面に指を滑らせ、また新しい縛りを編み始める。逃げられないように。崩れないように。だが心のどこかで、いつかこの鎖が自分を締め上げると知っている。