第17話/バルター二の使者
しとしとと降る小雨の夜、空港のVIPラウンジとは違う、もっと内向きで人目の届かない料亭の個室に――バルターニ・コンソーシアムの「使者」は現れた。黒いロングコートの裾を湿らせながら、彼はゆっくりと座の側に着き、薄い笑みをひとつだけ残した。
名はエンリコ・マルティーニ(Enrico Martini)。西欧の外交官を思わせる顔立ちだが、目つきの冷たさは商人のそれではなく、筋から来る厳しさを帯びている。彼の背後には、礼節を保った数名の影が控えていた。武装ではない。むしろ「存在そのものが交渉力である」ことを示す、洗練された威圧だった。
玲司は淡々と迎え、向かいの座に一言だけ告げる。
「ようこそ。話は短く済ませよう。」
間を置かずに、エンリコは開口一番に条件を提示する。
「我々は二つのことを望む――速度と確実性だ。手数料として二割を支払う用意がある。残余は現金化してバルターニ側に渡す。額は三十億だ。これが我々の提示だ。条件を飲めるか?」
その言葉の切り出し方は、交渉ではなく提示に近い。だが交渉の余地は当然あった。玲司はゆっくりと相手の瞳を見据えた。テーブル上にはコーヒーも書類もない。両者の間にあるのは、金額と信頼と、暗黙の危険だけだった。
「二割だな」玲司は短く復唱した。
エンリコは頷く。
「我々のリスクを含めてだ。これが実行可能であるなら、このラインで我々は動く。」
料亭の個室に同席した幹部たちの顔に、微かな変化が走る。尾崎の唇がわずかに動き、松永の手の甲が白くなる。三十億という数字は数字以上の重さを持つ。だがもっと重いのは「その金がどれだけ安全に動くか」という見えない問題だった。
玲司は言葉を濾して答える。
「条件は飲む。ただし、我々の枠組みで動くことが前提だ。直接のやり取りは避ける。報酬の配分と、何らかの“担保”の提示が必要だ。互いに透明ではなくとも、互いに信頼できる合意を残すことだ」
エンリコは薄く笑い、鞄から一枚のカードのようなものを差し出した。それは単なる名刺ではない。向こう側の「信用」と「筋」を示す象徴的な品だった。使者の所作は慎ましく、しかし確信に満ちている。彼の一礼は、契約の前提としての信頼を示したに等しい。
会話は続き、細部は詰められていく。支払いスキームの時期、受け渡しのエリア、仲介の数、失敗時の罰則――その場で全てを詰めるわけではない。両者は共通の前提を確認し、互いに「枠組み」を確定させるにとどめた。玲司は幹部に視線を送り、そこで誰が顔色を変えるか、誰が目を輝かせるかを確かめる。反応が計算どおりならば、実行へ向けて動き出す準備は整う。
最後に、エンリコは低く告げた。
「手数料二割。手数料を差し引いた三十億がバルターニに渡る。これが我々の最終提示だ。条件を受け入れたら、我々は来日する本体へ報告し、日程を確定する。慎重にしろ。動けば、世界が一つ動く。」
玲司は静かに頷いた。言葉は少なかったが、その場の空気は固く結ばれた。幹部たちの中で、賛同の意思を示す者が再び拳を固める。躊躇する者は沈黙を守ったが、決定は下った。彼らは賭けることを選んだ。
個室を出る直前、エンリコはふと一言付け加えた。
「最後に一つだけ忠告を――我々は金を動かすだけではない。ここは日本だ。ここには別の‘目’がある。その目を完全に消すことはできない。我々はそれを承知で来ている。だが、お互いにプロフェッショナルであれば、問題は最小化できるはずだ」
その言葉は短い警告であり、同時に共犯への招待でもあった。玲司は冷ややかに笑み、応じる。
「承知した。だが忘れるな、ここは我々の庭でもある。ルールは我々が作る」
使者が引き上げ、夜の空気が再び個室を満たす。幹部たちは互いに視線を交わし、胸の奥に緊張と期待を同時に抱えた。三十億という額は、彼らにとって夢のようなものであると同時に、壊滅の危険を孕んだ刃でもある。
その夜、玲司は一人静かに窓際で光る街を見下ろした。胸の中に入ってきたのは確信だけではない。エンリコの言葉の重さ――「別の目」の存在。国内の警察、金融機関の監視、国際的な嗅ぎ回り。見えない網は確かにそこにあった。
だが賭けは始まっていた。ルールは決まった。手数料二割、残額三十億をバルターニへ。合意は交わされた──あとは動くだけだ。
合意の紙切れは床に落ちず、言葉だけが空間に残った。三十億をめぐる賭けは動き出した。だが金が動けば、見えない目は必ず反応する。玲司はそのことを知りながらも、背筋を伸ばして次の手を思案するのだった。
玲司の命令は静かに、しかし速やかに顔を巡った。
「場所はまだ白紙だ。だが各拠点は“作業準備”を始めろ。三十億を受け入れられる体制を整える。余計な会話はするな。──とだけ伝えろ」
その一文は会議室で紙切れにもならず、幹部の耳へと届いた。言葉は短いが、意味は重い。全国に張り巡らされた“支店”──地方の小さな帳場、古い不動産屋の屋号を借りた事務所、誰も注目しない匿名のカウンター──それぞれに、同様の指示が落ちる。各自、三十億の現金を一時的に用意すること。理由は「未定」だが、準備せよ、という命令だった。
幹部たちはすぐに動いた。だがその動きは華やかさも雑然さもない。音のしない用意、視線を交わさぬ手配、誰にも気づかれぬ時間帯の調整。尾崎は地元の顔役と、松永は昔からの仲介者と短く会合を交わす。佐伯は数字を弾き、川端は末端の連絡網に細かく指示を送る。皆、顔には疲れを貼り付けているが、手は迷わない。
玲司が意図したのは、単純な「集金」ではない。三十億という数字は、物理的な重みだけでなく「見られる」ことの重さを伴う。だからこそ、彼は「準備」という言葉を使った。準備とは、単に金を集めることだけではない。心理の準備、監視の想定、そして万一の際に公的な目が向いたときに示すべき体裁を整えるということだ。
各拠点ではまず「表向きの理由」が仕立てられた。商取引の精算だ、建材の先払だ、季節性の在庫代金だ——それらは外形を取り繕うための簡潔な脚本でしかない。内部ではさらに厳重なルールが敷かれる。会話のログは不必要に残さぬこと、立ち入りの記録を分割すること、出入りする人間は最小限にすること。だがここで注意すべきは、どんなに書いても、実際の“方法”はここで語ってはならないということだ。玲司が求めたのは「慎重さ」であり、手順の公開ではない。
緊張は人を細かくする。ある地方の支店長は渡された指示書を何度も読み返し、夜半に布団の中で天井を見つめた。支店の給与や生計を守ることと、国家の眼差しのリスクの間で、彼の胃の奥は締め付けられる。別の幹部は「備え」のために助言を求めるが、玲司の返答はいつも静かで簡潔だった。「見られぬようにしろ。見られたら、結果を買えるかどうかだ」──その短い言葉が、各地の決断を加速させる。
同時に玲司は外部のリスクにも目を配る。地方での“集積”が目立てば、金融機関の職員や税の目が動く。だから彼は監視の想定を作り、想定された監視に対する“説明の体裁”を幾つか用意しておく。だがこれはあくまで「説明の型」を用意することであって、実際のやり方の指南ではない。物語の中で描けるのは、そこに湧き上がる不安と緊張、そして人々の顔である。
準備は三段階で進行した。まず「可用性の確保」——各拠点が臨時に大口を扱う準備を整える。次に「心理の固着」——担当者に対する動機付けと保証の提示が行われる。最後に「内部の素早い連携」——問題が起きた際の連絡経路が一本化され、その時の判断は中央が主導する、という体制だ。ここでも重要なのは詳細な実務ではなく、統率と責任の枠組みが整備されることだ。
緊張はやがて具体的な行動を呼ぶ。夜明け前、ある拠点の事務所に数人の顔が集まった。静かな動作、黙々とした受け渡し。そこに立ち会った者たちの顔は硬く、ユーモアは消えている。彼らは自分たちの選択の重みを知っていた。成功すれば組織の基盤は一気に強まる。失敗すれば、多くが日常を失う。誰も笑わない理由がそこにあった。
一方で、玲司は常に“観察者”としての位置を保った。現場で泥を被る者を直接命じるのではなく、遠目に全体を読んで微調整を加える。彼は幹部会で短い報告を受けるだけで、ほとんどを自分の頭の中で処理していった。誰が怯え、誰がやる気を見せ、誰が事態を軽視するか——それらの情報は、次の一手を決める材料だった。
だが、どれだけ慎重を期しても、リスクはゼロにはならない。ある地元の帳場では、予期せぬ外部からの問い合わせが入り、幹部は一瞬の恐怖に襲われる。別の場所では、部下の一人が心労で倒れ、対応に手間取る。玲司はそれら全てを“想定内”として扱い、即座に代替策を動かす。慎重でありながら機動的であること。これが彼の求めたバランスだ。
夜が更けて、全国の拠点が準備を終えると、幹部たちは再び本部に集まった。顔には疲労と安堵が交差する。玲司は一度だけ静かに口を開く。
「これで動く。だが忘れるな——この仕事は我々の存在を一段と目立たせる。成功は我々の ‘銀行’ を盤石にするが、見られた時の代償もまた大きい。お前たちは自分の選択を背負え。だが後悔は許さん」
幹部の誰かが小さく息を吐き、次いで全員が深く頷いた。その頷きは覚悟の合図であり、同時に沈黙の契約でもあった。
料亭の個室を出た夜から数日が経ち、街はいつもの雑踏をたたえていた。しかし玲司の世界では、雑踏の音さえも計算の対象だ。端末に届いた新たなメッセージは短く、だが刺々しいほどに鮮烈だった。発信は再びエンリコ経由──バルターニ側の意思は既に明確だった。
「受け取り場所確定。兵庫・神戸、東京・新宿、九州・博多。各所一〇億、同時受領。時間は追って指定する。遅延不可。準備を整えよ。」
三つの都市、三つの地点。各一〇億が同時に動く──その情報を読み終えた瞬間、玲司の中で盤面が一気に組み上がる。三十億が一度に動く意味。それは資金の“同時注入”によって、受け皿を持つ者たちの力関係を一挙に変えるための仕掛けだ。だが同時であることは同時にリスクも増幅する。時間的余裕はほとんどない。
玲司は端末を置き、静かに幹部を呼んだ。会議室に集まった顔ぶれは、尾崎、松永、佐伯、川端、そして数名の地方担当たち。表情は硬く、空気は緊張で満ちている。
「三都市。神戸、歌舞伎町、博多。各一〇億を同時に受け取る。相手の指定だ」
玲司の言葉は冷たく、だが無駄がない。幹部たちは互いに視線を交わし、瞬時に役割分担を念頭に置いた。
尾崎が神戸を請け持つことになった。彼の縄張りは関西方面に強固で、地元の顔役との関係を活用できる。尾崎は額に薄い線を刻みながら頷く。「神戸は任せろ。地元の顔役と調整する。だが相手筋の確認は厳密にな。見えるところは最小にする。」
松永は新宿を引き受ける。歌舞伎町の雑多な熱気は、同時受け取りのカバーに向いているが、警察の目もまた集まりやすい。松永は低い声で言った。「新宿は動きやすい。だが失敗のコストも高い。だれが表に出るかは厳格に決める。」
博多は川端が担当する。九州ルートは彼の担当として慣れており、博多の港湾や人脈の“隙間”を使える。川端は静かに頷き、「現地の調整は今からだ」と返した。
一方で佐伯は顔をしかめ、慎重に口を開く。「同時だと、外部の監視は一気に反応する。時間差で逃げ道をつくる余地がない。何かあれば、全体が一網打尽になる可能性もある──それでも行くのか?」
玲司はじっと佐伯を見据え、静かに答えた。「行く。だが“やり方”で勝負するのではない。心理と情報で抑える。各地での受け皿は我々が決める。我々のルールで動かせば、外圧の影響は最小化できる。」彼は言葉を濾して次を付け加える。「だが、覚悟を持て。これに賛成した者は自分の決定に責任を持つ。失敗の代償は大きい。」
それからの準備は音のしない行軍だった。各地の担当はローカルの顔を密かに呼び、受け皿となる場所を“見立て”る。だがここで重要なのは“場所”の具体的な描写ではない。玲司が厳命したのは、「痕跡を残さない」「目立たない体裁を作る」「不測の事態のための代替案を必ず用意する」──言葉は抽象的でも、現場には緊張が走った。
神戸では尾崎の面子と地元の懐柔が絡み合う。尾崎は地元の男たちに低く指示し、彼らは黙って頷く。博多では川端が昔の縁で差配をする。彼は旧知の業者に一目で合図を送り、夜の帳が下りる頃には“手配”が整い始めた。新宿では松永が歌舞伎町の数人の“連絡役”と短い会合を開き、事態の大きさを彼らに暗示しつつ動きを抑え込む術を伝えた。
同時に玲司は中央で“心理の枠組み”を整えた。受け皿の責任者には、遅延や失敗の際の“代償”と“保証”を示した──代償は冷徹で、保証は計算された恩恵だ。忠誠は報酬と恐怖で成す。幹部たちはそれを理解していた。彼らの覚悟の重量が、会議室の空気を押し下げる。
最も重要だったのは「同期」である。三地が同時に動くという条件は、外部の監視に反応する時間を与えないという利点がある反面、内部の連携が遅れれば致命的だ。そこで玲司は“信号”を幾つか定めた。端的な合図、予備の無線、確認の手順──その一つ一つは機密として扱われ、口外を禁じられた。だが物語として描けるのは、彼らがそのために不眠不休で調整した事実と、各地で張りつめる人々の表情である。
夜を挟んだ最終ミーティングの時、幹部たちは皆、目の下に深い影を刻んでいた。誰もが宿命の重さを理解している。玲司は短く言葉をまとめる。
「この日は“完璧”を目指す。だが完璧は神話だ。最悪の場合、我々は代替の筋道を動かす。重要なのは、全員が我々の一部として動くことだ。裏切りがあれば、即座に壊滅のリスクが高まる。誰も裏切るな。だが恐怖で縛るな──自分の意思で動け。」
幹部たちは深く頷いた。だがその頷きの奥にあるのは、期待と恐怖と微かな疑念が混じった複雑な色合いだった。誰か一人の足が躓けば、全てが崩れる。その重みが皆の背中にのしかかる。
受け渡しの「時間」は未公表のまま、玲司は外部からの最終連絡を待つ。使者のエンリコは既に告げている──遅延は許されない。彼らが提示した同時性の条件は、バルターニ側の筋の確実さと自信の表れでもあった。だが同時に、それは彼らの腕の見せ所でもある。
準備の夜が更ける。神戸の港の灯、歌舞伎町のネオン、博多の屋台の煙──三つの異なる風景が、同じ瞬間に同じ重さの金を抱くことになる。その瞬間、玲司は窓際に立ち、街の光を見下ろす。胸の中には冷ややかな確信があると同時に、小さな不安もある。賭けは既に始まっている。あとはタイミングと人の心だけだ。
三都の時計が同じ刻を刻むとき、三十億は一点に収束する。だが金が動けば、必ず何かが動く。目に見えぬ力が反応し、世界は予期せぬ歯車を回し始める──玲司はその音を耳澄まし、次の手を準備していた。
慎重に整えられた動きは、やがて静かに動き出す。三十億という影は、各地の影を通じてゆっくりと流れを作る。だが流れが生まれるたびに、見えない目は何度も瞬き、世界は少しずつ反応を始める――玲司はその反応を一つ一つ読み取り、次の局面を冷徹に組み上げていった。




