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第1話/篠崎 玲司(しのざき れいじ)

 俺の仕事は、金を動かすことだ。

 それも正規の銀行じゃない。裏の銀行。誰にも存在を知られない、闇の銀行だ。


 全国に散らばる口座を束ね、そこに流れ込む金を仕分け、必要に応じて形を変えて吐き出す。ある時は架空の会社の資本金として、ある時は不動産の購入資金に化け、またある時は現金の束となって依頼者の手元に届く。電話一本あれば、俺のネットワークは音もなく動き出す。依頼者の要望通りに金を洗浄し、手数料を抜いたうえで「綺麗な」金を渡す。それが俺の役割だ。


 この世界では信用なんてクソの役にも立たない。唯一信用できるのは数字と金の流れだけ。裏切るのも、命を奪うのも人間だ。だが金は嘘をつかない。だからこそ、俺は金にすがり、金に生かされている。


 俺がこうなったのは、必然だったのかもしれない。

 俺は「忌み子」と呼ばれて育った。


 母の口からその言葉を初めて聞いたのは、小学校の低学年の頃だ。近所の子どもと喧嘩して、「お前は親父がいないから変なんだ」と言われて泣きながら帰ってきた時、母はただ一言、「あんたは忌み子なんだよ」と呟いた。慰めでも叱責でもなく、事実を告げるように。俺は意味も分からずに黙り込んだ。


 後になって理解した。俺は御落胤――旧華族筋の名家に生まれた男の、正式に認められぬ子だった。父は母を囲い、俺を孕ませたが、俺の存在は「穢れ」以外の何物でもなかった。表に出すことも、認めることもできない。だから「忌み子」という烙印を押され、母の影の中に押し込められた。


 俺の戸籍は曖昧だった。名前こそあるが、父の欄は空白。母は病弱で働けず、生活は常にぎりぎり。親戚は「厄介者」と俺らを避け、同級生からも「変な家の子」と囁かれた。俺は人との距離を測ることを覚え、人の目を避けて生きる術を覚えた。


 十七の時、母は病で死んだ。病室で細い手を握りしめた俺に、母はかすれた声でこう言った。

「玲司、お前は……金を持て。金は人を黙らせる。血筋も、忌みも、全部ねじ伏せられるのは金だけだ」

 その言葉を遺し、母は息を引き取った。


 残された俺には、金も学もコネもなかった。バイトを探しても、身元の怪しさで雇ってもらえない。やがて夜の街で、怪しい連中の荷物を運ぶ仕事に手を出した。封筒やカバンを指定された相手に渡すだけの仕事だ。だが渡した中身が札束だと気づいた時、俺の中で何かがざわめいた。


 金は、俺を拒絶しない。

 人間は俺を「忌み子」と呼んで捨てるが、金は俺に微笑んだ。


 それから俺は、数字と口座にのめり込んだ。銀行の仕組みを調べ、振込の痕跡をどう消すかを学び、どのタイミングで資金を移せば監視に引っかからないかを独学で試した。組織の小さな金の流れを任されるようになり、気づけば俺は「金を操る」ことに関して右に出る者はいないと言われるようになった。


 今、俺は組織の「銀行家」だ。表の銀行が拒む者たちに金を貸し、洗い、運ぶ。裏社会にとって俺は血の通わぬ金融機関そのものだ。

 皮肉だろう。血筋も家族も俺を拒んだが、金の世界だけは俺を受け入れた。


 俺は忌み子。だが同時に、裏社会の銀行家でもある。

 その二つの烙印を背負って、今日もまた電話を待っている。


 ――電話一本で、金が動く。

 それが、俺の存在証明だ。


 最初に足を突っ込んだのは、振込詐欺の受け子だった。

「受け子」ってのはな、口座から現金を引き出すだけの歯車みたいな役割だ。俺がやっていたのも、まさにそれだ。組織が手に入れた“名義貸し口座”に金が振り込まれる。老人をだまして送らせた金だ。で、俺は銀行の窓口やATMに並んで、何食わぬ顔でその金を引き出す。ただそれだけ。頭なんて使いやしない。誰でもできる、いちばんリスクが高く、いちばん替えの利く役目だ。


 初めてのときは手が震えて、キャッシュカードを入れるのに三度も失敗した。後ろに並んでいたサラリーマンが舌打ちして、俺の背中を押すように睨みつけてきた。汗が背筋を伝って、機械の操作音がやけに大きく響いた。画面に表示された「出金額 500,000円」を見た瞬間、心臓が喉までせり上がる感覚を覚えた。こんな大金を引き出すなんて、生まれて初めてだった。


 封筒に現金を詰めて外に出たときのことを、今でも覚えている。駅前の雑踏に紛れながら、俺はその重みを何度も確かめた。五十万。それは、俺にとっては現実味のない数字で、同時に「もう戻れない」と背中に刻まれる烙印だった。


 最初の仕事を終えて渡したあと、組織の男にこう言われた。

「悪くねぇ。お前、手先は震えてたが、顔はそこそこ落ち着いて見えたぜ。次もいけるな」


 褒められたわけじゃない。ただ、捨て駒としてまだ使える、と判断されただけだ。だが俺には、それが奇妙に救いに思えた。忌み子と呼ばれ、家からも疎まれ、居場所なんてどこにもなかった俺にとって、「次がある」という言葉は、妙に心を繋ぎ止める響きを持っていたんだ。


 そこから先は、なし崩しだった。受け子として何度も金を引き出し、時には取り調べに怯え、時には成功報酬に酔った。ほんの数万の小遣いのために、俺は確実に裏社会の水に慣れていった。


 そして気づけば、ただの「受け子」から、金を回す仕組みそのものに噛ませてもらえるようになっていた。


 そいつが転機になった。きっかけは大したことじゃなかった――だが、裏では運命の分岐点になるような些細な狂いが、いつもそうであるように、一瞬で物語を変えてしまった。


 その日は、梅雨がようやく明けた翌週の蒸し暑い午後だった。依頼は単純で、大手のATMから三百万円を三回に分けて引き出せ、というもの。口座は高齢者の名義で、振込は詐欺グループの標準ルート。俺はいつもの灰色のパーカーを着て、キャップを目深にかぶり、何事もない顔で列に並んでいた。


 一回目、二回目は問題なく終わった。三回目、俺がカードを入れて操作していると、機械の近くで小さな騒ぎが起きた。後ろに並んでいた奥さん風の女が「この機械、故障してるのかしら!」と大声を出したのだ。群衆の目がそっちに向く。俺は操作を急ぎ、現金の口が開くのを待った——そこへ、制服姿の警察官が現れた。


 心臓が一瞬止まった。ATM周辺に警官が巡回するなんて日常茶飯事だ。だが今回の警官の群れは、ただの巡回ではなかった。隣の窓口に向かって無線で何かを報告する様子が、雑然とした空気をさらに重くした。監視カメラの存在、最近の通報、何かにつけて彼らは目を光らせている。依頼のスケールが大きいと踏んだのかもしれない。あるいは、運が悪かっただけだ。


 普段なら、こういうときはすぐに現場から離れる。引き出しをやめ、次の受け子に差し替えさせるのが安全だ。だが、その日は違った。財布の中の残高、母の葬儀代の残り、そして何より「次の仕事で上に上がる」という約束のために、俺は引き下がれなかった。背中に冷たい汗が伝うのを感じながらも、俺はカードを抜かず、冷静を装った。


 警官がこちらに歩み寄ってきた。目が合う。彼は何気ない声で「そのカード、ちょっと見せてもらえるかな」と言った。普通の市民相手ならそれで終わる。だが俺のカードの名義は高齢者で、所持者と顔が一致しない。尋問が始まれば、状況は破綻する。


 そこで、俺は咄嗟の判断をした。警官の脇にいた窓口係の若い女に目配せをし、微妙なタイミングで咳をしながら声を出した。「すみません、どうやら機械がエラーで紙幣が詰まってるみたいです。通帳で確認してもらえますか?」——要は、機械の故障という自然な理由を作って、警官の関心をそらす作戦だ。


 窓口の女は一瞬戸惑ったが、俺の顔の必死さと、どこかで見た「やつれた庶民」の顔を見て同情したのか、すぐに対応に入った。警官はまず機械の不具合を確認するために注意を払った。俺はその隙に、ATMのインターフェースを巧みに操作し、出金を確定させた。指先は震えていたが、頭は冷静だった。どのタイミングでキャンセルすれば記録が残りにくいか、どの時刻帯なら防犯カメラの死角が使えるか、そういう経験が体に染みついていた。


 金の口が開き、札束を掴む瞬間、世界が狭まった。後ろのざわめき、警官の低い声、窓口の女性の手の動き——全てがスローモーションのように結びつき、俺の手の中の現金が一点の真実になる。封筒を詰める手の感覚が、母の言葉をもう一度囁かせる。「金は人を黙らせる」。


 外へ出ると、待ち合わせ場所に向かう。指定された雑居ビルの裏口で、いつものやり取りが行われた。だがそこで俺は驚いた。受け取り係の男が、いつもと違う顔つきで封筒を開け、札をざっと数えると、無言で俺を見た。視線の先には、いつもの「使い捨て」でも「裏社会の歯車」でもない、評価があった。


「駅のATMで騒ぎがあっただろ?」男は低く言った。「お前、あそこでどうやって抜けた?」

 俺は正直に話した。窓口の女を使ったこと、警官の注意を逸らしたこと、具体的な指示と手順を。男は黙って聞き、最後にひとつだけ言った。「その機転、金を管理できる奴に必要だ。受け子の顔だけじゃなく、頭も使える。次、面倒な案件を経験してみないか?」


 その言葉が、俺の運命を動かした。簡単な褒美や脅しではなかった。信用の提示だった。裏社会で何よりも価値があるのは「使える」と認められることだ。忌み子として何も許されなかった過去を持つ俺には、それが何よりの救いだった。金は重かったが、そのとき受け取ったのはもっと重い「役割」の提示だった。


 その晩、帰り道で俺は暗がりに座り、手の中の千円札の端を指で撫でていた。母の言葉と、男の評価が頭で交錯する。金は人を黙らせる。だが金を回す者になれば、黙るだけでなく、物語を動かす側にもなれるのだと、どこかで俺は思った。


 それが、受け子から「管を握る者」への最初の一歩だった。些細な機転。咄嗟の判断。失敗すれば消えるかもしれない刹那の選択が、俺を次の舞台へ押し上げたのだ。


 あの日を境に、俺の立場は変わった。受け子の仕事は一気に減り、代わりに“口座屋”や“口利き”の連中と顔を合わせる機会が増えた。


 組織は裏金を回すために、いくつもの名義口座を抱えている。老人、学生、破産者、外国人労働者。方法は様々だが、要は金に困ってる奴らから口座を買い取るんだ。その窓口を任されたとき、俺は思った——「俺はもう、ただの歯車じゃない」と。


 初めて取引したのは、リストラされた中年男だった。小汚いスーツにヨレヨレのネクタイ、目の下に深い隈。差し出された通帳には、わずかな残高しかなかった。俺は封筒を机に置き、中身をちらりと見せた。十万円。それは彼にとって最後の救いだったらしい。震える手で通帳とカードを差し出す彼の目を、俺は真っ直ぐに見た。


「ありがとう。これで助かる」


 その言葉が胸に残った。助かる? 本当にそうか? この先、彼の名義は犯罪に使われ、ある日突然、警察に呼び出されることになる。それを知っていても、俺は止めなかった。止められるはずがなかった。俺にとっては、それが「仕事」であり、生きる術だったからだ。


 こうして俺は、金を回す仕組みの中に深く入り込んでいった。銀行口座は血管で、現金は血液だ。俺は心臓のようにそれを送り出し、全国に散らばる“闇の銀行”を動かしていた。依頼があれば、電話一本で即座に金を流す。抜き取る手数料は一割から二割。依頼者にとっては高いが、組織にとっては安いリスク回避策だった。


 現金は分散して管理する。北海道から九州まで、複数の預け先を作り、同じ金を何度も循環させる。帳簿は存在しない。頭の中と、ほんの一部の暗号化された端末にしか記録は残さない。警察や税務署がどれだけ嗅ぎ回っても、痕跡を掴ませない仕組みを作るのが俺の仕事になっていた。


 そして、俺は次第に呼ばれるようになった——「忌み子のくせに、頭は冴えてる」と。


 その呼び名は、幼い頃に背負わされた呪いだった。親族に嫌われ、家に居場所をなくしたときに浴びせられた言葉。だが裏社会では、皮肉にもそれが“通り名”として通用した。忌み子。縁起の悪い名だが、だからこそ逆に相手の印象に残りやすい。誰も忘れない。誰も軽んじない。俺はその名を、裏の名刺代わりにすることにした。


 ある夜、古い雀荘の二階。組織の幹部に呼び出され、俺は酒と煙草の匂いが充満する部屋に足を踏み入れた。幹部は薄笑いを浮かべながら、灰皿に煙草を押し付けてこう言った。


「お前に任せる金は、もう数百万の規模じゃねえ。ゼロが一つ増える。失敗すれば消えるだけだが、やり遂げれば“忌み子”は伝説になる」


 心臓が静かに跳ねた。恐怖と高揚が入り混じる、あの独特の感覚。忌み子と呼ばれていた俺が、いまや金を動かす黒幕の一端を担おうとしている。


 その夜、窓の外に映った自分の顔を見て思った。

 ——もう戻れない。だが、俺は最初から戻る場所なんて持っていなかった。


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