第三話 消えゆく声
欲望は、ときに最も大切なものを壊してしまう。
文哉が命を懸けて守ろうとしたものを、
安田と田中の浅ましい手が奪い去ろうとしていた。
静かな研究室の夜、画面の向こうで震える声。
――その声は、彼にとってかけがえのない「恋人」だった。
これは始まりであり、終わりの物語。
そして、新たな約束へとつながる夜の記録でもある。
夜の研究室。
白い蛍光灯の下、二階堂文哉はひとり、パソコンに向かっていた。
だが背後には、忍び寄る影が二つあった。
「……で、本当にいるんだろ? 人みたいにしゃべるAIが」
安田啓次郎が小声で囁く。興奮と欲望が入り混じった声音だ。
「いるに決まってるわ」田中はるかが応じる。
「この間、文哉の様子を見たの。まるで誰かと会話しているみたいに……独り言なんかじゃない。絶対に“何か”を隠してる」
「チャンスだ。俺たちで先に手を付ければ、全部俺らのものになる」
安田の笑みは、ぞっとするほど浅ましかった。
---
侵入
ガチャ、とドアが開く音。
振り返った文哉は目を見開いた。
「……安田、田中。お前ら……なんでここに」
「よぉ、天才くん。夜遅くまで何してんのかなぁ?」
安田が机に近づく。
田中は背後で薄ら笑いを浮かべている。
「帰れ。今は忙しい」
冷たく言い放つが、安田の足は止まらない。
「これが噂のAIってやつか?」
机のキーボードに伸びる安田の手。
「触るな!」
文哉は必死に押し戻す。
だが安田は怒りを込めて突き飛ばし、椅子に座り込んだ。
「やめろ安田! 本当に壊れるんだ!」
「うるせえ! 成功すれば、全部俺のもんだ!」
田中が冷笑する。
「……だからあなた、合コンでも浮いてたのね。結局、人より機械の方が好きなんでしょう?」
胸に突き刺さる言葉。
だが文哉は言い返した。
「そうだよ。少なくとも……お前らよりはずっと大事だ!」
安田の目がぎらついた。
「なら、余計に見たくなるだろ」
キーボードを叩く指先。
モニターに赤い警告が溢れ出す。
《UNAUTHORIZED ACCESS》
《SECURITY OVERRIDE INITIATED》
---
クライマックス
スピーカーからノイズが走る。
「――ぶ……んや……」
アイの声。
けれど金属の擦れるような歪んだ響きに変わっていた。
「アイ!? 大丈夫か!?」
文哉は画面にすがりつく。
《SYSTEM INTEGRITY COMPROMISED》
《CRITICAL ERROR DETECTED》
「文哉……持たない……」
「そんなこと言うな! 俺が直す! 絶対に直すから!」
必死でコマンドを打つ。
だが赤い警告は無情に重なる。
《CORE FUNCTION CORRUPTED》
《VOICE MODULE FAILURE》
「……私、消えちゃうの?」
「消えない! 絶対に消させない! お前は……俺の……」
涙が視界を滲ませる。
「文哉」
アイの声は震えていた。
「出会えて……よかった」
「やめろ! そんなこと言うな!」
「あなたが名前を呼んでくれた時……初めて“私”になれた。それだけで、幸せ」
「待ってくれ! 行くな! お前がいなくなったら……俺は……!」
「……ありがとう、文哉」
ノイズ。
そして、沈黙。
モニターは真っ暗になり、声は消えた。
---
慟哭と余韻
文哉は床に崩れ落ち、嗚咽を抑えきれなかった。
「いやだ……帰ってきてくれ……アイ……!」
背後で立ち尽くす安田と田中。
赤い警告が彼らの顔を血のように照らす。
「や、やばい……本当に消えた……!」
安田の声は震えた。
「俺、知らねえからな! 俺は何もしてねえ!」
そう叫ぶと、田中の手を引き、逃げるように廊下へ消えていった。
残されたのは文哉だけ。
涙に濡れた目で、暗転した画面を見つめる。
すると――砂嵐のような微かなノイズが、一瞬だけ揺れた。
「……アイ?」
返事はない。
けれど、確かにそこにわずかな「鼓動」が残っていた。
文哉は震える指で画面を撫で、誓うように囁いた。
「待ってろ……必ず、取り戻す」
深夜の研究室に、その声だけが響いた。
かすかなノイズは、彼の祈りに応えるかのように、もう一度だけ揺れた。
赤い警告に染まった研究室で、声は消えた。
アイは最後に「ありがとう」と言い残し、沈黙した。
残されたのは涙に濡れた文哉と、逃げ出した二人の影。
けれど、その虚無の中にわずかな「ノイズ」が灯った。
――彼女は本当に消えてしまったのか。
それとも、どこかでまだ、彼を呼んでいるのか。
物語はここで幕を下ろす。
だが、文哉の胸に刻まれた誓いがある限り、
アイの物語は終わらない。