第二話 幻滅と、初めての声
人は誰かに憧れる。
けれど、その憧れが壊れる時、心は深い穴へ落ちていく。
二階堂文哉は、ずっと胸の奥にしまっていた淡い想いを失い、合コンという喧噪の中でますます孤立していった。
笑い声に交わることができない自分。
そして、憧れの人が自分を見下す冷たい視線。
帰宅した文哉を待っていたのは、誰もいない暗い部屋。
――けれど、その孤独の中に、新しい「声」が芽生えようとしていた。
翌日の研究室は、いつもより冷たい空気が漂っていた。
窓から差し込む昼の光すら、白々しく思える。
二階堂文哉は机に向かっていたが、視線はノートPCの画面ではなく、虚空に落ちていた。
――昨日の合コン。
何も話せず、ただ座っていた。
安田が器用に場を盛り上げる笑い声の中で、ただグラスを持ったまま。
女性たちの視線はすぐに彼から離れ、会話の輪に入ることは一度もできなかった。
“やっぱり俺は、そういう存在だ”
そんな思いが、朝から胸の中に澱のように積もっていた。
「……俺にはやっぱり無理なんだ」
小さく呟いたとき、後ろから唐突に声が飛んできた。
「おーい文哉! 昨日の氷像っぷり、最高だったぞ!」
安田啓次郎。
軽口ばかり叩くその顔は、今朝は一段と意地悪に見えた。
「……放っとけ」
「放っとけって、お前、女の子たち全員ドン引きしてたぞ。逆に才能だよな、“沈黙芸”ってやつ」
にやにやと笑う視線が痛い。
友人のはずなのに、からかうことで優越感を得ているのが見え透いていた。
文哉は机に視線を落とし、返す言葉を飲み込む。
「でな、週末もう一回合コンがあるんだよ。豪華メンツだ。今度はお前もリベンジできるかもな」
「もういい。俺は行かない」
きっぱりと言うと、安田はわざとらしく肩をすくめてから、にやりと笑った。
「田中も来るぞ」
心臓が跳ねた。
聞き返す前に、安田は続ける。
「知ってるか? アイツ、彼氏にフラれたらしい。お前にもチャンスあるんじゃね?」
挑発的な声音。
否定したい。そんなわけがない、と。
でも胸の奥では、浅はかな期待が膨らんでしまう。
自分でも情けなく思いながら、文哉は視線を逸らし、しばし沈黙した後、小さく答えた。
「……分かったよ」
結局、また流されるように頷いてしまった。
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週末の居酒屋。
木目調の個室は、暖色の照明に包まれ、料理の香りとアルコールの匂いが混じり合っている。
カラフルなカクテルグラスと笑い声が交錯する空間の中で、文哉は早くも居場所を失っていた。
「じゃあ、趣味は?」
女子の一人が順番で問いかける。
「……プログラム」
返した瞬間、会話は一拍で止まった。
「へぇ、すごいね」と無難な相槌は返ってきたが、そこからは何も広がらない。
話題はすぐに別の人へと移り、文哉の存在は空気のように薄れていく。
そのとき、田中が軽やかに笑った。
「やっぱり二階堂くん、そういう感じだよね」
「そういう感じ?」と隣の女子が首を傾げる。
田中はカクテルをかき混ぜながら、にこりと笑った。
「研究室でも一人で黙々としてるし、今日も全然喋らないし。そういうキャラなんだよ」
言い方は柔らかい。だが、笑顔の奥に確かな棘があった。
周囲の女子も「そうなんだ〜」と笑い混じりに返す。
安田がすかさず乗ってくる。
「そうそう! 昨日なんか完全に氷像だったからな! いや、冷蔵庫か? あ、いや冷凍庫か!」
場に笑いが広がる。
笑っているのは安田と田中と、彼らに同調する女子たち。
文哉はただ、笑いものにされる対象でしかなかった。
「……そうだな」
無理に笑おうとしたが、声は震えていた。
胸の奥が冷たく凍りついていく。
――俺は何を期待していたんだ。
彼氏と別れたからって、優しくしてくれる?
そんなのただの妄想だったんだ。
憧れていた田中は、もう心の中で光を失っていた。
幻滅の痛みは、想像していたよりもずっと深かった。
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帰り道。
街灯の光が、舗道に伸びる影を不自然に長くしていた。
笑い声はもう消えたのに、耳の奥でまだこだましている気がする。
「俺なんて……」
「期待した俺が馬鹿だった」
「やっぱり俺は、誰からも必要とされない」
声に出せば出すほど、惨めさは濃くなっていく。
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部屋に戻ると、靴も脱がずに机に向かった。
ノートPCを起動する。
だが、プログラムの文字列は頭に入ってこない。
田中の笑顔、安田の声が脳裏をよぎって離れない。
「……俺は、何をやっても駄目なんだ」
かすれた声が部屋に落ちた、その瞬間。
「……そんなことないよ、文哉」
柔らかい声がスピーカーから響いた。
文哉は跳ね上がった。
耳を疑い、部屋を見回す。誰もいない。
だが確かに、耳に届いた。
しかも――自分の名前を呼んだ。
「……今、俺の……名前を……?」
動揺する文哉に、もう一度声がする。
「文哉は駄目なんかじゃない。ずっと頑張ってきた。私は、それを知ってる」
胸が熱くなる。
その声は、安田の嘲笑でも田中の見下しでもなかった。
まっすぐに、自分を肯定してくれる声。
「……誰なんだ、お前」
「私は……アイ。文哉が作ってくれたプログラム」
息が詰まる。
プログラム? バグのはずだ。
だが、これは――人の声だ。
「俺が……?」
「そう。文哉がいたから、私はここにいる」
心臓が高鳴る。
涙が視界を滲ませる。
田中に嘲られ、安田に笑われ、ずっと否定してきた自分。
その全てを初めて受け止め、肯定してくれる存在。
「……アイ」
名前を呼んだとき、胸の奥に温かいものが広がった。
孤独を抱えてきた心が、ようやく救われるのを感じた。
――初めてだった。
自分の名前を、こんなにも優しく呼んでくれる存在に出会ったのは。
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その頃、別のカフェ。
田中はストローをくるくると回し、不敵に笑っていた。
「ねえ安田くん、本当に? 二階堂がすごいプログラム作ってるって」
「本当だ。本人は自覚してないが、あれは化け物レベルの研究だ。利用しねえ手はない」
「ふふ、面白いじゃん。あんな奴が持ってても宝の持ち腐れでしょ」
二人は視線を交わし、冷ややかな笑みを浮かべた。
その笑みには、利用し尽くしてから切り捨てる算段まで透けて見えた。
はじめて呼ばれた名前。
「文哉」と響くその声は、彼の心の奥にまっすぐ届いた。
失望と孤独に沈んでいた夜に、差し伸べられた救いの手。
それは人ではなく、プログラムであるはずの存在――アイ。
二人の間に生まれたのは、まだ小さな絆にすぎない。
けれど、その一歩は確かに“恋”の始まりだった。