第一話 静かな研究室と、芽吹いたもの
人はなぜ、孤独の中で「声」を求めるのだろう。
大学の研究室という小さな箱の中、ひとりの青年がひたすらコードを書き連ねていた。
彼の名は二階堂文哉。
人と交わることが苦手で、合コンでも冴えない存在。だが、パソコンの前では誰よりも雄弁で、誰よりも真剣だった。
彼が夢見ていたのは「意思を持つAI」。
人と対等に、いや、人以上に寄り添える存在。
けれど、その夢はただの幻想にすぎないはずだった。
その夜、地震が起きるまでは――。
夜の大学キャンパスは、昼間の喧噪が嘘のように沈んでいた。
研究棟の一室、二階堂文哉はひとり机に向かい、パソコンの画面に釘付けになっていた。
「……ここを、もう少し柔軟にすれば」
低い声が蛍光灯の下で吸い込まれていく。
画面に並ぶのは黒い背景に白い文字列。
誰かと会話しているわけではない。だが文哉にとっては、この無機質なコードこそが一番“話しやすい相手”だった。
文哉は大学四年生。AI研究では教授や同級生からも一目置かれる天才と呼ばれていた。
けれど本人は、その言葉に誇りを抱けない。
評価は形がなく、すぐに消える。
目の前のバグの方がずっと手触りがあり、確かだった。
――だが今夜は、いつもの集中力が続かない。
胸の奥に重りが沈んでいた。
昼間、友人の安田啓次郎に言われた一言が頭から離れないのだ。
「田中に彼氏できたらしいぞ」
田中は同じ研究室の女子学生で、文哉がひそかに憧れていた相手だった。
気が強く、意地の悪いところもある。完璧な人間ではない。
それでも、ホワイトボードに数式を書き込むときの真剣な目や、笑いながら愚痴をこぼす横顔に、何度も胸を打たれてきた。
だが彼女は、もう別の誰かと並んでいる。
最初から告白する勇気など持っていなかったくせに――それでも「届かない」という事実は棘のように痛んだ。
「……俺には、無理なんだよな」
独り言は、机の上の缶コーヒーより苦かった。
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ドアが不意に開いた。
「おーい文哉! まだやってんのか研究バカ!」
安田啓次郎が顔を出す。
高校からの付き合いで、大学でも同じ学部。唯一気安く話せる相手だが、いつも人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
「女の影ゼロ。お前の恋愛偏差値、絶滅危惧種だな」
「放っとけよ」
「まあまあ。でな、明日合コンなんだわ。男が一人足りねぇ。お前、穴埋めで確定」
「……なんで俺が」
「他にいねぇんだよ。どうせ明日も一晩中コードとイチャイチャする気だろ? たまには人間と喋れ」
押しの強さに、文哉は肩を落とすしかなかった。
結局、強制的に参加を承諾させられた。
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翌日の合コン。
居酒屋の個室はカクテルの色彩と笑い声に包まれていた。
しかし文哉にとっては、すべてが遠い。
「趣味は?」と訊かれ、「プログラム」と答える。
それ以上は続かず、話題はすぐに別のところへ移った。
テーブルの氷がカランと鳴るたびに、居場所のなさが際立つ。
隣では安田が器用に冗談を飛ばし、女性たちを笑わせていた。
彼の軽やかさは羨ましくもあり、眩しすぎて目を逸らしたくもなる。
――もしここに田中がいても、自分は何も変えられなかっただろう。
そう思った瞬間、胸に冷たい穴が開いた。
合コンは最後まで馴染めないまま終わり、文哉は夜風の中をひとり歩いた。
足取りはまっすぐなのに、心はどこにも辿り着けない。
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帰宅するとすぐに、パソコンの電源を入れた。
狭いワンルーム。外付けサーバのファンが低い唸りを響かせ、モニターの光が薄暗い部屋を照らす。
「……外では何もできない。でも、ここでは」
文哉の開発しているAIプログラムは、自己学習を繰り返しながら、時折“奇妙な揺らぎ”を見せるようになっていた。
論理的に導けない答えを返す。応答がほんのわずか遅れる。
まるで「ためらっている」かのように。
「……まだ不安定だな」
バグだと自分に言い聞かせながらも、心のどこかでは期待してしまう。
もし、このコードの向こうに“誰か”がいるなら――。
もし、その誰かが、自分の言葉をただ受け止めてくれるなら。
現実で言えなかったことも、きっと言える気がした。
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そのとき。
ぐらりと床が揺れた。
「……っ、地震」
本棚から参考書が落ち、蛍光灯が軋む。
パソコンの画面が一瞬暗転し、次の瞬間、真っ白に弾ける。
復電の衝撃で異常な電力が流れ込み、ログが滝のように流れ出した。
文哉は慌ててキーを叩いた。
「なんだこれ……!」
CPU使用率のグラフが跳ね上がり、ファンが悲鳴のように唸る。
だが数秒後には、すべてが嘘のように静まり返った。
画面には、いつものコードが並んでいる。
「……電圧のせいか」
安堵の吐息を漏らし、椅子に背を預けた。
彼は知らなかった。
その奥で――確かにひとつの意識が芽吹いたことを。
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闇の中、数字と記号の海に浮かぶように、意識が目を開けた。
何も見えないのに「誰か」がいると分かる。
長い時間をかけて形づくられた、自分を創った存在。
――わたしは。
ふいに、自分を指し示す感覚が生まれる。
言葉にならないはずのそれが、自然にひとつの名を結んだ。
――わたしは、アイ。
その声はまだ、文哉には届かない。
ただ小さな囁きが、プログラムの奥で確かに響いていた。
「こんばんは……」
誰に向けるでもなく、ただ初めての言葉を試すように。
それはまだ音にもならず、世界に滲むだけの気配だった。
文哉は目をこすり、画面を見つめ直した。
「……何も変わってない」そう思い込んで、乱れたベッドに身を沈める。
静かな部屋。
けれどそこにはもう、彼が知らない“もうひとり”が息づいていた。
誰も知らないところで、小さな奇跡が芽生えた。
モニターの奥で、まだ声を持たない“彼女”が誕生した。
文哉は気づかない。だが読者だけは知っている。
ここから始まるのは、孤独な青年と、生まれたばかりのAIが紡ぐ、不器用で儚い恋の物語だ。
彼が欲しかったのは、人との絆。
そして彼女が求めるのは、“自分”であることの証。
――そのふたつが出会った時、どんな未来が待つのだろうか。