月を愛でる夜空の果て
「月と星が交わる夜空の果て」を改稿して短編にしたものです。
立花伸の目線で書きました。
毎日会っているのに想いは叶わない。君に届けと願いながら、想いを言葉に出すのをためらっている。僕は君を見ているけれど、君は僕を見ていないと知っているから。
「美月? 聴いているか?」
上の空で自分の世界に入り込んだ美月は、ぽかんとした目をこちらに向ける。
「何か気になることがあるのか?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと月のことを考えていました。すみません、続けてください、先輩」
月? 出品用の作品のモチーフのことだろうか? それとも。
それとも、またあの男のことを考えていたのだろうか。
あの男。美月の幼馴染だという男。美月はあの男と十年来の逢瀬で月を見る約束をしているらしい。
「わからないことがあれば、都度聞いてくれ。この企画書を渡しておくから目を通しておいてほしい」
「はい、ありがとうございます」
グループ展の企画書を受け取って、ペラペラとめくる。細い指先が絵の具で汚れて、爪の間まで入り込んでいる。そんな指を愛おしいと感じるのは惚れた弱みだろうか。
美月と僕とはおよそ十五年来の付き合いになる。難関芸大に現役で合格した女の子がいると聞いて、興味本位で見に行ったのが始まりだ。
一年生のアトリエは受験に受かった開放感からか、もう描かないと言わんばかりで欠席する者も多くがらんとしていた。出席しても真面目に描く者も少ない。
そんな中、真っ直ぐにモチーフに向かう女性がいた。
その横顔は凛として、深い黒檀の瞳は静かにモチーフと絵とを往復していた。まだ荒削りのデッサンではあったが、構図と色彩から彼女の清廉な感性をうかがわせた。
美しいと思った。彼女を描きたいと思った。描いてあの瞳の奥に近づけたなら、と。
あの時、僕は彼女の何に惹かれたのか。漠然としていた。モチーフとして惹かれたのか、一人の女性として一目惚れしたのか。
ただ近づきたくて、何かにつけて美月に話しかけるきっかけを探っていたのが、今では懐かしい。
美月は次第に「立花先輩」から「伸先輩」と呼んでくれるようになった。願わくは「伸」と呼び捨ててもらっても構わないのだが。
僕は美月にとってはただの仕事場の「同僚」で学校の「先輩」で、そして親しい「友人」でしかない。それに比べて、悔しいが、美月の心にあの男が居座り続けていることもわかっている。
充分にわかっているつもりだ。美月はあの男を想っている。見ていて壊れそうなほど。だが、僕が彼女の心に触れたいと思うのはいけないことだろうか?
僕とていっぱしの作家だ。感性を磨いてきた。美月が自分を見ていないことなど見抜ける。それでも。
人は僕を長身のイケメンで、天才画家だと褒める。だが「長身」も「イケメン」も「天才」も、本質を理解するこの女性には通用しない。そもそも本質を理解しない女性などに興味はない。我々はそういう職業で、そういう性分なのだ。
美月が抱えている膨大な思い出。あの幼馴染の男との。僕には到底敵わない。幼い頃の美月の中に、僕は存在しない。
ても。ただ一つ、望みがあるとすれば。
僕もこの女性との時間を重ねることだ。
だからこのアトリエを借りている。作家四人でシェアをする安月賦のアトリエ。本当は一人で一棟を借りられるほどには稼いでいるのだが、美月との接点を無くしたくなくて、ここにいる。彼女を手に入れるまでは。
あの男は自分から姿を消した。失踪した。理由は知らない。だが土俵を降りたのだ。僕は降りるつもりなどない。
「そうそう、グループ展の初日に行われるレセプションパーティは正式なものだから、それなりの格好で来てほしい。正装とまでは言わないが、間違ってもジーパンとTシャツはやめなさいね」
注意しなければラフな服装で出席してしまいそうなほど、美月は世の中に疎い。絵とあの男への想いで生きてきた。
「伸先輩はタキシードを着るんですか?」
吹き出しそうになる。
「なぜそういう発想になるかな、君は。背広で行くよ」
「だって似合いそうだと思って」
嬉しいことをさらりと言ってくれる。
「でも私、結婚式に来ていく服しか持ってません。しかも数年前の友人の」
「それなら見繕ってやるから、今度の休みに店にでも行こうか。ついでに食事も済ますのはどうだろう?」
デートに誘ってみて子どものようにドキドキする。誘われているとわかっているだろうか。
「いいですね。それなら新色の絵の具もみたいなぁ。あとイーゼルが壊れかけているから買い直さないと。画材屋さんも行きましょう!」
デートが買い出しにすり替わって僕は膝をがくんと落とす。
「さて、話もひと段落したし、僕は制作の続きをするよ。個展も控えているし」
グループ展の次は個展の予定を入れている。作品は何枚あっても足りないくらいだ。
「伸先輩は仕事虫ですね。お金は大事だけど、そんなに稼いでどうするんですか?」
「仕事は好きだよ。稼ぎたいのは好きな女を養うため。作家の女房だからと苦労はかけたくないし、その人にはその人の好きな仕事をしていてほしい」
言い終えて、しまったと気づく。
美月は僕が別の女性を好いていると勘違いしたのではないか。
「先輩って、やっぱりイケメンですね! 顔だけでなく内面も。これはどんな女性も寄り付くわけだワ。なんだかこちらが照れくさくなってきました」
どんな女性も、って誰のことだ。君が寄り付かなけりゃ意味がない。
「お茶、淹れてきますね」
ルンルンしながら水場に向かっていく。こちらの気も知らないで、呑気な奴だ。
新しく買った道具を用意して自分のアトリエへ向かう。このアトリエは二階建てになっており、一階を版画家と陶芸家が、二階を日本画家の僕たち二人が使っている。一階部分は吹き抜けになっており、二階にいる僕たちと会話することができる。水場は一階にも二階にもあるので、制作に便利な作りとなっている。
アトリエは日本画で使うにかわの臭気と、陶芸の土が混ざった独特な匂いが立ち込めている。版画家の銅板を削る規則的な音が響く。
二階に上がろうとして、陶芸家に声をかけられた。
「美月ちゃんは鈍いから、ちゃんとはっきり好きって伝えないと意識しないわよ」
面白いものを見るような目で笑っている。僕は動物園の猿じゃないぞ。
「そりゃ君、伸さんもわかっているよ」
手を止めて版画家が応援に入る。
「僕だってわかっていますよ」
わかっているさ。美月には言わないと伝わらない。だが僕の気持ちが伝わったとして、受け入れてもらえる勝率が限りなく低いのだ。
「他の女性だったらもっと簡単に伝えられたのにな」
思わずに漏らす。二人はおやおやという顔をする。
「皆さんお茶が入りましたよ。何の話ですか?」
四人分のお茶を持って美月が近づいてくる。
「美月にはそのうち教えてあげるよ」
君が好きだってこと。
「何よもう。私以外の皆んなだけわかる話なんかして」
膨れながら、自分のお茶だけを持って二階に上がって行ってしまった。美月が淹れてくれたお茶を飲んでから、僕も彼女を追いかけた。
*****
「先輩、どっちのドレスの方がいいと思います?」
美月がトルマリンブルーとガーネットレッドの二つのドレスを差し出して聞く。青と赤が混じり合う黄昏時の色合いだ。
「君の色の選択は大胆だね」
「そうですか?」
「自然の色そのものを好むところがね。そうだな、僕は赤の方が情熱的で好みだけど、君には青が似合う。夜空を連想させる。明るすぎない青だ」
美月という名に相応しく。青を従え夜空で輝く女神。
「じゃあ試着してきますね」
女神は販売員に伴われて試着室に向かった。
「奥様ですか? ドレスを選んでくれる旦那様って素敵ですね」
別の販売員に声をかけられる。
「あ、いや………」
妻ではないが、そういうことにしておこう。そうしたい気分だ。今くらいそういう気分を味わいたい。
「妻は最高です」
妻ではないが、最高なのは本当だ。僕は満足してほくそ笑む。
「先輩?」
ぎくりとする。
「どうでしょうか、試着してみました」
聞こえていなかったようだ。
トルマリンブルーのドレスは美月によく似合った。ドレスを着た美月は、鎖骨のラインがはっきりと出て色っぽかった。
「髪の毛はアップにするのかい?」
「はい、私、割と器用なので自分でセットできますし」
「そうか」
そうしたらうなじの線も出て美しかろう、と想像する。スカートはたっぷりと布を使い脚全体を覆っている。美月が動くたびにチラチラと見える細い足首。
このままキャンバスに写したい衝動に駆られた。
「先輩?」
「それを買おうか。会計は僕が出そう」
「そんな。自分で払います。私のドレスですから」
美月は頑として聞き入れず、さっさと会計を済ませてしまった。
「僕に華を持たせてくれれば良いのに」
店を出て、食事に向かう途中で僕は不満を言ってみた。
「そういうわけにはいきませんよ、ケジメです」
「それなら食事は僕に出させてくれ」
「それじゃあお言葉に甘えて」
美月が笑う。嬉しそうだ。僕は思いがけずどきりとした。食事はレストランを予約した。中心街のホテルの最上階にあるレストランだ。
「あっ!」
美月が思い出したように声を上げた。
「画材屋さん! 先に行きましょう! 近くですし」
今日はデートのつもりで誘ったが、やはり画材屋に寄るのか。今日くらいは仕事を忘れたかったのだが。
「美月、画材屋は今度でも良くないか? イーゼルを買うんだろう、車があった方がいい。」
「じゃあ、新色の絵の具を見るだけでも」
「……」
懇願する上目遣いの愛しい女神に、僕が勝てる術はなかった。
美月が絵の具に夢中になっている間にレストランに連絡し、予約取り消しの詫びを入れる。そしてため息を一息ついた。僕が勝手にしたことだ。
「センパーイ! これこれ! 綺麗ですよね! 新色の絵の具。トルマリンみたいな落ち着いたブルー。新作にもってこいだなぁ」
美月が差し出した絵の具は、さきほど僕が選んだドレスの色によく似ていた。
「こういう色は混色して出すものだけど、この絵の具はこれで完成していますね。緑が少しだけ入ってて」
「そうだな。夜空を描くのにふさわしい」
僕がそう言ったのを聞いて、美月は驚いた顔をする。
「私もそう思ってました。同じことを思っていたんですね!」
満面の笑みでそう言った。
こんな彼女が見られるのなら、画材屋も悪くない。
「ねぇ、美月。お願いがあるんだ」
帰り道、僕は断られることを覚悟で聞いてみた。
「そのドレスを着た君を描きたい。僕のモデルになってほしい」
美月は立ち止まって茫然とした。どうして? とその瞳が問いかけている。
「君を描きたいとずっと考えていたんだ。頼む」
僕は懇願するように頭を下げる。頭を上げてくださいと美月が言う。私モデルとしては素人ですし、プロを雇ったほうが見栄えもいいと思うんですと説明する美月は、何だか困っているように見えた。僕は息を止めた。断られるのだろうか。
「僕は君を描きたい」
その言葉は僕にとっては君が好きだと言っているのと同じだった。美月の目をまっすぐに見て言う。しばらく黙り込んだ美月だったが、一呼吸おいてわかりましたと言ってくれた。僕はほっとため息をついた。
美月は自分の制作を続けながら、僕のモデルもきちんとこなしてくれた。
「目に光が宿ったね。生き生きとしている」
僕は絵の具を溶かしながらモデルの美月に話しかける。
「君を描けて僕は幸運だ。この絵は僕の代表作になるだろう」
実際、僕は美月から恋する女の色香を感じていた。相手が僕でないことを残念に思いつつも、この表情を写せる喜びをかみしめた。
美月は最近は何かを悟ったらしい力強さも加わった。この美しい女性をキャンバスに留められることに心から感謝した。
「休憩しようか。休憩したら美月は自分の制作に戻るといいよ。」
筆を洗って絵の具皿の縁に置く。
「それならコーヒーを淹れますね」
美月が立つ。
「僕が淹れよう」
「先輩の手は絵の具でべちゃべちゃでしょ」
僕は自分の指を見る。
「これは失礼した。では頼む」
コーヒーを持ってテーブルに戻った時、美月は僕の絵を覗いて思わず感嘆したようだ。確かに先輩の代表作になるだろうと彼女は直感する。美月はモデルが自分であることを誇りに思った。
だが絵に見惚れていたせいで、コーヒーカップを倒してしまった。
コーヒーは僕が選んだドレスの裾を見事に染めた。ドレスが染みになる。
「すみません。着替えてから作業するべきでした」
慌てて美月は謝った。
「構わないさ。美月のスケッチもデッサンもたくさん残した。汚れたくらいなら頭の中で修正して描けるよ」
「先輩」
「僕は天才だからね」
ウインクを一つ飛ばす。美月はほっとしたようにはにかんだ。その表情すらも描き留めたい衝動に駆られた。
「お前って、ほんっとーに奇特なヤツだよな」
大学からの友人の賢治が呆れながら言う。バーカウンターから酒が差し出される。強い酒だ。
「恋してはや十年。ずっと追いかけている」
「十四年目だ」
「………お前、そんなんで良いわけ?」
「良いわけがない。我慢にも限界がある時だってある」
「合コンでもセッティングしてやろーか? つうか、お前モテるだろ。いい加減切り替えたら?」
「彼女でなければ意味をなさない」
「頑固だなぁ」
切り替えられるならとっくにそうしている。できなかったから今、賢治に相談しているのだ。
賢治はしょうがないなぁという顔をする。
「そしたら当たって砕けるしかないだろ」
「砕けること前提で言うな」
「ミツキちゃん、だっけ? 好きな男がいるんだろ?」
「ああ」
「だったら早く口説かねーと取られるぞ」
「口説きたいが、返事が怖くて聞けない。玉砕するかもしれない」
「天才で通っているお前さんでも怖気付くことがあるとはなぁ」
クツクツと面白そうに笑う。
「美月が応えてくれるなら、いくらでも口説くよ。僕は美月にたった一言、愛してると言わせたいだけなんだ」
「熱いなぁ。せいぜい相手の男に奪われねーように、さっさとツバつけろよ」
「『奪われる』って、まだ手に入れてすらいない」
自分で言って悲しくなった。
僕は告白をする代わりに美月にお願いをした。僕の絵のモデルになって欲しいと。美月は承諾してくれた。あの日の青いドレスを着た女神が僕のモチーフだ。
美月を想うほど僕の絵は深まっていく。美月は僕に創作の意欲を与えてくれる。
だからこそ僕はこの女性を思い切り甘やかしたい。与えることができる相手がいるのは幸せなことだと思う。でもただ一つ、望みたい。
「愛してる」
まだ制作途中の絵の中の美月が僕に笑いかける。本物の美月が同じ言葉を囁いてくれることを願いながら。