連行
男の発した意味不明な文字の羅列は未知の言語という事で、脳内変換しておいて下さい。
自分の人生の中で最も濃密で、色濃くて残って、過酷だった出来事をこんな風に言うのはなんだか悲しい話だけれど、この物語をなんとか形容しようとすれば、僕の記憶からは『笑えない』。
そんな言葉しか出ないのだった。この物語は今の僕が改めて見返しても、当時の僕が見ても、いつかの誰かがこの物語を開いても。皆口を揃えて言うだろう。
これは笑えない物語だと。
笑えない。笑はない。笑顔がない。
最終的には誰も笑う事は出来ない物語。
だから僕は悲しくなる。これがこれからの人生で一番色濃く残って行く記憶なのだろうと思うと。
それでも僕には……、嫌でも僕には、これを改めて見返す必要があった。
そうして、僕はこの日記帳を開くのだった。
――
この物語のどこがつまらないのか。笑えないのかと問われれば、僕は真っ先に冒頭部分を挙げるだろう。
辛くてつまらない、そんな場面を。
まあ、つまらないのはこれを見る読者で、辛いのは当時を含めた僕だけなのだけれど。
………。
目を開き、飛び込んで来た情報は、寝起きの様に回らない僕の頭では、到底受け止め、整理仕切れる量では無かった。
薄暗い部屋。その真ん中に何やら光る円。その上に何故か坐禅を組む様に座っていた僕。
そして僕を囲む様にいる人々。
人々の表情は様々で、笑う人、泣いている人、その両方の人。
けれど、皆んなに共通して言えるのは、皆僕の知らない人種の顔だって事。
日本、アメリカ、中国、韓国、インド、ブラジル………etc。
社会科満点、歴史も大得意で様々な国を見て来た(写真で)僕が、目の前の人々の顔には全くの覚えが無かった。
それに加えて、皆さっきから大声で何かを話しているけど、僕にはそれがなんて言っているのかサッパリだった。
確かに僕の英語の成績はそれ程良くはないけれど、聞けばそれが何語なのかは分かる程度の耳と教養はある。
そんな様子が、ここに来た経緯も加味して僕にはとんでもなく不気味な光景に思えて……
僕はその場から逃げようとした。
バレないように。とは当時パニック状態だった僕は考えていなかったので、この時は無意識に、僕はゆっくりと音を立てずに抜き足差し足忍足で逃げ出そうとした。
足を一歩後ろに、また一歩後ろに。足を二回動かした所で、マスでいうと二マス下がった所で、大衆の中の一人の男が僕に近づいて来た。
ニタニタした顔で。ニヤニヤした気持ちの悪い顔で。
笑うでは無く、この場合嗤うと言った方が正しいだろうその顔で、男はサイコロで六が出た時の様な、機嫌のいい超スピードで僕に詰め寄って来た。
そして舐め回す様に僕を見て、
「ーーーーーーー」
男は僕の耳元で何かを囁いた。
瞬間、ゾクリとする背筋。
普段ASMRを聞いている僕だけど、今回ばかりは囁き声が気持ちの良いものだとは思えなかった。
声の主が美女で無くオッサンだからか。
いや、それもあるけど、やっぱりこの不気味な状況が一番の原因だろう。
僕はさっきまでの意識を忘れ(元から無意識だったけど)
何もかもを忘れた様に走り、逃げ出した。
しかし男が二回手を叩くと、それを合図に大衆の中から二人の武装した男達が飛び出して来た。
それはもう、六なんて目じゃ無いくらいの超スピードで飛び出した。僕の目にはその残像しか捉える事は出来なかった。
男達は僕に飛びつき、僕の身体を押さえつける。
その筋骨隆々といった表現が一番似合う男達に、捕えられたヒョロヒョロ体型の僕。
当然、力負け。僕は抵抗する事さえも出来なかった。
そんな僕に、またまたあのASMR男が嗤いながら僕の目の前まで、やって来て、僕を見下ろす。
その構図は、呼ばれた警官二名に取り押さえられ、被害者に見下される加害者の様でもあった。
嗤う男は、今度は武装した二人に意味不明、理解不能な言葉を掛ける。
そして、男達は頷き……僕に手錠を掛けた。
これじゃ本当に僕が、加害者みたいじゃないか……。
僕は何も悪い事をしていないのに。実際に僕に害を加えたのはコイツらだというのに。
しかし、僕には当然そんな理不尽に抗える力も無く、あったとしても結果は変わらず抵抗虚しくになってただろうけれど、ともかく僕はそのまま牢屋に連行されたのだった。