試練
人々の不安は現実のものとなり、新政府樹立直後の日本に襲い掛かった。
新政府への政権移行が速やかに行われ、順調に進んでいた政権交代だったが、誕生したばかりの新政府にとって、早くも存亡の危機が訪れた。
それは、国際社会の一員になるためには避けて通れない政治上の試練であった。
クーデター直後、アメリカに亡命していた政治家らがアメリカ政府に政権奪回を呼び掛け、旧政府の巻き返しが始まったのである。
大統領であるジョージ・ハワードは、クーデターという非合法なやり方で政権を奪取した木戸らの新政府を非難し、これに呼応して各国政府も新政権を独裁的だと認めず、新政府は国際社会から非難を浴び孤立してしまった。
後藤陸将の言ったことが、まさに現実のものとして起こったのである。
議院内閣制を廃した集権化は、世界秩序の骨格を成す民主主義を脅かす脅威として、木戸らの新政府を名指しで批判し、大国アメリカが動き出した。
ジョージ・ハワードは、在日米軍を用いて新政府を倒す、と発表。
この発表を受け、在日米軍は、新政府の本拠地を叩くためにスクランブル待機して、本土からの命令を待った。
アメリカもまた、世界不況のあおりを受け不景気に喘ぎ、街には失業者が溢れていて政府への不満を募らせていた。そこでハワード大統領は、人気回復と国民の不満を逸らすために新しい仮想敵国を必要としていた。こうした背景からアメリカは、日本を敵国として軍事介入を画策していたのである。
力で奪い取った政権も、軍事大国であるアメリカが相手では一溜まりもなく、木戸ら三人の指導者は、政権の放棄か開戦かの選択に立たされるという緊急事態に直面した。
木戸は大統領に会談を求め、話し合いによる解決策を、穏健派の岸は大幅な譲歩による妥協案を提示し、強硬派の三島は在日米軍を追い出せ、とそれぞれが主張して指導部は大いに混乱した。
この新政府内の動揺は全国へと広がり始めた。
新政府は、全国に非常事態宣言を発令し、アメリカへの対抗意識を強め二国間の緊張が続いた。
だが、アメリカの目論見は外れた。
経済破綻した国々でも、相次いでクーデターが起こり、無政府状態に陥っている。
木戸は、こうした国々と協力関係を築くことで国際社会から孤立している日本の味方を増やした。
新政府は多くの国民に支持されているのであって、批判するのは内政干渉であると、アジア各国は逆にアメリカを非難したのである。
アジア諸国は一丸となって木戸らの新政府を、正当で合法的な国家として認めた。
中国の台頭により、日本と東南アジア諸国連合(ASEAN)は強く結ばれていた。特に、アジアの軍事政権は強く支持した。
ここにアメリカの大義は断たれ、ハワードは面目を無くしてしまった。
アジア諸国が新政府を支持したのは、今まで日本から多額の援助を受けていて、今もその援助を必要としていたからである。
世界不況にあって今もなお経済大国の地位を保ち、工業製品の根幹部分の製造には欠かすことが出来ない技術を持っている。疲弊した経済を再建するのに日本の援助が不可欠であり、日本と協力関係を保つことこそ、不況を乗り切る手段だと考えていた。そして何よりも、陸続きである中国が脅威であった。
中国は一人っ子政策による失政の影響によって超高齢化社会に入り、労働者不足と膨大な社会福祉費に追われ、財政破綻も間近に迫り崩壊寸前の動乱期にあった。諸国は、世界最大の人民解放軍の軍部の暴走を恐れ、それを食い止めるために日本を中国の盾とすべく、不安を抱きながらも一応安定している軍事政権を支持したのである。
ハワード大統領の目論見は外れ、アメリカの主張した大義は断たれた。
アメリカ政府は日本に軍事介入はしないと表明し、やがて官邸執務室にホワイトハウスから直通で、軍事政権を正式に日本の政府として認めるという電話が入って来た。
アメリカは、国際的に非難を浴びたクーデターを受け入れ、正式に新政府を認めたのである。電話はハワード大統領からではなく、副大統領のロイド・ルーズベルトからであった。
依然としてハワードは軍事政権である新政府に不満の意を示していが、各国もアメリカに同調して新政府を認めると共に、今まで通りの外交を続けると宣言した。
これによって、日本は再び国際社会の一員として復帰することが出来、風前の灯火であった新政府はその危機を乗り切ったのである。
安堵の胸をなで下ろす三島と岸であったが、木戸はこの時、在日米軍やアメリカ政府の脅威をまざまざと見せ付けられ、惨めな敗北感を味わった。在日米軍が存在する限り、思い通りの政策が出来ない。その存在を煙たく思った。
アメリカとの衝突は日本に大きな動揺を与え、各地方にも波紋が広がり混乱をもたらした。
新政府の力ともなる方面隊の協力は崩れ、必要とされる指揮系統は不安定なものとなった。
全国政権の基盤が崩れるのを恐れた指導部は、この事件の動揺を押さえるために三島と岸は所属する指令部へと一旦戻り、体制の強化に務めるべく東京を離れることとなった。
三島は横須賀地方隊のある横須賀に、岸は中部方面隊の指令部がある入間基地へ。
別れ際、岸は、東京に残る木戸を心配そうな眼差しで見詰め、力強く手を握り締めた。
木戸はにわかに笑い出し、疑心を抱く彼らに言った。
「心配しないで下さい、岸さん、三島さん。留守は、この私が必ず守ります」
「そうか、そうだな」
木戸の笑顔に岸は安心した。
木戸にとってその握手は無論、偽りのものである。
野望実現を目の前にした彼が、二人の存在によって阻止された。その抑圧された屈辱を一気に晴らす時がきたんだと実感し、込み上げて来る笑いを止めることが出来なかった。
すっかり安心した三島と岸は、木戸に敬礼すると振り返らず、指令部へと帰って行った。
二人を見送った木戸の元に、彼の腹心である佐藤幸治・二等陸佐が近寄って来た。
「このまま二人を放っておいていいんですか? 事を起こしたのは我々なんですよ。彼らは状況を見極め、有利な方に付いただけで、勢いに任せて新政府を乗っ取ったに過ぎない」
木戸は二人の過ぎ去った後を睨み付けながら言った。
「この俺が、このまま終わると思うか。絶好のこの時期を、見逃すとでも思ったか」
「では、俊光さんは彼らを押さえて、樹立した政府の首相になるんですね。そして、我々の手で内閣を組閣し、統治して行く考えなんですね」
「それは違う。佐藤よ、首相になったからといって、それがなんになる。常に国民の顔色を気にして、思い通りの政策が出来ない。今までであった内閣は吹けば飛ぶような弱い存在であり、総理に与えられた権限は僅かだ。俺はそんな物になりたくはないし、なろうとも思わない」
「ならば、より上位の大統領、もしくは総統に?」
「俺が求めているのは、誰も手にしたことがない絶対権力。それこそが国難を乗り切る唯一の手段だ。それ故俺は、この地上に『将軍』を復活させようと思う」
「――今、なんと?」
佐藤は自分の耳を疑った。
「将軍って、あの……。俊光さんは、この永田町に幕府でも開くつもりですか? ハハッ、ちょん髷の武士の時代ならいざしらず」
笑いながら言った佐藤に、
「そうだ。日本史上、権力の象徴とされる役職だ。内閣だの、首相だの、そんな薄っぺらな権限にすがるより、よっぽど権威の重みのある役職だろ」
真剣な眼差しで木戸は言う。
「そ、それはそうですが……」
佐藤は少し笑いながら彼の話を聞いていたが、木戸の真剣な眼差しに笑いは止まった。
「百年以上争いに巻き込まれることがなく、平穏な暮らしをしていた時代ならいざしらず、今は、かつて味わったことのない動乱の真っただ中だ。何が起こっても、不思議なことではないだろう。違うか?」
「確かに……」
「俺は、決められたレールの上を進んで行くのは嫌いだ。新しく作り変え、一新する。それも、俺自身の手でな。これからも続く日本の歴史に、確実に名を残せるというもの」
自慢そうに木戸は語った。
当初、木戸の時代錯誤な考えに付いて行けず、たじろぐばかりの佐藤であったが、やがて木戸の考えがおぼろげに見えてきた。これは絶対権力を手に入れるための一つの手段であり、木戸が独裁者となり日本を支配するということに気付き始めた。
佐藤は、何か恐ろしい物にでも取り憑かれたように体の奥から震え出し、押さえることが出来なくなっていた。
「この未曽有の危機を切っ掛けに、日本は一度リセットして新たに生まれ変わる、新生、日本。世の中の独裁者の名は、総統や大統領だとか、大佐、あと、書記長とかもあったな。征夷大将軍という言葉はより注目を集め、インパクトがある。軍隊の、いち将軍ではなく、日本人の誰もが知る最高権力者の象徴。政治・軍事の両方の権力を兼ね備え、長年日本を動かしてきた。今の俺に最も相応しい称号ではないか。外国では、大君と呼ばれるらしいな。コロコロと変わる、力の無い首相より、よっぽど箔がある。歴史は繰り返すとは、よく言ったものだ」
「はぁ……」
「征夷大将軍は蝦夷討伐のために設けられた、単なる司令官に過ぎない役職だったが、鎌倉、室町、江戸と、時代と共にその姿を変えてきた。今の時代に合った、新しい形の将軍として復活させたい。太政大臣・関白・将軍の三職のうち、日本古来の指導者を継承する将軍職こそ、俺が目指していた野望なんだ。そして、その将軍の名において、絶対権力を認めさせたい」
「……」
「不服か? この決起が日本を良き方向へと導くことでなく、権力を手に入れるために決起したことを……。だが俺は、沸き立つ欲望を、実現し掛けた野望を果たしたい」
と本心を語った。
「私はいつまでも俊光さんに付いて行きます、決起した時、すでに俊光さんに命を預けていたのだから。でも、将軍を復活させるといっても、二百年以上も前の過去のものですよ。それを一体どうやって、この地上に復活させようというのです?」
「すでに学者らを集め、詳しく調べさせてある。後は、陛下の御裁可を仰ぐだけだ」
「陛下の……。でも『血の事件』以来、我々を良く思っていないと聞いています。果たして、許可が下りるのでしょうか?」
「陛下を取り巻く宮内庁は、政変後も唯一現行のままとしてきた。今後、彼らにはより重き地位に格上げすると約束した。彼らの権威があってこそ、この計画は遂行する。全ての職員は新政府としての職務を果たすべく俺の意志を奏上している。陛下がこの俺を日本の指導者と思ってくれることを信じるだけだ。この国難を救える人物は誰か、きっとお分かりになるだろう。その時こそこのクーデターの正当性が認められ、我々の大義も立つというもの。今も海外で我々を非難している政治家共は、ただの一市民となり完全に封じ込むことが出来るのだ」
「さすがは木戸さん、そこまで考えていたんですね」
「我々は待つことには慣れているではないか……。権力を握るのはた易いが、権威を得るのはなかなかに難しいものよ。話によれば、かの天下人秀吉でさえ、将軍職を望んだが果たされなかったのだからな」
その言葉とは裏腹に、絶対権力を得るのは確実であると木戸は自信を見せていた。
数日後、官邸に山下勝宮内庁長官が訪れた。
木戸は総出で出迎え、閣僚応接室へと案内した。そこで山下長官は天皇の裁可を伝えた。
「陛下は指導部の対立によって、日本が内戦状態になるのを恐れ、新政府最大勢力である木戸閣下の陸軍を支持し、今後の日本を任せたのであり、陛下の期待を、大御心を裏切らないように……」
と長官は言い難そうに告げた。
この吉報により、それまで真剣な眼差しをしていた木戸の顔が緩み始めた。
「謹んで、お受け致します」
終始緊張した態度で木戸と会見していた山下長官は、この時一瞬見せた彼の笑みを見て緊張が解けたのか、この後、我々をどうするのかと強い口調で問い詰めた。
「新政府に従わない議員共はことごとく政界から追放してきたが、山下さん、貴方だけは、この私に頭を下げた。貴方にはきっと先見の明があるのでしょう。これからもお互い、持ちつ持たれつで、新政府と皇室との関係を緊密なものにするための架け橋となってもらいましょう」
「……」
山下長官は利用されていることに腹立たしく思うも、それを表現することが出来なかった。
彼には多くの職員がいて、その生活を守る義務がある。そのためには木戸と対立するのを避け、行動を共にしなければならなかった。
木戸にとっては予定通りの裁可を得て、行動を開始した。
彼はすぐさま報道関係者を集め、再び記者会見室へと向かった。
「我々のクーデターにより維新は達成された。よって、ここに新政府の全権を一旦、天皇陛下にお返しし、我、木戸俊光は征夷大将軍となるべく、将軍宣下の儀を取り行うことを報告する。これまで三頭政治の形式を取って政治を行ってきたが、陸海空の軍閥の対立により、新政権の権力構造が複雑で不安定なものとなっている。このままでは改革は実現せず、国民の生活は苦しいままだ。改革を実現するためには三頭政治を改め、対立している権力を集中し一本化しなければならない。そのために陛下の裁可を得たこの私が、将軍となって新政府を動かして行く」
と、彼は自身の正当性を説明したうえで、全国国民に向かって表明した。
「将軍?」
「将軍って、あの征夷大将軍のことか?」
当然、会見場にどよめきが起きた。
この記者会見はテレビを通して全国に伝えられたのである。
意表を突く衝撃的な表明を聞いた三島と岸は、部下三百名余りを引き連れ、急遽、官邸へと駆け付けた。
二人は木戸に会おうと面会を求めたが、木戸は大事な儀式を前にしているので誰にも会わないと、これを拒否し、詰め掛けた報道陣にも一切会おうとはせず、官邸と庇続きの公邸に閉じ込もったまま外へ出ようとはしなかった。
この間、木戸は公邸にいて、きたる将軍宣下の儀の日のために綿密な計画を立てていたのだった。
三島らは怒りに任せ強行突破を試みるも、首都警備隊が立ち塞がり、門前に閉め出され立ち往生した。
すでに新政府は機能を停止し、指導者は木戸にと天皇が意志表示されていて、その裁可を大義に掲げた木戸にうかつに手が出せない。
もはや彼らに従う者は無く、牙を失った狼と化しその勢力は削がれた。木戸の独走を阻止し続けてきた切り札は完全に効力を無くしてしまった。
三島と岸は、木戸を甘く見ていた。
木戸は旧政府を裏切り、クーデターを起こした首謀者であったことを彼らは忘れていた。
新政府の新憲法の骨格が出来ぬまま東京を離れたことが、二人にとって仇となったのだ。
門前に立ち尽くした三島は、公邸を睨み付けその悔しさをぶつけるように目の前の閉ざされた門を力一杯叩き付けた。
付き従う部下達も悔しさに目を真っ赤にし、唇を噛み締めている。
その時突然、
「ウオーーッ、許さんぞぉ、木戸! この恨み、決して忘れぬ。この威勢が、長く続くと思うなよ。いつかきっと、オレが貴様の存在を消し去って見せる! 必ずな」
三島が叫び出した。
「……三島よ、もう諦めるしかない。先の表明で全てが木戸の味方に付いたはず。我々の部隊だけではどうすることも出来ぬ。俺達が木戸を信じたのがそもそも間違いだったのだ。奴の口車にうまく乗せられ、新政府の骨格が出来ぬまま、のこのこと東京を外れてしまったことが……。今となっては、全てが手遅れだ」
「岸は甘いのぉ。そうやって奴を許すのか。あんな若憎に良いようにされたまま黙っていろというのか。オレは絶対に奴を許さぬ。絶対にな!」
三島にとって、海軍こそが島国日本を守ってきた自負がある。木戸の抜け駆けは許しがたい行為だった。
「……」
岸はこれ以上三島らの怒りをなだめることが出来なかった。
いつまでも公邸を睨み付け、憎悪の念に燃える彼ら達。
その中で一人冷静を保っていた岸は、木戸の言う権力の集中一本化など、この状況からでは出来ない。むしろ、ますます溝は深まり対立し合うのだと思った。そして、孤立した木戸の権勢もそう長くは続かず、いつかこれに代わって三島が実権を握る時が来るのだと直感した。
それはまるで、僅かな期間だけ咲き誇る花のように、短いものだと思えてならなかった。
やがて、沈黙していた公邸内の明かりが消え、深い眠りに入った。
これを見た三島達は諦めて振り返り、それぞれの基地へと帰って行った。