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あんな美人と結婚してたのか!

 朝日輝く江戸は本所深川である。閻魔大王は連絡係の獄卒に手を引かれ走らされており、最近太り気味で走るのがつらかった。この町は洪水に備えてか橋の袂の両側に石垣を積み、やけに高く橋をかけている。

「高すぎて斜面が急で渡るのも一苦労じゃないか」

「だから高橋っていうんですよ。さ、お早く。ここを渡ると海辺大工町です」


 早朝から商売に精を出す棒手振り達が長屋の細路地まで入ってゆく。納豆売りにあさり売りに青菜売り。長屋のかみさん達は彼らを呼びとめてはあれこれ買って朝食を作っているようで料理のいい香が立ち込めている。

「おお、しじみの炊き込みご飯に、納豆汁に青菜のおひたしのにおいがする」

閻魔大王の腹の虫が鳴いた。

「ううむ。貧しいのに俺様よりうまそうな朝めし食っているってどういうこと?」


 閻魔大王が立派な椅子に座して裁判だけやっていればよかったのは過去の話だ。地獄で裁判を受け持つ王は彼を含めて七人いるのだが、現場出動などの余計な仕事は便利な道具を使い楽をしている彼の割り当てと前回の江戸出動中に欠席裁判で決定されてしまった。自由時間が減ったのは不服だが他の裁判官達も人間より寿命が長いだけで不老不死というわけではないからいつ過労死するかもしれない身の上だ。そんなことになれば自分の仕事が増えるだけ。それを防ぐためにも自分が行くしかない。連行係りの獄卒から連行に抵抗する不届き者がいます、などという報告が入り、霊力強く、権限も多い彼が直に迎えに行かねばならないことが増えてきた。衛兵も諦めの悪い脱走者の取り締まりで忙しい。世の中が変わったのだ。獄卒におとなしく連行されたのは人々に信仰心のあった昔の話だ。


 連絡係りに案内された先は長屋だった。狭くてたいした家財道具もないのはいつものことだが箪笥と鏡台があるし、嗜好品の煙草もある。煙草盆は使い込まれた物だがいい細工がしてあるし、煙管が二本あり、多少生活にゆとりがあるとわかる。煎餅布団で死にはぐっている中年男が材木の下敷きになった大工だろう。


「大王様、見て下せえ。こいつってば、あっしのことが死んだ女房に見えるらしくてすんげえ抵抗しやがるんで」

連行係りの獄卒が男の枕辺に立つと起きて騒ぎ出す。

「女房のやつが、俺を迎えに着やがった、しっ、しっ、あっちへ行け」

往生際が悪い上に無礼千万な態度でわめき続けて追い払おうとする。

「もうじき連行の刻限なんでさあ」

それでやむをえず彼を呼びに来たのだった。


 閻魔大王は一応女性に対しては礼儀を尽くすべきと考えるたちなので、この無礼な男に腹が立った。連行係りに

「この男の女房を連れてこい。そんなに女房が怖いなら、本物を見せて地獄にさっさと逃げ込むようにしてくれる。うちの台帳にこの家の女房の名前はないから極楽の方にいる。連れだすことに伴う面倒な手続きは、俺様が責任を持ってするからさっさと連れてこい」


 連行係りはすぐにこの無礼な男の女房を連れてきた。この男にはもったいないすらりとした美人ではないか! 醜悪な獄卒と見間違えるとはどういうそそっかしい男か。

「お菊! なんで来た! 俺と一緒にいたら地獄に落ちちまうじゃねえかよ。せっかく追い払ってやったのに。俺がいい男だからって恋しがるんじゃねえってんだよ」


 この男は二枚目どころかはっきり言って不細工だ。来るなといいながらあつかましくも女房の着物のすそにしっかりすがって泣いている。女房には足がなかった。

「会いたかった。もう一生会えないと思っていた。俺みたいなそそっかしい男とよく一緒になってくれた。礼を言っておきたかったんだ。それから俺は浮気なんてしてねえ。病気で倒れた大工仲間の仕事を引き受けていたんだ。工賃はそいつにあらいざらいやっちまった。だから遅くなっても金が入らなかったんだ。素直にそう言やいいのに俺ってやつは見栄っ張りだからよ、おまえがやれ歌舞伎の市川団十郎が素敵、とか言うからさ、ついはりあって女の所で金を使い果たしたなんて言っちまったんだよ。その日にお前が荷台の下敷きになって死んじまうなんて思ってもいなかったんだよ」


 女房は慈愛の瞳で夫を見た。その眼は分かっていると言っていた。閻魔がお菊の鏡台に映せと命じると鏡台にその時の光景が映った。閻魔が地獄の判決のためにいつも使っているその人の生前の行いを映し出す浄玻璃の鏡の役を果たしたのだ。


 お菊の所に病で倒れた大工のかみさんが、運よく裁縫の仕事をとれたからもう工賃をくれなくてもなんとかやっていけるからと訳と礼を言い、感謝の印に神田明神の甘酒をもってきてくれた。楽しく話しながら表通りまで見送りに出た。何度も頭を下げ礼を云いながら去ってゆくかみさんの後姿を見送りながら、うちの人ってばなんてよい人なんだろうかとほれなおした時、積載過剰の荷車がすごい速度で通りかかった。案の定角を曲がり切れず横転し、お菊は咄嗟のことでよけきれずその下敷きとなり死んだのだった。


「俺のこと誤解したまま悲しい気持ちで死んだんじゃなかったんだ」

夫はいとおしそうに女房の腰にすがり、匂いもかいだ。恋女房で離れがたいのだ。女房は閻魔大王に向き合うと、夫を指差した。閻魔が鏡台に命ずると夫の人生が映った。


 幼い時に火災で親と死に別れ、泣きながら街を彷徨っていたところを大工の棟梁に拾われた。寺子屋で出来がよく先生に褒められている。見習い大工として棟梁にこいつは筋がいいと褒められ、一人前の大工として独り立ちした。貧しい後家の家の屋根をついでだからと無料でなおしてやっている。そして仲間と大きな改修工事を請け負い、年寄り大工が重そうにしている材木を代わりに運ぼうとした時に材木が倒れてきて死んだのだった。


 確かに嘘をつくと地獄の閻魔に舌を引き抜かれることにはなっているが、女房の前で見栄を切るための嘘や人助けの際に気を使わせないための嘘は地獄で問われる罪ではない。地獄で預かりかねる全然いいやつじゃねえか。規則通りにすりゃあいいってもんでもない。

「俺に手間かけるんじゃねえよ。行先変更。女房と極楽へ行け。もう嘘はつくんじゃない。俺だってお前みたいな不細工野郎の舌なんて抜きたかねえよ」


 閻魔大王は二人が離れ離れにならぬようしっかり手を握らせると勢いよく大工の尻を蹴り飛ばした。二人は急上昇し、青空に吸い込まれるように無事に天に昇って行った。二人を見送ってしまうと閻魔は踵を返した。


 さてと、おれも帰って変更届を書かないと。本来彼の裁判は初七日からの七日毎の裁判で五回目の担当なのだが、浄玻璃の鏡の威力で善人であることが証明されたので自分より前の四回の裁判と控訴審判決を含む後の二回をすっとばして判決を出して実行してしまった。古代インドで自分が冥界の王として最高責任者だった時は鶴の一声でそれでよかった。だが今はしがない裁判官の一人である。こんなことをしたら面倒くさい役所の書類仕事が増えるだけ。台帳と現場の人数が合わないってまた几帳面な監査役がさわぐだろう。閻魔も口やかましい監査役は敵に回したくないと思うのである。


 いや、まて、すぐに帰る必要があるか? 表通りの評判の料理茶屋によってから帰るというのはどうだろう? 勢いよく歩き出そうとすると、長屋の共同便所に向かう下肥取りにぶつかりそうになった。

「うひい!」

閻魔大王は飛び退いた。数千年は生きた自分には怖いものなどないと思っていたが、そうでもなかった。人口過密都市江戸の街の往来は荷車の他にも気をつけねばならぬものが多いのだった。


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